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「また来たんだ」
まるで待っていたかのように、勇斗はカウンターの向こうから顔を上げて笑った。仁人はそれに対して、あからさまに面倒くさそうな溜め息をついてみせる。
「たまたまです。近くまで来る用事があっただけで」
「んー、了解了解。じゃあ、たまたまの記念に、一杯サービスしよっか」
「別に、頼んでません」
そう言いながらも、仁人は結局カウンターの端に腰を下ろしていた。自分でも、この店に足が向く理由を、うまく説明できずにいる。ただ、あの日感じた酒の美味さと、あの図太い笑顔を、なぜか思い出してしまっていた。思い出してしまえば、自然に足が向いてしまうというのが自然の摂理。
「今日も疲れてる感じ?」
「……そう見えます?」
「めっちゃ見える。眉間、めちゃくちゃ寄ってるし」
指摘されて、そんなはずはと、仁人は無意識に眉間を揉んだ。
担当作家との打ち合わせは、今日もやはり平行線だった。妥協点を探るべきだと分かっていても、作品の質を落とすくらいなら、嫌われた方がマシだと思ってしまう自分がいる。担当作家にとっても大事な作品だと知っているからなおのこと。
「仕事の話、聞いてほしい?」
「別に。話したところで、何か変わるわけでもないですし」
「そっか。──じゃあ、変わらないなりに、愚痴だけ聞くよ。俺、聞くのは得意だから」
その気安さに、仁人はふと毒気を抜かれる。誰かに愚痴を零すことに、これまで慣れていなかった。同僚には弱みを見せたくないし、友人には心配をかけたくない。だが、この初対面に毛が生えた程度の相手になら、なぜか少しだけ、言葉が漏れても構わない気がした。彼が醸し出す、いわゆる包容力というやつの片鱗を感じたのかもしれない。
「──作家に、正しいこと言い過ぎるって言われました。妥協しないところが疲れるって」
「なるほどね。──でも、それ、直す気あるの?」
「ないですよ。妥協した仕事なんて、意味ないんで。俺にとっても、作家にとっても」
「だよね。仁人くん、そういう感じする」
勇斗はグラスを磨きながら、実に楽しそうに笑った。仁人はその反応に、少しだけ拍子抜けする。同情されるでもなく、説教されるでもなく、ただ肯定される。そんな受け止め方をされたのは、久しぶりのことだった。
グラスを傾けながら、仁人はふと、店内を見回した。まだ宵の口だが、他に客の姿はない。カウンターだけの狭い空間は、外の世界から切り離されたような静けさを保っている。
「この店、いつも空いてますね」
「まぁ、そういう店だから」
「早い時間は、開けてないんですか」
「開けてないね。俺、夜専門なんだよね」
「へえ」
軽く相槌を打った仁人に、勇斗は悪戯っぽい笑みを浮かべた。何かを言おうか迷っているような、それでいて、言わずにはいられないような顔だった。
「──だって、俺ヴァンパイアだから」
唐突な一言だった。仁人はグラスを傾けたまま、一瞬、動きを止めた。
「──は??」
「だから、ヴァンパイア。血ぃ吸って生きてる、あれ」
まったく悪びれる様子もなく、勇斗はさらりとそう言ってのけた。
冗談だとはわかっていても、いい大人がどうした。仁人はしばらく相手の顔を見つめ、それから、呆れたように息を吐いた。
「いやいやいや、おかしいだろ、それ」
「おかしくないって。本当のことだから」
「質の悪いナンパ文句にしても、もうちょい捻ってくださいよ。夜しか営業しない、意味深なバーテンダー。ヴァンパイア。──ベタすぎる。俺が担当編集だったら、速攻で没の作品です。」
仁人はばっさりと切り捨てた。勇斗はそれを聞いて、むしろ楽しそうに肩を揺らして笑う。
「信じてもらえないの、逆に新鮮だな」
「……あ??この令和の時代に、ヴァンパイアがバーテンダーやってますなんて言われて、はいそうですかって信じる人いないですよ」
「まぁ、そうだよね。でも、本当なんだけどな」
「なんですか、その、白々しい演技力ゼロの真顔」
仁人は呆れながらも、心のどこかで、この馬鹿げたやり取りを面白がっている自分に気づいていた。もし本当にそんな話を信じるほど自分が単純だったら、きっとこんなに悩まなかったはず。ストレスの多い毎日から遠いところにいれたはず。
だからこれは、あくまでこの男の悪ふざけの一種として、受け流しておくのが正解だろう。
「そういうなら、じゃあ、証拠見せてくださいよ。牙とか」
「──それは、また今度のお楽しみ、ってことで」
「はぐらかしましたね、今」
「はぐらかしてないって。──知らない方が、楽しいだろ?」
意味深にそう言って、勇斗はにやりと笑った。散々踏み込んできて、よくわからない冗談まで放っておいて、結局煙に巻いていく。仁人はそれ以上追及するのも馬鹿らしくなり、肩をすくめてグラスに口をつけた。
「──あ、そうですか」
わざと素っ気なく返した一言に、勇斗は満足そうに目を細めていた。この日の会話は、それ以上深追いされることなく、他愛のない世間話へと流れていった。だが仁人の中には、この馬鹿げたやり取りの記憶が、思いのほか鮮明に残ることになる。
店を出た後、夜道を歩きながら、仁人はふと苦笑した。
──ヴァンパイア、ね。
そんな与太話を真に受けるほど、自分は世間知らずでも単純でもない。そう思いながらも、あの男の顔に浮かんでいた、どこか本気とも冗談ともつかない表情が、なぜか頭から離れなかった。
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