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それから、仁人は自分でも呆れるほどの頻度で、あの店に通うようになっていた。理由をつけようと思えば、いくらでも見つかる。近くまで来る用事があった。他に空いている店がなかった。
だが本当のところ、そのどれもが、後付けの言い訳に過ぎないことを、自分自身が一番よく分かっていた。この店は、開店直後から宵の口にかけては勇斗が一人で回しているようで、仕事終わりにまっすぐ足を運ぶ仁人が顔を合わせる相手は、いつも決まって勇斗だけだった。
「今日も来たんだ」
「──たまたまです」
「はいはい、たまたまね」
もはや儀式のようになったやり取りを交わしながら、仁人はいつもの席に腰を下ろす。勇斗はからかうように笑いながらも、それ以上追及することなく、慣れた手つきでグラスを用意した。
その夜、仁人はいつになく静かだった。担当している作家の一人が、長年書き続けてきたシリーズの完結を前に、突然筆を折ると言い出したのだ。理由は聞かされていない。ただ、これまで積み上げてきたものが、この先どうなるのか分からないという不安だけが、仁人の胸の中で重く沈んでいた。
「──今日、なんか静かだね」
「別に、いつも通りです」
「いつも通りにしては、酒の減りが遅いけど」
指摘されて、仁人は思わず苦笑した。誤魔化そうとしても、この男には案外あっさりと見抜かれてしまう。それが煩わしいと思う一方で、どこか、見透かされることへの安堵もあった。
「担当してる作家が、書くのやめるって言い出したんです」
ぽつりと零れた言葉に、勇斗は驚いた様子も見せず、静かに相槌を打った。
「そっか。何年目の作家さん?」
「もう、十年くらいの付き合いです。デビュー作から、ずっと担当してました」
「じゃあ、結構ショックなんじゃない、それ」
図星を突かれ、仁人は言葉に詰まった。感情を表に出すことに、仁人は元来、不慣れだった。仕事の場では常に冷静に、感情ではなく論理で判断を下すよう努めてきた。だが今、その仮面が、少しずつ剥がれ落ちていくのを感じる。
「──ショックっていうか。俺、あの人の作品が、本当に好きだったんです。仕事としてじゃなくて、単純に、読者として」
「うん」
「それが、もう読めなくなるかもしれないと思うと。──なんか、自分の一部が欠けるみたいな感覚があって。そのきっかけを俺が作っちゃったんじゃないかって。」
言葉にしてみて、仁人は自分の弱さを初めて直視したような気がした。誰にも打ち明けたことのない感情だった。同僚に話せば、仕事に私情を持ち込むなと言われるだろう。だが、この場所でなら、そんな批判を恐れる必要がない気がした。
「──こんな話、誰にも言ったことないんですけど」
「あ、光栄だな、それ」
「別に、光栄がるようなことじゃないですよ」
「いやいや、内緒話を打ち明けてもらえるって、結構嬉しいことだと思うけど」
勇斗はそう言って、柔らかく笑った。仁人はその笑顔に、思いのほか救われる思いがした。
同情でも、慰めでもない。ただ、話したことをそのまま受け止めてもらえる。それだけのことが、これほど心を軽くするとは、思ってもみなかった。
「内緒にして、って言ったら、ちゃんと守ってくれます?」
からかうつもりで、仁人は軽く尋ねた。だが、その声には、いつもとは違う、どこか縋るような素直な響きが滲んでいた。
「もちろん。──俺、口は堅い方だから」
「見た目からして、あんまり信用できないんですが」
「ひどいな! これでも結構、秘密主義なんだよ、俺」
軽口を交わしながらも、仁人の中では、確かに何かが軽くなっていた。誰にも言えずに抱え込んでいた不安を、こうして言葉にできたことが、思いのほか大きな救いになっている。
「──なんか、勇斗さんには、あんまり隠し事できない気がしてきました。話してもいいのかも。」
「それは光栄だね」
「褒めてないです、別に」
そう言いながらも、仁人の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。自分でも気づかないうちに、この店で過ごす時間が、いつのまにか一日の中で、大切な部分を占めるようになっている。
その夜、仁人は珍しく、いつもより長く店に滞在した。会話の内容は、他愛のないものに戻っていったが、先ほど打ち明けた小さな秘密は、確かに二人だけのものとして、静かにその場に留まり続けていた。
帰り道、夜風に当たりながら、仁人はふと自分の変化に気づいた。人と近い距離を保つことに、これほど疲れを感じなくなったのは、いつからだろうか。
──別に、深い意味なんてない。
そう自分に言い聞かせながらも、仁人の足取りは、あの店に向かう時も、店を出た後も、以前より確かに軽くなっていた。
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