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おーー
過去編第一夜は室生犀星で
雨の匂いが、戦場に残っていた。
港近くの倉庫街。
武装探偵社が介入した抗争は、すでに佳境に入っていた。
銃声、怒号、異能の衝突。
人の感情が剥き出しになった空間。
その少し離れた場所に、室生犀星は立っていた。
前線には出ない。
ただ、状況を見つめるだけ。
「……まだ、間に合う」
小さく呟き、目を閉じる。
異能が発動する兆しは、派手ではない。
空気がわずかに湿り、
音が一段、遠くなる。
夕暮れの色が、あり得ない角度から差し込んだ。
倉庫の壁に、柔らかな橙色の影が落ちる。
それは現実であり、同時に“どこか懐かしい風景”だった。
怒りで歪んでいた顔が、次第に緩む。
引き金にかけられていた指が、震え始める。
「……なんだ、これ」
誰かがそう呟いた。
犀星は、そこで初めて――
短い詩を、声に出して詠んだ。
低く、穏やかで、
誰かに聞かせるというより、
風景に溶かすような声。
その瞬間、戦場にあった「殺意」が、
すっと重さを失った。
撃てない。
斬れない。
理由は分からないが、今はそれをしたくない。
数分後、抗争は終わった。
倒れた者はいたが、死者はいない。
静けさの中で、犀星は目を開ける。
――助かった。
――間に合った。
胸の奥に、かすかな安堵が広がる。
「……やっぱり」
誰に向けたでもない言葉が、唇から零れた。
「詩は、人を救う」
そのときの犀星は、
まだ疑っていなかった。
自分の詩が、
誰かの“生きる力”そのものを変えてしまうことを。
同じ倉庫街だった。
空は晴れている。
数日前の雨が嘘のように、光は乾いていた。
「……事件、ですか」
犀星の声は低い。
現場に立ち入る前から、胸の奥がざわついていた。
倒れていたのは、ひとりの男。
前回の抗争で、武器を下ろした側の人間だった。
抵抗の痕跡はない。
争った形跡もない。
ただ――
自分で、終わらせたのだと分かる静けさがあった。
ポケットから、折り畳まれた紙片が見つかる。
犀星は、それを受け取った瞬間、
嫌な予感が現実に変わるのを感じた。
文字は、拙いが丁寧だった。
あのとき
夕暮れがきれいだった
怒る理由も
憎む理由も
思い出せなくなった
世界はやさしかった
でも
その先が、分からなかった
――最後の行で、指が止まる。
何もしたくなくなった
犀星は、しばらく紙を見つめたまま動けなかった。
あのとき。
確かに彼は、詩を詠んだ。
人を救うつもりで。
戦いを止めるために。
「……違う」
小さく、否定する。
だが、否定の言葉は宙に溶けて消えた。
自分の異能が奪ったのは、
怒りだけではなかった。
――希望でも、
――絶望でも、
――「生きようとする衝動」そのものだった。
「……立ち止まらせすぎたんだ」
誰に言うでもなく、犀星は呟く。
詩は、癒やしだった。
同時に、それは――
人を前に進ませない檻にもなり得る。
その夜、犀星は原稿用紙を広げた。
言葉は、浮かぶ。
いくらでも、詩は書ける。
だが、ペンは進まない。
頭の中で、夕暮れの色が蘇る。
あの日の、静かすぎる安堵。
「……また、誰かを縛る」
そう思った瞬間、
犀星はペンを置いた。
初めて、
詩を書くことが怖くなった夜だった。
次の任務は、異様に静かなものだった。
敵は一人。
武器も、仲間もいない。
ただ、感情を極端に切り捨てた異能力者。
「恐怖も後悔も無い」
そう評された相手だった。
犀星は、嫌な予感を抱えたまま現場に立つ。
異能を発動する。
空気が揺れ、色が落ちる。
いつものように、感情を風景へ――
だが、相手は立ったまま動かない。
「……効かない?」
ほんの一瞬の迷い。
その瞬間、犀星は無意識に詩を詠んでしまう。
短く、鋭く、
人の心の奥に触れる一節。
すると――
相手の表情が、崩れた。
今まで存在しなかったはずの「感情」が、
一気に溢れ出したかのように。
膝が折れ、
呼吸が乱れ、
声にならない声が零れる。
「……こんなもの……」
初めて知った痛み。
初めて知った後悔。
初めて知った、自分という存在。
犀星は悟る。
これは癒やしではない。
感情を与えすぎたのだと。
その場にいた 太宰治 が、
少し離れた位置から、それを見ていた。
沈黙のあと、太宰が言う。
「ねえ、犀星くん」
軽い口調。
けれど、目は笑っていない。
「君の詩ってさ――
人を救う前に、心を解体するよね」
犀星は何も言えなかった。
否定できない。
言い返せない。
詩は、優しすぎる。
だからこそ、剥き出しの心には凶器になる。
その夜。
犀星はひとり、灯りを落とした部屋で座っていた。
原稿用紙は白いまま。
言葉はある。
詩もある。
だが――
それを声に出した瞬間、
誰かの心を壊すかもしれない。
「……もう」
掠れた声で、犀星は言う。
「詠んでは、いけない」
このとき、彼はまだ知らない。
この決断が、
彼自身を守るためのものでもあることを。
夜は静かだった。
武装探偵社の建物は、眠っているように見えた。
灯りの落ちた廊下を、犀星は一人で歩く。
自室に戻っても、眠れないことは分かっていた。
机の上には、原稿用紙。
白く、無言で、何も責めてこない。
――書ける。
――詠める。
それが、いちばん苦しかった。
「……詩は、悪くない」
小さく言ってみる。
だが、言葉は自分を納得させなかった。
詩は悪くない。
けれど、人に向けて放った瞬間、刃になる。
ノックの音がした。
「……先生」
戸口に立っていたのは、泉鏡花 だった。
夜更けに訪ねてくるには、理由がある顔。
「眠れませんでしたか」
犀星は首を振る。
鏡花は、部屋に入るなり、原稿用紙を見て――
すぐに視線を逸らした。
「……詩は」
言いかけて、言葉を探す。
「詩は、怖いですか」
その問いに、犀星は少し驚いたように目を上げた。
そして、ゆっくりと頷く。
「怖いよ」
否定しない。
誤魔化さない。
「詩はね、人の心に一番近い。
だから、一番深く傷つけることもできる」
鏡花は黙って聞いていた。
「君の異能も、そうだろう?」
そう言われて、鏡花は小さく息を呑む。
「守るつもりで使った力が、
誰かを壊してしまうことがある」
犀星は、原稿用紙を一枚、そっと引き出しにしまった。
「だから私は――
異能のために、詩を詠まない」
「捨てる、のですか」
鏡花の声は震えていた。
犀星は、静かに首を振る。
「違う。
詩は捨てない。
ただ、人に向けて使わない」
沈黙。
やがて鏡花は、ほんの少しだけ笑った。
「……それなら」
「それなら、先生の詩は
ちゃんと、生きているままですね」
その言葉に、犀星は目を伏せた。
ああ、と。
そうかもしれない、と。
その夜以降、犀星は異能を使うとき、
一切、詩を詠まなくなった。
感情は、言葉になる直前で留められる。
風景だけが、静かに現れる。
誰にも理由は説明しない。
必要もなかった。
これは、逃避ではない。
これは――
選択だった。
犀星が詩を詠まなくなってから、
戦場は少し変わった。
派手な変化ではない。
誰かが気づくほどの違いでもない。
ただ――
異能が発動するとき、言葉がない。
声も、詠唱もない。
それでも、空気は変わる。
夕暮れが滲み、
風が柔らかくなり、
人の動きが、ほんの一拍、遅れる。
「……なぜだ」
敵が呟く。
理由は分からないが、
戦う気持ちが、どこかへ行ってしまう。
犀星は前線に出ない。
詩も詠まない。
ただ、そこに在る。
それで十分だった。
ある日、任務の報告書を受け取った
福沢諭吉 が、
短く言った。
「最近、死者が減ったな」
それ以上は何も言わない。
理由も、詮索しない。
犀星は、わずかに頭を下げる。
彼だけが分かっていた。
犀星が詩を捨てたのではないことを。
夜。
犀星は机に向かっている。
原稿用紙を前に、ペンを持つ。
書く。
詠まない。
誰にも聞かせない。
それでも、詩は生まれてしまう。
声にしなければ
傷つかないと思った
けれど
言葉は
それでも
心の中で息をする
犀星は、その詩を折り畳み、
引き出しの奥へしまう。
そこには、
異能に使われなかった詩が
静かに積み重なっていた。
それらは武器ではない。
癒やしでもない。
ただ、
生きている証としての詩。
窓の外で、風が鳴る。
犀星は、ふっと微笑んだ。
詩を詠まなくなったからといって、
詩が消えるわけではない。
詩は、
人を縛ることも、
壊すことも、
救うこともできる。
だからこそ――
使わないという選択も、詩の一部なのだ。
彼は今日も、
何も詠まないまま、
誰かが生き延びる風景をつくっている。