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2月末の、まだ肌を切り裂く様な冷たい風が吹きすさぶ中、渡研の5人は砂浜で4人の超能力者と対峙していた。
福島第一原子力発電所にほど近い閉鎖中の海水浴場のビーチには、色違いの防寒ジャンパーを上半身に着込んだ車椅子の華、両手で松葉杖を突いた義足の雪、白い杖を持つ月、そして車椅子の後ろに立っている星が、10メートルほどの距離を置いて渡たちと向き合っていた。
渡が横に並んで立っている列から一歩踏み出して、華に呼び掛けた。
「ここで何をするつもりかは知らんが、当局に投降したまえ。永遠に逃げ回れるとでも思っているのか?」
華は車椅子の上でかすかに不敵な微笑みを浮かべながら応えた。
「私たちは逃げ回っているのではありませんよ。目的のために旅をしているのです」
渡がなおも詰め寄る。
「その目的とは人類を絶滅させる事かね?」
「ええ、その通り。まあ絶滅とまではいかなくとも、自然環境に影響を与える事が不可能になる程度に衰退してくれてもいいけど」
「君たちは何者だ? バックに大きな組織でもあるのか?」
「いいえ、私たちは独立した存在です。そうそう、名前が無いとそちらも不便でしょうからこう名乗る事にしましょう。L’Ange de la mort((ランジュ・ドゥ・ラ・モルトゥ)」
渡は少し顔をしかめて後ろにいるメンバーに尋ねた。
「何語だ?」
遠山がすかさず答えた。
「フランス語ですね。『死の天使』という意味でしょう」
遠山は挑発的な笑みを浮かべて4人の超能力者に告げた。
「だがうちの大学のフランス語の試験なら落第だな。そこはLes Anges(レサンジュ)と複数形にするべきだろう? 君たちは4人いるじゃないか」
華は声を上げて笑った。
「あはは、さすが大学の先生ですね。でも単数形でいいのですよ。私たちは見ての通り重度の障碍者ぞろい。5人そろってひとつの存在のような物ですから」
突然宮下が防寒コートの中に右手を差し込み、拳銃をいつでも抜けるような体勢になって振り返った。松田が小声で宮下に訊く。
「どうかしましたか? 宮下さん」
宮下は鋭い視線を周囲に走らせながら答える。
「松田さんもそっちの方向を警戒して。仲間がどこかに隠れているのかもしれない。今彼女は自分たちが5人だと言った」
「そう言えば……了解です」
松田も後ろを向いて辺りを見回した。それに気づいた華が嘲笑するように言った。
「ああ、刑事さんに自衛隊のおにいさん、背後を警戒する必要はありませんよ。5人目の仲間はここに一緒にいます」
そう言って華は膝にかかっている毛布の下から、円筒形の容器を取り出した。華の両手で一抱えほどある大きさのそれを高く持ち上げて見せ、雪が側面のカバーを外した。
透明なアクリルの壁がむき出しになり、その中の透明な液体の中にそれはうごめいていた。
それは白いオタマジャクシのような形をしていた。頭部が大きく、目が開いていた。手足はそれらしき小さな突起がわずかに突き出ているだけだ。まるで母体の中の胎児のようでもあり、しかし微妙に形が異様だった。
「ば、化け物?」
筒井が思わず怯えた声を上げた。それを聞いた華は唇をへの字に曲げて文句を言った。
「あら、ひど~い。こう見えてもこの子は人間ですよ。それも私たちの中では一番年下の妙齢の乙女でしてよ」
渡は驚きを隠しながら華に言った。
「君たちがどんな超能力を持っているかは知らんが、たった4人、いや5人で世界を相手に戦えるとでも本気で思っているのかね? そこの車椅子の君はサイコキネシスを使うらしいが、前回の歌舞伎町の一件では、宮下警部補の拳銃の弾丸をほんの数センチずらせただけのようだが。その程度のパワーで人類全員と戦えるわけがないだろう」
華が面白そうにクスクスと笑いながら答えた。
「もちろん、私もそこまで自惚れ屋ではありませんわ。私たち自身が戦う必要はありません。争わせればいいのですよ、人間同士を」
「何?」
渡の声が上ずった。
「怪獣を作り出して人類と戦わせようという意図ではないと言うのか?」
「どんな怪獣でも、たった一匹で全人類を殺戮するのは不可能でしょう。でも人間同士が互いに争い合い、殺し合い、自滅するように仕向ける事は出来る。まずこの国でその実験を行い、やがて世界中に争いの火種を広げる。どうやって、とお思いでしょう? これからお目にかけますわ」
華は上着のポケットから指先に乗るほどの小さな折り鶴をひとつ取り出した。その折り鶴はその手を離れ、海から吹き付ける強い寒風に逆らって宙を飛んだ。
折り鶴が高さ5メートルほどに達した時、雪、月、星の3人が華の車椅子を囲むようにして寄り添い、月が円筒形の容器と華の片手に自分の両手を重ねた。
雪に促されて星が月の手の甲に自分の掌を置く。華が渡たちに向かって高らかに言う。
「確かに私のサイコキネシスは大したパワーではありません。外側に向かってなら、ですけどね」
渡たちが意味を理解しかねて同時に眉をしかめる。華は言葉を続けた。
「この子たちと力を合わせれば面白い事が出来ますよ。私は強力な超能力を持つ兵士を産みだすための遺伝子操作を受けて生まれて来ました。結果は今ご覧の通りですけどね」
華は月に視線を向けた。
「この子、月ちゃんの能力はテレパシー。こうやって体を密着させた相手と精神感応であらゆる情報を伝達する事が出来る。そこにいる雪ちゃんはテレポーテーション、つまり瞬間移動ですね、その遣い手。そしてここにいる星ちゃんはテレパシーを通じて指令を出せばスーパーコンピューター以上の計算やシミュレーションを瞬時に行える」
唖然として言葉が出せない渡たちを見つめながら華はさらに畳みかけた。
「星ちゃんはその代償に、普段は幼児程度の知能しかない。この子が何のために遺伝子操作されたか分かります? 生まれつき最高の知能指数を持った優秀な官僚を産みだすためだったそうです。あはははは、皮肉な話でしょう?」
次に華は自分の手元の円筒形の容器に視線を移した。
「この子は宙(そら)ちゃん。あらゆる過酷な環境下でも生きていける強化人間になるべく遺伝子操作をされた。でも丸2年も代理母の子宮内に留まり続け、代理母が死んだので手術で取り出された。その時の姿のまま今に至っています。ある意味でこの子は自分の体を持った事がないのですよ、これまでずっとね」
渡の唇がぶるぶると震えた。
「何という非人道的な実験だ。しかし、君たちは超能力自体は獲得したという事か?」
華が不敵な笑みを浮かべて言った。
「さっきの折り鶴をよくご覧になっててください。これからあれを内側に潰します」
空中で折り鶴がくしゃりと潰れ、どんどん小さくなっていく。中心部に向けてさらに押しつぶされて肉眼では見えないほどになった。華がさらに言う。
「私のサイコキネシスはマクロの空間ではなく、ミクロの空間で真価を発揮するのです。さあ、さっきの折り鶴を構成していた物質をこのまま際限なく圧縮していったら、どうなるかしら?」
空中で押しつぶされた折り鶴を構成していた紙の素材は、分子同士の結合を破壊され、さらに原子核同士がぶつかり合い、陽子と中性子の塊になった。
渡が何か危険な物を感じて数歩後ずさった。華が言葉を続ける。
「今あそこでは、陽子と中性子が圧し潰され、クォークに分解しています。その究極の素粒子をさらに1点に向かって圧し潰し続ける。さて、何が生じるでしょうか?」
「まさか」
渡りの声とは思えない程、怯えた音がその唇から漏れた。
「ブラックホールを出現させるつもりか? みんな、後ろに下がれ」
華の笑いを含んだ声が響く。
「ご心配なく。私が作り出す時空の特異点はシュバルツシルト境界面を伴いません。多少のガンマー線は出しますが、周囲の生物の健康に影響を与える程の量ではありません。先生は『宇宙検閲官仮説』というのをご存じですか?」
渡は数秒考え込み、目を大きく見開いて叫んだ。
「裸の特異点? それを作り出せると言っているのか?」
「はい、裸で宇宙をうろうろしていては困るから、そんな存在を許さない未知の物理法則があるはずだ。それが宇宙検閲官仮説ですね。でも私のこの超能力で産みだされる特異点だけは、その検閲官も見逃してくれるようです」
空中では、もう誰の目にも見えなくなっていたが、クォークが折り重なって潰し合い、質量として存在出来なくなり、エネルギーに変換されて1点に吸い込まれていた。
華がさらに解説を続けた。
「時空の特異点は大きさはゼロ、質量は無限大。その中というべきか、向こう側と言うべきか、そこではあらゆる物理法則が破綻する。質量保存の法則もエネルギー保存の法則も意味をなさなくなり、無限のエネルギーを質量に変換する事も出来る。無から有を産みだす。そして産みだされる物は、過去にあり得たかもしれず、この先遠い未来で起こり得るかもしれない進化を遂げた生物」
華が空中に作り出した特異点は、さっきまで折り鶴だった物質の全ての質量を飲み込み、わずかにガンマー線バーストを放出した。華の声が続く。
「私が作り出す特異点は質量を吐き出すとすぐに消滅してしまうようです。その質量に形を与えるための計算をするのが星ちゃん、そして形を与える能力を持つのが宙ちゃん」
華は円筒形の容器に視線を向け、優しい声で言った。
「さあ、宙ちゃん。今度はどんな体が欲しいの?」
空中に青い稲妻のような光が走った。思わず地面に伏せた渡研の5人の上空に何か巨大な物が現れ、まっすぐ海面に向かって飛んだ。
沖合で高く水柱が立ち昇り、しぶきが渡たちの背中にもかかった。渡たちがやっと身を起こすと、華たち5人は一か所に固まって、雪と呼ばれていた義足の女性が目を閉じて祈るような顔つきになっていた。
華が相変わらず挑発的な笑いを含んだ声で渡たちに告げた。
「では、今回はこれでお暇(いとま)いたします。ご活躍を期待していますよ」
5人の姿が、魚眼レンズを通したかのようにグニャリと歪んだ。次の瞬間、彼女たちの姿はふっとその場からかき消えた。
渡が茫然としてつぶやいた。
「宮下君から聞いてはいたが、この目で見るまでは信じられなかった。確かに瞬間移動、テレポーテーションだ」
その数時間後、福島第一原発の南側の陸地に近い海域で、1隻の沿岸漁船の乗組員が船長に網の不調を訴えていた。
「おおい、船長。網が何かに引っかかったんじゃねえかな。やたら重いんだけんど」
エンジンを止めて操縦室から甲板に出て来た船長は、海の中に視線をやって首を傾げた。
「おかしいな。この辺には網が引っかかるような物はないはずだが」
乗組員も海面を見つめて、目を凝らした。そして大声で船長に言う。
「なんかでかい物が浮いて来る。サメか?」
次の瞬間、船からわずか数メートルの海面から細長い巨大な首が水しぶきを上げて現れた。
それは長さ10メートルはあろうかという首だった。ぎょろりとした目玉が船長と乗組員をにらみ、二人は甲板に奥に座り込んで恐怖に震えた。
その巨大な首の口には鋭い牙がずらりと並び、後頭部から白い水蒸気のような物が勢いよく噴出した。
首が再び海面下に潜ると、漁船の船体が激しく揺さぶられ、網を巻き取るウインチがまた勢いよく回った。引き上げられた網の先端部はずたずたにちぎれていた。
その知らせはいわき市のホテルに待機していた渡研のメンバーにも届いた。渡の部屋に集まった5人はすぐに巨大生物の正体を察した。遠山が言った。
「あの、死の天使を名乗る女たちが言っていた、裸の特異点から飛び出して行った物体はこれですね」
宮下が首を傾げながら言った。
「だとしても何故こんな地方に?」
筒井がスマホの画面を見せながら叫んだ。
「大変です。あちこちのSNSが大騒ぎに」
皆がその画面を見ると様々な書き込みがあふれていた。
>ついに来たーーーー放射能怪獣出現だってよ
>やっぱ原発からの処理水放出ってやばかったんじゃねえか
>トリチウムとかで汚染されたのが原因か?
>そうに決まってんじゃん。放射能で突然変異した怪獣だよ
>原発反対、汚染水放出今すぐやめさせろ
渡が苦々し気につぶやいた。
「彼女たちがこの場所を選んだのは、これを狙っていたのか」
翌日早朝から海上自衛隊のP-3C哨戒機が現場の海域上空に派遣された。P-3Cは原発周辺の海中に次々と円筒形のソノブイを空中から投下した。
廃炉中の福島第一原発から南へ20キロほど離れた町の海岸沿いに臨時対策本部が設置され、陸上自衛隊施設科が大型のテント状の業務スペースを設置した。
広々とした指揮室で、渡研のメンバーは自衛隊部隊の通信隊員たちとともに、パソコンの画面に映し出されるソノブイからの情報を見つめていた。
やがて画面に音波探知で捉えられた巨大な物体のシルエットが映し出された。それは樽のような太い胴体から細長い首が伸び、胴体の後ろには短い尾があった。
渡がパソコンを操作している自衛官に尋ねた。
「大きさはどれぐらいか、分かりますか?」
その自衛官は素早くマウスを動かして答えた。
「全長30メートルというところですね。首のように見える部分が全身の半分ほどを占めているようです」
渡は遠山の方に顔を向けて訊いた。
「遠山君、どんな生物だか推測出来るか? 私にはクビナガリュウのように見えるが」
筒井が肩を震え上がらせて言った。
「クビナガリュウって、恐竜時代に海にいたアレですか? もしそうだとしたら肉食の凶暴な恐竜なんじゃ?」
遠山が画面を見つめながら言った。
「正確にはクビナガリュウは恐竜じゃない。海棲爬虫類だね。だが、この映像は少し形が違うな。後ろ脚にあたるヒレがない。クビナガリュウならヒレ状の脚が前後左右に2対、合計4あるはずだ。これは一体何だ?」
別の通信隊員が声を張り上げた。
「P-3Cより緊急入電。巨大物体、浮上中。富岡川河口に向かって移動中」
その巨大生物は河口近くにある富岡漁港の沖合で、その長い首を海面上に現した。漁港にいた漁師たちは遠目にその姿を見て悲鳴を上げた。
「おい、何だ、ありゃ? 海蛇か?」
「馬鹿言え、こんな北の海に海蛇なんかいるわけねえ。そうだとしてもあんなでかい海蛇がいるもんか」
その頭部はトカゲのようであり、口には鋭い牙がびっしりと並んでいた。後頭部からブシューという音とともに水蒸気が噴き出た。
その長い首は縦にクネクネとうねって海面近くの水中に何度も突っ込み、魚を食い漁った。辺りの海面が食いちぎられた魚の血で赤く染まった。
漁港の周りに集まって来た漁業関係者が表情を凍らせて見守る中、その巨大生物は沖に向かって泳ぎ去り、水中に没した。
30分ほどの間の出来事だった。その様子は漁港の建物の屋上に設置されていた監視カメラに記録されており、その動画データはオンラインで自衛隊の対策本部にただちに転送された。
対策本部のテントの中で再生動画を見た遠山が、ポンと膝を叩いて言葉を発した。
「分かったぞ。これはクジラだ」
渡研の他のメンバーたちも居合わせた自衛官たちも一様に「えっ?」という声を上げた。
松田がパソコン画面上の動画を見ながら言った。
「こんな形のクジラがいるんですか?」
遠山が少し笑った表情で答えた。
「もちろん現生種じゃない。これを見てくれ」
遠山が自分のノートパソコンをたぐり寄せて1枚の画像をそこに映し出した。画面に出て来たのはウナギか蛇のように体全体が細長い生き物だった。遠山がそれを指差しながら言う。
「バシロサウルス、あるいはゼウグロドンとも言う、四千万年前から三千四百万年前にかけて生息していた原始的なクジラの祖先だ。今のクジラと違ってやけに細長いだろ? 浅い海にだけ生息していて、小型の魚類や頭足類などを捕食していたと考えられている」
筒井が横から顔を突っ込み、動画を見つめながら遠山に訊いた。
「でも遠山先生、どうしてあれがクジラだと分かるんですか?」
遠山は自衛官からマウスを借りて動画を巻き戻しながら答えた。
「この首の動きをよく見てくれ。爬虫類なら横というか水平方向にくねる。蛇が地面を這う動きを思い出せば分かるだろう? こいつの長い首は縦に、上下にくねっている。これは哺乳類の動きだ」
宮下も遠山の背中越しに動画を見つめて言った。
「あ、その場面、なんかクジラが潮を吹いているようにも見えますね」
遠山は満足そうにうなずきながら言った。
「ほほう、宮下君、分かってきてるね。そう、クジラは肺呼吸だから、水面上に頭を出した時に一気に呼吸する。大量の息を吐くための器官がクジラ類の後頭部にある。これもクジラの特徴だ」
筒井が言う。
「こんなに首が細長いのは何故でしょう?」
遠山は腕組みをして答える。
「これは僕の推論に過ぎんが、浅い海に適応進化した結果かもしれん。浅い海中で獲物の魚を追いかけ回して食いつくには、首を長くして上下左右に自在に動かす方が都合がいい。クビナガリュウもそういう進化をしたと推定されている」
「さっきのクジラの祖先もそうだったという事ですか?」
「そう考えられている。地球温暖化がこれ以上進行すると、南極の氷が解けて海面が上昇すると言われている。未来のそうなった地球では、遠浅の海の面積が今よりずっと広くなるはずだ。その浅い海で生きる方向に現生種のクジラが進化して、こういう首が長い種が誕生する可能性はある」
それまで黙っていた渡があごひげをしごき始めた。鋭い目つきで動画を見つめながら言った。
「クビナガリュウならぬクビナガクジラというわけか。死の天使を名乗る、あの超能力者たちが作り出した未来の進化という事になるのだな。外洋に出られると厄介だが、遠山君、そこはどう思う?」
遠山が答える。
「それは可能性が低いと思います。バシロサウルスには現代のクジラのような長距離遠泳能力はなかったと考えられています。似た様な進化の結果なら、今回のクビナガクジラも同じでしょう。この辺りの海はいわゆる大陸棚で遠浅です。そう遠くまで行くタイプではないでしょうね」
自衛隊の対策本部長の自衛官が横から尋ねた。
「遠山先生、しかしどう対処すればいいのでしょう? あんな巨体を陸に引っ張り上げる事は不可能です。こんなに廃炉中の原発に近い場所で、水中戦闘をやるのは政治的に難しいかと」
遠山はニヤリと笑って答えた。
「水から引っ張り出す必要はありませんよ。逆です。奴を海底に押し込める作戦を立ててください。あれはクジラ、つまり肺呼吸をする哺乳類です。水中に沈めたまま頭を出させなければ、呼吸が出来なくなって死にます」
福島第一原発沖の巨大生物の件はすぐに各種マスコミに取り上げられ、新聞社、テレビ局の記者たちが富岡漁港の周辺に集まり始めた。
彼らは周辺の旅館や民宿に取材拠点を構え、業者たちは思わぬ特需にうれしい悲鳴を上げた。
続いて髪を奇妙な色に染めたり、ピアスをジャラジャラと付けた若い男女が集まって来た。ユーチューバーを自称する者、独立系ネットメディアの記者だと名乗る彼らは我先にと争って海岸沿いの場所にテントを張って陣取り、一日中海に向かってカメラやスマホを構えていた。
筒井は本職である帝都新聞社の先輩記者に呼び出されて漁港近くに向かった。念のため、宮下と松田が同行した。
漁港近くの駐車場で筒井は目当ての人物を見つけて声をかけた。
「片山先輩! お久しぶりです」
スーツの上にダウンジャケットを羽織った片山という30代後半ぐらいの男は筒井に向かって片手を振りながら歩み寄って来た。
「よう筒井、久しぶり、元気そうだな」
「おかげさまで。片山さんは例の怪獣の取材に来たんですか?」
「ああ、当分の間、こっちに詰める事になった。で早速なんだが、今君は渡研究室に出向中だったよな。何か情報を持っているなら教えてくれ」
「い、いやあ、それはちょっと」
「どうしてだ? 同じ社の先輩記者だぞ、俺は」
筒井の後ろから宮下が前に足を踏み出し、筒井に代わって片山に告げた。
「現時点での個人間での情報のやり取りは出来ません。渡研の持っている情報は政府の管轄下です」
片山はパンツスーツ姿の宮下を見て、いぶかしそうな表情で訊いた。
「失礼だが、あなたは?」
宮下は渡研究室の身分証をかざして見せながら答えた。
「筒井さんと同じく、渡研の聴講生として所属している者です。宮下と申します」
「ああ、あなたが例の女性刑事さんですね。うちの社内でも噂になってますよ。では、あちらの人が」
片山は筒井の数メートル後ろに立っているカーキ色のコートを着た松田に視線を向けて言った。
「自衛隊から出向している人だな」
松田は無言でぺこりと頭を下げた。そこへ大きなカメラを肩から下げた30代ぐらいの男が駆け寄って来た。片山に同行している新聞社のカメラマンだった。彼は顔をしかめて片山に告げた。
「ダメですよ、片山さん。船を出すのは警察から禁止されているの一点張りで、他の社もブーブー言ってましたけど、どうにもならないようですね」
片山は軽く舌打ちして言った。
「全くもう、警察も杓子定規だな、最近は。まあいい。海岸沿いで張り込んでおこう」
片山は筒井に向き直って言う。
「じゃあ、情報をくれと無理強いはしないよ。ただ何か表に出せる情報が出て来たら一番に俺に知らせてくれよ」
パンツスーツの上に厚手のダッフルコートを着込んだ筒井が頭を下げてうなずいた。片山とカメラマンは小走りで海岸に向かって去って行った。
筒井が宮下、松田と共に反対方向に歩き出そうとした時、近くの物陰から数人の若者が怒鳴り合っている声が聞こえて来た。
筒井が声の方向を確かめて宮下と松田に言った。
「何かただ事じゃなさそうな感じですね。行ってみますか?」
宮下が内ポケットの中に警察手帳が入っている事を確かめて答えた。
「そうね、行ってみましょう。もし暴力沙汰ならあたしの出番だし」
三人が声の聞こえる方向へ小走りで向かった。少し海岸に近づいた場所のワンボックスカーの脇で、二人の金髪に染めた、だらしなく伸びた髪形の20代らしい若い男がいた。
彼らと向かい合って高校生らしい制服姿の男2人と女子2人が立っていた。
黒に近い濃紺のブレザーにグレイのネクタイを締め、男子はやや色の薄いズボンに細かい格子の線が入っていた。女子の制服は同じ濃紺のブレザーにネクタイ、紺と明るい青の帯が大きな格子模様を作りさたに白っぽい線が数本格子状に入っているスカート。両方とも左胸に校章らしいワッペンが付いていた。
やや短い髪形の男子が怒気を含んだ声で金髪の男二人に向かって言った。
「ふざけるのもいいかげんにしてくれと言ってるんですよ。地元の迷惑って物が想像出来ないんですか、あんたたちは?」
金髪の若い男たち二人はそれを聞いて、なおさらせせら笑うような口調になった。背の高い方の男が言う。
「はあ? 君たちさあ、報道の自由って言葉知らねえの? 俺たちは真実を世間に伝えようとしてんの」
4人の高校生の中の短いポニーテールのボーイッシュな体つきの女子が言い返した。
「どこが真実なんだよ? 大体、あんたたち新聞社とかテレビ局とかの社員じゃないでしょ。報道なんて気取ってんじゃないよ」
金髪の若い男のもう一人、やや背が低く小太りな方がさらに言い返す。
「はっ、そうだよ、俺たちはマスゴミの記者なんかじゃねえよ。そもそも新聞とかテレビのニュースなんて嘘ばっかりだから、俺たちみたいなフリーランスのジャーナリストが、これが真実ううってのをネットで流してやってんの」
さっきの男子高校生が怒鳴った。
「あのデマのどこが真実なんですか? あなた達の悪ふざけで、どんだけこの辺の地元の人たちに迷惑がかかるか、それを考えろと言ってんですよ」
小太りの男が声を上げて笑いながら言った。
「真実拡散されて困るんなら引越しすりゃいいじゃん。帝都電力からたんまり賠償金もらったくせによ」
さっきの女子高校生がキレた。そこら中に響く様な大声で怒鳴った。
「あんたたちこそ金が目当てなんだろ。ネットのインプレ稼ぎのためにあたしらの地元を利用すんな。このネット乞食」
背の高い男の顔色が変わった。
「なんだと、てめえ。お子ちゃまだと思って優しくしてやってりゃ図に乗りやがって」
男が女子高校生の方に大股で近づこうとし、男子高校生が間に立ちふさがった。背の高い男は彼のブレザーの胸ぐらをつかんだ。
「邪魔すんじゃねえ、ガキが!」
宮下が身を潜めて成り行きをうかがっていた位置から駆け出し、声を張り上げた。
「やめなさい」
男子高校生の胸ぐらをつかんだままの金髪の男が宮下をにらみつけて怒鳴った。
「何だ、ねえちゃん? 関係ねえ奴はすっこんでろ」
宮下が上着の内ポケットから警察手帳を取り出し、縦に広げて見せると、男の顔色がまた変わった。あわてて男子高校生の服から手を離した。畳みかけるように宮下が言う。
「お互いに手を出すようなら、最寄りの警察署に来てもらう事になりますよ。どうします?」
金髪の若い男二人は両手を胸の前で開いて小刻みに振った。小太りの男が宮下に言った。
「あはは、いやケンカとかじゃないですって。おい、行こうぜ」
そしてその二人は近くの駐車場の方へ一目散に走って行った。筒井と松田も宮下の側に来て、高校生たちに声をかけた。
「君たち大丈夫? 怪我とかしてない?」
そう訊く筒井にさっきの男子生徒が乱れたブレザーの襟を直しながら答えた。
「はい、大丈夫です」
さっきの女子生徒が宮下に向かって興奮した口調で言った。
「おねえさん刑事なんですか? だったらあいつら逮捕してよ。これもう犯罪の域だよ」
あと二人の高校生が困った様子で二人にそれぞれ言った。
「ねえ、永倉先輩、もうよしましょうよ。話が通じるような相手じゃないですよ、あれ」
「芹沢先輩も女の子なんだから危ないですよ、これ以上は。二人とも卒業式直前に問題起こしちゃまずいでしょ」
宮下は腹の上で両手を組んで永倉と呼ばれた男子生徒と芹沢と呼ばれた女子生徒に問いかけた。
「そりゃ暴行の現行犯なら逮捕は可能だけど、あなたたち一体何を揉めていたの? まず事情を聞かせてくれない?」
芹沢がカバンからスマホを取り出して有名な動画投稿サイトを画面に移し出した。
「これです。ちょっと見てください」
芹沢が冒頭部をスキップして動画を流し始めた。その画面に映っているのはさっきの金髪の男二人組だった。
小さな手漕ぎボートに乗っているらしい二人の姿が交互に映し出され、画面の中の背の高い男がおどけた口調でカメラに向かってしゃべる。
「さあ、ここが怪獣が出現した海です。で、あれが放射能汚染水を垂れ流している原発みたいですね」
画面の奥に小さく、遠くにある原発らしき施設が見えた。小太りの男がはしゃいだ声で言った。
「やっぱね、恐れてた事が起きちゃったんですよ。2023年8月から始まった原発からの核汚染水の海洋放出って知ってます?」
背の高い男が合いの手を入れた。
「いやあ、僕は知らなかったなあ。それってヤバいんですか?」
小太りの男が力を込めて応じた。
「やばいですよ、そりゃ。やばいなんてもんじゃない、なにしろトリチウムっていう放射能たっぷりの元素が入った水なんですから。それをね、なんと一日あたり何百トンもの量で海に垂れ流しですよ」
「うひゃあ。でもニュースとかでは薄めてあるから心配ないとか言ってませんでした?」
「そんなの嘘に決まってんでしょ。マスゴミが流すニュースなんて信じてちゃダメでしょ」
「じゃ、やっぱ危険なんすか?」
「そりゃ放射能が入った水なんすから。その証拠に、原発沖に怪獣が出現した。これ以上のやばい事ってないっしょ?」
「あの怪獣は放射能で生まれたわけ?」
「そうに決まってます。トリチウムって放射能物質が混ざった水がまき散らされてんですから、きっとトリチウムの生体濃縮が起きたんです」
「何すか、その生体濃縮って?」
「まず小さな海の生物、まあ小魚とかプランクトンですね、これがトリチウムを飲み込んじゃう。それをもうちょっと大きな魚が食べると、トリチウムが体の中に貯まりますよね。それをもっと大きな魚とかが食べるとさらにトリチウムの濃度が上がって。これが繰り返されて、ものすごい量のトリチウムが大きな海の動物の体に貯まる」
「それ、突然変異とか起きないんすか?」
「起きたんですよ。それで生まれたのが例の怪獣。あれはもう間違いなく、トリチウム汚染が産んだ放射能怪獣ですよ」
「怖いですねえ。あれ、ちょっと待ってくださいよ。この辺りで捕れた魚を食べるのって、人間もやばくないすか?」
「そう、そこが大事。魚の中にはトリチウムがいっぱい入ってますよ、絶対」
「もし知らずに食べたらどうなるんすかね?」
「そりゃ僕らの体も放射能で汚染されるでしょう。現に中国は日本の水産物全部、輸入禁止にしてるでしょ」
「わあ、そりゃ大変だ。でも政府もマスコミもそれニュースで言ってませんよね」
「そりゃ利権とかいろいろあって、本当の事を国民に知らせるわけないですよ。いいですか、このチャンネルを見ている皆さん、少なくとも福島沖で捕れた魚とかは絶対食べちゃいけませんよ。あなたも怪獣になっちゃうかも」
松田が顔をしかめて思わずつぶやいた。
「ひどいな、これは。確かに悪質なデマですね。君たちが怒るのも無理はない」
筒井もため息をつきながら言った。
「最近多いんですよねえ。こういう話を面白半分で拡散させるユーチューバー。しかもあたしの職業をマスゴミ呼ばわりしているし」
永倉が筒井に訊いた。
「あの、おねえさん、マスコミ関係の人ですか?」
「新聞記者です。あ、でも今は大学の研究機関に出向中なんだけど」
「トリチウムって放射性元素の名前じゃないですよね? その根本から間違ってませんか、この動画」
「元素ではないはずよねえ。後で渡先生に詳しく訊いてみましょう」
宮下が動画サイトのチャンネルを自分のスマホに登録しながら言った。
「一応警察でもこの動画投稿者の言動をチェックしてみる。ただ、これだけだと刑事事件として立件するのは難しいかもしれないわね。他のSNSにもこの手の書き込みはあふれてるみたいだし」
芹沢が不満そうな表情で宮下に詰め寄った。
「警察は動いてくれないんですか?」
宮下が困り顔で答えた。
「実際に何らかの被害が出て、あんまりひどいようなら偽計業務妨害とかで福島県警が対応する事もあり得るだろうけど、この段階では警察沙汰にするのは難しいかもね」
高校生たちと別れて宮下たちは渡研の拠点になっているホテルに戻った。例の動画を見せられた渡は憮然とした顔で言った。
「無知無教養にも程がある。そもそもトリチウムは元素の名前じゃない」
筒井がおどおどとした口調で渡に訊いた。
「やっぱりそうですよね。何の名前でしたっけ?」
「水素の放射性同位体、いわゆる三重水素の事だ。水の分子を構成する水素原子2個と酸素原子1個。その水素のどちらかの原子核が、陽子1個、中性子2個で構成されているのがトリチウム水」
松田が憤懣やるかたないという様子で渡に言った。
「生体濃縮がどうのこうのと言ってますが、それもデマですよね?」
「この場合、トリチウムの濃度は国際原子力機関が定めた基準値よりさらに低いところまで希釈されておる」
遠山が横から言った。
「ついでに言うと、トリチウムを含んでいると言ってもただの水の分子だから、濃縮しない以前に生物の体内に長く留まる事もないよ。せいぜい数週間で糞尿として体外に排出される」
渡が憤然とした表情で付け加えた。
「だいたいだな、トリチウム自体は自然界にも存在している。年間7.2京(けい)ベクレルが宇宙線と大気の衝突で生成されているんだ。それに原発からのトリチウムを含んだ処理水の海洋への放出は、世界中でやってるぞ。福島第一原発程度の量の放出量で怪獣が生まれるのなら、中国や韓国の放出量の方がはるかに多いんだから、あっちの国の海岸線はそれこそ怪獣だらけになっていないとおかしいぐらいだ」
だがその動画は数万の単位でSNSユーザーによって視聴され拡散され、面白半分に反応する書き込みが他のSNS上にもあふれ始めた。
>やっぱりな
あの処理水放出ってやばかったんじゃん
>政府はなんで許可したんだよ?
怪獣が生まれるって分かってなかったのか?
>そりゃ世襲議員だらけのボンクラ政府なんだから、予測なんてできなかったんじゃね?
>バーカ、分かっててやってんだよ
帝都電力から政治献金もらってんだから、に決まってんじゃねえか
ズブズブなんだよ
>これって福島沖だけで済む話なのか?
そのトテチウムとかいう放射能、世界中の海に広がらないの?
>じゃなくてトリチウムな、そりゃ広がるだろ
世界中の海が放射能で汚染されるんだよ、福島のせいで
>トリチウムの処理水は韓国や中国の原発からも海に流してるってニュースで読んだぞ
あっちの方がトリチウムの濃度は高いって言ってるけど、どうなの?
>それはディスり情報
どっかのネトウヨが中国や韓国ディスりたくて流してるデマだよ
>中国でも流してるってのが本当なら、中国が日本の海産物輸入禁止にしたりはしないよな
おい、これマジでヤバいんじゃねえの?
その書き込みの流れをスマホで見ながら、高速道路のサービスエリアの駐車場の軽トラックの運転席で、ほくそ笑んでいる男がいた。
それはあの動画に登場して危険性を煽っていた小太りの男だった。
「ひゃはっはは、バズってるじゃん。もうちょっとでサイトから収益金入るぞ。もう1本動画上げるか」
男は軽トラックを発車させながら、独り言を言った。
「帝都電力からたんまり賠償金もらってぬくぬくと暮らしてる奴らに、これ以上いい思いさせてたまるか。被災者だからって被害者面しやがって。就職氷河期世代の俺が、無届運送屋でやっと暮らしてるってのによ。俺たちと同じ地獄に叩き落してやる」
翌日の午前中、小さな漁港の岸壁で、デマを流すユーチューバーたちに詰め寄っていた永倉という高校生の少年がコンクリートの護岸の上に腰かけてスマホで動画を見つめていた。
その画面には、あの小太りの男がSNSに流した動画が流れ、多くのコメントが画面上に表示されていた。
「ちきしょう! どいつもこいつも無責任な事ほざきやがって。俺たちの苦労を何だと思ってやんがんだ」
その背後から私服姿の芹沢が護岸に登って来て声をかけた。
「おーい、永倉。何してんだ?」
永倉はスマホのアプリを閉じ、防水パーカーのポケットにしまいながら振り返って答えた。
「よう芹沢。父ちゃんの船戻って来るの待ってんだ。荷下ろし手伝えってさ」
「ああ、お父さん、漁に出てたのか。あ、あれじゃない、お父さんの船?」
「おっと、ほんとだ。いつもより遅いな。おまえは何しに漁港に来てんだ?」
「漁港の直売所。お母さんになんかおかずになる物探して来いって言われてさ」
「そうか、じゃあ、父ちゃんの船の倉見てみっか?」
「いいの?」
「おうよ。あそこの桟橋だ」
二人は連れ立って桟橋に向かった。沖合から低速で長さ10メートル弱ほどの、操縦席の部分だけ壁と屋根が付いている古びた漁船が桟橋に横付けして来た。
甲板から太いロープが桟橋の上に投げ出され、永倉がその端を手にして慣れた手つきで桟橋の木の杭に巻き付けた。
船上から日焼けした大柄な中年の男が飛び降りた。大きなクーラーボックスを甲板の端から引きずり下ろした。永倉が声をかけた。
「父ちゃん、あがりあったのかい?」
永倉の父親はしかめっ面で首を横に振った。
「だめだ。どんだけ網引っ張っても、たった2尾だ。あの怪獣がうろうろしてっから、魚も沖に逃げちまってんだろな」
永倉の父親は息子の後ろに立っている芹沢に気づいてにっこり笑って言った。
「よう、芹沢さんとこの嬢ちゃん。買い出しかい?」
芹沢がちょこんと頭を下げてうなずくと永倉の父親は、クーラーボックスの蓋を開けて、大ぶりな魚をビニール袋に入れて差し出した。
「ちょうどいいとこに来たな。これ持って行きな」
半透明の袋の中の魚を見て芹沢は目を丸くした。
「ちょっと、おじさん。それヒラメじゃないの? そんな高い物もらえないよ」
「いいんだよ」
永倉の父親は自嘲的な笑みを浮かべて言った。
「どうせ市場に持って行ったって売れやしねえ。もうこの辺で水揚げする魚は買い手がつかねえんだよ」
永倉も仰天した表情で父親に訊いた。
「なんでだよ、父ちゃん。その大きさなら、五千円は下らないはずだろ、常磐物なんだから」
「風評被害ってやつよ」
永倉の父親は船の壁面によりかかって作業着のポケットから煙草を取り出し、1本口にくわえてライターで火を点け、深々と煙を吸い込んでゆっくり吐き出した。
「あの怪獣騒ぎが始まってから、福島で水揚げした魚は一切売れなくなった。またぞろ魚が放射能で汚染されてるのなんのって、噂が広がってんだ。俺ら漁師だけじゃねえ。水産加工場のおばちゃんたちも仕事がなくなったってぼやいてる」
永倉が悔しそうに言った。
「あのふざけた動画のせいだ。放射能検査なんて、どんだけ手間暇かけて苦労してやってんのか知りもしない奴らが、くそ!」
永倉の父親からヒラメの入ったビニール袋を押し付けられるようにして受け取った芹沢が言いにくそうに訊いた。
「あの、おじさん。もっと沖合に出るとか、県外の漁港で下ろすとか出来ないんですか?」
「漁船の燃料も値上がりしててな。それにあの怪獣がうろうろしてっから、出漁はなるべく控えろって役所からも言われてる。そうしてえとこだが、金がねえ」
「帝都電力からもらった賠償金があったんじゃ?」
永倉の父親は笑って言った。
「ま、おたくの商売は自動車ディーラーだから知らねえか。そんな金一体何年前の話だよ。とっくに家の再建とか津波で流された車や農機具の買い替えとかで、全部使い果たしちまってるよ、みんな。今はどこでも借金抱えてやっと商売の再開を軌道に乗せてるとこだ」
永倉の父親は船の外壁を撫でながら言った。
「この船もいいかげん古くなって買い替えなきゃいけねえ時期なんだが、魚が売れねえんじゃどうなる事やら」
永倉と芹沢はそれから町の方へ歩いた。ふさぎこんでいる永倉の様子を横目に見ながら芹沢が言った。
「ね、永倉。久々にあそこ行ってみない?」
「え? どこだよ」
「あたしたちの秘密基地。小学生の頃の。少しは気がまぎれるかもよ」
「ああ、あそこか。そうだな、ちと気分転換すっか」
「じゃ、あたしこの魚を家に置いて来るから、午後1時に郵便局の前で待ち合わせでどう? 自転車で行けば夕方までには帰れるだろ」
「よっしゃ。俺たちの地元防衛軍の秘密基地、今はどうなってるか見に行くか」
そして昼下がり、永倉と芹沢は通学用の自転車に乗って、どんよりと曇った空の下、町のはずれの人気のない辺りに向かってペダルをこいでいた。
「ひええ、寒いな」
Tシャツの上に厚手ではあるがウンドブレーカーを着ただけの永倉が、風が体に当たる度に身をすくませながら言った。
ダウンジャケットを着こんでマフラーも巻き、耳当て付きのニット帽をかぶり、さらに律儀にプラスチックのヘルメットまで付けた芹沢が笑いながら言う。
「そりゃ、まだ3月になったばかりなんだから、そんな格好じゃ寒いに決まってるだろ。あんた昔から用意が悪いんだよね、変わってないなあ」
小1時間ほど自転車を走らせて、二人は雑草が見渡す限り生い茂った場所に着いた。遠くに金網のフェンスが長く連なり、目を凝らせば草むらの中に、かつて住宅の土台だったらしいコンクリートの構造物が見えた。
「あ、永倉、あれじゃないかな?」
芹沢が近くの材木らしき塊を指差して言った。
「ああ、確かにあの辺だったかな。行ってみようぜ」
そう答えた永倉は自転車のスタンドを立てて、歩いて草の生い茂る地面を歩いて行く。芹沢も後に続いた。
朽ちたベニヤ板とペシャンコに潰れたトタン板がそこだけこんもりと盛り上がるように10センチほどの高さに積み重なっていた。
「あーあ、こりゃ跡形もねえな」
永倉が板切れを摘まみ上げて言った。芹沢もため息をつきながらつぶやいた。
「小4の頃までだったかな、ここで秘密基地ごっこしてたの」
「そうだな。双葉郡地元防衛軍なんて名前つけてな。今考えっと黒歴史だな、お互いに」
「あたしはいい思い出だと思うけど」
「はあ? あまえは自分の事、隊長だの司令官だのって勝手に名乗って好き勝手やってたからだろ? 女の癖に」
「ああ、男女差別、女性蔑視。女が隊長でも司令官でもいいじゃん。最近のアニメとか見てりゃ普通にいるだろ」
「へいへい、あんたが大将ってね。それにしても」
永倉は遠くに見える長い金網のフェンスを眺めて言った。
「まだ帰還困難区域のままなのか、あっちの方は」
芹沢もさびしそうな声でつぶやいた。
「だねえ。あそこがあたしたちの遊び場だったのにねえ」
永倉と芹沢が海岸近くの市街に戻ると、海沿いの道路あたりがやけに騒がしかった。
気になって自転車を漕いで近づいて見ると、十数台の乗用車が路肩に駐車していて、その周りに大勢の若い男女が集まっていた。
彼ら彼女らは、ある者は無造作にタバコを吹かし足元には放り捨てられた吸い殻が散乱、ある者はチューハイや清涼飲料水の缶をラッパ飲みしており、やはり足元には踏みつぶされた空き缶が転がっていた。
すぐ近くに永倉と芹沢がよく利用している大衆食堂があった。客は一人もいなかったので、二人は顔見知りの女性店主に声をかけた。
「おばちゃん、あそこに集まってる人たち何? なんかイベントでもあったっけ?」
永倉がそう言うと、店の隅の椅子に力なく腰かけていた初老の店主はうんざりした口調で答えた。
「怪獣見物だよ。例の怪獣、あの辺からだとよく見えるらしいんだ」
芹沢が眉をひそめて言った。
「ナンバープレート見たけど、全部県外からの車だよ。それも東京とか神奈川とか、そんな遠くからわざわざ来るなんて物好きだよね」
そう話していると、突然道路沿いに集まっている連中が大声を上げ始めた。二人が海沿いに走って見ると、沖合にクビナガクジラが長い首をもたげているところだった。
「グルオロロ」
そう聞こえる雷鳴のように低い咆哮が辺りに響き、クビナガクジラは水中に円筒形に張り巡らされた網の内側に頭部を突っ込んで、中で養殖されている魚をむさぼった。
「ちきしょう、やっと軌道に乗りそうな生け簀なのに」
悔しそうに永倉が言い、芹沢が訊いた。
「ねえ、あれ何の生け簀?」
「ホシガレイだ。物によっちゃヒラメより高く売れるんで、本格的に養殖始めたばかりだってのに、食い荒らしやがって」
「さすが漁師さんの息子。よく知ってるね」
「俺は高校卒業したら親父の漁船継いで漁師になるんだ。だから他人事じゃないんだよな」
道路沿いに駐車して見物していた連中はそんな永倉の思いなど気づきもせず、しきりと歓声を上げた。
「ひゃっほう! 怪獣のお食事じゃん」
「やっぱ放射能まみれの魚が好物なんかな?」
「ヒュウ、すげえ迫力」
「こりゃ怪獣映画より面白いぜ」
それから10分ほど生け簀の中に頭を突っ込んで中の魚を食い荒らしたクビナガクジラは、赤く染まった海面から潮を吹き出し、ゆっくりと沖の方へ泳いで行った。
その姿が見えなくなると見物していた若い連中が食堂の方へぞろぞろ歩いて来た。そのほとんどがコンビニのビニール袋を手に提げていた。
平日の夜は居酒屋としても営業している食堂なので、入り口が広く、路面に出すためのプラスチック製の椅子が重ねて置いてある。
その見物人たちは、店主に断りもなく勝手に椅子を店内から引っ張り出して店の前の道端に並べ、その上にコンビニの袋から取り出した缶飲料や酒のつまみを並べて飲み食いを始めた。
店主の初老の女性が遠慮がちに声をかけた。
「あの、うちは今営業してますよ。お酒も出せるから中に入ったら?」
顔中にピアスをジャラジャラと付けた若い男が言った。
「要らねえすよ、俺たち飲み物も食い物も持参してるんで」
横で見ていた永倉が、もう我慢できない、という表情で男に詰め寄った。
「客じゃないなら勝手に店の椅子使ってんじゃねえよ。飲み食いしたけりゃ自分の車の中ででもやれよ」
若い男はしゃがんでいた体勢から立ち上がって永倉の前に立ちはだかった。
「何だ? ガキが。因縁付けようってのか?」
永倉も言い返す。
「非常識な真似はやめろって言ってるだけだ。いい年して恥ってもんを知らねえのかよ?」
店主の女性が永倉の肩に手を置いて止めようとする。
「まあまあ、ケンカ腰にならないで。じゃあ、あんたがた、これを」
店主は透明なラップでパックされた魚介類の干物の詰め合わせを男たちに差し出しながら言った。
「持っておいきなさいよ。お代は要らないから。東京でも売ってるから一度買ってみたら……」
店主が言い終わらない内に、男は片手でそのパックを払いのけた。パックは数メートル弾き飛ばされて、ぬかるんだ地面に転がって泥まみれになった。
「汚ねえ物押し付けんじゃねえよ。放射能まみれの魚なんか食えるわけねえだろ。この辺りの食い物屋でメシ食う馬鹿がいるわけねえだろ」
一緒にいた若い男女十人ほどが一斉に笑い声を上げた。永倉が激怒した顔でさらに一歩男に近づいた。
「このガキ、なんだその面は? やるってのか?」
その時、芹沢がスマホの通話ボタンをクリックし、スピーカーモードにして大声で会話を始めた。
「はい、一丁目交番です。どうかしましたか」
ギョッとする男たちを横目に、芹沢は平然とした口調で話を続ける。
「駐車違反の車がいっぱい集まってるんですよ。海岸通りの道端。食堂のすぐ側で。そうそう、そこです。なんか店の人も迷惑してるみたいなんで来て注意してくれません? そこは駐車禁止ですよって」
芹沢のスマホから警官の声が響いた。
「ああ、またですか、最近多いんだよね。分かりました。すぐ行きますから」
そのやり取りを聞いていた見物人たちは青ざめた表情になって、飲みかけの缶を放り投げて自分の車の方へ向かって駆けだして行った。
店の前に放り出された缶やツマミの袋を見ながら永倉が彼らの背に向けて怒鳴った。
「おい、散らかしたまま行くんじゃねえよ」
その声には耳を貸さず、見物人たちはそのまま走り去って行った。やがて車のエンジンをかける音が連続して聞こえ、車が次々と走り出した。
店の前に20個ほど投げ捨てられた缶や袋を手で拾い上げる店主を、永倉と芹沢が手伝った。ゴミ袋に入れながら芹沢が店主に訊いた。
「こういうのってよくあるの? おばちゃん」
店主は悲しそうに首を縦に振って言った。
「あちこちでしょっちゅうだよ。あの手の連中は押しかけて来て、騒ぐだけ騒いでゴミ散らかして、さっさと帰っちまうだけでね。せめて地元で買い物のひとつもしてくれりゃ、あたしらもわずかでも潤うんだけどねえ」
ゴミを袋に入れ終わった時、店主は道端にしゃがみ込んで耐えきれず嗚咽を漏らし始めた。
「おばちゃん、だいじょうぶかい?」
永倉がそう声をかけると、店主は堰を切ったように涙声で誰にともなく言葉を発した。
「一体いつまでこんな事が続くんだよ? 震災で何もかも失くして、必死でここまで再建して、やっと将来の望みが見えて来たと思ったら、またぞろ汚染水の放出だの、放射能がどうのこうのって。あたしらが、福島の人間が一体何をしたって言うんだよ。いつまでこんな目に遭わなきゃいけないんだよ、うああ」
「おばちゃん……」
店主の背中をさすって何か言おうとした芹沢だったが、後に続ける言葉を見つけられなかった。
何とか平静を取り戻した店主に別れを告げ、自転車を停めた場所に戻った時、永倉が急に言い出した。
「俺、明日自衛隊の対策本部に行って来る」
「そんな物あんの?」
「漁港の近くだよ。もうこれ以上黙っちゃいられない。街の人たちも我慢の限界だ。早くあの怪獣を何とかしてくれるよう、直接頼みに行く」
「そうか、分かった。あたしも一緒に行くよ」
その自衛隊の対策本部になっている大型業務用天幕が並んだ場所の一角で、渡研のメンバーが長机を挟んで作戦司令である自衛官から説明を聞き終わったところだった。
渡がいつもの癖であごひげをしごき上げながらつぶやいた。
「では、どうしても海中の巨大生物に直接の攻撃はできないとおっしゃるんですか?」
濃紺の生地に白いまだら模様を散らして迷彩仕様にしてある、海上自衛隊用の防寒ジャケットを着た作戦司令は硬い表情で答えた。
「爆薬を使う作戦行動は一切行えません。第一原発の沖合には処理水の放出口があり、それに被害を及ぼす危険は絶対に避けよ、との命令です」
遠山が疑問を呈した。
「しかし、今の時代の魚雷は自動で移動する目標を追っかけていけるんじゃないですか?」
作戦司令は少し顔をしかめて言った。
「正直言って不可能ではありません。現実的な危険というより、風評の方を心配しているのでしょうな、永田町の先生方は」
渡がため息交じりに言った。
「やはり内閣、国会議員の方から、そういう指示が出ているわけですか」
作戦司令はその質問には直接答えず、言葉を続けた。
「我々は防衛大臣から命令を受ければ従わざるを得ません。海底にネットを設置する作業は進行中です。潜水艦隊から派遣される潜水艦が到着し次第、作戦を開始します」
松田がおそるおそるという感じで手を上げて質問したい意思を示すと、作戦司令はうなずいた。松田が言う。
「自分は陸自の人間なので、作戦の妥当性は判断できません。ただ、地元の人たちに作戦の内容を尋ねられたら、話してよいものでしょうか? 政府・自衛隊は本気であの怪獣に対処する気があるのか? その点に疑心暗鬼になっている住民が多数おりまして」
作戦司令は思いがけない答えを返した。
「作戦の概要は教えてかまわん。むしろ爆発性の武器兵器は一切使用しない点を積極的に話して回ってもらいたい」
「本当によろしいんですか?」
「むしろ自衛官でもある君に正確な情報を拡散してもらいたい。作戦開始に地元住民が反対の声を上げるのが一番危惧すべき事態だからな」
渡たちは対策本部の天幕から出て、海岸の側に行った。海側に目を凝らすと、海岸線から1キロメーターほど離れた水面に小型のボートが何隻か浮いていて太く長い鎖のような物を広げて水中に沈めているのが見えた。
ボートの近くには水面上に1メートルほど棒状の部品が突き出たブイが4個、百メートル四方の四角を描いて設置されていた。ブイの突き出た突端には小さな吹き流しが取り付けられていて風になびいていた。
筒井が双眼鏡でその辺りを見て、首を傾げてつぶやいた。
「あそこが罠の設置場所かあ。でも、あんな作戦ほんとに上手く行くんでしょうかね?」
渡が腕組みをしてその海面を見つめながら応えた。
「確かに苦肉の策という印象だが、魚雷やミサイルが一切使えないとなると、それに賭けるしかないだろうな」
渡たちの後ろから二つの人影が走って近づいて来た。永倉と芹沢だった。芹沢が息を弾ませながら宮下に話しかけた。
「あの時の刑事さんですよね? あたしたちの事、覚えてますか?」
宮下は即座に答えた。
「ああ、不良っぽい人たちに絡まれてた子ね。また何かあった?」
芹沢が頭を横に振って言った。
「いえ、それは大丈夫なんですけど。皆さんは対策本部とかの人なんですか?」
渡がそれに答える。
「私たちは政府から派遣された科学的調査のためのチームだ。まあ、一応関係者の内という事にはなるかな」
永倉が身を乗り出して訊いた。
「だったら何か知りませんか? 自衛隊はどうして何もしようとしないんです? 早くあの怪物を何とかしてくれないと、町の人たちはもう限界なんですよ」
渡が松田に目配せする。松田は二人の前に来て、言葉を慎重に選びながら言った。
「何もしないわけじゃないよ。ほら、あそこの沖にブイが浮かんでいるのが見えるだろう? あそこに例の怪獣を誘い込んで潜水艦で海底に押し付けて窒息死させる。そういう作戦が、2,3日中には始まる」
芹沢が当惑した表情で言った。
「あれって海の生き物なんでしょ? 窒息死させるなんて、出来るんですか?」
これには遠山が答えた。
「海生生物と言っても、あれはクジラの仲間なんだ。肺呼吸をする哺乳類なんだよ。長時間水中に押し込められて浮上できなければ、呼吸が出来なくて死ぬはずなんだ」
永倉がまだ納得出来ないという口調で言った。
「どうしてそんな回りくどい方法なんですか? 自衛隊ならあんな怪物一発で仕留められるような兵器あるでしょう?」
松田が言った。
「この辺は遠浅の海だから、爆発物は極力使わないようにという、政府の方針らしいんだよ。漁業に悪影響が出たら困るし、なにより原発から海底に伸びている処理水のパイプを傷つけたら大変だからね」
永倉がどんと砂浜の地面を踏みつけて怒りを込めた口調で言った。
「まだそんな事言ってんですか、政府のお偉いさんは? 俺は漁師のせがれなんですけど、親父の商売、完全に行き詰っちゃってるんです。手遅れになってからじゃ遅いのに」
芹沢も言う。
「漁業だけじゃないです。面白半分に怪獣見物にやって来る都会の連中は、地元に迷惑かけまくってるんですよ。この町の住民にとっては死活問題なんです」
渡が二人をなだめようと、落ち着いた口調で言った。
「気持ちは分かるが、一つ対処を間違えればいろいろと厄介な事になる。君たちはまだ高校生だから、理解できんのだろうが。とにかく、この件は私たち大人に任せなさい」
二人をその場に残して去って行く渡たちの後ろ姿を見つめながら、永倉と芹沢は沖合のブイを見つめていた。
その夜、漁港の2キロメートルの沖合に浮上航行する潜水艦が姿を見せた。連絡を受けて海岸線までその姿を確認しに来た作戦司令は思わず苦笑いを顔に浮かべた。
「あれは『ひきしお』じゃないか?」
同行している海上自衛官が双眼鏡で潜水艦を見て答えた。
「はい、その様です。来年退役予定の、おやしお型の一番古い艦ですね」
「まったく、統合作戦司令部のお偉いさんたちも、成功する見込みが薄いと思って一番の老兵を寄こしたというわけか」
翌朝、自衛隊から割り当てられていたホテルの部屋で目覚めた渡が1階のロビーに下りて来ると、外で住民の怒鳴り声があちこちから聞こえて来た。
何が起きているのかいぶかしく思った渡が外の通りに出ると、ちょうど数人の地元住民が二手に分かれて言い合いをしているところだった。
漁師らしき服装の初老の男性が、向かい合っている壮年の別の男性に向かった怒鳴った。
「軽々しい事言うんじゃねえよ。ここまで魚の出荷先を確保してきた俺たちの苦労を何だと思ってやがるんだ?」
相手もむっとした表情で言い返す。
「だからと言って、あの怪獣をこのままにしておいたら、事態は悪くなる一方でしょうが。多少のリスクは仕方ないと考えるべきだ」
初老の女性が数歩前に出て言った。
「しょせんあの時にさっさとこの町を見捨てて逃げ出した連中だからだよ。故郷の街を真面目に考えてるなら、そんなセリフは出ないはずじゃないの?」
30代くらいの女性が怒気を露わにして反論した。
「震災と原発事故の時に、うちの子はまだ5歳だったんです。万一を考えて自主避難した事の何が悪いって言うの?」
そこへ白髪頭の高齢の男性が走り寄って来た。周りの人たちの反応から、この辺の町内会長のような立場の人物らしかった。彼は言い争っている人たちに向かって両手を上下に振りながら言った。
「まあまあ、よさないか、みんな。地元の人間同士でまで対立している場合じゃないだろう」
何が起きているのか見当がつかずに、聞き耳を立てている渡の横に筒井が小走りでやって来た。
「渡先生、お部屋に戻ってください。全員もう集まってます」
「筒井君、どうかしたのか?」
「ええ、またちょっとややこしい事に。説明は中で」
渡はうなずいて筒井と一緒にホテルの中へ戻って行った。
ロビーに集まっていた渡研の面々と合流して渡の部屋に入った。松田が深刻な表情で告げた。
「地元の人たちの間で、自衛隊の作戦への賛成、反対が真っ二つに分かれて騒ぎになっているようなんです。対策本部も作戦決行をためらっているようで」
渡が眉をしかめながら訊いた。
「どうしてそんなに話が広まっているんだ? そりゃ地元住民に説明しろとは言われたが、昨日の今日だぞ」
「きっかけはこれみたいで」
筒井が自分のスマホを渡の目の前に差し出した。例の動画投稿サイトが画面に映っていた。それを見た渡は掌をソファのひじ掛けに思わず叩きつけた。
「またこいつか?」
筒井がその動画を再生すると、あの時の小太りの男が夜の暗い画面に現れ、動画のタイトルが真っ赤な文字で映し出された。
「放射能汚染水拡散確定! 自衛隊が日本を滅ぼす!」
ビデオカメラが望遠で沖合に浮上停泊している潜水艦を映し出した。配信者の男が煽り口調でまくし立てた。
「みなさん、見えますか? 潜水艦です、自衛隊の。これでもう確定ですよね。政府は証拠隠滅というんですか、そのためにあの怪獣を潜水艦で抹殺する事に決めたんですね。潜水艦の武器って何だか知ってます?」
画面が切り替わり、どこかのネットサイトから無断借用したらしいイラストが映し出された。画面が2分割されていて、右に魚雷、左に巨大なミサイルの絵が映った。配信者の男が声をかぶせた。
「魚雷とミサイルなんですね。もちろん爆発するんですよ、それもすごい威力で」
画面を見ていた松田が呆れかえった口調でつぶやいた。
「このイラストは、北朝鮮の長距離弾道ミサイルじゃないか。こんな物を自衛隊が持ってるわけはないし、そもそも海自の潜水艦の魚雷発射管に収まるはずがないのに。でまかせにも程がある」
画面の中の男はさらに見ている者を煽った。
「いやね、怪獣だけを退治してくれるんならいいですよ。けどね、こんなすごい兵器がこの辺の海底近くで爆発したらどうなると思います? 放射能汚染水を海に流しているパイプとか壊れますよね。もし福島第一原発に間違って当たったら、中の放射性物質がまき散らされます」
無駄だと分かっていても、渡は画面に向かって怒鳴らずにはいられなかった。
「だから爆発物を一切使わない作戦を自衛隊が立てているんだろうが」
配信者の男の声が続く。
「そうなったら今度こそ福島だけじゃない、東北全体、いえ最悪の場合東日本全体が放射能で汚染されて人が住めなくなりますよねえ。怖いですねえ。この動画を見てるみなさん、政府に抗議しましょう。他人事じゃないですよ。みなさん自身の命がかかっている話ですよ」
渡は動画を止めさせてため息をついた。
「さっき地元の人たちが言い争いをしていたのは、こういうわけだったのか」
宮下が言った。
「作戦に賛成の人たちの中にも、怪獣の死骸で海水が汚染される事を危惧している声があるようです」
突然遠山が声を上げた。
「おっと、忘れるところだった」
遠山はタブレットを取り上げて報告書のデータを画面に広げた。
「さっき頼んでおいた分析結果が届いたところなんです。先日の新宿歌舞伎町に出現した巨大生物の死骸の分析です」
渡が身を乗り出して遠山に訊いた。
「それで結論は?」
遠山は顔をしかめて説明を始めた。
「結論だけ言うと、正体不明です。あの怪獣の体を構成していた物質は結晶化していて、細かく砕け散っていました。ただ、いくつか分かった事はあります」
遠山はタブレットの画面に視線を落として言葉を続けた。
「電子顕微鏡で内部構造を調べたところ、動物の細胞とよく似た構造が見られたそうです。細胞の集合体である事は確かなようですね。ただ、細胞だとしても異様な点があるそうで」
渡が先を急かす。
「何がどう違うんだね?」
「個々の細胞の中に細胞核らしい構造はあるんですが、その細胞核のサイズや形状がてんでばらばらなんです。あと、未分化の細胞の量が異常に多い。つまり、皮膚とか筋肉とか、どこの部分の細胞なのかが分からない細胞が大量に混じっているという事ですね。似た様な細胞を強いて挙げるとすれば……」
そこで遠山は口ごもった。渡が先をうながす。
「どうした遠山君、何と書いてある?」
「生物学者としては信じがたいんですが。似た物があるとすれば、癌細胞だそうです」
渡りも沈黙してしまった。しばしの静寂の後、宮下が独り言のようにつぶやいた。
「あの車椅子の女性が言っていたのは、こういう事だったのかしら?」
渡が怪訝な表情で訊き返した。
「どういう意味だね、宮下君?」
「あの超能力者グループのリーダー格らしい女性が言ってましたよね。人類は滅びるべきだ。そしてその手段として、人間同士を争わせればいいと。実際ここの地元の人たちと他の地域の人たちは、原発から放出される処理水を巡っていがみ合っています」
渡はいつもの癖であごひげをしごきながら言った。
「確かに。それどころか、地元の人たち同士の間でもいがみ合いが起きている。こうして対立と分断を引き起こすのが、あの女たちの目的だというなら、残念ながら今のところ成功しているようだな」
松田が遠山に訊いた。
「それで遠山先生、死骸による周辺の汚染の危険性はどうなんですか?」
遠山はタブレットに目を落としたまま答える。
「新宿の件に関しては汚染は起きていないそうだ。結晶化して崩れたあの怪鳥のいた周辺では、生物学的にも物理学的も、人体に影響があるような痕跡は見つからなかったという報告だよ」
「では、自衛隊が今回の怪獣を殺処分しても海が汚染される心配はないという事でしょうか?」
「断言は出来ないが、その可能性は極めて低いだろうね。結晶化した後も、有機物の塊には違いない。海水中に拡散しても自然と微生物によって分解されるだろう」
その時、テーブルの上に置かれていた渡のスマホが鳴った。渡がビデオ通話のアプリを開くと、長い黒髪の、目の周りを派手な仮面で隠した10歳ぐらいの少女の顔が見えた。ノーヴェル・ルネッサンスのヒミコだった。
「はーい、渡先生。元気?」
渡は少し顔をしかめて答えた。
「君か。で、何の要件だね? 私たちは今忙しいんだが」
「そっちの地元が騒ぎになってんでしょ? その元凶の動画配信者の身元を特定できたから教えてあげようと思ってね。刑事のおねえさんに替わってくれる?」
渡がスマホを差し出すと、宮下はあからさまに迷惑そうな表情でビデオ通話に出た。
ヒミコが例の動画配信者の男の身元の詳細を告げた。聞き終わった宮下はヒミコに向かってきつい口調で訊いた。
「で、どうやってそれを調べ上げたのかしら?」
「それは企業秘密」
ヒミコは飄々とした口調で答える。宮下はきつい口調を保ったまま言った。
「非合法な手段で手に入れた情報では、日本の警察は動けないのよ。それに内容が悪質ではあるけど、あの男の行動が法律違反になるかどうかは、まだ微妙な段階だしね」
ヒミコは唇を尖らせて言った。
「何だ、せっかく教えてあげたのに。ほんとこの国の大人はダメね」
「日本は法治国家なの!」
宮下が声を荒げてそう言うと、ビデオ通話はぷつりと切れた。宮下はスマホを渡に返しながら言った。
「渡先生、対策本部へ急ぎましょう。こんな下らない事で作戦中止になったりしたら、事態は悪化する一方です」
渡たちがバンに乗って海岸沿いの自衛隊の大型テントが並ぶ作戦司令部にたどり着くと、敷地の直前で大勢の人々が周りを取り囲んでいた。
仕方なくその手前で停車すると、迷彩服の自衛官が一人車に駆け寄って来て運転席の窓ガラスをコツコツと叩いた。
運転していた松田がウィンドーを下げて顔を出す。自衛官は車の中の顔ぶれを確認しながら告げた。
「この先へは今は通行できません。どういうご用件ですか?」
渡が真ん中の座席の窓を下ろし、対策本部から渡されていたID証を見せながら言った。
「渡研究所の者です。何が起きているんです?」
「これは失礼しました」
自衛官はとっさに敬礼して、対策本部を取り囲んで大声で何かをわめき散らしている群衆に視線を向けて言った。
「今回の作戦の中止を要求する群衆が集まっているんですよ。申し訳ありませんが、車はこの辺に置いて徒歩でお願いします。今警護の要員を呼びますので」
バンを近くの空き地に駐車し、渡たちが降りると屈強な自衛官4人が迎えに来た。彼らに四方を囲まれて渡たちは群衆を押しのけながら対策本部のテントにたどり着いた。
ひと際高さがある大きなテントの中に入ると、折り畳み式の長机がいくつも並び、パソコンや通信機が所せましと置いてあった。
迷彩服姿の数十人の自衛官が机に並んで椅子に座り、せわしなくそれらの機器を操作していた。
作戦司令の自衛官が渡たちの前に来て告げた。
「作戦は一時中止になりました。防衛省の決定です」
渡は目を剥いて言った。
「ここまで来てやめると言うんですか」
「いえ、あくまで一時的な中止です。事態が鎮静化すれば再開するとの事なんですが」
「外の群衆の事ですか? あの程度の人数、自衛隊なら強制排除は簡単でしょう?」
「いえ、それだけではありませんで。これを見てください」
作戦司令が自分のノートパソコンを開いて、中継映像を見せた。渡はそれを見て唸るような声を上げた。
「ここにもデモ隊が……首相官邸ですね、これは」
作戦司令は冷静な表情を変えずに行った。
「はい、国会議事堂の周辺にも反対デモの参加者が集まり始めているとの情報もあります」
渡は歯ぎしりをしてつぶやいた。
「なるほど、政府がためらうわけだ。ですが、事態の鎮静化というのが、このいくつものデモ隊がおとなしくなる事を意味するなら、作戦再開が一体いつになるのやら分からないのではありませんか?」
作戦司令は少し顔をしかめて答えた。
「おっしゃる通りです。それに、いずれにしても作戦は今すぐには始められません。誘導部隊を移送している車両がいわき市の辺りで群衆に囲まれて立ち往生している状況でして」
「誘導部隊とは?」
「小型舟艇であの巨大生物をネットの敷設域におびき出すための部隊です。第三水陸機動連隊から1個中隊が派遣されているのですが、反対派の群衆に取り囲まれて身動きが取れないとの事で」
「なんて事だ」
渡は呆然としてつぶやいた。
作戦司令から宿舎で待機するように言われ、渡たちは再び周囲の群衆をかき分けてバンの場所に戻り、乗り込もうとした。
すると二人の人影が駆け寄って来た。永倉と芹沢だった。芹沢が息を弾ませながら渡に訊いた。
「対策本部の科学者の先生でしたよね。自衛隊はどうしてまだ動かないんですか?」
渡は申し訳なさそうに答えた。
「見ての通り騒ぎが大きくなっているんでね。やめるわけじゃない。もう少し時間が必要という事らしい」
永倉が信じられないという表情で言った。
「もう今日の朝にこの辺りの全ての漁港で、漁船の出航禁止の指示が出てるんです。俺の父親は漁師だから仕事に出られない。どうしてさっさと始めないんですか? もう潜水艦も待機してるみたいじゃないですか」
渡が答える。
「あの怪獣をネットの所まで誘導する部隊が移動の途中で足止めをくらっているそうだ。その部隊が到着するまでは作戦は始められない。気持ちは分かるが、今は待つしかないんだ」
翌日の早朝、まだ薄暗いうちに芹沢は起きて音を立てないようにフィッシングウェアの上下に着替え、2階の自分の部屋から父親の書斎に入った。
机の吹き出しをそっと開け、しばらく手探りで中を探し回り、銀色の小さな鍵を取り出した。その鍵で背の高い木製のキャビネットの扉を開けると、その中から父親の狩猟用の散弾銃を取り出し、ありったけの弾丸を取り出して、銃と弾丸を猟銃用のキャリーケースに入れた。
その布製のケースを左肩にストラップで担いで、両親を起こさないように足音を忍ばせて家の外へ出て、自転車にまたがった。
近くの漁港に自転車で到着し、桟橋の付近で手漕ぎのボートがないか物色していると、いきなり背後から声をかけられた。
「おい、芹沢。何してんだ?」
びっくりして振り返ると、漁師用のウェットスーツを着こんだ永倉が真面目腐った表情で腕組みしていた。
「びっくりさせんな、永倉かよ。ま、その、ちょっと釣りでもしようかなと思って、あ、あはは」
永倉はからかうように応える。
「へえ、ずいぶんでっかい釣り竿だな。て、そんなわけねえだろ。おまえ船はどうするつもりなんだよ」
「ええと、この辺の手漕ぎボートでも借りようかなって」
「そんな小さな船で何が出来るんだよ。俺が乗せて行ってやるよ」
そう言って永倉が指差した先には、彼の父親の漁船があった。芹沢がこわばった声で訊く。
「あんた、船の操縦免許持ってたか?」
「まだ。再来月取る予定。ま、船の操縦は時々父ちゃんから習ってきたから、心配ねえよ」
「はあ? 無免許で操縦したら法律違反だろ」
「じゃあ、あまえの、その肩から下げてる物は何だよ? おまえこそ猟銃の所持許可とか持ってないだろ。だいたい使い方分かるのか?」
「見くびるなよ。毎年家族でアメリカ旅行行って、向こうで射撃レンジ行って練習してたからお父さんの散弾銃なら楽勝」
「そうか、すげえな。で、法律違反がどうしたって?」
芹沢は肩から猟銃が入ったケースを下ろしながら言った。
「この格好であたしがそれ言っても説得力が無いか?」
「ねえよ」
二人は引き締めた表情で数秒顔を見合わせ、同時にプッと吹き出した。芹沢が笑いながら言う。
「それにしてもよくあたしがここに来るって分かったな」
永倉も笑いながら応えた。
「小学生の時からの腐れ縁だからな。おまえの考える事ぐらい予想はつくよ。よし、舩の操縦は俺がやる。おまえはその猟銃で怪獣を惹きつけて、あの自衛隊が仕掛けたネットの上に誘い込む。それでいいんだな?」
「そうだ。けど本当に頼んでいいのか? こんな事」
「文字通りの、乗りかかった船だ。おまえは後部甲板に立て」
二人は永倉の父親の漁船に走って行き、永倉が桟橋の杭に結んであったロープを手早く外し、そろって甲板上に乗り込んだ。
永倉が操縦席の後ろにあるパイプ状の構造物に太いロープを結んで芹沢の横にやって来た。
芹沢は既にケースから銃と弾丸を取り出し、カートリッジ状の散弾を詰め終わったところだった。銃身の下に弾丸を込める細長い筒があり、それを手前に引くと次弾が装填されるポンプ式の散弾銃だ。
永倉が芹沢の腰にロープを回してきつく結び目を作った。そして小さなナイフを渡しながら言った。
「命綱だ。万が一の時はそのナイフでロープを切れ。用意はいいか?」
「ああ、一生恩に着るよ」
永倉は操縦席にスペースに飛び込んで叫んだ。
「よっしゃ! 双葉郡地元防衛軍、10年ぶりの出動だ」
それから1時間ほど、永倉と芹沢が乗った漁船は漁港の沖合をゆっくりと蛇行して行った。
やがて水面の下に黒い大きな影が現れ、ゆっくりと漁船に近づいて来た。後部甲板で散弾銃を構えて立っていた芹沢の面前に、突然黒っぽい太い筒のような物が水中から真っすぐに姿を現した。
鋭い歯が並んだ、やや尖った口先が開き、その上に並んだ大きな目がぎらりと太陽の光を反射して光った。
芹沢は一瞬ギョッとしたが、すぐに気を取り直し、散弾銃の銃口をまっすぐクビナガクジラの顔に向けて引き金を絞った。
バスンという感じの低い音が轟いた。6個の金属球が銃口から放射状に広がって飛び出し、クビナガクジラの頭の付け根あたりをかすめた。
永倉がエンジンのギアを上げて漁船を疾走させ始めた。クビナガクジラは首を海面下に引っ込め、漁船の後を追って来た。
はるか後方で尾びれが水面を叩き、その度に高い水柱が上がった。もう1度、クビナガクジラが頭を水面上にもたげて芹沢を襲おうとする。
芹沢が銃床を腰骨にあてて、銃身の舌の長いポンプを手前に引くと、銃身の根本に穴が開きそこから空になった弾丸のカートリッジがポンとはじき出されて甲板の上に転がった。
次弾を装填した芹沢は迫って来るクビナガクジラの頭部に向けてさらに1発弾丸を発射した。
クビナガクジラの頭がまた水中に沈む。ポンプを引いて次弾を装填しながら、芹沢は叫んだ。
「あたしたちの町から出て行け、化け物。よそ者が寄ってたかってあたしたちの故郷をオモチャにしやがって。福島をなめるな。福島者(もん)を舐めるな!」
操縦席から永倉が叫んだ。
「船揺れるぞ。何かにしっかりつかまれ」
芹沢が散弾銃を脇に抱えて操縦席の入り口の手すりを左手でつかんだ。永倉はさらに船のスピードを上げた。
その二人の様子は漁船の上空に飛んで来た、プロペラが4個付いている小型ドローンによって捉えられていた。
クビナガクジラが漁船を追って海中を進んでいる姿もドローンに搭載されたビデオカメラによって鮮明に撮影された。そしてその動画映像はリアルタイムで海岸の自衛隊の対策本部のモニターに中継されていた。
既に対策本部のテントで待機していた渡研の面々は、周りの自衛官たちと一緒に驚きの声を上げた。宮下がつぶやいた。
「あの子たち、なんて無茶な事を……」
渡は漁船の様子が映っているモニターを見つめながら苦々しく言った。
「私たちにも責任の一端はあるな。大人に任せろと言った割には一向に事態は進展しない。あの若者たちを、あそこまで思い詰めさせてしまったか」
作戦司令がドローンからの映像を監視している自衛官に向かって訊いた。
「予想進路はどうか?」
自衛官がすかさず答えた。
「まっすぐネットの設置区域に向かっています。このままなら、あと20分ほどで到達するかと」
渡は座っている椅子から身を乗り出して作戦司令に言った。
「それならチャンスだ。司令、作戦を発動してください。せっかく彼らが怪獣を誘導してくれているんだ」
通信機の前に座っている自衛官が大声で反論した。
「ダメです。政府からは作戦開始の許可は下りていません。命令違反になる」
「責任なら」
責任なら全て自分が取る。そう言おうとして椅子から立ち上がろうとした渡の肩を、作戦司令が片手で抑え込んだ。そして言った。
「全責任は私が取る。作戦を開始せよ。潜水艦の艦長にもそう伝えろ」
周囲の自衛官全員が狼狽した声を上げた。そのうちの一人が青ざめた顔で言った。
「いえ、しかし、司令、それでは……」
指令は全隊員を見回しながら、地面に響く様な重々しい声で言った。
「繰り返す。全ての責任は自分が取る。後で査問を受けたら、俺から脅されて従わざるを得なかったとでも、口裏を合わせておけ」
それでも狼狽した様子で動こうとしない隊員たちに向かって作戦司令はモニターの映像を指差しながら怒鳴った。
「あれが見えんのか? やっている事自体は褒められた物ではないが、今あそこで怪獣と戦っている二人は、我が国の国民である!」
司令は数歩、隊員たちの方に歩み寄ってさらに大声で言った。
「今ここで、あの若き国民を救わずして、一体何のための自衛隊であるか?」
その場の自衛官全員がシンと静まり返った。数秒の間を置いて、比較的若手に見える自衛官が口を開いた。
「緊急避難が成立する」
周囲の自衛官たちがいぶかし気な声を出す。その若手自衛官は大声で言葉を続けた。
「今ここで我々が行動を開始しなかったら、あの漁船に乗っている若者二人は怪獣にやられて死ぬかもしれない。刑法の『正当防衛もしくは緊急避難』の、緊急避難に該当する。そうですね、司令?」
作戦司令の顔にパッと笑みが浮かんだ。
「そうだ、これは緊急避難が成立する事態だ。総員、作戦開始。通信士、ひきしお艦長に緊急連絡」
他の自衛官全員が吹っ切れたようだった。隊員たちは目にも止まらぬ早さでそれぞれの持ち場につき、通信士が潜水艦に呼び掛ける声が響いた。
「こちら対策本部、ひきしお艦長に達す。聞こえていますか?」
スピーカーからしわがれた声がした。
「こちらひきしお艦長。感度良好」
「作戦司令よりの通達。ただ今より状況を開始する。貴艦はただちにネット設置区域に急行されたし。送れ」
「ひきしお艦長、了解した」
数人の隊員が大きな道具箱を持ってテントの外へ走り去って行った。渡が椅子から立ち上がり、作戦司令の横に立った。何と言えばいいのか分からず渡が言葉を探していると、作戦司令がニヤリと笑って渡に言った。
「一生に一度でいいから言ってみたかったんですよ」
「は?」
「全責任は自分が取る。あのセリフをね。その一番おいしい所を……」
作戦司令はポンと渡の肩を叩いて言葉を続けた。
「横取りしようとしないでくださいよ、渡教授」
渡は苦笑して、背を向けた作戦司令の背中をポンと叩いた。
「後は頼みましたよ」
漁船を操縦している永倉は、遠目に自衛隊が設置した数個のブイが浮いている海面を見つけた。
エンジンのギアを全速に上げ、操舵ハンドルを握り締めて後甲板の芹沢に向かって叫ぶ。
「芹沢、何かにつかまれ。船揺らすぞ!」
芹沢は散弾銃を脇に挟んで操縦席の覆いの出っ張りを両手でがっしりと掴んだ。
「いいぞ、永倉。すっ飛ばせ!」
漁船の舳先が白い波を跳ね上げて、スピードが増した。一瞬後方に遠ざかった水面の下のクビナガクジラの影が、これもスピードを増して漁船を追って来る。
その様子ははるか上空にいる自衛隊の対策本部から飛ばされたマルチコプター型ドローンのカメラが捉えており、対策本部のスクリーン上に映し出されていた。
そのライブ中継されている映像を見つめながら、作戦司令が部下に次々と指示を出した。
「海底のネットを起動させろ」
「水中音波発出。電磁石から応答信号を確認」
あらかじめ自衛隊が岸から数メートル先の水中に設置していたポールに付いている小型アンテナから、水中音波信号が海底の一か所に向かって発せられていた。
対策本部のテントの中で司令官が無線機で指示を出した。
「こちら本部。潜水艦ひきしおに達す。ただちに潜航、状況を開始されたし」
「ひきしお艦長より、了解。急速潜航」
二人の漁船からより沖合で浮上していた潜水艦が海中に姿を沈め始めた。
永倉と芹沢が乗った小型漁船は、ブイで長方形に区切られた海面に向かって突進した。
芹沢は残りの散弾銃の弾丸カートリッジを銃身の下部のチューブ状の弾倉に押し込んだ。
ちょうどその時、芹沢がすぐには気づかない方向で海面からクビナガクジラの頭が音を立てずに上がって来た。
そのまま長い首をもたげて牙のある口を大きく開き、横から芹沢に食いつこうとした。これには操縦席にいた永倉の方が先に気づいた。
永倉が舵を反対方向に大きく切り、芹沢が揺られて甲板に尻もちを突くと同時に、クビナガクジラの顎が甲板の縁にぶつかった。
尻もちを突いた体勢のまま、芹沢は散弾銃をクビナガクジラの顔面に正面から放った。
「キュエー、シャー」
甲高い叫びを残してクビナガクジラの頭が水中に引っ込んだ。永倉が前方を見て叫んだ。
「よし、もうちょっとで着くぞ。あのブイの真ん中にやつが入りさえすれば」
漁船が4個のブイで囲まれたゾーンを全速力で突っ切って行く。水中のクビナガクジラの影がやや遅れて後を追う。
漁船がブイで囲まれた海域を出ようとした瞬間、海底に広げられていた30センチメートル四方の網目を持つ巨大な四角いネットの四隅に付いた浮きが圧縮ガスの放出で脹らみ、浮き上がった。
さらにネットから2メートルほどの長さで分岐している太いチェーンの先では、巨大な分銅の様な形の電磁石が同じく浮きボールで持ち上げられ、クビナガクジラの体を左右から回り込むように巻き付き、最後に磁力でガッチリと結合した。
異変に気付いたクビナガクジラは体を反転させて逃れようともがいたが、巨大な金属のネットは前半身に既にしっかりと絡みついていた。
暴れるクビナガクジラの尾が海面近くに突き上げられ、永倉と芹沢が乗る漁船の船底を激しく叩き上げた。
漁船は前のめりに船体が半分宙に浮き、そこから横転した。永倉と芹沢の体は海中に投げ出された。
水中で絡んだネットを外そうとクビナガクジラがのたうつ。まだその体に絡んでいないネットの後方の電磁石が浮き上がり、クビナガクジラの腹から尾びれにかけての部分に左右から巻き付いた。
前後2対の電磁石ががっちり結合し、巨大な金属のネットはすっぽりとクビナガクジラの体を覆った。
さらに2対の電磁石の間からさらに長い10メートルほどのチェーンが、浮きボールに支えられて浮き上がった。
潜水艦の発令所でソナー係が艦長に向かって報告した。
「ネット側、5番、6番の電磁石ユニットの起動を確認」
定年間近の白髪の目立つ艦長が低い声で命じた。
「魚雷発射管、1番2番開け。電磁石付きチェーン展開」
潜水艦の前部に並んだ一番上の発射管の蓋が2門開き、分銅型の装置が2個、圧縮空気で押し出された。発令所で艦長が声を張り上げた。
「本艦側電磁石、通電。ネット側5番6番に、通電開始の信号を送れ」
潜水艦はクビナガクジラの体の上方に覆いかぶさるように微速前進し、その魚雷発射管から長いチェーンでつながっている分銅型の装置が水中を漂い、ネット側から伸びているチェーンの同形の電磁石とそれぞれ結合した。
「本艦側1番とネット側5番、本艦側2番とネット側6番、電磁石結合」
潜水艦の発令所の中で声が響いた。艦長が大声で命じる。
「ダウントリム最大。目標を海底に押し付けるぞ」
クビナガクジラの倍の全長を持つ潜水艦は、敵の体に上からのしかかり、深度を下げていく。
クビナガクジラが全身をのたうたせて抵抗し、時折首と尾びれで潜水艦の艦体を殴りつけた。
その度に潜水艦の中の乗員は激しく左右に揺さぶられ、必死で近くにあるパイプなどにしがみ付いた。壁の出っ張りにしがみ付いた艦長がつぶやいた。
「全員衝撃に備え。クビナガクジラだか何だか知らんが、除籍間際の旧式とは言え、こっちは海自が誇る鉄の鯨だ。いいか、決して引き離されるな」
海底近くで潜水艦がクビナガクジラと格闘している時、永倉は海面に木製の浮き輪に捕まって漂いながら、青ざめた顔で辺りを何度も見回していた。
「芹沢! おおい、セ、リ、ザ、ワーーー。まさか命綱が切れなくてそのまま……」
永倉が海中に潜ろうと息を大きく吸い込んだ瞬間、浮き輪の真ん中の穴から芹沢の頭が飛び出して来た。
「プ、プハー! わあ、死ぬかと思った」
芹沢がゼイゼイと音を立てて酸素をむさぼる。永倉は吸い込んだ息を一気に吐き出して言った。
「よ、よかった。無事だったか、芹沢」
「な、なんとかな。それで、あの怪獣はどうなってる? 自衛隊は出動したの?」
「俺もここからじゃ分からねえ」
バリバリバリという音が近づいて来た。二人がその方向に視線を向けると、ヘリコプターが低空で近づいていた。
「あれって自衛隊のヘリ?」
そう言った芹沢に永倉が答える。
「なんかそれっぽいな。じゃあ、自衛隊は動いてくれたのか」
ヘリコプターは二人の真上でホバーリングし、側面のドアが開いて救助用ハーネスを付けた隊員がロープに吊り下げられて海面まで降りて来た。
「一人ずつ吊り上げる。この輪を脇の下に回すんだ」
永倉が宙に浮いている隊員に手を振りながら言った。
「芹沢、おまえから行け」
「いいのか、あたしが先で?」
「レディーファーストだよ。おまえもレディーの内にゃ違いないだろ」
「どういう意味だ、この野郎!」
口調は怒っていたが、芹沢の顔は明るく笑っていた。
「たくもう、こんな時まで女子をディスってんじゃねえよ」
海底での潜水艦とクビナガクジラの格闘はそれから30分以上続いた。海底に上からのしかかられ、押し付けれたクビナガクジラは何度も全身に力を込めて相手を押しのけようと暴れた。
その度に激しく前後左右に揺さぶられた潜水艦の艦内で、乗員たちは必死で艦の姿勢を制御し続けた。
やがて突然、艦体の下に抵抗が無くなり、ズンと艦全体が少し沈み込んだ。
「どうした? まさか、ネットから抜け出されたのか?」
機関長があわてて機器を操作しながら叫んだ。
「スクリュー停止。ソナー係、外の様子は分かるか?」
ソナー係は大ぶりなヘッドセットを両手で耳に押し当て、数秒経ってから報告した。
「至近に大型物体の運動の形跡ありません。本艦は着床したものと思われます」
艦長は判断しかねるといった表情でつぶやいた。
「目標を仕留めた……という事でいいのか? 通信士、有線の無線通信用ブイを浮上させろ。本部の指示を仰ぐ」
自衛隊のドローンは潜水艦の真上の海面に近づき、その様子を本部に中継した。
対策本部のスクリーンには、暗い黄色の塊がいくつも海底から浮き上がり、水面上で波に揺られている光景が映った。
それを見ていた遠山が誰にともなく言った。
「新宿歌舞伎町の時と同じだ。あれはやつの死骸ですよ。死ぬとたちまちミイラのように干からびて、ああいう有機物の結晶に変化する」
対策司令と渡が遠山の横に来て訊いた。対策司令が言った。
「目標は死んだという事ですか?」
遠山がうなずく。渡が訊いた。
「死因はやはり窒息死かね?」
遠山はスクリーンを見つめたまま答えた。
「そう考えていいと思います。やはり鯨の変種ですから、息が続かなかった。そういう事ですね」
対策司令は潜水艦ひきしおに状況終了を知らせた。
永倉と芹沢はヘリコプターで対策本部に運ばれ、テントの隅でアルミ製のブランケットにくるまって暖を取りながら、お互いにぼやいていた。芹沢がぼやく。
「あちゃー。お父さんの猟銃、海の底だよ。どやされるだろうなあ」
永倉が言う。
「俺なんて父ちゃんの船沈めちまったんだぜ。殺されるかもな」
そこにパンツスーツ姿の宮下が歩み寄って来た。二人の前にしゃがんで声をかけた。
「あなたたち、なんて無茶をするの。一歩間違えたら死んでたのよ」
永倉が頭を掻きながら応えた。
「いやあ、面目ないです、警察のおねえさん」
芹沢が目を輝かせながら宮下に言う。
「でもさ、あたしたちの動きがあったから自衛隊の人たちも踏み切れたわけでしょ。結果オーライって事でよくない?」
宮下はかすかに顔をしかめながら言った。
「ま、それは確かに否定できないようね。言い方は悪いけど、出動の口実にはなったってとこかしら」
「でしょ? でしょ?」
芹沢が浮き浮きした口調で言う。宮下は横並びで座っている二人の向かい合った手首をつかんで引き寄せた。
「そうね。ただ、それはそれとして……」
宮下はポケットから素早く手錠を取り出し、二人の手首を手錠でつないだ。そして警察手帳を縦に広げて突き出しながら言った。
「銃刀法違反、船舶職員及び小型船舶操縦者法違反、その他もろもろの違法行為の現行犯で逮捕します。詳しい事は所轄の警察署で聞きなさい」
永倉と芹沢は自分たちの手首をつないでいる手錠を持ち上げて見つめた。そして同時に、泣きそうな顔になって言った。
「ですよねえ……はあ」
その後念のため、海上自衛隊から対策本部に派遣されている隊員が付近を捜索したがクビナガクジラの姿は見つからなかった。
遠山は隊員が海から回収した結晶体の塊を分析し、クビナガクジラの死骸の一部に違いないと結論を出した。
渡研の一同は事後の結晶体回収、海水の汚染の有無の調査の依頼と指示を夜遅くまで行い、翌日午前に東京へ戻る事にした。
翌朝、せっかくなので土産物を買って行こうと筒井が言い出したため、一行のバンは大きな物産品店に立ち寄った。
その店の一角に長机が設置されていて、高齢の男女が数人、何か署名活動のような事をやっているようだった。
気になって遠山がのぞいて見ると、地元の警察署と検察庁に提出する嘆願書の署名を集めているのだった。「寛大な処置」を要請するその対象は、あの永倉と芹沢だった。
机の向こうで地元住民らしい高齢の女性が遠山にすがりつかんばかりの口調で頼んだ。
「なんとかご協力いただけませんか? この町を救ってくれた子たちなんですよ。そりゃ法律違反にはなるんでしょうけど、そこは、ねえ?」
遠山、宮下、筒井、松田はそうっと視線を渡の方に向けた。渡は土産物の棚を見ながら、不愛想な声で言った。
「どうして私の顔をみんなで見ている? 私は君たちのプライベートの行動まで口出しするつもりはない。署名をしたければ、好きにすればいいだろう。私は外で待っている、早く済ませたまえ」
渡が歩き去り、遠山が署名のノートを見て驚きの声を上げた。
「ありゃ。渡先生、いつの間に?」
一番新しい署名は「渡劉造 帝都理科大学 渡研究所教授」と書いてあった。
「え、勤務先まで?」
宮下が驚いた表情で言った。筒井が何か閃いた、という表情で皆を手招きし、4人で顔を近づけた。筒井が言う。
「ほら、今の渡研って事実上、政府の秘密調査機関じゃないですか。そこの所属員の名前が署名の中にそろってあったら……」
宮下が大きくうなずいて言う。
「確かに、警察も検察も、配慮はしなければ、という気にはなるわね」
松田が笑いをこらえながら言う。
「てっきり、これだから今の若い者は、とお怒りかと思ってたのに。渡先生もいいとこありますね」
遠山がうれしそうに笑って言った。
「よし、全員署名するぞ。渡研の名前を書くのを忘れるなよ」
店の外でわずかに春の気配を漂わせる風に吹かれながら、渡は海の方を見つめてつぶやいた。
「まったく今どきの若い連中は、後先を考えずに突っ走りおって。世間の迷惑を考えろと言うんだ」
渡は、そして空を見上げて陽の光に目を細めながら言葉を続けた。
「だが、その若さゆえの無謀を、うらやましいと感じてしまう年に、私もなってしまったか」
数日後の夜、東京郊外の高速道路の入り口近くの人気のない路上で、小型トラックから小太りの男が降りて来てきょろきょろと当たりを見回していた。
そこへクラシカルメイド服を着て、目の周りを大きな仮面で隠した女が、キャリーカートの上に大きな木箱を乗せて近づいた。
「お願いした運び屋さんでいらっしゃいますか?」
「はい、俺です。今回はどうも、ご依頼ありがとうございます」
それは福島の原発処理水に関するデマの動画を投稿していたあの男だった。メイド服の女は言った。
「荷物はこれです。今夜12時までに、よろしいですか?」
「へえ、そりゃもう、前金でいただいてますし、必ず。ところで中身は何です?」
女は冷ややかな口調で答える。
「そういう事はお尋ねにならない方だという事でお願いするのですが?」
「あ、はいはい、そりゃもう。訊きませんとも。そんじゃ車に積みますよ」
男が小型トラックの荷台に木箱を乗せて走り去ったところで、長い黒髪に同じく仮面で目元を覆った青い目の少女が女の側へ歩み寄って来た。
「うまくいったようね」
それはヒミコだった。メイド服の女は一礼して報告した。
「向こうのチンピラ連中にも連絡は行っております。これだけでよろしかったのですか?」
「中身はただの水道水だけどね。風評被害をたっぷり自分でも味わってもらいましょ」
男が北関東のインターチェンジで高速道路を降りて、人気のない一般道を少し走ったところで、前方を数台の車がふさいでいるのに気づいた。
相手の車の直前で停車し、ブツブツ言いながらふさいでいる車に向かって歩くと、周囲の暗がりから忍び出て来た6人のいかにもガラの悪そうな若い男たちに取り囲まれた。
運び屋の男は憤懣とした口調で言った。
「おい、何やってんだ、通行妨害じゃねえか」
だが若い男たちは取り合わず、うち二人がトラックの荷台に駆け寄って行った。リーダー格らしい長身の男が言った。
「ちょっと荷物を調べさせてもらうぜ。タレコミがあったもんでよ」
運び屋の男は荷台をこじ開けた男たちに向かって叫んだ。
「おい、やめろ。そりゃお客さんからの預かりもん……馬鹿野郎、何してやがる?」
男2人は荷台のドアを開けて、さっき預かった木箱をバールでこじ開けた。木箱の中には金属製の円筒形のタンクが入っていて、その表面に描いてあるマークを見た運び屋の男は悲鳴を上げた。
「いや、違う。俺は中身が何かなんてしらなくて……」
若い男たち全員が運び屋を間近に取り囲み、それぞれに金属製の棒状の物を持って振り上げた。
後頭部を殴られ、足を払われて地面に仰向けに倒れた運び屋を見下ろしながら、リーダー格の男が吐き捨てるように言った。
「こんな物を俺たちの町に不法投棄しようなんてな。親切にタレコミ入れてくれた人、まあ、どこの誰だか知らねえが、そいつの言った通りだったな」
運び屋は地面にうつ伏せに突っ伏したまま必死で叫んだ。
「やめてくれ、俺は本当に何も知らなかったんだ」
リーダー格の若い男は取り合わなかった。
「そこに証拠があんのに、しら切り通せると思ってんのか? おい、手足へし折るだけにしとけよ。殺すとこっちもシャレになんねえからな」
男たちが次々に金属棒を運び屋に向かって振り下ろした。聞く者もいない夜更けの山道に運び屋の絶叫が絶え間なく響き渡った。
トラックの荷台のこじ開けられた木箱から、そのマークが見えていた。
黄色の大きな丸の中心に小さな黒い円。それを取り巻くように扇型の3個並んだ黒い模様。
放射性物質を表す標識のマークだった。
コメント
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読了。永倉と芹沢、無茶だけど格好良かったなあ。あの「地元防衛軍」として10年ぶりに出動するシーン、胸が熱くなった。ただ、結果的に自衛隊の口実になったとはいえ、無免許操船に猟銃使用……そりゃ逮捕されるよね。でも渡先生がこっそり署名してたのには笑った。あの距離感、好きだな。