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次の日。
久しぶりにパソコンに向かい、データを入力していく。
圭太が昼寝をしている2時間ほどの間に、集中してキーボードを打つ。
「……ママ?」
圭太の声で時計を見ると、4時を過ぎていた。
疲れたような気もするけれど、家事以外のことを集中してやると、こんなにも気分がリフレッシュするとは知らなかった。
___やっぱり、少しでも仕事をして外とのつながりがある方がいいみたい
圭太がもう少し大きくなるまでは、在宅で働こうと強く思った。
圭太にホットケーキを焼いて、洗濯物を取り込んだ。
雅史が昨夜脱ぎ捨てた上着は、クリーニング店に持って行くバッグに入れてある。
自分のセーターもクリーニングに出そうと、クローゼットから出してバッグに入れようとした。
「うっ、これ、結構キツイな」
バッグからは、嗅いだことのない甘い香水の匂いが溢れた。
ここまでの移り香があるということは、相当密着したに違いない。
___浮気、したのかな?
相手は誰なんだろうと考える。
付き合いでよく行くというお店の女?それともコンパとかやってるのだろうか。
まさか職場の子ってことは、ないと思うけど。
いろんなタイプの女性を思い浮かべてみるけど、こんなにあからさまな証拠を残すということは、妻の私への挑戦状ということだろうか。
___そんなことしなくてもいいのに
私が相手をしなくていいのなら、どうぞご自由にと思ってしまう。
嫉妬心は、どこかになくしてしまったようで、これは妻としては失格だろう。
それでも、その香水が移るのが嫌で、自分のセーターは別の袋に入れてクリーニングに持って行くことにした。
「あ、そうだ!」
記録を残しておこう。
夫の帰りが遅くなった日に、香水の匂いがしたこと、その日付と一緒に写真も。
もしかしたら離婚ということになった時、有利になるかもしれないし。
それにしても、結婚して3年でこんな気持ちになるなんて、あの誓いの言葉を述べたときには想像もしなかった。
それからも、雅史の帰りは遅くなる日が続いた。
それはそれで私には都合がよかった。
圭太を寝かせてから雅史が帰るまでは自分の時間が持てるので、パソコン入力のアルバイトもはかどった。
香水の匂いがしたのは、数日前のあの日だけだ。
その後も、たとえば浮気相手と頻繁に連絡を取ってるようなそぶりもなく、スマホも特に持ち歩いたりもしていない。
___浮気じゃなかったのかも?
その日、圭太が何故か夜中に泣き出して、なかなか寝なかった。
「どうしたの?怖い夢でも見たのかな?ママはここにいるよ、大丈夫だよ」
「うわーん、ママぁ!あーん」
何があったのかわからない。
熱もないようだし、お腹が痛いというわけでもなさそうだ。
薄暗い寝室で、泣きじゃくる圭太を抱っこしてなだめていた。
「ちっ!」
ハッキリと舌打ちが聞こえた。
ぎゅっと胸の辺りが苦しくなる。
また、圭太と二人、寝室から追い出されてしまうのかもしれない。
「あ、ごめんね、うるさいよね。あっちに行くね」
「あー、いや、いい、俺が行くわ」
「え?」
雅史は枕と毛布を抱えると、寝室を出て行った。
___前にこんなことがあった時は、うるさい!と怒鳴って私と圭太を寝室から出したのに
何故だか今日は優しい。
しばらくして、圭太も私も眠りに落ちた。
久里山に指定された木曜日。
出来上がったデータをメールで送るつもりだったが、気分転換に事務所まで届けることにした。
今日は圭太も連れて行く。
「圭太、ママは少しだけおじさんとお話しするから、その間いい子にしててね」
「うん、いいよー」
事務所に入ると、今日はカウンターに久里山ではない別の男性がいた。
その男性はキッチリとスーツを着ていて、ネクタイもキチンとしめている。
ラフな服装だった久里山よりは、一回りほど年上のようで落ち着いて見えた。
「こんにちは、あの、出来上がったデータを持ってきたんですが、久里山さんはいらっしゃいますか?」
「こんにちは、えっと、久里山は今出てまして。僕が対応しますね。僕はチーフの遠藤耕史です。たしかお試しでやってもらった岡崎さんでしたね?ちょっと貸してもらっていいですか?」
なんだ、久里山さんはいないのかと少し残念だった。
「すみません、久里山のほうがよかったですよね?」
「あ、いえ、そんな」
なんだか心の中を読まれたようで、びっくりした。
「彼は人懐こいというか、誰とでもすぐうちとけられるので対応が上手いんですけどね」
「はぁ、そうなんですね」
いきなりの杏奈呼びのあとも、何度かLINEのやり取りをしていたので距離は近くなった感覚はあったけど。
___よく言えば人懐こい、悪く言えばチャラいのかも
遠藤耕史は、カチャカチャとパソコンを操作して、私が入力したデータをプリンターで出力していた。
クリップで書類をまとめて、じっくりと目を通している。
テストの採点をされているようで、緊張する。
「どうでしょうか?」
「うん、間違いもないし、丁寧にまとめてありますね。ここんとこの見出しだけフォントを大きくして目立つようにするといいかな」
「なるほど」
「取引先によっては、この資料をそのままプレゼンに使ったりするので、ただまとめるだけじゃなくて、アピールしたい数値や内容を目立つようにすると、気に入ってもらえて次の仕事もくるようになると思います」
「そんな感じなんですね。わかりました、次からは指定していただければ、私なりに変化をつけてまとめてみます」
「よろしくお願いします。では正式採用ということで……」
「はい、よろしくお願いします」
頭を下げていると圭太に腕を引っ張られた。
「ママ、おしっこ!」
「えっ、ちょっと待って」
「あ、僕、こっちだよ、おいで」
遠藤が圭太の手を引いて、奥のトイレへと連れて行ってくれた。
私も二人の後を追う。
圭太はまだ自分では、ズボンがうまく脱げなくて間に合わない時がある。
「ほら、貸してごらん」
私が手を貸すより先に、慣れた手つきの遠藤に脱がせてもらっていた。
「なんだか、すみません」
「いいえ、お気になさらず。うちのも少し前まではこれくらい小さかったので、こんなことは慣れていますから」
ふっと笑った顔が、とても優しくそしてなんだかひどく悲しそうに見えた。
なんでそんな悲しそうなのか理由を訊きたくなったけど、初対面の人にそんなこと言えるわけがない。
「ありがとうございました。じゃ、これからよろしくお願いしますね。最初の仕事は、久里山から明日にでも送りますので」
「はい、わかりました。あ、あのもし、よろしければですが」
___こんなこと言うと引かれるかも
でも言わずにはいられなかった。
「なんですか?」
「遠藤さんの名刺、いただけませんか?何かあった時の連絡先として」
「いいですよ、はい、これです」
思った通り、名刺には携帯番号も書いてあった。
「ありがとうございます。これで安心です。私の番号は履歴書に書いてありますので、何かありましたら、いつでも連絡……」
そこまで言いかけて、ハッと思い出した。
雅史には内緒だった。
「すみません、子どものお昼寝時間とかだと出られないので、メッセージにしてもらうと助かります」
「わかりました。まぁ、久里山がいるので滅多に連絡することはないと思いますが。その時はメッセージを入れますね」
「はい。では失礼します」
夫の知らない男性とまた連絡先を交換した。
それだけで、ワクワクした。