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凪いだ水面でも、水中も穏やかであるとは限らない。
安全そうに見えていざ飛び込んでみると、底なしの沼だったり、危険生物が潜んでいたり。
見える現状だけを鵜呑みにして丸裸のまま飛び込むと、必ず死が待っている。
表面上は平和に見える現代の日本で、これほど当てはまる例えはないだろう。
平和ボケしている表の世界とは裏腹に、一歩でも奥の方へ進めば死と隣り合わせの日常が待っている。
それを表に出さずに裏を取り締まるのが、刑事であるレトルトの役目だった。
役目だった、はず。
「来月は大きなヤクの取引、その次の週には敵対組織の抗争があります」
目の前で項垂れながら喋るのは、小柄な男だ。
レトルトよりは暗い色の短髪をこちらに見せて、小さく椅子に縮こまっている。
見るからに上質そうなスーツは所々シミになっているし、なんなら黄緑色の鮮やかなネクタイも端の方に血が着いていた。
重要参考人として取り調べを受けているこの男は、所謂裏世界の住人だ。
それもただの「ヤクザ」などではなく、日本最大の反社会的組織────トライデントの組員らしい。
「ヒラさん、といいましたか。その情報の信ぴょう性をどう証明しますか?」
反社の男─────ヒラの向かいに座る上司が、腕を組みながら真剣そうに聞いている。
「すいません。おれは資料を持ち出す権限を持ってないんで、証拠はありません」
途端に、取調室の空気が弛緩する。
ただの組員である男の言い分なんて、誰が信じようか。
警察にデマを持ち込んで良いように利用されているだけか、もしそうでないとしてもこの情報について詳しく知らされていないだろう。
動くだけ無駄。
新人であるレトルトだって、そんな事は分かっている。
「証拠は無いですけど、この作戦のどちらにもあの「ソシオパスの悪魔」が参加します」
「なに!?」
ヒラがそう言った瞬間、はっきりと空気が変わるのがわかった。
それほど「ソシオパスの悪魔」というものは有名らしい。
「あの「ソシオパスの悪魔」ってなんすか」
分からなかったレトルトがこそっと上司に耳打ちする。
「「ソシオパスの悪魔」は現代日本において、最も人間を殺してる犯罪者の通称だよ。トライデントの一員であることは分かっていたが、警察は長い間その居場所を突き止められなかった。それなのに」
それなのに知ってるお前は何者だ?
無言の圧力が、ヒラにそう問いかけていた。
俯いていた顔を上げたヒラは、唯一露出させている目をさ迷わせて、そして閉じた。
「「ソシオパスの悪魔」は、おれの友人なんです。そしておれ自身も組織の清掃係として働いてます」
ここでいう清掃係は、きっと綺麗なものじゃない。
裏切り者や敵対するものを片っ端から排除する、殺人鬼集団だろう。
レトルトは後ろで組んだ手を強く握った。
理由はどうであれ、人間が人間を殺すなんて絶対にあってはならないことだ。
それを日常茶飯事的に破っているなんて、レトルトからすると身の毛もよだつほど度し難いことだった。
「じゃあ君は「ソシオパスの悪魔」の顔を見たことがあるのかね!?」
長年どれだけ調べても一切の痕跡を残さなかった「ソシオパスの悪魔」の全容が掴めると息を詰めた上司が、ヒラに詰め寄る。
マスクの下で唇を引き攣らせたであろうヒラは、同じだけ仰け反って上司を躱した。
「教えられ、ません。おれがしてもらいたいことは「ソシオパスの悪魔」を捕まえる事じゃないんです」
「なんだと!?我々は次の被害者を生まないためにも「ソシオパスの悪魔」について知る必要がある!知ってることを全て話したまえ!」
どん、と力任せに上司が机を叩いた。
お陰で資料が少しだけズレて、記録をしていたもう一人の警官は肩を揺らす。
そんな大声を上げたら、ヒラが怖がるだろう。
こんなにも弱々しくて、裏社会とは思えない人なのに。
「おれが危険を犯してまで警察に駆け込んだのは「ソシオパスの悪魔」を捕まえる為じゃない。何度も同じことを言わせないでください」
だが予想に反してヒラは、じろりと上司を睨みつけるとそう言った。
マスクの下は傷があると言っていたが、その傷に恥じないだけの経験はしているらしい。
現に上司が腰を抜かすくらいの殺気を放って、警察を威嚇している。
「じゃあなんのために貴方はわざわざ警察に出頭したんですか?」
代わりにレトルトが聞くと、ヒラは落ち着いたのかため息一つこぼして睨むのを止めた。
「トライデントを壊してほしいんです。その為におれはここに来ました」
重大な責任を負ったような目が、鋭くレトルトを貫いた。
まるでお前が組織を潰せ、と言ってるような。
でも組対そたいでもないレトルトにそう言われても、何も出来ないというのが現状だ。
「来月の頭に取引されるヤクは、トライデントにとって莫大な資金源となるものです。そしてその次の週の抗争は、殆どの組員が参加する。潰すには絶好の機会だ」
確かに「ソシオパスの悪魔」一人を検挙するよりも、トライデントという大きなマトを仕留める方がずっと優先されるべきことだろう。
唸りながらもそう考えた上司は、やがて厳かに頷いた。
「話は分かった。一度警視総監の元で話し合ってから、どうするか決めよう」
あまりにも重要すぎた内容は、たかが一介の警官であるレトルト達に判断できるものでは無い。
「連れて行け」
部屋の外で待機していた警官にヒラが連れていかれる。
レトルトのそばを通る際に、小さくヒラが囁いたのが分かった。
「「ソシオパスの悪魔」は──────あの人は、ただ利用されてるだけなんだ。本当は誰よりも優しくて穏やかな人なのに」
「え?」
誰に語るようでもなくぽつりと呟かれたその言葉を、レトルトはずっと考えていた。
ずっと、ずっと。
トライデント。
日本の数ある反社の中でも、トライデントは海外にも勢力を展開する組織だ。
麻薬、人身売買、武器密輸は勿論のこと、大手不動産、株、仮想通貨、アパレルにも幅広く手を伸ばしているらしい。
その事業の一角には要人の警護、暗殺なども担っており、荒事専門のトライデントでも「ソシオパスの悪魔」は抜きん出た犯罪者である。
一夜にしてとある政治家の一族を全滅させ、敵対勢力を根絶やしにしたという。
圧倒的な被害者数、舌を巻くような殺人のセンス、本名や姿形すら捉えられない蜃気楼のような人物。
誰も見た事がないが、いや、見たものは生きていないが、確かに囁かれるその噂に名がついて「ソシオパスの悪魔」になった──────────。
レトルトは目頭を揉みながら、今しがた読み終えた資料を閉じる。
「つかれた・・・・・・・・・・・・」
何故レトルトが徹夜をしてまでトライデントの資料を読み耽っているのかというと、警察のお偉方直々の指名で潜入捜査することになったからだ。
まだ場数を踏んでいない新人刑事で護身術の評価は下の下に近いレトルトが、どうしてか抜擢された。
どうやら裏の人間には分かる「警察の匂い」がまだ染み付いていないレトルトに、この大役を押し付けたそうだ。
それなら腕のたつ同期がやればいいものを、と思っても、他の同期は警官志望なだけあって皆素直で演技ができない。
その点レトルトは、俳優だって軽々こなせるような演技力を持っていた。
そんなレトルトに白羽の矢が立たないはずもなく、見事抜擢された訳だ。
一応大きなヤマになるので、もし成功すれば昇進は待ったナシである。
その年で警部補も夢じゃないと言われたが、出世欲の薄いレトルトからすれば割とどうでもいい話だった。
ただ失敗すれば死ぬ。
それはまだいい方で、酷ければ拷問されたり人としての尊厳を片っ端からへし折られていくだろう。
組対ではないにしろ反社を相手にすることがどんなことか、警官であるレトルトは弁えている。
そんな所にポイ、と無造作に放り出されたレトルトは、今迷子状態だ。
もしかしたら今日が最後の安寧の日になるかもしれない。
そんな予感を抱きながら捜査資料を片したレトルトの腹は、キリキリと悲鳴を上げた。
奇しくもその予感が一生纏わりつくほどに当たっていたのだと知るのは、随分後になってからだ。
寝不足の目を瞬かせながら、ヒラから教えられた集合場所に着いた。
そこは何の変哲もないオフィス街にたつ、数あるビルのうちの一つだ。
だがこのビルこそが日本最大の反社会勢力「トライデント」の巣であることは警察官なら誰でも知っている。
緊張した面持ちでビルの中に踏みいれば、何も知らなさそうな受付嬢がにっこりと微笑んだ。
こういう組織は隠れ蓑として、表では普通の会社を装うことが多い。
それっぽい会社名と看板、偽装用に何も知らない一般人を受付に置いたりするのだ。
だからこの受付嬢も、表の人間である可能性が高い。
「えっと、キヨって人に会いに来たんですけど・・・・・・・」
人見知りのきらいがあるレトルトが小声で話しかけると、受付嬢は慣れた様子で「アポイントは取りましたか?」と聞いてきた。
確か昨日ヒラが友人であるキヨに話を通しておく、と言っていた気がするのでアポは取れているはずだ。
「はい」
自信満々にレトルトが頷くと、受付嬢は「それでは確認致しますので、少々お待ちください」と笑顔を崩さずに言った。
手元の電話でどこかに掛けた受付嬢を横目に怪しいところがないか盗み見しようとすると、背後に誰かが立った気配がする。
全身に、ぶわりと嫌な汗が浮き出てきた。
(い、つから、後ろに?)
全く気づかなかった自分を叱咤しながら、過剰な反応は見せない。
表に一番近いフロントだが、ここは間違いなく血みどろな世界の入口なのだ。
油断していた訳では無いが、改めて気を引き締め直さないといけない。
緊張と焦りを顔に出さずできるだけ自然を装って後ろを見てみると、そこにはきょとんとした顔の男がいた。
レトルトより年上のようだが、おっとりした人に見える。
そんな人が気配なく警官の後ろに立てるなんて思わずに、思わずレトルトは目瞬かせた。
「あれ、もしかして君・・・・・・・・」
男が何かを言いかけた時、ちょうど電話が終わったらしい受付嬢に声をかけられた。
何を言われるか気が気でなかったレトルトは、助かったとばかりに受付嬢に視線を戻す。
「申し訳ございません。どうやらキヨはただいま席を外しているらしく・・・・・・・・・・」
「やっぱり?」
言いづらそうに淀む受付嬢に被せるように、一度は無視したはずの男が話しかけてきた。
レトルトはどんな事でも対応できるように、全身で密かに警戒を高める。
それを知ってか知らずか、男は無害そうな笑顔をレトルトに向けた。
「君、今日から入るキヨの部下だよね。話は聞いてるよ」
どうやらこの男はキヨと親しいらしく、一方的にレトルトの事を知っていたようだ。
警官だとバレなくて済んだと胸をなで下ろしそうになるが、まだ気は抜けない。
「そうです。レトルトって言います」
「オーケー、レトさんね。俺はガッチマン。適当にガッチさんとかって呼んで。あ、敬語も要らないから〜」
「は、はい!じゃなくて、分かった・・・・・・・」
やけに親しくしてくれるガッチマンに戸惑っていると「んじゃあ、この子は俺が連れてくよ」とレトルトを指して受付嬢にそう言う。
「へ!?えっと、キヨ、さんを、待った方が・・・・・・・・」
正直ヒラが紹介してくれたキヨ以外と関わりたくないレトルトが拒否しようとすれば、ガッチマンはにっこりと笑って拒否を跳ね除けた。
「どうせキヨは今寝てるから。暇な俺が案内したげる」
「ね、寝てる!?」
自由なキヨに驚く暇もなく、レトルトは早速歩き始めたガッチマンの後を追う。
ここで怪しい男の後を追って痛い目に合うかもしれないが、こんなところでいつ起きるか分からないキヨを待つのは別種の苦痛だ。
レトルトは一瞬の逡巡のうちに覚悟を決めて、ガッチマンの後ろにピタリとくっついた。
ガッチマンはスタスタと大きな歩幅で受付嬢の背後にある壁に回ると、そこには二つのエレベーターがある。
上向きの矢印ボタンを押して、しばらく箱が落ちてくるのを待つ。
「・・・・・・・・・・・・」
緊張から無言になるレトルトを、ガッチマンは微笑ましそうに見ている。
やがて救世主のようなエレベーターがピコン、と落ち着いた音と共に口を開けば、二人で乗り込んだ。
そして独特な浮遊感に身を任せつつなんとなくフロアの数字を見ていると、ガッチマンが口を開いた。
「一から五階はカモフラージュ用のフロント企業が入ってるから、よっぽどの用事がない限りあんまり降りないよ」
どうやら案内をする、というのは冗談ではなかったようだ。
レトルトは適当な相槌を打ちながら、ボロを出さないように気を引き締めた。
「そして五階から上が俺たちの本拠地ね。キヨの部屋は十四階にあるから、レトさんの活動場所も十四階がメインになると思う」
「分かった」
細かな勤務場所が決まってるのは、些か都合が悪い。
フロアを跨がないと情報をあまり得られそうに無いからだ。
「ちなみにこの社員証みたいなやつに特別なチップが入ってるから、自分の権限があるフロアまでしか入れないよ。仮に人のものを奪っても、記録が残るから馬鹿な真似はやめてね?」
ガッチマンは首元に掛かる社員証をヒラヒラと見せびらかす。
「まさかそんなことする訳ないじゃん」
レトルトの考えを読んだかのように、ガッチマンはやけに的確にそう言った。
だがレトルトも伊達に演技力でここまで来ていない。
動揺を悟られないため、視線にも動作にも気を使っている。
「ふふ。何年か前に、そんな馬鹿がいてクビになったから」
クビ、とは文字通りの意味だろう。
一気にこの世界に足を踏み入れた実感が湧いて、レトルトは手を握りしめた。
「あ、着いた」
ガッチマンはのんびりと言うと、エレベーターの再び開いた扉の外へ出てしまった。
レトルトもそれに続き、キヨがいるであろう十四階に足を踏み入れる。
「ここは主に事後処理とか色々してもらう人達が集まったフロアだよ。ま、かっこよく言えば中間管理職、簡単に言えば雑用係かな」
「なんか扱い酷くない?」
「そう?実際本当の事だからね」
悪びれもなくそう言いのけたガッチマンに、レトルトは呆れ顔だ。
全くもって酷い言い草だ。
「何でも屋、って言った方が合ってんだろ」
ガッチマンに胡乱気な目を向けるレトルトの背後から、やけに低い声が聞こえてくる。
気配も足音も堂々としているので、一先ず危険はないと判断してレトルトはあえて気づかないフリをしていた。
話しかけられて初めて後ろを見れば、レトルトより少しだけ背の低い男が手に持った何かを弄びながらこちらに近づいてくる。
「あ、うっしーじゃん」
男の名は「うっしー」というらしい。
ガッチマンがあだ名で呼ぶということは、それなりに親しいということか。
「このフロアにいんの珍しいな、ガッチさん」
気軽に片手を上げて挨拶した牛沢は、レトルトとそう年が変わらないように見える。
短髪で黒髪、黒縁メガネ(恐らく伊達)と三白眼のうっしーとやらは、なんだか近づき難い雰囲気だ。
頭もキレそうな見た目をしているし、レトルトの潜入捜査を勘づかれてしまっては厄介である。
ここは関わらない方がいいだろうとひっそりガッチマンの後ろに隠れようとすると、うっしーは目敏くレトルトを見つけた。
「んで、こっちがキヨの言ってた新入り?」
「そう、レトルトくんって言うよ。んで、こっちが牛沢くん」
前半は牛沢に、後半はレトルトに向かってガッチマンが紹介してくれる。
牛沢の刺々しい雰囲気とガッチマンの柔らかい印象でこの場は何とか平穏だが、きっと牛沢とレトルトだけでは気まづくなっていたに違いない。
「よろしく、レトルト。適当に俺のことはうっしーでもなんでも呼んでくれ」
「う、うん。よろしく」
近づき難い、と思っていたが、牛沢は見た目に反して意外と友好的なようだ。
歳も近いようだしあちらも敬語を使っていないようなので、気さくに頷くと特に気にした様子もなかった。
だが牛沢が例えこちらに友好的でも、レトルトが潜入捜査中の刑事だと知られてはいけない。
ここは今まで通り、慎重にいくべきだ。
「ところでうっしーは俺に何か用だった?」
お互いの自己紹介も終わったところでガッチマンが牛沢に聞くと、ようやく用を思い出したのか「あー」と言いながら手に持っていたものを渡した。
「借りてたゲーム返しにきたんだよ。ほい」
「ん?何か貸してたっけ?」
そう言いながら牛沢から渡されたゲームのパッケージを見たガッチマンは、貸した事を思い出したのか何度か目を瞬かせる。
レトルトも思わずパッケージを盗み見ると、そのゲームは一世を風靡した有名なゾンビアクションゲームの伝説たる一作目だった。
レトルトも学生時代に死にものぐるいでバイト代を貯めてようやくプレイした記憶がある。
隔年に出る最新作もいち早くプレイしているので、最早このゲームのファンと言っても過言ではない。
「俺ホラー苦手だけどさ、ストーリー性とかキャラ設定とかが結構好きだったなぁ。気に入ったからさ、他のシリーズも買っちまった」
「一作目は映像も粗いのに、いや、粗いからこそ怖くていいよねぇ。操作性が悪い所もまた恐怖感煽ってくるし」
牛沢とガッチマンが盛り上がっているが、レトルトもこのゲームは好きなので是非話に加わりたい。
「常に独特なゲーム性と操作性で、新作が出る度に感動しちゃうよね」
特にシリーズの最新作は昔の趣も取り入れていて、レトルトはプレイしながら大いに滾ったものだ。
その事を伝えると、二人は大きく目を見開いた。
(まずい、首を突っ込み過ぎたかな)
いてもいなくてもいい存在、影が薄い人を目指していたのに、今は自分から目立ってしまった。
潜入捜査の初歩中の初歩を破ってしまったレトルトは内心冷や汗を流す。
が、そんなレトルトを見た二人は一転して目を輝かせて、ぐいっと距離を詰めた。
「だよね!!時代とプレイヤーのニーズに合わせたプレイ環境とか、キャラの深い話とか、過去の伏線とか!!」
ガッチマンはレトルトと同じくこのゲームのファンだったのか、やけに興奮したように早口でまくし立てた。
「なっ、これ以上言うなって!仕事休んででもプレイしたくなるだろーが!!」
まだ一作目しかプレイしていない牛沢が抗議の声を上げるが、レトルトは思わず「ホラー苦手って言ってたのに?」と煽ってしまった。
「に、苦手っつっても、そんなビビってる訳じゃないからな!?」
初対面のレトルトに痛いところをつかれたのか、牛沢は吃りながら否定する。
「でも最近のシリーズは質と数で攻めてきてるからねぇ。慣れてる俺でも初見は怖いよ」
あんまりゲームに驚かなさそうなイメージのあるガッチマンでさえ怖いと聞いて、牛沢の顔色が悪くなった。
「そうそう!特殊な武器とか条件下じゃないと倒せない敵とかいてさぁ」
「やめろってぇ!!もうプレイすんの怖いわ!!」
なんだか怖がっている人を余計に怖がらせるのは楽しい。
初めは怖い印象だった牛沢も、ガッチマンのお陰で昔からの友人のような気兼ねなささえ感じる。
「人の部屋の前でうっせーよ!!他所でやれや、てめぇら!!」
尚も三人で騒いでいると、突然ガッチマンの隣のドアが大きく開かれた。
前もって気配を察していたのか、ガッチマンはひらりと優雅に躱したおかげで額がドアにぶつかることはない。
そして大声と共に現れたのは、髪を赤く染めたガラの悪そうな男だ。
長身のガッチマンより、少しだけ頭が飛び出ている。
右側の髪だけを盛大に乱しているが、それがセットではなく寝癖だと察した。
なぜなら赤髪の男の機嫌は最悪だし、何より目の下には大きな隈を飼い慣らしているからだ。
ワイシャツのまま寝たのか大きなシワが右の腹にかけてできている。
間違いなくこの男は寝ていた所をレトルト達の談笑に無理やり起こされた、という所だろう。
人間観察は刑事であるレトルトからすればお手の物だ。
そしてその髪と長身から、ヒラから聞いていたキヨというレトルトの教育係であると察した。
まずは相手の出方を見よう、とレトルトが傍観を決めていると、キヨはよたよたとした歩き方で牛沢とガッチマンに詰め寄る。
「オレはさぁ、三徹明けなの・・・・・・・・・死体の処理、敵対組織の監視、現場の下見、みかじめ料の回収。ガッチさん達がやらない分を、オレに回されてんです。分かる?」
光の無い目を二人に向けながら呪詛のような言葉を吐くキヨ(推定)。
「ソノトオリ、デスネ」
「うん、いつも感謝してるよ!」
少なくとも責任を感じて小さくなっている牛沢とは違い、ガッチマンは悪びれもなく反省もしていない。
そんなガッチマンの態度に慣れているのか、諦めているのか、キヨは無視してまた喋り始める。
「オマケに今日は新人の教育係も・・・・・・・・」
寝ぼけ眼を擦りながらキヨが言った瞬間、場に沈黙が落ちる。
牛沢は失笑のような絶妙な顔をして、ガッチマンは感情の読めない笑顔でレトルトの方を見た。
「あーーーーーーー!!!」
その時キヨはレトルトの存在を思い出したのか、窓が振動するほどの声量で叫んだ。
そうなると分かっていたらしい牛沢とガッチマンは耳を塞いでいたが、レトルトは真正面からモロにその立派な声量を受けてしまった。
キーン、と痛くなる耳は、辛うじてキヨの「普通に忘れてたわ」という声を聞き取る。
「おいっ」
遅れて耳を押えながらレトルトが思わず突っ込むと、キヨはもう目が冴えた様子で慌てた。
「も、もしかしてお前がレトルトってやつか!?」
ようやくこちらを向いたキヨが、レトルトの肩を凄い勢いで揺らす。
まだ耳が痛いので、丁重に扱って欲しいものだ。
「そうだけど・・・・・・・普通に遅刻するって教育係としてどうなの・・・・・・・」
普通の友達と話そうとして、レトルトははっと気づく。
ここは反社会勢力の根城で、自分は今下っ端なのだ。
上下関係が警察よりも厳しいであろうこの組織内で、上司に向かって言っていい言葉じゃない。
首が飛ぶかも、と背中に滝のような汗をかきつつキヨの反応を伺うと、意外にも気にしていない様子だった。
「いやぁ。アラームかけたはずなんだけど寝過ごしてたっぽい。ごめん!」
やんちゃで容赦なさそうな見た目と違って、常識人だ。
きちんと手を合わせて、レトルトに謝っている。
確かにキヨが遅れたせいで必要以上に組員と接触してしまったが、悪い時間ではなかった。
「いいよ、誰にでもそんな事あるだろうし」
敬語を一度外してしまった以上またつけるのもおかしいかとレトルトが普通に話せば、キヨは嬉しそうに破顔した。
いや、あれは快く許してもらえて嬉しいという顔だろう。
裏社会に生きているはずなのに、キヨはあまりにも素直で感情が顔に出やすい。
これなら情報収集も楽にできるかもしれない。
裏で手引きをしてくれるヒラはキヨの事を「いいヤツ」と言っていたし、疑い深いレトルトでさえも既に好感を抱いている。
それに対して牛沢とガッチマンは未だに得体の知れない人物だ。
先程は確かにゲームの話で盛り上がったが、それとこれとは別。
牛沢は時折こちらを探るように見てくる時があるし、ガッチマンに至っては何を考えているのかも分からない。
牛沢とキヨが分かりやすいぶん、ガッチマンは些か不気味だ。
それでもレトルトが無事に情報を持ち帰るには、仲良くする他にない。
普段は人見知りなレトルトも、仕事のためだと仕方なく友好的なフリをしておく。
「そうだ。せっかく四人揃ったんだし、一緒にご飯なんてどう?」
レトルトの「仲良ししよう大作戦」を知ってか知らずか、ガッチマンがそう提案してきた。
「四人「揃った」っていう表現、間違えてるだろ。まあ、行くけどさ」
ガッチマンのおかしな言葉を訂正しながら、牛沢も割と乗り気だ。
「ガッチさんの日本語がおかしいのは、今に始まった事じゃねーじゃん。つーわけで、言い出しっぺのガッチさんが奢ってね」
ちゃっかりとタダ飯にありつこうとするキヨに、ガッチマンは呆れるのではなくただ笑っている。
「えーと、じゃあ、ゴチになります?」
なんとなくレトルトも乗っかってると、ガッチマンは満足そうに笑った。
「うん。今日はレトさんの歓迎会だからね」
どうやらガッチマンは初めから奢るつもりだったらしい。
それに喜んだのは、牛沢とキヨだ。
「やりー!じゃあさ、居酒屋がいい!」
と牛沢。
「いやいや、歓迎会といえば焼肉でしょ!」
とキヨ。
「んだと?酒飲めねーからってよぉ・・・・・・・・」
「うっしーこそ酒飲みたいだけなら、一人で行けば?」
ご飯のことだけで睨み合うキヨと牛沢に、レトルトは止めるべきか迷うが結局何もしない事にした。
ここで下手にどちらかの味方につけば、今後の交流に支障があるかもしれない。
そんなのはただの建前で、本当はかなりどっちでも良かった。
「じゃあ間を取って、俺のオススメん所行こうか」
見かねたガッチマンがそう言えば、流石に争っていた二人も口論をやめた。
「まあ、ガッチさんがそう言うならいっか」
「珍しくガッチさんから誘ってくれてしな」
あっさりと承諾したキヨと牛沢に、レトルトも無意味な争いが終わってほっとする。
このまま口論を続けていれば、晩飯は確実に逃していただろう。
「早速行こうか」
丁度いい時間なのでガッチマンが歩き出すと、文句も言わずについて行く。
ビルを抜け出して繁華街をしばらく歩いていると、ガッチマンが「オススメ」だと言っていた飲食店についた。
「・・・・・・・・・えっと?」
レトルトが戸惑いながらガッチマンを見ると、彼は満面の笑みで振り返った。
「ここ!最近のオススメ!」
ガッチマンがそう言いながら指を差したそこは、世界中で有名な某ハンバーガーショップだった。
「オススメ」「奢り」と言っていたからどんなレストランに連れていかれるんだろうと思っていたら、まさかの安さと美味しさが売りのこのお店に連れてこられるとは。
しかも本人がネタや冗談ではなく、本気で言っているので何も言えない。
「うすうす、こうなるんじゃないかと思ってたわ・・・・・・・」
「まじでガッチさん、期待を裏切らないよね」
牛沢とキヨは大して残念がることなく、慣れた様子で店内に入っていく。
ガッチマンはどうやら人とずれている、というか感性が人並外れているらしい。
益々ガッチマンという男が分からなくなって、レトルトは目を回しながらも二人の後に続いた。
先にカウンターへ行っていた二人が注文を済ませ、レトルトも適当に目に付いたセットメニューを頼んだ。
ここ何年か通っていないだけで、随分とメニューが一新されたようだ。
その中から美味しそうかつ馴染みのあるものを選んだレトルトは、一応ガッチマンに気を使って安くなるようにした。
「んじゃあ俺は、これで」
残るガッチマンが大きな見出しの、多分季節限定のやつを指さして注文は終わる。
「合計3160円でございます」
働き盛り故に沢山注文してしまった四人の合計金は、ファストフードにしては結構なお値段になってしまった。
「はい」
黒革の財布から4000円を出したガッチマンを横目に、キヨと牛沢は受け取り口でスタンバイしていた。
なんとなく出遅れたレトルトは、そのままガッチマンの横で大人しく待機する。
「おつりが840円になります」
そう言って店員さんがじゃらりと多い小銭を受け渡そうとした時、ガッチマンはゆるく手を挙げた。
「いや、小銭いらないから君にあげる」
「えっ!?」
まさか客からそんなことを言われると思ってなかった店員さんは、驚いたように目を見開いて固まっている。
「えっと、お店側の決まりで・・・・・・・・チップやおつりは受け取れないんです・・・・・・・・」
マニュアル通りに断る店員さんは、困り顔だ。
「んー、でも俺も要らないんだよなぁ」
が、何故かガッチマンも断固として受け取らない。
(え?何で受けとんないの?お金なら腐るほどあるってか?)
隣にいるレトルトまで宇宙を背負いかけるが、一歩も引かないガッチマンに店員さんは困っている。
助けを求めるためにキヨと牛沢の方を見るが、先にドリンクだけを受け取った二人はもう席に着いていた。
ここはレトルトが何とかしないといけないらしい。
レトルトは最小限の動きで辺りを見渡し、この状況をどうにか出来るものがないか探す。
(お、いい所に)
そしてあるものを見つけて、レトルトはガッチマンに耳打ちする。
「ガッチさん、それなら募金してみたら?ほら、これ」
レトルトはそう言いながら、カウンターのすぐ傍にある募金箱を指さした。
そこには世界中の貧困層の子供を支援する、有名な団体の募金箱があったのだ。
「募金・・・・・・・」
「そ、その方がいいですよ!」
店員さんもホッとしたのか、きょとんとするガッチマンに半ば無理やりおつりとレシートを押し付けた。
ガッチマンも要らないと言っていた小銭を使える場所を見つけて、特に躊躇うことなく全ての小銭を入れる。
「いい所に小銭のゴミ箱あんじゃん」
「言葉に出すなし・・・・・・・・・」
ガッチマンの余計な一言は、各所から怒られそうだ。
「ご、ごゆっくりどうぞ〜・・・・・・・」
そして店員さんは確実にドン引きしている。
レトルトは早くもため息を吐きそうになりながら、隣の男を盗み見た。
人畜無害そうな外見をしていながら裏社会で生き、お金をゴミだと称し、その癖レトルトの歓迎会を開くという。
全くもってガッチマンという男が分からない。
初めからこの潜入捜査に不安しか無かったが、今は最早一刻も早くこの場から走り去って家でゴロゴロしたかった。
(くぅ、クソデカぬいぐるみに癒されたい・・・・・・)
家で待つ大きなキャラクター物のぬいぐるみの感触を思い出しながら、先に席に着いていた薄情者の元へ向かう。
「お待た〜」
四人がけの一つに腰掛けたガッチマンは、早速テーブルに置かれていたポテトを手に取った。
どうやらカウンターで一悶着あった間に、注文の品が届いていたようだ。
「助け舟を出しても良かったのに」
恨み言のように隣に座るキヨに言えば、主語が無くても通じたのかやけに大きな声でゲラゲラと笑った。
「いやぁ、ガッチさんのぶっとんだギャグで驚くレトさん見て、うっしーとめっちゃ爆笑してたわ」
大きな口でハンバーガーを一齧りしながらも、思い出し笑いをしている。
このまま喉に詰まらせて噎せろ、と呪いをかけつつもう一人の薄情者を見た。
「社会のたんこぶみたいな職業のガッチさんが募金って・・・・・・・」
最後の言葉は笑ったせいでよく聞き取れなかったが、どうやらレトルトの苦し紛れの解決策を面白がっているようだ。
「仕方ないじゃん。店員の子困ってたし」
ストローを噛みながらレトルトが言えば、目を丸くした二対の目がこちらを向いた。
「生きてるだけで人様に迷惑かけてる職業なのに、他人を気遣うって・・・・・・・なぁ?」
「今更だよね〜。オレは、オレとその友達にしか興味無いし」
至極当然、とばかりに牛沢とキヨが言えば、レトルトもそうだったと冷や汗を流した。
自分が今所属しているのは正義の警察ではなく、極悪非道、自分勝手な裏の世界なのだ。
そんな中で人を気にかけるレトルトの存在は異端だろう。
(まずい、疑われる)
潜入一日目にしてやってしまった感が否めないレトルトが頭をフル回転していい答えを探していると、呑気にハンバーガーを食べていたガッチマンと目が合った。
「早く食えよ〜。せっかくのハンバーガーが美味しくなくなっちゃうぞ」
まるで今までの話を聞いていなかった様子に、レトルトも含めて三人で呆れる。
「あーそうでした。まだメインディッシュ食ってなかったんでした」
追求が面倒くさくなったからか、牛沢はそう片付けると包み紙を破いてようやくハンバーガーを食べた。
「ま、レトさんはいい子ってことで」
二個目のハンバーガーに手をつけたキヨがそう締めくくって、ひやりとした時間は終わった。
おっかなびっくりしながらレトルトもハンバーガーに齧り付くと、ジャンクフード特有の雑な塩辛さが舌に伝わる。
だがそれはしつこいものではなく、あっさりとしていて癖になる味だ。
何年かぶりに食べるが、味は相変わらず美味しい。
セットでついてきたナゲットも時々挟みつつハンバーガーを堪能していると、ガッチマンに見られている事に気づいた。
「レトさんは、やっぱりいい子だね」
「やっぱり?」
ガッチマンが無意識で呟いたであろう言葉をたまたま聞き取って、レトルトは頭にハテナを浮かべる。
「なんかガッチさんおれのこと前々から知ってるみたいな言い方じゃん」
疑問に思いつつ指摘すると、ガッチマンは首を傾げた。
「あれ?俺また言葉間違えてた?」
どうやら先程のようにただの言い間違えらしい。
レトルトの「過去」を知っているような言い方だったので、必要以上に身構えてしまった。
「もう小学校からやり直してこいよ」
「変に意味深に聞こえちゃうでしょーが」
慣れてるキヨと牛沢のツッコミに、ガッチマンは恥ずかしくなったのか顔を背けた。
「いやぁ、日本語って難しいなぁ」
困ったように頬をかくガッチマンを横目に、隣のキヨが耳打ちしてくる。
「今で慣れとけよ、レトさん。ガッチさんこーゆーのよくあるから」
「こーゆーの」とは、日本語の間違いと小銭を受け取らない謎の癖の事だろうか。
そんなあるある慣れたくないというのがレトルトの本心だが、この関係が続くなら順応しなければならない。
「まぁ、「庭」の人は特殊だからな。慣れる方がムズいって」
助け舟を出したつもりなのか牛沢がそう言えば、キヨも確かにと頷いた。
「庭って何?」
会話から察するに、何かの隠語だろう。
刑事としての勘がそう言ってる。
レトルトの仕事は何かしらの情報を集めることなので、事細かに教えて欲しい。
さりげなく発言者の牛沢に問うと、牛沢はちらりとガッチマンを見て口を開いた。
「庭っていうのは・・・・・・・・・・」
「うっしーハンバーガー食べないなら、俺が貰っちゃおっかな〜」
牛沢が何かを言う前に、イタズラなガッチマンがそう言いながらハンバーガーを奪おうとした。
「ちょ、今食うから!!」
慌てた牛沢は直前のレトルトへの答えを止めて、大急ぎでハンバーガーをかき込んだ。
おかげで喉に詰まったのか、苦しそうに胸元を叩いてソフトドリンクを飲む。
「そんなに急いで食べないの〜」
まるで子供をあやす様にガッチマンは言うが、そうさせたのは紛れもないコイツだ。
「ガッチさん鬼だ」
「ねー」
レトルトの呟きをキヨが肯定しながら、上品に口元を拭う。
どうやら黙々と食べていたキヨは、早々にハンバーガーを片付けたらしい。
結局その後も下らない話をするだけで「庭」という重要そうな単語の意味は聞けなかった。
「ごっそうさ〜ん」
「ゴチで〜す」
「ガッチさん、ありがとね」
牛沢とキヨが慣れてる様子で、レトルトは改まってガッチマンに礼を言う。
かなり話し込んでしまったレトルト一行は、随分夜になってようやくハンバーガーショップを後にした。
ピークはかなり前に過ぎていたし、24時間営業なので誰にも迷惑はかけていない、はず。
それほど夢中になるくらいに、彼らとの会話は心地よかった。
人見知りのきらいがあるレトルトでも話題が尽きることなく、またくだらない事にも乗ってくれる。
何年来の友人と言っても過言ではないくらいに仲良くはなったが、レトルトからすれば彼らは監視対象だ。
これ以上の情を抱くと、仕事に支障をきたす。
分かっていても、どうしても割り切れなかった。
「レトさん、大丈夫?」
「え?あ、ごめん!なんでもない!」
駅に向かっていた四人だが、レトルトのペースが落ちたことに気づいたガッチマンが声をかけてくる。
小走りで彼らに追いつくと、そこはもう改札の前だった。
「んじゃあ、俺まだ仕事残ってるから」
「おっす、じゃあまたな」
「うーす、お疲れ〜」
また事務所に戻るらしいガッチマンに、牛沢とキヨが手を振る。
レトルトも合わせて手を振ると、ガッチマンは目を細めて笑った。
「またね、レトさん」
「・・・・・・・・・・うん」
その姿に、一瞬誰かが重なった。
昔もこの言葉をどこかで言われた気がする。
でも生きていく中では普通の事だろう。
よく分からないデジャブを覚えながら、レトルトはガッチマンと別れた。
「じゃ俺、ホームあっちだから」
改札を抜けて牛沢と別れ、キヨとも明日の出勤時間(と言って良いのか分からない)を確認して別れた。
レトルトは広い構内をダラダラと歩きながら、人混みの中でスマホを開く。
それはレトルトが普段使いしている物ではなく、警察から支給されたものだった。
そして片手で足りるほどしか登録されていない連絡先から一つを選ぶと、迷わずタップする。
数コールの後に、柔らかい声が耳を打った。
『もしも〜し』
「今日もいい天気だね」
『残念、ここは雨だよ』
レトルトが予め決めておいた合言葉を言えば、相手もすかさず返してきた。
電話の相手は、協力者のヒラだ。
合言葉の照合も終えた所で、レトルトは本題に入る。
「今日キヨくんに会ったよ」
『そっか、いい人だったでしょ?』
「いや、アイツおれが来た時寝過ごしてたよ」
しばらく報告をしあいながら今後の予定を聞いていると、ふと先程ハンバーガーショップで聞いた「庭」という単語を思い出した。
「そういえばさ、さっき「庭」っていうの聞いたけどそれって何?」
レトルトがそう言った時、電話の向こうからガタガタとものが落ちる音がした。
「ヒラくん?」
『そ、れ、誰から聞いたの?』
焦った様子のヒラに違和感を覚えながらも、レトルトは「うっしー」と偽りなく答えた。
『まって、もう牛沢さんと会ったの?』
「会ったも何も、一緒にご飯も食べたけど・・・・・・・」
『ほ、他にキヨ以外で会った人は!?』
やはり組織の人間と無闇矢鱈に会うのはまずかったか。
レトルトは引き攣りそうな顔を抑えて、最後の一人の名前を言った。
「ガッチさん、かな」
その瞬間、スマホの奥から『はぁーーーー』と重苦しいため息が聞こえてきた。
「な、なんかまずかった?」
『んー、まずいって言うか、ガッチさんと喋ったのが奇跡っていうか』
「そんなレアキャラなん?」
張り詰めていた分の気が抜けて、レトルトのお国言葉が出る。
『そもそもガッチさん人に興味ないから、特定の人以外と喋ってるの珍しいなって・・・・・・・・・それだけだから』
(いや、絶対にそれだけじゃないでしょ)
最後に言い淀んだヒラに疑念を抱くが、追及してもきっとシラをきるだろう。
『あーそれで、「庭」なんだけど』
あからさまに話を変えたヒラだったが、レトルトが聞いた事なので仕方なく追及を止めた。
『「庭」っていうのはトライデントが経営する孤児院の事だよ』
「孤児、院」
そう聞いただけで、レトルトは嫌な予感を抱く。
反社会勢力が抱え込む企業や団体は、大抵が悪事に手を染めている。
警察学校でもそう習ったため、きっとその孤児院も悪いことをしているに違いない。
『レトさんが予想している通り、「庭」では子供に殺しの英才教育をさせる』
レトルトの考えは的中して、こちらも重たいため息がでる。
想像していたとはいえ、子供にそんなことを教えるなど胸糞悪い。
『武器の扱い方、人間の急所、人の殺し方から効率のいい自殺の仕方とか』
「ほんっと、クソすぎ」
人混みの中で立ち止まったレトルトを、煩わしそうに後ろの人が避けていく。
まるでこの国の闇を知らない人達は、今日も呑気に生きている。
その日常を守るのが確かにレトルトの役目だが、その足元で今も子供が犠牲になっているのだと叫びたくなった。
だからといって何かが変わるわけでは決してないのだけれど。
『ちなみにおれも「庭」出身だよ〜』
頭を抱えているレトルトに向かって、ヒラは更なる爆弾を投下する。
「ガチ?」
『がち、がち。っていっても、おれは二、三年程度しかいなかったから、洗脳もそこまで酷くないけど』
「ちょっと待てぇ!洗脳!?」
思わずレトルトの好きなテレビ番組のように止めてしまった。
それすらも気づかずに、レトルトはスマホに強く耳を押し当てる。
『「庭」では、トライデントに逆らえないように徹底的に洗脳するの。だから「庭」の人達は組織の中でも扱いは結構酷いもんだよ』
さらりと告白された衝撃的な事実に、レトルトは痛む頭を抑える。
「まじで腐ってやがる・・・・・・・」
そう言いながら、はたとある事に気づく。
先程の会話で、牛沢の話から察するにガッチマンも「庭」出身ではないか?
つまりガッチマンは組織に洗脳されて、殺しの術を叩き込まれに人なのだろう。
「じゃ、じゃあガッチさんって・・・・・・・・」
恐る恐るレトルトが聞けば、ヒラが頷いたのが電話越しに分かった。
『ガッチさんは珍しい生まれた時から「庭」にいる人だから、おれとは比べ物にならないほど洗脳が強いはず』
レトルトの脳裏に、ガッチマンの笑った顔が浮かんだ。
出会ってまだ数時間しか経っていないのに、その顔は誰よりも鮮明に思い出せる。
困っていたレトルトの案内役を買ってくれた人。
レトルトの歓迎会と称してご飯を奢ってくれた人。
帰り際に寂しそうな顔で手を振ってくれた人。
そんな人がトライデントに幼い頃から利用されていると知って、レトルトは怒りで目の前が真っ暗になった。
『「庭」では、そんな事しか教えないから、ガッチさんは一般的な常識がないんだ。あの人文字の読み書きできないし、お金の計算もできないから、小銭ジャラジャラごみ箱に捨てちゃうし』
「あー、あれね」
どうやらガッチマンが小銭をやたらと毛嫌いするのは、単にあっても使い道が分からないかららしい。
それもこれも普通の子供が生きていく上で当たり前のように学んでいくはずだったのもを、トライデントに奪われたせいだ。
『おれは中学生くらいで「庭」に入ったから、そこまで酷くはないけど、キヨからはよく世間知らずとは言われるなぁ』
純粋な子供をそんな事に使うトライデントに、レトルトは怒りを抱く。
大人が守って当たり前、人に愛されて当然の子供に、そんな仕打ちをするなんて。
「絶対、トライデントを壊してやろうね」
それがヒラの願いであり、レトルトの役目だった。
潜入捜査に消極的だった気持ちも、救うべきものが具体的になって、気持ちが引き締まる。
『トライデントを壊滅させたいなら、極力ガッチさんに関わんない方がいいかも。「庭」の人達は組織の為ならなんだってやるから』
「ヒラくんも?」
途端にヒラが信用出来なくなってそう聞くと、ヒラは困ったような声になった。
『おれがレトさんに協力しようと思ったのは、完全におれの意思だよ。おれの洗脳はあんまり強くないから』
「信じて、いいの?」
ここでヒラが裏切ったとなれば、トライデントの一斉検挙は夢のまた夢になるだろう。
それほど内部の事情を知るヒラの存在は重要だった。
だがヒラが何かしらあって組織にバレてしまえば、きっと命はない。
それを分かっていながらトライデントを壊して欲しいというヒラの覚悟は、相当なものだろう。
『信じて』
たったそれだけを言うと、ヒラは電話を切った。
レトルトは複雑な気持ちでスマホにロックを掛けて、人通りの少なくなったホームを見る。
国民が安心して暮らせるように、どこかにいるであろうレトルトの大切な人達を守るために、警察官になった。
それなのにこんなに呆気なく正義に雲がかかってしまって、レトルトは立ち尽くす。
滑り込んできた電車の風圧に長い前髪を遊ばせながら、レトルトは目を閉じた。
「それでレトさんには・・・・・・・・・・って、レトさん聞いてる?」
「え?あ、ゴメン。なんだって?」
昨日の頭の痛い話で完全に上の空だったレトルトは、キヨの呆れた声で我に返った。
「全く、朝からぼーっとしてんなっては思ってたけど、しっかりしろよな」
「反省しまーす。んで、結局何の話してたの?」
「一発ぶん殴っていい?」
昨日会ったばかりだというのにすっかり意気投合してしまったキヨに悪びれもなくそう言えば、割と本気な目をして構えだした。
「うそうそ、冗談だって。あれでしょ、今夜の作戦のやつ」
「聞いてんじゃん」
聞いていた、ではなく、ただの勘と推理だったが、どうやら当たっていたようだ。
「レトさんのために、また最初から説明するけど・・・・・・・・・・」
キヨは何だかんだ言いつつ、律儀にもう一度説明し直すらしい。
レトルトは今度こそ邪魔な思いを頭から追い払って、キヨの言葉に集中する。
「もう知ってる通り、今夜トライデントうちの最大の収入源であるヤクの取引がある。多分、これまでの事を踏まえて一番大きな取引になると思う」
「はい、キヨ先生」
「なんだい、レトルトくん」
「「これまでの事を踏まえて」って、どういう意味ですか?」
「こういうヤクの取引って、初めから大きな額と量をやり取りしないんだよ。買いとる組織の財力とか拡散力とかを鑑みて、大きい取引をするに値するかどうかを見極める」
レトルトの事を裏社会の一年生だと認識しているキヨは、丁寧に教えてくれる。
そんな彼の優しさに漬け込むように、レトルトは情報を搾り取っているのだ。
いつか検挙する前にでもお高いご飯でも奢らねば。
謎の使命感に駆られて、レトルトは頷きながらも自分自身にツッコむ。
「なんでやねん」と。
そもそも国をダメにする代表である薬を売ってる時点でかける慈悲はないというのに、キヨの不思議と人を惹きつける力のせいでレトルトも絆される所だった。
「それで、今回の取引が太客になる決定打だと」
「おう。だからこっちも財源のヤクを大量に運ぶわけだから、なんかあったらすぐオレらの首が飛ぶぞ」
この首が飛ぶ、とは比喩表現ではなく、まさしく胴体と頭の別れを指しているのだろう。
ごくりと生唾を飲み込んだレトルトを見て、キヨは苦笑する。
「そうなんねーために、よく作戦聞けっての」
「はーい。それにしても、意外とキヨくん考えてるんだね」
「それ、どーゆー意味だよ」
これまでの取引を踏まえて、だとか、作戦を伝えるところなど、レトルトより年下であるのに色々と考えているようだ。
そのことを伝えると、キヨは拗ねたように唇を尖らせた。
「怒るぞ、って言いたいとこだけど、実際オレがそう考えた事でもねーんだよなぁ」
「ん?」
どうやらレトルトの想像通り、キヨはそこまで考えているわけではないようだ。
「今回の取引がデカくなるとか、作戦とか考えてんのは全部うっしーだよ。あいつ、ああ見えてこの組織の参謀だから」
「へー」
キヨは「ああ見えて」というが、レトルトから見て牛沢は予想通りの役職だった。
裏社会のものであるというのに細く白い体、ちらりと知性を覗かせるメガネの奥の三白眼。
レトルトがボロを出せば、すぐに正体を暴いてきそうな要注意人物だ。
それはキヨにも言えることで、彼の野性的なカンの鋭さは舐めてかかるとこちらの足が掬われるだろう。
やはり裏社会に属しているだけあって、一筋縄ではいかない。
「ちなみに今日の作戦にも、うっしーは参加すんの?」
「そうなんじゃね?オレの部下とうっしーの部下とで」
レトルトはきょとりと目を瞬かせた。
日本最大級の規模を誇るトライデントの大きな取引に、たったこれだけの人数しか掛けないのか。
「メンツだよ、メンツ。オレたちはお前らが何を起こそうが、問題ありませんってな」
レトルトの疑問を察したキヨは、補足してくれた。
「これで本当に問題が起こったら、結局おれらのせいになるんでしょ?」
全くもって理不尽な世界だ。
メンツのために人員を割いたばかりに、人死がでてしまっては滑稽としか言いようがない。
キヨとレトルト、牛沢はトライデントにとってはその程度なのか。
失敗しても成功しても、トライデントのメリットになる限りはどうでもいい。
この作戦は、どうしてもレトルトにそう思わせた。
「何を勘違いしてるか知んねーけど、オレ達はトライデントの中でも最高戦力に当たるくらい強いんだぜ」
どうやらレトルトの予想は正反対だったらしい。
キヨ達は使い捨て用ではなく、有能な駒であるが故にこの最低限の人数になったそうな。
だからといって、何の役にも立たないレトルトからすれば危険には変わりないという話しだが。
「それならおれ別にいなくてもよくない?足引っ張るだけだよ?」
任務のために作戦を辞退するという選択肢は無いに等しいのだが、正直言ってレトルトは危険なことに頭を突っ込みたくない。
もし問題が起こって流れ弾にでも当たれば、仏の仲間入りは間違いないだろう。
「そう言ってたら、いつまでたっても役立たずなままだって」
「おいっ、誰が役立たずだ」
誰もそこまでとは言っていない。
「習うより慣れろって言うでしょ?実際、現場に行かねーと何も分かんねーよ」
「うう・・・・・・・」
最もなキヨの返答に、レトルトは唸り声を返すだけだ。
どうやらレトルトがここで駄々を捏ねても、作戦に参加するという決定事項は変えられないらしい。
レトルトは涙目になりながらも、渋々腹を括った。
一応キヨから護身用として組織から支給される銃をありがたく頂戴し、作戦開始の夜までみっちりとビルの地下に篭ってひたすら練習用のゴム弾を撃つ。
これでも本職は刑事なので、銃の扱いに関しては普通の日本国民よりも慣れている。
が、ここでのレトルトの立ち位置はあくまでパンピーあがりのチンピラなので、扱い慣れてる感は捨てなければならない。
わざとセーフティーロックをつけたままにしたり、装填の仕方が分からないようにしたり。
命中率はといえば、隠さずとも元から悪いのでその点に関しては些か気は楽だ。
「オレの周り銃の腕が異様にいいヤツらばっかだから最近落ち込んでたけど、レトさん見てたらなんか元気出たわ」
「喧嘩なら買うけど?」
約数メートルほどしか離れていない的に一つも掠らなかった跡を見て、キヨが満面の笑みでそう言う。
警察学校時代から射撃の授業はそれほど嫌いではなかったが、試験ギリギリラインで合格したレトルトの腕前はやはり本職からするとチンケなものであるらしい。
刑事であるレトルトからしたら、非常時以外銃を撃ってはいけないので別に困りはしないが。
「とにかく、もし何かあったら自分の身は自分で守んねーと死ぬぞ!ほら、あともうワンセット──────」
キヨが新しいゴム弾を用意しようとするが、時計の針はそろそろ作戦時刻に迫っていた。
二人で顔を見合わせて、仕方ないと後ろ髪をひかれながら演習場を後にする。
懐に忍ばせた本物の銃は、その責任の重さを表すようにずっしりとレトルトの心臓にもたれかかっていた。
スーツの上からその重さを感じ取りながら、レトルトは組員が運転する車にキヨと乗り込んだ。
「この車の荷台に結構な額のヤク積んでっから、車走らせてる間も気ぃ抜くなよ」
「OK」
勿論その気をつける相手は取引先ともう一つ、レトルトの巣である警察のことも言っているのだろう。
パトカーを見るだけでこんなに緊張するなんて初めての経験だ。
しかも車がどんどん取引場所に向かっているのを感じ取って、レトルトは握りこんだ手にびっしょりと汗をかいていた。
「レトさん、ヤクを売んのは初めて?」
緊張を紛らわせるためか、キヨはそう聞いてきた。
レトルトは窓の外から目を離さずに、小さく頷く。
設定上でも現実でも、レトルトは薬を売ったことはない。
ちなみに管轄が違うので、その検挙もした事がない。
でも職業柄、薬に手を出したものの末路は知っている。
皆心も体もボロボロになっていき、やがて絶望の中でゆっくりと死に向かうのだ。
その元凶を作っているのがキヨだと知って、レトルトは腹の底に静かな怒りを燻らせていた。
まるで普通の人間のフリをして、人に不幸を与えている。
それがどうしてもレトルトはおぞましかった。
「ヤクは、やっぱりよくないものだよ。今すぐ積んであるヤツを捨てたいくらい」
運転手に聞かれないくらいの声量で呟いた時、レトルトははっとする。
今のレトルトの立場は、汚いことも厭わない裏社会の人間のはずだ。
こんな綺麗事を言っては、キヨに怪しまれてしまう。
急いで弁明しようと口を開けば、不意にキヨと目が合った。
「そう、だよな」
「・・・・・・・・っ!」
何百、何千の人々を不幸にしておいて、その顔はずるい。
何故そんなに苦しいような、諦めたような顔をするのか。
キヨの胸元を掴みたい衝動を抑えて、レトルトはキヨの言葉を待つ。
「オレは、友達とオレ以外のその他の事は、どうでもいいんだよ。ヤクを売って誰が傷つこうが、兄さんみたいな人が増えようが」
その一言で、キヨの兄がどういう経緯を辿ったのかを察した。
誰よりもヤクを恨んでいるはずなのに、どうして自分が売る側になるのか。
「この世界に入る時に、そんな綺麗な部分は全部兄さんと一緒に死んじまった。知ってるか?ヤクをやってる人って、火葬した時に骨も残らないんだぜ」
まるで心ここに在らず、という風にからからと笑うキヨに、もう怒りの気持ちはなかった。
結局キヨも薬という負のスパイラルに巻き込まれた、ただの人でしかないのだ。
車内に、重たい沈黙が落ちる。
窓の外は、すっかり人気が無くなってきていた。
そろそろ取引場所に着くらしい。
トライデントが所有する大きな倉庫に着いて、車は緩やかに停止した。
緊張と後味の悪さで凝り固まった体を解していると、キヨが車越しに笑う。
「オレは人の不幸の上でのうのうと生きる、罪深いケダモノなのかもな」
その笑みは、どちらかといえば自嘲に近かった。
自分の愚かさを知っていながら、何も出来ないもののような。
そんな、もどかしい表情。
「キヨ、くん・・・・・・・・」
何故キヨはトライデントにいるのだろうか。
何故彼は、兄を不幸にした薬をその手で売っているのだろうか。
レトルトが何も聞けずに呆然と立ち尽くしていると、後ろから足音が聞こえてきた。
咄嗟に振り返ったレトルトが懐から銃を取り出そうとすると、それよりも早く相手がレトルトの腕を掴む。
「俺だよ〜」
そう何の緊張感もなくレトルトの顔を覗いてきた足音の主は、ガッチマンだった。
「なーんだ、ガッチさんか・・・・・・。もう、驚かせんでよ」
気配なく背後に忍び寄ってきたから、キヨが口を酸っぱくして言っていた「問題」が起きたのかと思った。
相手がガッチマンだったとほっとするレトルトだったが、ガッチマンに抑えられた右手を強く握られている事に気づいた。
スーツに包まれた細腕からは想像できないほど、強い力だ。
「ガッチさ〜ん。腕、離してもらっていいですか?」
「あ、めんごめんご」
ガッチマンはそう言いながら、あっさりとレトルトの腕を離す。
見た目によらず、ガッチマンは容赦のない人かも知れない。
ここでレトルトは、ヒラから聞いていた「庭」の話を思い出した。
子供を殺しの道具にする孤児院。
そこで育ったガッチマンは当たり前の幸せも権利も、全てを奪われた。
それがレトルトには悲しくて仕方ない。
出会ってまだ一日なのに、ガッチマンはそれほど自然にレトルトの心に居座っている。
ガッチマンに向けるのは同情心でもなく、正義感でもない。
この気持ちは、一体何なのか。
答えの出ない気持ち悪さを感じつつ、レトルトは悟られないようにマスクの下に感情を隠した。
「あれ、今日の担当はヒラじゃなかったっけ?」
「ああ、ヒラなら別の任務に行ってるから、代わりに俺が来たの」
キヨの疑問に、ガッチマンは間髪入れず答える。
ここではレトルトとヒラの協力関係がバレないように面識がないフリをしていた。
だからレトルトとしてはなんのリアクションも起こさないのが正解だ。
「あ、ちなみにヒラっていうのは、オレの友人で、ガッチさんと同じトライデントの掃除係担当」
「へ〜」
二人ともが「庭」出身である事を踏まえて、トライデントでの立ち位置が手を汚す仕事というのは何となく予想がついていたが、どんな顔をすればいいのか分からない。
あんなにもレトルトと親しそうに話していたヒラは、何人もその手で殺めているのだ。
そしてこの人畜無害そうな笑みを浮かべるガッチマンも。
「ま、人が変わってもやる事は一緒だし。キヨ達はそのままでいいよ」
それだけ言うと、ガッチマンは持ち場があるのかさっさと居なくなってしまった。
ガッチマンの登場で、余計にレトルトの緊張が増す。
これでは、何かが起こりますと宣言しているようなものではないか。
(帰りてぇ〜)
気を抜けばほろりと涙が出そうだ。
海辺の冷たい風がさらにレトルトの帰宅願望を煽ってくる。
キヨの先導で倉庫の中に入ると、既に取引相手は到着しており、中で牛沢が部下を従えながら何やら話していた。
よくこんなに埃だらけでコンクリートの冷たい空間に居られるものだ。
キヨの部下が運んできた薬と一緒に牛沢の隣に並べば「おせーぞ」と文句を言われた。
それは外でガッチマンと会っていたからだ〜とレトルトが口を開く前に、キヨが「寝坊しちまって〜」と愛想笑いで誤魔化す。
しかしそんな嘘は牛沢には分かっているのか、依然怒る様子もなく「次から気をつけろ」と流した。
「さて、これが約束のものです」
牛沢はそう言って、レトルトに薬の入ったジュラルミンケースを持ってくるように指示した。
レトルトはこくりと頷いて、床に置きっぱなしのジュラルミンケースを持ち上げる。
ずっしりとした重みが腕に伝わって、レトルトの手はじんわりと汗ばんだ。
基本的に麻薬は重さで価値を計る。
二十キロ近い数量のこれは、小さなケースに入っているといえど、数千万クラスの価値があるだろう。
そしてその一グラムほどで、人の幸せが崩れるのだ。
そう思うとこのケースを取引相手に渡したくはなかった。
だがいつまでもレトルトが持ち続けるのは無理だ。
渋々ながらも渡そうとして、牛沢に片手で止められた。
「まずは先に貴方たちからでしょう?もちろん取引は現金ナマだけだ」
「おい、持ってこい」
牛沢が言うと、取引相手の男は部下に顎で指示をしながらスーツケースを持ってこさせる。
「中身を見せてもらおう」
「そちらも」
お互い分かりやすく腹を見せ合いながら、レトルトのジュラルミンケースと相手のスーツケースは同時に開かれる。
ジュラルミンケースの中には小分けにされた白い粉が、びっしりと隙間なく収納されていた。
「なっ!?」
だが相手のスーツケースには、タイマーのついた仰々しい機械が入れられていた。
授業で何度か見たことがある。
あれは紛うことなき爆弾だ。
しかもカウントダウンは、五秒前ときた。
「あ、えっ?」
「くそ!レトルト!!」
状況を理解してもなお動けないレトルトに、タックルを仕掛けるが如く牛沢が飛び出してきた。
ジュラルミンケースに入った薬が宙を舞う中、レトルトの体は牛沢に押されて床に転がる。
「シャブを渡してもらうぞ!」
初めから取引をする気はなかったらしい。
準備万端な爆弾と異様に多い組員がその証拠だ。
「死ね!」
爆弾を積んだスーツケースがこちらに迫ってくる。
レトルトは未だに床に倒されたまま動けない。
「ちっ!」
鋭い舌打ちと共に素早く起き上がった牛沢が、迷いなくスーツケースを蹴りあげる。
幸いその衝撃で爆発することはなく、爆弾は蹴られた勢いのまま敵対組員の方へプレゼントされた。
「うわぁ!!」
その瞬間、鋭い光と音が辺りに広がった。
どうやら殺傷能力のある爆弾ではなく、こちらの行動を制限するためのものだったらしい。
だからといって防げる訳もなく、咄嗟に腕で庇いきれなかったレトルトは直に音と光を浴びてしまった。
視界は一面真っ白で、聴覚はキーンという鋭い音だけしか聞こえない。
(まずい!!)
自分の心臓の音さえ聞こえない緊張感の中で、落ち着いてきた目に銃を構える男が見えた。
その銃口は、薬を持つレトルトの心臓に向かっている。
「・・・レ・・・・ト・・・」
どこかで牛沢がレトルトを呼んでいる気がしたが、先程の衝撃で体が動かない。
恐らく瞬間的に強い衝撃を食らって、脳が麻痺しているのだろう。
こんな所で終わるのか、とレトルトが目を閉じようとすると、銃を構えていた男がゆっくりと倒れていくことに気づいた。
「え・・・・・・・?」
黒いスーツでも分かるほど鮮明な血を吹き出しながら、男は仰向けに倒れる。
その心臓にはレトルトを撃ち抜くはずだった銃弾が埋め込まれていた。
「レトルト!無事か?」
万全とはいかないがようやく戻った視覚と聴覚が、牛沢を捉える。
のろのろと牛沢の方を振り向けば、彼は動けないレトルトを引きずって遮蔽物に隠れていた。
「っぶねぇ〜。ガッチさんがいなかったらどうなってたか」
「・・・・・・・・・・ガッチさん、が?」
どうやら殺されそうになっていたレトルトを助けたのは、先程別れたばかりのガッチマンらしい。
ほら、と指を差す牛沢の方を見れば、そこには少し離れた二階から、ガッチマンが敵側に向かって狙撃をしているのが見えた。
その構え方は堂に入ってて、サイレンサーをつけているにも関わらずその命中率はほぼ百パーセントに近い。
だが相手も蜂の巣を回避するために、車の影に隠れ始めた。このままではライフルだけで仕留めるのは難しくなるだろう。
「キヨ」
「っし!やっと出番か」
止んだ銃撃戦の間に、牛沢が隣で待機していたキヨに命令した。
キヨは二丁の銃を構えながら、にっと不敵に笑う。
「あぶ、ないよ」
よろよろになりながらもレトルトがキヨの裾を握れば、問題ねーよと離された。
「オレはこういう時のための鉄砲玉なの」
それだけ言うと、キヨが敵に向かって駆け出した。
その背中に迷いや恐怖は一切感じられない。
猫のようなしなやかさで走るキヨの隣に、音もなくガッチマンが並ぶ。
「いける?」
「あたぼーよ!」
二人はそれだけ言葉を交わすと、見事な運動神経で遮蔽物を飛び越えながら敵陣に突っ込んだ。
「狩りの時間だ」
ガッチマンがうっそうと笑いながら、凶弾で敵の命を奪う。
その光景に、レトルトは目が離せなかった。
「おい、薬をかき集めろ。帰る準備するぞ」
まだ戦闘は続いているというのに、牛沢は早々にそんな指示を出す。
一緒に攻撃をすれば、彼らが死ぬ確率も下がるのではないか。
レトルトがそんなことを考えていると、察した牛沢が振り返った。
「あの二人に援護射撃は必要ねーよ。寧ろ、邪魔になる」
遠い目で彼らを見る牛沢に倣って、レトルトもそちらを見た。
確かに縦横無尽に動き回る二人にこちらも銃で援護しようものなら、その流れ弾が彼らに当たるかもしれない。
そしてレトルト達が助ける暇もなく、彼らは確実に敵の息の根を止めるだろう。
それほどまでに、彼らは強かった。
敵を圧倒的な力でねじ伏せるキヨとガッチマンに構わずに、牛沢は淡々と薬を詰め込み帰る準備をしている。
その間に着々と二人は死体を重ね、気づけば敵側のリーダーである男だけが残った。
「汚ったねぇ〜戦利品」
キヨは男の短い髪の毛を掴んで、仲間の血で汚れた床をズルズルと引きずる。
「くそ!くそ!たった二人なのに!!」
男は必死の抵抗虚しく、キヨによって牛沢の前に提出された。
「よお、クソ野郎。人との約束事を反故にしてはいけませんって母ちゃんから習わなかったのか?この犯罪者ぁ」
先程のなけなしの敬語は完全に取り払われ、青筋を浮かべた牛沢が男の胸ぐらを掴みながらそういう。
「普通に金さえ渡せば、今まで通り商売を続けられたかもしんねーのによ」
金も薬も得られず、今日の収穫は何もなしだ。
「んでこんなことした?」
いっそ子供のような無邪気さで、男と目線を合わせたキヨが首を傾げる。
「最近お前らがシャブを独占しているせいで、相場が狂ってんだよ!!ただでさえシャブ不足で値上がりしてるってのに・・・・・・・・・」
「要するに、俺たちから買い取るには高すぎるから、シャブを奪って金儲けしようとしてたってわけか」
牛沢が呆れたように頭をかきながらそうまとめる。
その言い分が当たっていたのか、男は目を見開いたまま顔を背ける。
全くもって馬鹿な話だ。
いくら裏社会に染まっていないレトルトといえども、その無謀さに足を掬われることは知っている。
今や日本にトライデントの息がかかっていない裏の組織が無いというのに、この男たちはそのトライデントに喧嘩を売るなど命知らずも良いとこだ。
現に今も、男の周りは死体で溢れている。
刑事として目の前の死に無念を覚えるが、それよりも自分がああならなくてよかったと心底吐き気がするような自己中心的な考えが浮かんだ。
「残念だったな。このまま大人しく金さえ積んでりゃ、もう少し長生き出来たってのによ」
キヨが狂気的に笑いながら、励ますように男の背中を叩いた。
男はいよいよ殺されるという事を知ってか、未だに銃口を向けるガッチマンにすがりつく。
「お、お願いだ!殺さないでくれ!!金ならこれまで以上に払う!!俺には、まだやりたいことが・・・・・・・・」
饒舌に縋り付く男に、ガッチマンは首を傾げながらトリガーに指をかけた。
「大丈夫。次生まれてきた時に、今やり残した事全部やればいいからさ」
いっそ天然とも思えるその言葉に、男は呆然とガッチマンから手を離す。
「あ、悪魔め・・・・・・・・!もしかして、お前が「ソシオパスの悪魔」・・・・・・・・!!」
その問いには答えずに、ガッチマンは必死に逃げようとする男の両足を撃った。
「う、ぐぁぁぁあああ!!」
「悪趣味〜」
耳を劈く叫び声に、キヨはそう呟く。
それを隣で聞いてたガッチマンは、純真無垢な顔で笑う。
「そう?逃げる人を殺すのは楽しいよ?」
ぞくりとするような狂気を滲ませながら、ガッチマンはついにトドメの一発を放つ。
男は間の抜けた音と共に脳漿を撒き散らしながら床に倒れ込んだ。
目の前で平然と行われた死に恐怖を覚えながらも、レトルトは動揺に体を縛られていた。
男が言った「ソシオパスの悪魔」とは。
ヒラが初めて会った時に言った「ソシオパスの悪魔」と同じものか。
それならば大量殺人を犯し、日本中の警察が血眼になって探している「ソシオパスの悪魔」はガッチマンなのか。
ふらりと倒れ込みそうになった所を、牛沢に支えられる。
「死体を見たらそうなるよなぁ。俺も最初はそうだったし。もう慣れたけど」
牛沢は都合よくレトルトが恐怖のあまり腰が抜けたと判断する。
だがレトルトは死体への恐怖よりも、ガッチマンへの困惑が大きかった。
今までのように人の命を踏みにじる「ソシオパスの悪魔」に怒りはあるけど、それがガッチマンだと知ってレトルトはこれまでのように恨むことは出来なくなっていたのだ。
ガッチマンは「庭」で大人に利用された子供で、こうなったのは彼のせいだけではない。
本当は優しくて、寂しがり屋な事は知っている。
会って一日しか経っていないけど、レトルトはどうしてもガッチマンを恨みたくなかった。
「だっさい名前」
暫く無感動に死体の山を見ていたガッチマンがそう呟いて、踵を返す。
その背中はなんだか寂しげで、レトルトは思わず手を伸ばした。
その大仰な名前に似合わない細い背中を、昔もどこかで見たことがある気がする。
それは恐らく、レトルトが「忘れている」であろう記憶の中だ。
「ほら、オレ達も帰んぞ」
ジュラルミンケースを拾ったキヨに肩を借りて、ガッチマンと反対方向へ歩く。
ついぞ伸ばしかけた手は誰にも気づかれずに、何も得られる事の無いまま後味の悪い虚しさだけを残して長い夜を迎えた。
あの後すぐに事務所へ帰って解散したレトルトは、少し離れた所にある繁華街に足を運んだ。
疲れた体を早く労わって魅惑のベッドに潜り込みたいが、まだ刑事としての仕事が残っている。
レトルトは後をつけられていない事を随時確認しながら、とあるビルに入る。
重たい観音開きの扉を開けると、そこは頭を揺らすほどに大きな音が流れるクラブだった。
薄暗い店内には男女が半々の割合でひしめき合い、ミラーボールと音楽に合わせて腰を揺らしている。
ここを指定してきた協力者に、レトルトは顔が歪む。
慎ましく静かに暮らしたいレトルトとは無縁の場所だ。
狭い通路を四苦八苦しながら抜け、ボディーガードの立つ二階への階段を顔パスで通る。
ガラス張りの螺旋階段を登れば、ホールで踊る人達がよく見えるスキップフロアのような場所についた。
階段の入口やホールは人で溢れているというのに、ここにはレトルトともう一人の男しかいない。
「お疲れ様」
手すりに凭れてホールを見ていた男──────ヒラがこちらを振り返る。
その手には、飲みかけの酒を持っていた。
丸くカットされた氷と、申し訳程度の量しかない琥珀色をした酒。
「強い?」
酒の度数を聞けば、曖昧に濁された。
それほど酒を嗜んでいるようには見えないが、答えないのでどちらともとれない。
レトルトからすれば、どうでもいい話ではあるけれども。
「レトさんも飲む?チューハイからウォッカまで選り取りみどりだよ」
「まだ勤務中だから飲みませーん」
「お堅いなぁ〜」
勤務中以外でも酒は弱いので飲まないが、あえて自分から弱点を言うものでは無い。
仮に酒を飲めたとしても、今の気分的に気持ちよく酔えそうもなかった。
レトルトの浮かない顔を見たヒラは、目を悲しげに伏せる。
「その顔だと、ガッチさんがソシオパスの悪魔だって気づいたみたいだね」
「黙ってたなんて酷いじゃん」
そのせいでなんの準備も出来ずに衝撃的な事を知っしまった。
レトルトは重たいため息をついて、ヒラに恨み言を言う。
「レトさんには、なんの先入観もなくガッチさんを知って欲しかったからさ」
「おかげさまで、ずっと胸くそ悪くて仕方ないよ」
澱が心に沈殿して、上手く息ができない。
そんな感覚に陥っているようだ。
「ごめんね、こんな世界に引き摺り込んじゃって」
申し訳なさそうにヒラは言うが、実際レトルトに潜入捜査を命じたのは警察で、それを受けたのはレトルト自身だ。
刑事になったあの日から、いつかこういう日が来るのではないかと覚悟していた。
覚悟していた、はずなのに。
どうしてもレトルトの正義に、ガッチマンという雲がかかってしまう。
ソシオパスの悪魔がガッチマンじゃなければ。
ガッチマンがもっと悪いやつだったら。
こんなにも苦しまなくて済むのに。
あっさりと自分の正義を貫けるのに。
クラブの中は騒がしいというのに、レトルトとヒラの周りだけは時が止まったように静かだった。
そんなどんよりとした空気から逃れるように、ヒラは酒を呷る。
その下ろされたマスクから覗いた口元には、大きな傷跡が見えた。
唇の端から丁度マスクで隠れる頬の頬の辺りにかけて、皮膚がめくれている。
そこはもう再生しないのか、随分と年季の入った傷跡だった。
「へぇ、立派なもんじゃん」
気づけばレトルトは、そう零していた。
こんな傷跡なんて、刑事をやってりゃそれなりに見る。
殺傷事件で目にナイフが刺さった同僚。
爆弾処理で全身が焼け爛れながら生きている上司。
犯人の乗る車を追いかけて轢かれてしまい、両足を切断した元刑事。
グロいのが平気という訳では無いが、損傷の激しい遺体を見る機会もあるので、顔の傷ではそうそう驚かない。
「顔の傷は意外と困るよ。人目に付くような飲食店は入れないし、夏でもマスク取れないし」
ヒラも大して気にする事無く、自身の傷を指しながら言う。
確かにこんな傷が顔にあれば、職務質問は待ったナシだ。
レトルトだって巡回中に素顔のヒラを見れば、絶対に声をかけている。
「分かる。おれも背中にでっかい傷があるからさ、銭湯とか海とか行けないんだよね」
レトルトはけろりとそう告白して、空中に斜めの線を書いた。
それは背中の傷を表したものだ。
「レトさんにも傷あるの意外〜。やっぱり犯人にやられたとか?」
「違う違う。というかおれまだペーペーだから、そんなサスペンスドラマみたいな経験はしてないよ」
この背中の傷は、レトルトが幼い頃にできたものらしい。
らしい、というのは、レトルトにその時の記憶が無いからだ。
どうやら崖から誤って落ちてしまったレトルトは、運良く命は助かったものの頭と背中に大きな傷を負ってしまった。
そして傷の他にレトルトが失ったものは、記憶だ。
レトルトには小さい時の記憶が殆ど無い。
何かの事件に巻き込まれて傷を負ったらしく、幼いレトルトがトラウマにならないようにと沢山の刑事が慮ってくれた。
その優しさに触れたレトルトが警察官を目指すようになったのは、自然の成り行きだっただろう。
だがこんな苦しい世界に飛び込むとは、思ってもみなかった。
自分が絶対的な正義で、この世から全ての悪を除けるとそう信じていたのに。
幼い頃の勝手で傲慢な夢を苦笑しつつ、暫くヒラと取り留めもない話に興じる。
「それで?結局何かの手がかりは得られた?」
ヒラの言う手がかり、とはトライデントを一斉検挙するための材料だろう。
それはトライデントが悪事に手を染めていたという証拠であり、ボスがどんな奴でどこにいるかの情報、トライデントがどんな策で嵌るのかという弱点だ。
レトルトがトライデントに潜入してまだ二日しか経っていない。
ガッチマンがソシオパスの悪魔だったということが一番の収穫だろうが、この事はまだ警察に報告したくはなかった。
明らかな命令無視、業務放棄だが、それでもレトルトの意思は固い。
「なーんも。手っ取り早くあのビルのどっかに証拠とか置いてないの?」
それならこっそりと盗み出して報告書と一緒に提出するのに。
「うーん。多分あるとしたらもっと上の階だと思うけど、おれも上層階への立ち入りは制限されてるしなぁ・・・・・・・・・」
ヒラが入れない、ということは、レトルトも出来ないということだ。
ガッチマンが初めに説明したように、社員証に化けたカードキーが必要になる。
そんじょそこいらの事務所とは違って、セキュリティがしっかりしているようだ。
「あ、そうだ」
行き詰まったレトルトが頭を抱えていると、ヒラの声が救世主のように降り掛かってきた。
「確か牛沢さんも同じフロアで働いていたよね。牛沢さんは、トライデントのデータベースの全てを閲覧出来る権限をもってる」
「ってことはうっしーの仕事を手伝うとかの名目で近づいて、ハッキングとかデータを盗んだりとかは!?」
周りの爆音に紛れるような声量で叫べば、ヒラは曖昧な顔をした。
「そっちの方がいいとは思うけど、牛沢さんが安全とは言えない」
「というと?」
「牛沢さんの勘は鋭いし、情報収集能力もえげつない。少しでもボロを見せたらすぐに殺されるよ」
「うっしーじゃなくても、おれの正体がバレたらみんな殺しに来るでしょ」
トライデントに傾倒するガッチマンだけではなく、優しく接してくれた牛沢や弟のようなキヨも、一切の躊躇いなくレトルトを殺してきそうだ。
「キヨはああ見えて人情深いから、レトさんを助けてくれるんじゃないかってちょっとだけ期待してたり・・・・・・・」
ヒラはそう言いながらも「そりゃないか」という顔をしている。
そんな希望的観測でしかない期待は、不安過ぎるだろう。
「とにかく!牛沢さんは危険、ガッチさんはもっと危険だから、あんまりキヨとおれ以外の組員と接触しないこと!」
「無理があるって・・・・・・・・・」
この潜入捜査の雲行きが怪しくなって、レトルトは手が勝手に震える。
これは武者震いだと思いたい。
震えるレトルトとそれを見守るヒラが言葉を交わすことなく黙っていると、こちらに一人の男が近づいてきた。
「ボス、ちょっといいですか」
「うん」
どうやらヒラはこのクラブのオーナーだったらしい。
大人しそうな見た目にそぐわず、しっかりと裏社会に染っているようだ。
レトルトは念の為、男に見られないようホールの方を向いた。
レトルトの眼下では、所狭しと群がった男女が音楽に合わせて腰を振っている。
その顔は呑気で幸せそうだ。
「とうしたの?」
背中でヒラの声がするが、肝心の男の声は聞こえてこない。
恐らくヒラに耳打ちしているのだろう。
「・・・・・・・・・・そっか、分かった。今から向かうと伝えて」
「・・・・・・・・よろしいのですか?」
「いいから」
「・・・・・・・・かしこまりました」
不服そうな男はそれだけ言うと、スタスタと帰ってしまったようだ。
ヒラの気配しか無いことを確認して、レトルトは後ろを振り返る。
ヒラは残っていた酒を一口で呷ると、乱暴に口元を拭った。
「お仕事?」
「・・・・・・・・・まあね」
今から向かうと言っていたので、今夜はこれでお開だろう。
察したレトルトが別れの挨拶をしようとした時、ヒラがこちらを真っ直ぐに見据えた。
「なに?」
ヒラの黒目がちな丸い目で見られると、居心地が悪くなってしまう。
戸惑いながらレトルトが首を傾げると、やがてヒラはマスク越しでも分かるほど満面の笑みを浮かべた。
「レトさん。おれが始めたこの物語が、どんな結末になっても自分を責めないでね」
「?」
どういう意味なのだろうか。
ヒラは時々不思議なことを言うが、今の言葉は何の脈絡も無くて意味不明だ。
確かにこの潜入捜査はヒラの密告で始まったが、その結末を責めるとはどういうことだろうか。
しかもレトルトが自分を責めるな、とは一体。
頭上で沢山のハテナを浮かべるレトルトに構わず、ヒラは階段に向かって歩き始めた。
「という訳で、ガッチさんを頼んだよ」
「ちょ、ヒラくん・・・・・・・・・?」
嫌な予感がしたレトルトが引き留めるも、ヒラは構わずに降りてしまう。
行き場の失った手を仕舞えずに、レトルトは困惑しながら項垂れた。
薬の取引が敵方の死体の山で終わり、疲れ果てたレトルトだったがその日も眠れなかった。
刑事をやっていると不眠不休のサービス残業は当たり前なのだが、こんなにも疲れているのは初めてだ。
それでも眠ることもできずに、フラフラとトライデントのビルへ向かう。
エレベーターで十四階まで上がり、夢現なままキヨが居るであろうオフィスを開けた。
「はざまーっす・・・・・・・ってあれ?キヨくん?」
いつも不遜な態度で机の上に足を置いているキヨだが、今日はその姿はなかった。
周りのデスクにも空席が多く、先に出勤していた何人かの組員はレトルトの挨拶に返答もしない。
(非番かな)
ブラック企業の代名詞とも言われる(レトルトの中で)裏の会社で、非番などあるのか。
よく回らない頭でそんな事を考えながら自分のデスクに腰掛けると、隣から気配がした。
「よお。おはよーさん」
そうやって気さくに話しかけてくれるのは、ここではあの三人しかいない。
レトルトは緊張を悟られないように、自分の心を落ち着かせる。
「うん。はよ、うっしー」
話しかけてきたのは、同じオフィスで働く牛沢だ。
昨日ヒラから口酸っぱく牛沢を信用するなと言われていたので、レトルトは緊張感を持って接しなければならない。
とはいえ、相手は気が抜ける程に自然体で接してくるが。
「キヨくんは?見かけないけど」
そこら辺のコンビニで買ってきた朝食にかぶりつきながら聞けば、牛沢は「あー」と何かを思い出す素振りをした。
「キヨは今、昨日の報告書で潰れてる」
「報告書?」
昨日といえば、薬の取引が失敗に終わったあの件か。
一応キヨ自身とガッチマンが裏切った相手を皆殺しにしたが、何かの罰が当たるのだろうか。
こちらに非が無いとはいえ、金は回収できず薬もドンパチで半分を失ってしまった。
(まさか小指を詰めないといけないとか?)
レトルトが最悪の想像をしていると、察した牛沢が苦笑するように否定した。
「そんなに心配しなくても、何のお咎めもねーよ。ただこういう時ボスに伝えるために報告書を書くきまりなんだ」
まるで普通の企業の中間管理職のようだ。
キヨのナリで中間管理職とは、笑う所だろう。
「へぇ。おれ、なんかする事ある?」
報告書や始末書は刑事なので慣れている。
何か手伝おうかと腰をあげるが、牛沢からの返答は「何もねーよ」だった。
「お前はまだ新人だからな。今日は大人しく座っとくか、みかじめ料の徴収に行ってこい」
「えー!」
ずっと座っているのはいいとして、みかじめ料の徴収だけは嫌だ。
レトルトは逆にカツアゲされそうな見た目をしているし、何よりも道理の適わないお金を取るのは無理だ。
それに大してトライデントの情報も得られないだろう。
「それならうっしーの所で働かせてよ」
ヒラは危険だと言っていたが、虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。
多少のリスクを背負ってでも、証拠は抑えないと。
そんな下心をおくびにも出さずにお願いするが、牛沢は渋い顔をするだけだ。
「お前、何ができんだよ」
「えーっと、パソコンとか?」
Excel、PowerPoint、Wordは一頻り使えるし、なんならそんじょそこいらの一般人よりも詳しい気がする。
「却下。パソコン作業は俺でしか扱えない機密情報が詰まってっから」
「ですよね〜・・・・・・・・」
だがレトルトの提案はにべもなく却下されてしまった。
やはりそう簡単に頷いてはくれない牛沢に諦めることなくレトルトは食いつく。
「そ、それなら別の仕事ちょうだいよ!」
「なら、他に何かできることは?」
呆れ気味に聞いてくる牛沢に、レトルトはぎくりと肩を揺らす。
レトルトに出来ること。
そう考えれば考えるほど、自分に出来るものの方が少ないような気がしてきた。
運動や銃の扱いは人並み以下だし、裏社会の知識は警察学校で習った程度しかない。
そのため意見を求められても答えられないし、何よりボロが出そうで怖い。
数秒の思考した後、レトルトはがっくりと項垂れた。
「ナニモ、ナイデスネ・・・・・・・・・」
「どうしようもねーな」
牛沢の淡々とした調子がグサリと心に刺さる。
まるで「別に初めから期待なんてしてません」とでも言いそうな感じだ。
「じゃあ何すれば・・・・・・・・・」
レトルトが我慢できなくなって牛沢の雑用でも引き受けようとすると、いきなりこのオフィスのドアが開かれた。
それはもう蹴り開けるような勢いだったので、レトルトは飛び上がってしまう。
そんなダイナミック入室をしたのは、報告書で潰れてるはずのキヨだった。
「ノックくらいしろよな」
同じように驚いた牛沢が誤魔化すようにキヨに言うが、彼は入口で黙って突っ立ったままだ。
いつもならヘラリと小ボケをかましてくるというのに、それがないと調子が狂う。
「えーっと、どったん?」
レトルトが近づいてキヨを覗き見ると、その顔が今にも倒れそうなほど真っ青であることに気がついた。
「キ、キヨくん大丈夫?!」
思わず駆け寄ろうとしたレトルトだったが、今にもこちらを射抜きそうな目がぎょろりと剥いて、レトルトは足を止めた。
間違いなくキヨは殺気立っている。
動けないレトルトに変わって、牛沢がキヨに落ち着くように言う。
肩で息をしているキヨは、やがて絞り出すように口を開いた。
「ヒラ、が、殺された」
(なっ!?)
レトルトはすんでの所で、リアクションを間違えずに済んだ。
表面上は冷静に顔を取り繕うことが出来たが、頭の中ではかつてないほどパニックになっている。
ここでキヨのように取り乱しては、何故レトルトがヒラを知っているのかと二人に疑われることになるだろう。
しかもキヨが殺気立っている今、間違った事をすれば要らぬ誤解を与えて最悪の場合殺されてしまう。
あくまでレトルトはヒラと会ったことがない、というテイをしなくてはいけないのだ。
「えっと・・・・・・・・「ヒラ」くんって、キヨくんの友達の?」
確認するように聞くが、レトルトの問いは二人に聞こえていなかった。
それほど衝撃的な知らせであり、余裕が無いのだろう。
「ヒラは「庭」出身だろ?自殺じゃねーのか?」
「自殺であんな正確に脳幹を撃ち抜けるわけねーだろ!!」
声を荒らげたキヨが牛沢の胸ぐらを掴むが、それでヒラが生き返る訳では無い。
キヨは弱々しく牛沢から手を離した。
(なんで「庭」出身だと自殺と結びつくんかな)
レトルトは二人の邪魔をしないように、目を伏せて考える。
ヒラも「庭」について説明をする時に、効率のいい自殺の方法を学ぶと言っていた。
レトルトの推測が正しければ、きっと敵に情報が漏れないようにする為に自殺を促すのだろう。
子供たちを利用した挙句そんな事をさせるとは。
レトルトの中で益々トライデントが許し難い存在になってきた。
「ヒラ、が自殺じゃないのは、確定事項だ。手に硝煙反応は無かったし、何よりヒラの周りには部下の死体もあった」
ようやく落ち着いたたキヨが、頭を抱えながら項垂れる。
確かにキヨの言う通り、ここまで揃えば自殺とは言い難い。
牛沢は苦虫を噛み潰したような渋面になって、顎に手を当てる。
「他殺だとしても、腕の立つヒラを殺れるヤツなんてそうそう・・・・・・・・・・」
牛沢の言葉が詰まる。
その顔は、何かに気づいたようだ。
それと同時に、レトルトもある一人の人物を思い浮かべていた。
昨日の死体の山、鮮やかな動き、躊躇いのなさ。
「うっしーも気づいてんだろ?ヒラを殺ったのはガッチさんだって」
キヨが地獄の底から憎んでいるような声で、昨日まで背中合わせで戦った仲間の名前を呼ぶ。
兄弟のような、親子のような、そんな関係に見えたのに。
レトルトは信じたくなくて、まさかと気づけば口に出ていた。
「な、なんでガッチさんが殺すんだよ」
何故殺したかなんて、レトルトが一番よく知っているはずなのに。
ヒラの密告がバレたのだ。
だから、殺された。
そういえば昨夜ヒラとの別れ際にレトルト以外の客人が来ているようだったが、それがガッチマンだったかも知れない。
そしてヒラは殺されるという事を分かっていながら、ガッチマンの元へ向かった。
昨日の遺言のような最後の言葉が、それを裏付ける証拠だ。
レトルトがあの時気づいていれば、ヒラを逃がしていれば、ヒラは死なずにキヨも悲しまないで済んだのだろうか。
そんな取り返しのつかない「もしも」ばかりを考えてしまう。
「ガッ、チさんが、殺したっていう、証拠はねーだろ?他の・・・・・・・誰かかも知れんし」
いち早く衝撃から抜け出した牛沢が、冷静ではないキヨを宥めようとする。
「そうとしか考えらんねーだろうが!!ガッチさんは組織の為なら友達だって・・・・・・・オレらだって殺せるヤツなんだ!」
「落ち着けキヨ!本当にガッチさんが殺ったかどうか、まず確認しねーと・・・・・・・・・」
どこか危うさを感じるキヨを止めようとした牛沢だったが、ついにキヨに我慢の限界がきた。
「っ!」
キヨはスーツの懐から銃を取り出すと、牛沢の頭に照準を合わせた。
「これ以上ガッチさんを庇うんなら、お前も共犯とみなす」
「キヨくん!」
慌ててレトルトがキヨを止めようとするが、牛沢の気も元々長くはない。
「やってみろよ。その前にお前の首飛ばしてやんよ」
瞳孔を開いて、牛沢もいつの間にかキヨの首元に短刀を添えている。
「やめろ!二人とも冷静になれ!」
一触即発の空気の中で、レトルトは意を決して二人の間に無理やり入り込んだ。
牛沢はキレてはいるが、その実頭は冷静なままである。
ここはキヨに重点を置いて説得した方がいいだろう。
レトルトはそう判断して、キヨの目を見据え続けた。
「・・・・・・・・・チッ!」
先に根負けしたのは、キヨの方だった。
彼はレトルトの視線を遮ると、スーツの裾を翻して踵を返す。
「もういい。ガッチさんに直接聞いてくる」
そう言って、キヨは乱暴に扉を開けてオフィスから出ていってしまった。
それに焦ったのは牛沢だ。
「レトルト!急いでアイツを追いかけろ!俺はキヨより先にガッチさん見つけてくる!」
「す、スマホとか持ってないの?」
「アホか!ガッチさんがスマホ扱えるわけねーだろ!んな事より早くキヨを追え!」
「わ、わかった!」
半ば牛沢から怒鳴られる形で、レトルトは慌ててキヨを追いかける。
追いついた所でなんと声をかけていいのか分からないが、牛沢の言う通りにしないといけない。
レトルトは非常階段前のロックに急いで社員証を翳して、重たい扉を開ける。
無機質な手すりを乗り越えて下を見れば、随分離れた所でキヨが階段を降りているのが見えた。
どうやら地下に向かっているようだ。
地下には演習場の他に駐車場がある。
恐らくキヨは車でガッチマンを探すつもりなのだろう。
それならキヨが車に乗る前に、なんとか説得しなければならない。
レトルトは踏み外さないように気をつけながら、急いで階段を駆け下りる。
地下へ通じる扉を開けると、沢山の車が止まっていた。
薄暗く視界が悪い中で、キヨはよく目立つ。
その長身と派手な髪色に感謝しつつ、レトルトは慌てて後を追う。
「ま、まって!キヨくん!」
レトルトの声は確実にキヨに届いたはずだ。
それなのにキヨは止まる気配がない。
なんとかキヨの足を止めなければ。
その為にはキヨの気を引く必要がある。
レトルトは苦しくなった肺に空気を取り込んだ。
「キヨくん!おれも、おれも探すの手伝うから、待って!」
空気が上手く取り込めなくて嘔吐きそうだ。
それでもレトルトは声を振り絞った。
その甲斐あってか、キヨはゆっくりと足を止めてこちらを振り向く。
「死ぬかもしんねーよ?」
キヨの声は小さかったが、コンクリート張りのこの空間ではよく反響した。
その呟きに、レトルトの足は思わず止まる。
死ぬのは怖い。
それでもレトルトもガッチマンを探したいという思いは本当だし、ヒラの無念を晴らしたかった。
でもそれはガッチマンを殺すことではない。
殺されたから同じ目に遭わせるのは、違うから。
今のキヨはガッチマンを殺してしまいそうだ。
レトルトがこの殺しの連鎖を止めなければ、きっと悲しい事になる。
だから死ぬかもしれないと言われても、立ち止まることなんて出来ないのだ。
「それでも、おれは・・・・・・・・・」
また四人で無駄話がしたいから命を掛ける?
レトルトが彼らの関係を引き裂いたのに?
言葉に詰まったレトルトに、キヨは顔を背ける。
「レトさんは来んな。オレ一人でガッチさんを見つけっから」
きっとキヨはレトルトに失望したのだ。
中途半端な覚悟のまま、首を突っ込もうとしたせいで。
「ま、っ・・・・・」
キヨを追いかけるために手を伸ばそうとするが、レトルトは目を見開いて固まってしまった。
「探さなくても、俺ならここにいるよ」
キヨの背後に、いつの間にかガッチさんが立っていたのだ。
「この、人殺し!!」
背後を取られたことに驚きながらも、キヨは二丁の銃を取り出して振り向き様に構えようとする。
しかしガッチマンはナイフでキヨの前髪を数本引き裂いた。
寸でのところでキヨが身を引いたのだ。
「なんでヒラを殺した!!」
キヨは叫びながら、撃鉄を起こした。
だがそのトリガーを引く前に、ガッチマンが長い足で両方の銃を蹴り飛ばす。
「ちっ!!」
キヨは足元からバタフライナイフを取り出すと、ガッチマンのこめかみ目掛けて振りかぶる。
しかしガッチマンは後ろに重心を移動させて、そのまま流れるようにバク転で距離を取った。
お互いに実力が拮抗しているからこその、息を呑むような立ち回りだ。
「ヒラは、トライデントの事を警察に密告していた。俺はボスの命令に従っただけ」
まるでガッチマンを恨むのはお門違いだ、と言っているようだった。
キヨもそう感じたのか、更に殺気を強くする。
「それでもヒラを殺ったのは間違いなくガッチさんだろ?本当の友達なら、殺さなくてもよかったじゃねーか!!」
「それ、俺に言うの?」
「庭」出身のガッチマンは、組織の命令に絶対服従だ。
友達のために命令を無視しろ、というのは端から無理な話だった。
「なんにも、躊躇わなかったのかよ・・・・・・・・・。所詮オレらは、ガッチさんにとっちゃただの有象無象なんだろ?」
「違う。俺は、本気でお前らのことを・・・・・・・・・」
無感情だったガッチマンが、僅かに動揺した。
きっと本人はキヨ達の事を大切に思っているのだろう。
それでも「庭」で受けた洗脳が、ガッチマンの思いを縛っているのだ。
まるで、殺すためだけの操り人形のように。
そんな揺れ動くガッチマンを見て、キヨは目に蔑みの色を浮かべた。
「人間の形してんなよ、化け物が」
キヨがそう言った瞬間、ガッチマンの肩が確かに揺れた。
その隙を見逃さず、キヨがナイフをガッチマンへ突き刺そうとする。
ガッチマンはまるでそれが運命だと言うように、静かに受け入れていた。
「ガッチさん!!」
最悪の結末を見たくなくて、レトルトがガッチマンの名前を呼ぶと、暗くなっていた目が大きく見開かれた。
「レト、さん!!」
ガッチマンはレトルトの呼び掛けに応えると、諦めていたのが嘘のように素早く動いた。
胸のホルスターから銃を取ると、目の前で構える。
その時の顔は、驚いたような、絶望しているような、酷い表情をしていた。
「ガッ、チ・・・・・・・・・さ」
全てがやけにゆっくりと見える。
レトルトは満足に彼の名前も呼べないまま、ただその光景を見る事しか出来なかった。
一発の、銃声が反響する。
キヨの手から、ナイフが滑り落ちた。
「あ・・・・・・・・・」
レトルトの喉から、引きつった声が出た。
いや、もしかしたら心の悲鳴を上げたガッチマンの声だったのかも知れない。
キヨの背中に、じんわりと血が滲んだ。
黒いスーツだというのに、やけに血の色がハッキリしている。
「キヨ、くん・・・・・・・・・?」
レトルトは咄嗟に崩れるキヨを受け止めようとするが、腕に力が入らずに一緒に倒れ込んでしまった。
キヨの全体重がのしかかり、レトルトは無意識に体を引き寄せる。
触れ合った所はまだ温かいというのに、その見開かれた目はレトルトに反応しなかった。
「・・・・・・・・・う、そ」
固まるレトルトの傍で、ガッチマンは銃を落とした。
のろのろとそちらに目を向けると、驚いたような顔をしてキヨを見ている。
「俺、俺は・・・・・・・・・命令、が、命令を、守って」
かたかたとキヨを撃った手が小刻みに震えている。
まるでキヨを撃ったのは、手違いだとでも言うように。
「ガッチ、さん」
ガッチマンは、躊躇いなく引き金を引いた。
ガッチマンに、組織に仇をなすものだと認識した途端に。
彼は間違いなく、トライデントの操り人形だった。
「やめ、ろ・・・・・・・・・」
ガッチマンは必死にレトルトとキヨから視線をそらそうとしている。
(いや、違う。何かを、怖がってる?)
ガッチマンは、顔を真っ青にしながら目を遮るようにして、腕を顔の前で交差している。
「お願い、だから・・・・・・・・・そんな目で俺を、見ないで」
ガッチマンにそう言われて初めて、レトルトは彼を恐ろしいものを見るような目をしている事に気がついた。
レトルトはガッチマンから目を逸らして、キヨの冷たくなっていく体を抱き寄せる。
このまま見つめていたら、きっと酷いことを言ってしまいそうだった。
二人して動けない状況の中、レトルトの背後から焦ったように走ってくる音が聞こえてくる。
「うっ、しー」
首だけで振り返ったレトルトは、足音の主を呼ぶ。
牛沢は座り込むガッチマンと、動かないキヨを抱きかかえるレトルトを見て、全てを悟ったようだった。
「遅かった、か」
その目には、ありとあらゆる感情が浮かんでいた。
後悔、悲嘆、怒り。
だがその全ては、自分に向けているように見えた。
キヨを止められなかったのも、ガッチマンを先に見つけられなかったのも、レトルトに背負わせたのも、全部自分のせいだと思っているのだ。
「・・・・・・・・・上には、俺が報告しておく。キヨも、俺の方で処理する」
「・・・・・・・・・」
ガッチマンは、何も応えない。
まるで魂が抜けた人形のようだった。
そんな彼を痛ましそうに見て、牛沢は目頭を抑える。
「はぁ・・・・・・・・・。レトルト、取り敢えずキヨを運ぶの手伝え」
「う・・・・・・・・・うん」
レトルトはなんとか震える足で、キヨの体を支えながら立ち上がる。
キヨの長い足がだらりと引き摺りそうになるが、牛沢が持ってくれた。
「ガッチさん。これは、仕方なかった事なんだ」
いつまでも項垂れるだけのガッチマンに、牛沢は言う。
吐き捨てる、と言った方が正しいくらい、その声に感情が滲み出ていた。
レトルトと牛沢はそんなガッチマンを放って、エレベーターに乗り込む。
不気味なくらいに箱の中は静かで、まるで示し合わせたかのように他の人も乗り込みはしなかった。
いつもの十四階についたが、空気はどことなく暗くて鋭い。
それは外で降っている雨のせいかも知れないが、そんな雰囲気がレトルトの心を余計に蝕んだ。
「こっちだ」
牛沢の先導で、キヨを一度仮眠室へ寝かせることにした。
今朝までキヨが寝泊まりしていた状態のまま、時が止まっているようだ。
シーツのシワも、脱いだままの上着も、開いたパソコンも、飲みかけのお茶も、全てが生々しく「キヨ」が生きていた頃を物語っている。
「うっ・・・・・・・・・」
レトルトは吐きそうになりながら、何とかキヨをベッドへ寝かせてやる。
キヨの体もレトルトのシャツも、血で塗れていた。
キヨの目は力なく開いたままで、レトルトは触れて閉じようとする。
だがその青白い肌に血が着いてしまい、自分の手も血だらけだということにようやく気づいた。
「すまなかった」
重たい沈黙を破ったのは、牛沢の謝罪だった。
レトルトは幾分安らかな表情になったキヨの顔を見ながら、失笑してしまう。
それは何の謝罪だろうか。
キヨを止められなかった事か、ガッチマンに仲間を殺させてしまった事か、レトルトに二人を任せた事か。
いずれにせよ、牛沢が謝るのはお門違いだ。
それにレトルトも、謝罪など貰っても意味が無い。
「ガッチさんは組織のマイナスになるから、キヨくんと、キヨくんのお友達も殺したんでしょ?」
「・・・・・・・・・ああ」
「ガッチさんは、敵は皆殺せって教わって育ったから」
「そう、だな」
「だから、心ではおれ達を仲間だと思っても、体が勝手に動いていた」
「・・・・・・・・・」
「ねぇ、ガッチさんは本当は殺したくなかったんでしょ?だって、キヨくんを撃った後、あんなにショックを受けてたもんね」
レトルトはここに来て初めて、こんなに長く喋った気がする。
キヨの死が衝撃的だったため、レトルトをここまで饒舌にさせていた。
「庭」の情報をまだそこまで知らないという前提も忘れていたのだ。
「憎いよ。キヨくんと友達を殺したガッチさんが。でもそれ以上に、ガッチさんをそうさせたものがおれは許せない」
ヒラの願い通り、トライデントを壊そう。
もう二度と、ガッチマンとキヨ、ヒラのような被害者を出さないために。
「ガッチさんは、きっと死んでもこの組織を裏切れない。ガッチさんも、被害者なんだよ」
牛沢もガッチマンを庇うように、死んだキヨに弁明するように言う。
牛沢がガッチマンに言った通り、これは仕方の無いことだ。
トライデントを壊して欲しいと願い組織を裏切ったヒラを殺し、その復讐を望んだキヨを殺した。
ガッチマンは命令を守っただけで、本当に悪いのは間違いなくトライデントだ。
そう何度も確認しないと、このままではガッチマンを恨みそうになる。
レトルトは自分にそう言い聞かせながら、ガッチマンを恨まないようにした。
「・・・・・・・・・キヨくんは、これからどうするの?」
時計の秒針が響く中で、ポツリとレトルトが口を開いた。
「取り敢えず、俺の知り合いの葬儀屋でキヨと───────あとヒラも一緒に弔うつもりだ」
きっとトライデントを裏切った二人は、大々的に葬式を開くことが出来ないだろう。
それでもキヨの近しい人達で、見送ってあげたかった。
「キヨくんのご家族は?」
「兄貴が一人いたが、数年前に薬物中毒で死んでる。両親もいねぇ」
兄の存在は、キヨがひっそりと洩らしたので知っていた。
唯一の家族である兄もいないのであれば、キヨの葬式はきっと寂しいものになる。
「死ぬって、嫌だなぁ」
レトルトにも家族はいない。
失くした記憶のどこかで、事故に遭って亡くなったのだと言う。
きっとレトルトが死んだ時は、誰も参列しない葬式になるはすだ。
なんと呆気なくて、滑稽な別れだろうか。
「俺が死んだら、灰は空に撒いてほしいな。風に乗って、鳥と飛んでって、自然に還りたい」
牛沢は意外にも静かな死を望んだ。
レトルトより先に牛沢が死ぬのは想像できないが、彼のその願いは叶えてやりたい。
「それじゃあ俺は、葬儀屋に連絡してくる」
背後から忍び寄る死の幻覚から逃げるように、牛沢は外に出てしまった。
牛沢が居なくなった部屋は、恐ろしいほど静かだ。
その静けさに耐えきれなくなって、レトルトは気を紛らわせる事にした。
「ゆりかごのうたを、カナリヤがうたうよ」
レトルトは眠るキヨの手を握って、ふと頭に浮かんだフレーズを口ずさむ。
声は震えて、調子も外れていたが、唯一レトルトが知っている子守唄だった。
「ねんねこねんねこ、ねんねこよ」
いつ覚えたかは知らないが、寂しい時や眠れない時に気づいたら口ずさんでいるのだ。
歌が四番目に差し掛かった所で、牛沢が帰ってきたのが聞こえてきた。
それでも構わずに、キヨに向かって子守唄を歌う。
「ゆりかごのゆめに、きいろい太陽がうかぶよ」
安らかに眠れるように、ガッチマンをもう恨まないで済むように。
そんな願いを込めながら。
「ねんねこねんねこ、ねんねこよ」
最後まで歌い終わるまで、牛沢は待ってくれた。
壁に背中を預けて、レトルトの歌を聞いていたのだ。
「北原白秋か」
「知ってるの?」
少し意外だった。
裏社会の人間なのに、こんな子供に聞かせるような子守唄を知っているなんて。
「懐かしいな。母親がよく、歌ってくれてたんだよ」
遠い目をしながら言う牛沢に、その母親が今どうしているのか聞けなかった。
レトルトは「そう」とだけ返して、牛沢が何か言うのを待つ。
「でも、その曲の四番目。歌詞違うぞ」
「え?」
あんなに得意げに歌ったのはいいものの、どうやら違って覚えていたらしい。
恥ずかしくなったレトルトが、誤魔化すように正しい歌詞を聞く。
「”ゆりかごのゆめに、きいろい月がかかるよ”だ」
牛沢の低く穏やかな音で紡がれた子守唄に、レトルトは感嘆の息をもらす。
「確かに夢と月はなんか近いから、違和感ないかも」
夢なのに太陽なのは真逆なイメージがある。
だが童謡はわりとふんわりとした解釈が多いし、レトルトはそこまで気にしていなかった。
これから歌う時は「月がかかる」と歌うようにしよう、と心に決める。
「これでお前もよく眠れるな」
牛沢は悲しい顔で笑いながら、キヨの頭を撫でる。
レトルトも牛沢を真似ながら、時間が許すまでキヨの傍に居続けた。
次の日には、もう葬式の準備が整っていた。
参列者も牛沢とレトルトだけなので、火葬以外の手順を全て省くらしい。
ここで時間をかけてトライデントに見つかれば、何らかのペナルティがあるとの事だった。
葬儀屋の姿も見えないまま、牛沢とレトルトは骨壺を抱えて墓の前に立つ。
キヨの骨を牛沢が持ち、ヒラの骨をレトルトが持っていた。
墓は卒塔婆が立つ、細長い石の普通の墓ではない。
芝生から長方形の石が平たく生えており、そこにキヨの名前とヒラの名前が掘られている。
その見た目は、洋画でよく見る墓だ。
どうやらここは葬儀屋の敷地らしく、公にできない死はこのようにカモフラージュされて弔うらしい。
骨壺と花を石の上の方に置いて、二人で手を合わせる。
(二人が天国で、また出会えますように)
全ての苦しみから解放された彼らの安らぎを、一生懸命に祈る。
「いい、天気だな」
祈り終えたレトルトが牛沢の呟きで空を見上げると、柔らかな青色が目の前に広がる。
昨日の土砂降りなどまるで無かったように、憎らしげに晴れわたっていた。
「レトルト、ヒラの協力者はお前だろ」
唐突に、牛沢がそんな事を言う。
まるで世間話でもするように、本当に突然だった。
「・・・・・・・・・は?」
レトルトは頭の中で大きく動揺しながらも、全ての表情筋で無表情をつくる。
「ヒラが警察に密告してんのは確実だ。んでタイミング良くお前がキヨんとこに所属になった。裏社会のうの字も知らねーようなパンピーがだぞ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
まさか牛沢が気づくなんて。
ヒラが牛沢を警戒していた理由がよく分かる。
それほどまでに牛沢は聡明だ。
「ここは外で盗聴器はない。他に聞いてるやつもいない」
だから認めろ、と言外に言っていようだ。
それでもまだ危険を犯したくないレトルトが黙っていると、牛沢は頭をかきむしった。
「あーーーー!周りくどいな!!俺も、協力してやるって言ってんだよ!!」
しん、と辺りは途端に静かになった。
衝撃的なカミングアウトにレトルトは驚きの表情を隠さない。
だがやはり慎重に見極める必要がある。
「・・・・・・・・・もしおれがその協力者とやらだったとしても、うっしーの提案は受け入れないと思うな」
あくまでも他人事として言えば、断られると知っていた牛沢は何かをレトルトに手渡してくる。
手のひらに収まるものを見てみれば、それはシンプルな見た目のUSBメモリだった。
「トライデントの主なシノギと、ヤクに関する出納金記録だ。他にも色々不正の資料が詰まってる。これで検挙できる証拠は揃ってんだろ」
この小さなメモリに、レトルトと警察が喉から手が出るほど欲しがっていたものがあるというのか。
レトルトはあ然として、牛沢を見る。
「うっしー、死にたいの?」
証拠品の流出がバレれば、きっと命はないだろう。
レトルトが警告すれば、牛沢はより眉を寄せた。
「俺は覚悟を見せた。お前はどうなんだ?レトルト」
その目に偽りはなく、ただレトルトを真っ直ぐに射抜いていた。
ヒラと同じく覚悟の籠った目を見て、レトルトは大仰なため息をつく。
「参った。認めるよ、うっしーの覚悟」
両手で降参のポーズを見せて、レトルトは負けを認めた。
まさかここまで正直に、牛沢が腹を割って話すとは思わなかったのだ。
「確かにおれはヒラくんの協力者で、警察から潜入捜査を命じられたスパイだよ」
こちらも正直に白状すると、牛沢は「やっぱりな」と納得した。
先程牛沢が言っていた通り、トライデントに潜入するタイミングが良すぎたのかも知れない。
レトルトとしては演技に気を使っていたが、やはり裏社会の詳しい事情を知らなかった自分に違和感を覚えていたのだろう。
キヨと同じくずっと一緒にレトルトと働いていたからこそ気づけた違和感だ。
「でもなんでうっしーは、おれに協力しようと思ったの?ずっと長くトライデントに居たんでしょ?」
重要機密を任されるほどトライデントに信用されている牛沢がまさか裏切るなんて、ヒラやレトルト、ボスでさえも予測していなかった事だろう。
牛沢はふっと笑って、キヨとヒラの名前が刻まれた石に触れた。
「俺はな、ケダモノなんだよ。どれだけ俺のせいで周りが不幸になろうが、傷つこうが関係ねー」
その割には自嘲するような呟きだ。
そうやって言い聞かせて、自分を保っていたのだろう。
きっと牛沢は自分で言うほど悪い人ではない。
「そんな俺でも、仲間だから大切にしたいって思えるヤツらが居たんだよ。でもそれは、全部トライデントに壊された」
「キヨくんと、ヒラくん?」
「もちろんガッチさんもだよ。キヨとヒラはトライデントに殺されて、ガッチさんも奴隷みたいに扱われてる」
だから、トライデントを壊そうと目論むレトルトに着こうと思ったのか。
大事な仲間を引き裂いた、トライデントに復讐するために。
なぜ死を厭わずに仲間を救おうとする彼らは、裏社会にいるのだろうか。
自分の保身で精一杯なレトルトよりも、よっぽど果敢であるのに。
「おれに、協力して」
レトルトはしゃがみこむ牛沢に手をのばす。
約束をして死んでしまったヒラのために、仲間のために殺されたキヨのために。
そして何より、暗い道を歩くしかないガッチマンのために。
レトルトに蹲る時間なんてなかった。
「ああ。トライデントを壊すぞ」
レトルトが伸ばした手を掴んで、牛沢は立ち上がる。
熱い手はお互いの決意を表すように、固く繋がれた。
レトルトは潜入捜査用の仮住まいの一室で、パソコンを片手に仕事をしていた。
そのパソコンには、牛沢から預かったUSBを差し込んでいる。
その資料一つ一つに目を通しながら、大きくため息をついた。
よくこれだけの悪行を、事を大きくしないでやってこれたものだ。
大物政治家を裏で操っていたり、大企業を丸め込んだり、誘拐、殺人、密売。
目にするのも嫌になるほど、小さなメモリには悪行の数々が記録されていた。
このメモリを警察に提出できれば、検挙する令状が降りるだろう。
だが問題はいつ警察と接触できるか、だ。
キヨとヒラが組織の裏切り者だと発覚して数日、トライデントでは魔女狩りが行われていた。
少しでも怪しい動きをすれば、ガッチマンや「庭」のものが制裁を下しにくるのだ。
厳密にキヨは裏切り者ではないが、ガッチマンに銃を向けた時点でトライデントに背いたのも同義である。
ガッチマンがキヨを殺したのは不問となり、逆にキヨが後ろ指を差されることになった。
その事にガッチマンがどう思っているのかは知らないが、レトルトと牛沢はその事でかなりストレスを感じている。
ヒラを思ってガッチマンに銃を向けたキヨを責められず、トライデントによって受けた洗脳でキヨを殺したガッチマンも責められない。
何も知らないやつらが声高らかに「裏切り者」だと罵っているのが聞くに耐えなかった。
周りの行動に目を光らせる組員が多い中で、レトルトが警察に接触するのはリスクが高い。
ただでさえキヨと仲の良かった牛沢とレトルトは、組織から警戒されている。
そんな中でこのUSBメモリを奪われてこちらの正体がバレてしまえば、ヒラの死は無駄になってしまう。
危険を承知でトライデントを壊したがっている牛沢の覚悟も。
だからレトルトは慎重になる必要がある。
焦っては、全てが水の泡になるだろう。
どうしたものか、と頭を悩ませながら、レトルトはコンビニで買ったお菓子をつまむ。
寝不足とストレスで働かない頭を強制的に動かすために、ここ数日は甘いものとカフェインばかりを摂取している。
そんな偏食に頼り気味の生活も、限界を感じつつあった。
いい案が何も浮かばないのだ。
どうすればこのUSBを警察に届けられるか。
データとして送るには、些か不用心がすぎる。
誰が覗けるか分からないネットの海に、こんな重要なものを流せない。
郵送で送るにも、レトルトから出される郵便物は全てトライデントにチェックされるだろう。
どこで誰が見張っているか分からない現状では、自分の足で警察に届けるのも叶わない。
だからといって、他の誰かに任せられるはずもなく。
正直、手詰まりである。
トライデント敵対組織と大きな抗争がある日に紛れて検挙する、というのが警察側の理想だ。
あわよくばその敵対組織も一緒に捕まえることが出来たら、という魂胆なのだろう。
そして三つ巴の混戦になれば、簡単にトライデントの統制を崩せると思っているのだ。
なのでこの抗争の前には渡しておきたかった。
計画を立てたり人員を配置したりなど色々な準備があるので、あまり猶予もない。
警察と自然に会うことができて、トライデントにバレないこと。
そんな日は、もう抗争の日しかないだろう。
そこでレトルトはとあることを思いついた。
一世一代の、失敗が許されない賭けになるだろう。
だがそれはあまりにもリスクが大きい上に、成功する可能性はかなり低かった。
警察は、令状が無ければ検挙することができない。
さらに言えば証拠がなければ、令状も降りない。
もちろんUSBを奪われて、レトルトと牛沢が死んでも失敗を意味する。
証拠がないまま検挙してしまえば、裁判で不利になる。
もし無罪判決が出てしまえば、冤罪で警察の信頼は一気に地に落ち、トライデントを捕らえる事は夢のまた夢になるだろう。
それでももう、この方法しか思いつかなかった。
レトルトは意を決して、配布されたスマホから上司に電話を掛ける。
このスマホは特殊なSIMと機種を使っているため、国内最大の犯罪組織だと謳われるトライデントも盗聴できないだろう。
それはトライデントの中でも突出した技術力を持つ、牛沢のお墨付きだ。
そんな機能性がある分、通話以外何も出来ないというのが少々難点だが。
そんなことはどうでもいい。
今は報告が先だった。
『お掛けになった電話は、現在使われていないか、電源の入ってない─────────』
レトルトの予想通り、上司に電話が繋がらない。
これはもしもレトルト以外のものが掛けてきても、情報を抜かれないようにするための対策だった。
この留守電は、後できっと上司が聞くだろう。
だからレトルトは気にせず伝言を残す。
「こちらネズミです」
これはレトルトであることを示す隠語だ。
潜入捜査中、ということでネズミである。
「証拠を掴みましたが、監視により届けることが困難です。なので、私に考えがあります」
緊張しすぎて上手く空気を吸えない。
震える息を吐き出して、レトルトは目を見開いた。
「四日後に、大きな抗争があるようです。その混乱に乗じて証拠を渡しますので、その後すぐに一斉検挙して下さい」
ここからがレトルトの説得力の見せどころだ。
説得が失敗すれば、判断力の鈍った警察は決定に二の足を踏むようになるだろう。
その間にも被害者や「庭」の子供たちが増える事になっても。
「もちろん令状がなければ、こちらから手を出せないのは知っています!ですが予め周りに警察隊を配置して、私が証拠を渡してすぐに令状が降りるようしてくだい!!」
この博打とも言える作戦に、警察が頷くとは思えない。
レトルトが死んでも、USBを奪われても、警察が一人でも見つかってもこの作戦は終わる。
おまけに令状がないにも関わらず多くの警察官を動かした事が世間に知られると、警察は非難されるだろう。
だがこの機会を逃せば、トライデントはさらに規模が大きくなって警察の手に負えなくなる。
もうチャンスはこの時しかないのだ。
レトルトは支離滅裂になりながらも、そう必死に訴えた。
ヒラとキヨの死を無駄にしないために。
「どうか、お願いします・・・・・・・・・」
消え入りそうな声で、最後は懇願した。
これで警察が動いてくれなければ、レトルトは酷く失望するだろう。
そして一人ででも、トライデントを壊滅しなければいけなくなる。
レトルトは生まれて初めてこんなにも懇願しながら、電話を切った。
警察の判断が、レトルトの、トライデントの運命を大きく左右することになるだろう。
どちらの女神が先に微笑むか不安なまま、レトルトはUSBを握りしめてずっと祈っていた。
「それで、サツが動いてくれるかどうかも分かんねーわけか」
翌日。
真っ先に牛沢に会ったレトルトは、昨日の電話の件を話した。
もちろんトライデントのビルの中では誰が聞いているかも分からないため、二人は揃って駅前の喫煙所で会話している。
レトルトは煙草を吸っているフリをするだけだが、牛沢は心底美味しそうに吹かしていた。
男所帯かつストレスの溜まる警察で働いているお陰か、レトルトは煙草の煙に慣れている。
煙の充満する中でも、二人は気にせずに話を進めた。
「そもそも令状が無いのに動いてくれって言う方が無理だし、前例がないからね。すんなり受け入れてくれるとは思わなかったけど・・・・・・・・・」
レトルトは言葉を区切って、煙ではないため息を深く吐く。
「こんなにも決定に時間がかかるとは思ってなかった、って感じだな」
牛沢の言う通り、レトルトの提案で捜査本部はてんやわんやだろう。
レトルトの計画が妥当だと主張する者に、きちんと手順を踏んで検挙したいと言い張る者。
そんな男たちが狭いホールで何時間も言い合いをしていると考えるだけで、気が滅入りそうだ。
「この作戦にはSWATも参加する予定だから、そっちの調整も手こずってるんだろうね」
同じ警察でいながらも、特殊部隊が出動するとなればかなり大きな計画になる。
大人数が動けばそれだけ敵に見つかるリスクが大きくなり、融通も効かなくなるだろう。
分かってはいるが、なんとも面倒くさい組織だ。
「イラついてんな」
「当たり前でしょ。作戦まであと四日しかないのに、お気楽な奴らだよ」
いつだって国民を守るのは現場の刑事で、指示を出すはずの上は体裁ばかりを気にしている。
それ程ちんたらしていては、手遅れになるというのに。
「それで?サツが動いたとしても、そのUSBを渡さん限りは令状が降りなくて検挙できねーんだろ?」
「うん」
このUSBさえあれば、何も気にすることなく法の名の下トライデントを検挙することができるだろう。
今回の作戦の鍵を握るUSBは、今もレトルトの内ポケットにひっそりと入っている。
落とす可能性を考えれば部屋に置いておくのが安全なように思えるが、もしかしたらトライデントの手の者がレトルト不在時に部屋を荒らすかもしれない。
それならずっと目の届く所で守った方がいいだろう。
「抗争のドンパチに紛れて、おれが直接警察にUSBを届けるつもり。流石に抗争の時に監視してる人はいないしね」
「ああ。「庭」の奴らは掃除で忙しいからな」
ちらりと牛沢がさりげなく喫煙所の外を見る。
レトルトは一瞬だったが、こちらを伺う人間が何人かいるのが分かった。
やはりレトルトと牛沢には監視がついているようだ。
一応バレないように喫煙所の中までは入ってこないようなので、これ幸いと二人は存分に秘密の話ができる。
「それで、うっしーにお願いがあるんだけど」
「ん?」
こちらをちらりとも見ずに、牛沢は聞く。
「「庭」について調べてほしい。「庭」出身者のリスト、どこで運営しているか、どれだけ被害者がいるか、とか」
「庭」についての証拠は、このUSBのどこにも無かった。
「庭」の存在に否定的な牛沢が意図して隠している意味が無いので、きっと別の理由でこちらに資料がないのだろう。
レトルトがそう言うと、牛沢は虚空を見上げながら微妙な顔をした。
「単刀直入に言うと、「庭」に関しての証拠はトライデントのサーバーの中にはない。データではなく書類で保管しているのか、そもそも管理さえしていないのか」
「そ、そんな・・・・・・・・・。なら、「庭」の場所は?」
トライデントほどの組織が運営するからには、さぞ「庭」ま大きな事だろう。
しかも組織内で「庭」を知らない人はいないため、組員はどこにあるのか分かるはずだ。
しかし牛沢から返ってきたのは、煙混じりのため息だった。
「「庭」は出身者とボス、一部の奴らしか知らねぇーよ。なんせトライデントの中でも汚っねぇ事やってる所だからな」
洗脳に殺しの教育、自殺教唆に人権無視。
確かにトライデントの闇と汚点を詰め込んだ、この世の地獄みたいな場所だろう。
警察に見つかれば更なる罰も考えられる。
要するに「庭」はトライデントにとっては諸刃の剣であるのだ。
強く従順な兵を育てる場所でありながら、見つかれば一発で築き上げてきたものが崩れる。
そこを叩けば、噎せ返るほどの埃が出てくることだろう。
トライデントを壊すことができたとしても、「庭」が残っていれば第二、第三のトライデントができてしまう。
それに苦しんでいるかもしれない子供たちを放っておくことは、レトルトには出来なかった。
「うっしー」
「いやだね」
レトルトがどうしても「庭」について調べて欲しいと懇願する前に、察した牛沢が断る。
「と、言いたいところだけど、俺もガキどもを放っておけねーしな」
牛沢は煙草を押し潰して日を消しながら、こちらを見た。
その顔には大きく「やりたくない」と書いてある。
牛沢がここまで渋るのも、レトルトは分かっていた。
これからトライデントの闇に触れようとしているのだ。
バレたら、きっと無事では済まない。
もしかすると、死ぬよりも恐ろしい目にあうかもしれないだろう。
それが分かっていながらも、レトルトのため────────いや、子供のために覚悟を決めたのだ。
つくづくこの男は、裏社会に向いていないと思うほどに優しい。
「USB今持ってるか?」
「うん。盗まれたら大変だから、持ち歩いてるよ」
レトルトは懐から煙草のケースを取り出す。
その中にUSBを入れているのだ。
監視者の目を欺くために持っていた煙草ケースが、こんな所で役に立つとは思わなかった。
牛沢はごく自然に煙草を一本取り出すフリをして、器用にUSBを掠め取る。
「抗争は四日後だ。それまでには何とか間に合わせるよう努力はする」
だが間に合わなければ、「庭」は諦めろと言外にそう言った。
レトルトは神妙な顔で頷く。
牛沢は重要な協力者だ。
死んでも情報を盗んでくれとは、口が裂けても言えない。
もうレトルトにとっては、牛沢は替えのきかない大切な人になっていたのだ。
「うっしー・・・・・・・・・」
レトルトが謝罪と感謝の言葉を言おうと口を開いた時、被せるように牛沢が笑った。
「これで俺のやってきた罪が消えるとは思えねーけど、こうやって誰かのために命を懸けてみねぇと本物のケダモノになっちまうからな」
目を伏せながら自嘲するように吐き捨てて、牛沢は喫煙所から出ていく。
「・・・・・・・・・」
レトルトが渡した煙草はあまり消耗していないまま、先を潰されて灰皿に刺さっている。
その有様がまるで未来を表しているようで、レトルトはぞっとしながら牛沢の後を追った。
昔、まだ子供だった頃。
その頃は世界は絶対的な悪と、絶対的な正義で分別されていると思っていた。
悪を正義のレトルトが捕まえれば、それで世界はまた平和になると。
だが大人になって本物の悪と向き合ったレトルトは、そんなに世界は単純では無いことを知った。
人を殺して歩くガッチマンはそうせざるを得なかっただけで絶対に悪い訳では無いし、レトルトだって正義を叫ぶだけでキヨやヒラを見殺しにしたケダモノだ。
それでもこの世には、紛うことなき絶対悪は存在する。
それがトライデントだ。
子供たちを犠牲にした上で栄える、悪の権化。
レトルトが自身のケダモノ罪と向き合うのはその後でいい。
今は警察として、正義を貫きたいものとして、トライデントを捕まえる。
そのために沢山の血で塗れながら、この舞台に立っているのだ。
ごくりと唾を飲み込む。
銃を握る手が震えているのは、恐怖ではないと信じたい。
緊張で冷えた息を吐く。
周りを見れば、何も無い殺風景な部屋に詰められた男たちがレトルトと同じように張り詰めた顔をしている。
ついに抗争の日がやってきたのだ。
レトルトと、トライデントの命運が決まるこの日が。
抗争は都会のど真ん中であるトライデントのビルではなく、郊外のこじんまりとした工業地帯で行われる。
その一帯はトライデントが所有しているらしく、警察にバレないように辺りを無人にしているようだ。
この土地の至る所でトライデントの組員が敵対組織を待ち伏せしている。
今はトライデントの組員であるレトルトも、とある一つの寂れた工場で憂鬱のため息を吐いていた。
何人かの組員と一緒に詰められてしまい、怪しい動きはできない。
不安と恐怖が綯い交ぜになるレトルトの横に、牛沢が並ぶ。
どうやら普段は参謀たる彼も、今回の作戦では鉄砲玉を任されたようだ。
肝心のボスは一応この抗争を近くで見ているようだが、信頼のおける部下と共にどこかに潜伏しているらしい。
牛沢は裏切り者だと疑われているので、ボスの傍にいる事は許されなかったのだ。
が、逆にレトルトとしてその方が良かった。
「首尾は?」
「予定通り」
他の組員もいる中なので、言葉短く意思疎通をする。
首尾、というのは「警察はどうなった?」の意味だ。
そしてレトルトの「予定通り」はそのままの意味を表す。
そう、昨夜ぎりぎりになって警察は腹を括ったのだ。
この工業地帯をひっそりと、だがネズミ一匹逃げられないように包囲している頃だろう。
正直期待をしていなかったが、どうやら世間体よりもトライデントを検挙する方が正しいと理解して頂けたようだ。
「後で例のアレを渡す」
「分かった」
例のアレ、とは、トライデントの悪事が詰まったUSBの事だ。
どうやら牛沢は無事に「庭」に関する証拠を集められたらしい。
本当に感謝してもしきれない。
心の中で何度も感謝していると、ふと耳につけたインカムにノイズが走った。
『後方待機組、出番だ』
偉そうな声は、たしかボスの右腕だ。
ボスの代わりにトライデントを切り盛りしているのだと、警察からの資料で伺っている。
男の命令を受けて、待機していた組員がそれぞれ走っていく。
「行くぞ、レトルト」
「うん」
牛沢が先に駆けて、レトルトがその後ろに続く。
古びたシャッターを屈んで通り抜けた瞬間に、待ち伏せされていたのか銃弾の雨が降ってきた。
「クソっ!」
地面に転がる組員に足を取られないように、レトルトと牛沢は駆け抜ける。
弾を避けるための遮蔽物を見つけて、二人で飛び込むようにして隠れた。
鉄のボックスに銃弾が当たる音がするたびに、レトルトの肩が揺れる。
まさか現代日本でこんなに銃の撃ち合いをするとは思わなかった。
巨大な組織であるトライデントに対抗して、ここまで躍起になっているのだろう。
レトルトからすると迷惑な話である。
どちらにせよトライデントも敵対組織も、今日までの命だ。
レトルトはふと牛沢を盗み見る。
トライデントを検挙するというのならば、もちろん組員である牛沢とガッチマンも逃げられない。
牛沢はレトルトに協力してくれたし、ガッチマンは洗脳の件があるが、情状酌量の余地があるかどうか。
きっとそんな話を抜きにしても、二人の罪は重いだろう。
牛沢の持つUSBには、全ての罪が詰まっている。
そのUSBをレトルトに渡せば牛沢の罪は免れないのに、なぜ命を張ってまでレトルトに尽くしてくれるのだろうか。
そんな事を考えながら見ていると、視線に気づいた牛沢がぶっきらぼうに「なんだよ」と呟いた。
「うっしー、は・・・・・・・・・罪を、償いたいの?」
レトルトの口から出てきたのは、そんなつまらない言葉だった。
刑事としてしか、友人を語れないのだ。
そんな自分を酷く恥じるが、牛沢は気にすることなく笑った。
「ただ捕まるだけじゃ、俺の犯した罪は消えねーよ」
「・・・・・・・・・」
まるでそれ以上の重たい刑を欲しているような口ぶりに、レトルトは視線を逸らす。
「でも・・・・・・・・・なんでだろうな。お前を見てたらさ、なんか許されたくなっちまったんだよ」
「え?」
自分がおかしなことを言っている自覚があるのか、牛沢は頬を掻きながら照れ隠しにそっぽをむいた。
「俺は人の不幸を啜るケダモノだったはずなのに、お前の目を見てたら勘違いしそうになるんだよ」
その言葉通りに今度はしっかりとレトルトの目を見据えると、鋭い三白眼が瞬いた。
「俺も、ただの人間に戻れるしれねーって」
「うっしー・・・・・・・・・」
(うっしーは人間だよ)
紛れもなく、疑うことも無く。
そう言いかけたが、レトルトは口にできなかった。
きっとそれを言ってしまえば、牛沢の覚悟を蔑ろにしてしまう。
牛沢は人間としてではなく、ケダモノとして罪を償いたいのだ。
だからレトルトは何も言えずに、ただ自分の無力な手を見た。
誰も殺せず、誰も守れない手。
この手は一体誰を救ったか。
いつも自分は誰かに助けられてばかりだ。
そんなどうしようもない自分の手を見つめていると、その手に牛沢が何かを握らせてきた。
ゆっくり開いて見ると、手のひらにぽつりとUSBが乗せられている。
幾人の罪を暴き、幾千の命を救うもの。
ただの小さな記録媒体が、いつになく重たく感じた。
「お前だから、俺はトライデントの結末を託す。誰よりも真剣にガッチさんの事を考えてくれるから」
「・・・・・・・・・」
まるでバトンのようだ。
ヒラの願いを牛沢が繋いで、レトルトが叶える。
レトルトが負けることも逃げることも許されない、宿命という名のバトン。
それを震える手で握って、レトルトは前を向く。
レトルトが何を救うかなんて、これからやっていけばいい。
レトルトが誰を殺そうかなんて、レトルトのために尽くしてくれた人達の為にも考えてはいけない事だった。
レトルトはトライデントを壊すという思いを、曲げる事無く持ち続ければいいのだ。
余計なことは考えるな。
きっとそれ以上は、レトルトが踏み入っていい領域ではないのだ。
「雑念は晴れたかよ」
「うん。お陰様で」
レトルトがうだうだ悩んでいる間も、牛沢は待っていてくれた。
その不器用な優しさに感謝しつつ、レトルトは銃を構える。
レトルトの覚悟がようやく決まったのならば、次にやることは一つだ。
「この証拠を渡して、トライデントを終わらせる」
「ああ」
その為にはまず、警察にこのUSBを渡さなくてはいけない。
レトルトが上司と連絡を取って決めた場所は、建設途中のビルだった。
一応この抗争の渦中ではあるが、足場が悪く不安定な構造のため、組員は誰もそちらに配置されていない。
レトルトはそこで上司と落ち合う予定だった。
その事を牛沢に伝えると、彼も着いていくと言い出す。
「ありがたいけど、うっしーがスパイってバレるよ。それに危険だし」
「危険なら、余計に俺もいた方がいいだろーが。お前鈍臭いし、チャカの扱いも下手くそだし」
「うっ・・・・・・・・・!」
言い返せずに言葉に詰まるレトルトを、牛沢は心底楽しそうに見ている。
「もう同じ船に乗った仲なんだ。今更置いていくなよ」
やはり牛沢は自分で思っているよりも人情に厚くて、ずっとずっと優しい人だ。
「分かったよ・・・・・・・・・。行こっか」
「おう。トライデントをぶっ壊してやろうぜ!」
なんとも物騒な合図と共に、合流場所であるビルを目指す。
遮蔽物から出ても、先程のように銃撃戦を受けることは無かった。
ちらりと敵がいた方向を見ると、そこは屍の山だ。
どうやら他の組員が、レトルト達を狙っていた敵を殺したらしい。
ビルにまで追いかけてこられても困るので、敵が既にいないのは有難かった。
(って、仮にも刑事なのに、なんて事考えてんだ)
公平に人間として扱うべきなのに、レトルトは無意識にそう思ってしまった。
(うっしーが思うほど、おれはきっといい人じゃないよ)
彼らが自分のことをケダモノだというのなら、自分もきっと醜い形相をした化け物だ。
幼い頃に抱いていた正義感も、公平さも、全部が歪んでしまった。
それでもまだ自分は人間なんだと言い張りたいから、なけなしの正義感で正しいことをしようとするのだ。
「こっちだ!」
先に走っていた牛沢が、シートに隠されていたビルの入口を見つける。
レトルトは自己嫌悪を止めて、作戦に集中した。
両頬に平手で喝を入れて、レトルトは牛沢の後に続く。
建設途中なだけあって、その足元には所狭しと資材が置かれていた。
その影に人が隠れていないかを慎重に疑いつつ、今にも崩れそうなコンクリートの階段を駆け上がる。
埃っぽい匂いに時折咳が上がってくるが、ここで音を立てては先にいるであろう上司にいらない警戒を与えてしまう。
レトルトは何度も苦しい息を飲み込んだ。
結構高く登ったところで、ついに階段は途切れた。
ここから先はまだ業者も手をつけていないのだろう。
他の階よりも機材が放置されており、足元に注意しないと危険だ。
「で?サツはどこにいんだよ」
牛沢が銃を油断なく構えながらレトルトに聞く。
レトルトも辺りを見渡していると、とある機材の後ろから嫌なものが見えてしまった。
「・・・・・・・・・っ!!」
レトルトの息を飲んだ音が、牛沢にも伝わったのだろう。
こちらを振り向いた牛沢が、レトルトの向いている方を見る。
その機材の後ろには、横たわった男の足が覗いていていた。
「おいおいおい」
牛沢が警戒しながら回し込むと、首を振った。
レトルトも意を決して横たわる男を見ると、その顔は見覚えのある人物だった。
堅物然とした顔は驚きで歪み、レトルトに正義を語った口からは血が流れている。
その様子はどう見ても、事切れているでしか思えなかった。
「うそ・・・・・・・・・」
レトルトは思わず崩れ落ちそうになるが、牛沢が腕を引っ張って無理やり立たせた。
「早くこっから逃げ───────」
叫んだ牛沢の声は、途中で途切れてしまった。
静かな、けれど確かな足音が聞こえたのだ。
恐る恐るそちらに目を向けると、そこには感情を伺えない顔をして立っているガッチマンがいた。
「ガッチ、さん」
絶望に濡れた声が、隣から聞こえる。
レトルトの上司を殺したのは、間違いなくガッチマンだろう。
「な、んで・・・・・・・・・ここに・・・・・・・・・」
ここは抗争でも使われる予定の無かった場所だ。
それなのにガッチマンがピンポイントでいるということは、裏切り者であるレトルト達を殺すために来たのだろう。
嘘だと思いたかった。
このUSBさえ警察に渡せば、全てが上手くいくと思っていたのに。
ガッチマンや牛沢が裁かれるのを、覚悟したはずなのに。
「やはり、裏切り者は貴様らであったか・・・・・・・・・」
膠着状態なレトルト達の間に、酷く嗄れた声が入ってきた。
その声に、牛沢が緊張する。
「ボス・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・!?」
レトルトは牛沢の洩れ出た声に静かに驚いた。
この初老の男が、トライデントのトップにして地獄の支配者であるらしい。
その貫禄に満ちた出で立ちやこちらを蔑むような目は、確かにトライデントの頂点に相応しいだろう。
「ボスがわざわざ出向いてくれるなんて、よっぽど俺らの事が気に食わないですか?」
挑発するように牛沢が肩をすくめるが、そのこめかみには冷や汗が滲んでいる。
「貴様らが何を持っているか知っている。それをどこに渡そうとしているかもな」
ボスは牛沢が危険を冒して集めた証拠の事を言っている。
このUSBが警察の手に渡れば、トライデントの壊滅は免れない。
それを知って焦ったボスが、自ら出向いてUSBを奪おうとしているのだろう。
最も強力な用心棒をつけているのが、その証拠だ。
ガッチマンが守ってくれるならば、自分に危険が及ばないとタカをくくっているらしい。
その態度に焦りはなかった。
完璧なガッチマンが、失敗するとは考えていないのだ。
つまり、レトルトと牛沢が死ぬのは決定事項である、と。
「うっしー!」
レトルトは銃を構えた。
例え敵わないと分かっていても、容易にUSBを差し出すことは出来ない。
これはヒラの願いであり、キヨの命であり、牛沢のバトンなのだ。
それを簡単に渡す訳にはいかなかった。
まさか平和主義なレトルトが真っ先に銃口を向けるとは思っていなかったのか、ガッチマンと牛沢の目が見開かれる。
「あんたにゃ渡さねーよ。・・・・・・・・・死んでもな!」
牛沢がガッチマンではなく、ボスに向かって発砲する。
しかし直前でガッチマンがボスの頭を庇い、銃弾を避けた。
「そう簡単には殺れねーか・・・・・・・・・!」
牛沢の口の端が引き攣る。
改めてガッチマンが敵という事実が、レトルトの気を重くさせていた。
そんなやつを本当に守る価値はあるのか。
本当に、牛沢を殺そうとしているのか。
「ガッチさん!!もうやめてよ!!」
レトルトがそう訴えるが、ガッチマンの表情は一ミリも動かない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
あれは、感情を殺している顔だ。
自ら人形に成り果てて、友人を殺そうとしているのだ。
「ガッチさん!!」
「無駄だ、レトルト!」
牛沢は威嚇射撃を止めて、唇を噛み締めた。
「ガッチさんの洗脳はこんなんじゃ解けない!今はとにかく─────────」
牛沢の注意がこちらに向いた瞬間、彼の腹部から血が吹き出た。
「ぐっ!」
そして一発の銃声。
ガッチマンが、牛沢に向かって撃ったのだ。
じわじわと牛沢の白いシャツに血が滲んでいく。
「うっしー!!」
レトルトは慌てて牛沢の正面に回り込み、ガッチマンの銃から庇う。
「やめ、ろ・・・・・・・・・レトルト・・・・・・・・・」
それでも牛沢はよろよろと銃を構えて、トリガーに指をかける。
「ガッチさんの、覚悟は、もう決まって、んだろ?」
「覚悟ってなんだよ!!」
友人を殺す覚悟か?
そんなものは一生無くていい。
ただ待ってくれれば、ガッチマンも牛沢も助かるのに。
これ以上無意味な殺し合いをしないでほしかった。
「ガッチさん!お願いだから!」
「どけ!レトルト!」
ガッチマンに懇願するレトルトを押しのけて、牛沢が前に出た。
そして震える手で銃を発砲すると、弾はあちこちに跳弾する。
「・・・・・・・・・っ!」
だがその一発が、ガッチマンの右肩を貫く。
一瞬顰めたその顔が、まだ人間であるように思えた。
「やめ、てよ・・・・・・・・・」
レトルトはもう構えられなくなった銃をただ握って、頭を振るだけだ。
「かわいそうな、人だな・・・・・・・・・」
耳を劈くような銃声の中で牛沢の呟きが聞こえた。
レトルトが顔を上げると、牛沢は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「うっ、しー・・・・・・・・・」
無情な銃声が、殺風景な部屋に反響した。
酷い耳鳴りがする。
視界の端から闇が滲み出てきて、牛沢以外の何も見えなくなった。
「・・・・・・・・・」
彼は、笑っていた。
いつものように片頬だけを吊り上げて、不敵に、不遜に。
牛沢の体は、力なく地面に倒れ込んだ。
その音さえも、今のレトルトには何も聞こえなかった。
「・・・・・・・・・え?」
目の前の出来事があまりにも現実離れしすぎて・・・・・・・・・いや、現実とは思いたくなくて、口から間抜けな声が洩れた。
なぜ、牛沢は倒れているのだろうか。
なぜ、起き上がらないのだろうか。
なぜ、胸から血が出ているのだろうか。
なぜ、笑っているのだろうか。
レトルトが恐る恐る手を伸ばそうとすると、嫌な声が聞こえてきた。
「裏切り者に相応しい死だな」
牛沢は、こんなにも醜い声ではない。
始めに聞こえてきた音がそんな一言で、レトルトは空っぽの心に怒りが満ちた。
「・・・・・・・・・この、ケダモノが・・・・・・・・・!!」
激情のままに撃鉄を起こせば、負けじとボスも懐から銃を取り出して構える。
もうここで死んでしまっても構わないから、レトルトがどうしてもこの男を殺してやりたかった。
ヒラを、キヨを、牛沢を殺して、ガッチマンに罪を重ねさせた、元凶の男を殺す。
レトルトの頭は、それしか考えられなくなっていた。
「殺す!!」
怒りに身を任せてトリガーを引こうとすると、その前に鋭い音が辺りに響き渡った。
怒りで何も見えなくなっていたレトルトの目が、大きく見開かれる。
音の出処は、驚いた表情のガッチマンだった。
「な、ぜ・・・・・・・・・」
そう言いながら崩れ落ちたのは、今まで余裕を繕っていた男だ。
レトルトに銃を向けていた男は、その背後からガッチマンに撃たれたらしい。
撃った本人であるガッチマンが、一番驚いた顔をしている。
洗脳によって、組織に刃向かえないようにされているはずなのに。
今になって、洗脳から抜け出せたというのか。
最後の一人になって、ようやく。
「育ててやった、のに・・・・・・・・・!」
最後まで憎らしげな言葉を吐く男に、ガッチマンは唇を噛んだ。
「ようやく、あんたを殺せた」
心が叫んでいるかのような、悲痛な声だ。
男はその一言を聞いて顔を顰めたあと、ころりと死んでしまった。
沢山の人を殺したというのに、その最後は何とも呆気ない。
殺してくれと恥も外聞もなく泣きつくほどに痛めつけた後に、ゆっくりと殺したかったのに。
なぜ一番苦しめられていた本人が、あっさりと殺してしまったのだ。
ガッチマンは呆然と、自らの手を眺めている。
その顔色は、今にも倒れそうなほどに真っ青だった。
牛沢に撃たれた右肩から、絶えず大量の血を失っているからだろう。
青白い顔が、ふいにこちらを向いた。
レトルトは反射で銃を構える。
手に力が篭もりすぎたのか、はたまた恐ろしいからか、みっともなく銃が震えた。
「おれも、ヒラくんやキヨくんやうっしーみたいに殺す?」
挑発するように叫ぶが、ガッチマンは力なく目を伏せた。
「殺さ、ないよ」
静かになった空間に、ガッチマンの小さな声が響いた。
レトルトは頭が痛くなるほどに、怒りを覚える。
だがこの怒りが仲間を殺したガッチマンに対してなのか、何も出来なかった自分自身に対してなのかは分からなかった。
無力感と怒りだけが、レトルトの原動力になっているのだ。
「なんでおれを殺さないんだよ!本当はおれが警察だなんて、とっくの昔に知ってたんだろ!?」
ヒラと牛沢が裏切り者だと分かっていたのなら、レトルトが刑事だということは嫌でも勘づいていたはずだ。
それなのにレトルトだけを残して、協力していただけの彼らを先に殺したガッチマンには違和感を覚える。
先にレトルトを殺せば良かったのだ。
そうしていれば、こんなにも苦しまなくて済んだのに。
「うっしー達みたいに、おれの事も殺せよ・・・・・・・・・!」
レトルトはよろよろと後ろに退る。
怒りが段々と萎んできて、やがて大きくなったのは悲しみだ。
あまりにも人が死にすぎた。
もうレトルトは立っているのもやっとの状態だ。
「俺を殺したいなら、殺せばいい。俺は逃げも隠れもしないから」
ガッチマンは諦めたように、銃を捨ててこちらに無防備な姿を見せた。
狙いやすいようにと、わざわざご丁寧に心臓をさらけだしたのだ。
「な、んで・・・・・・・・・なんでだよ!!」
レトルトは混乱して銃を構えたまま、また後退る。
「レトさん!!」
いきなり、ガッチマンの焦った声が聞こえてくる。
突然の声に驚いた時には、レトルトの体が傾いていた。
「・・・・・・・・・え」
レトルトの足元に、大きな穴が開いていたのだ。
ちらりと見えた穴の底は、余程深いのか何も見えなかった。
死ぬ。
レトルトはそう直感した。
焦ったガッチマンに思わず腕を伸ばすと、走馬灯のような何かが脳裏を走る。
森の中、雨、崖。
目の前のガッチマンが、走馬灯の中の誰かと重なる。
『ごめんね』
(この記憶、なに?)
ここではないどこかの情景が一瞬過ぎるが、次の瞬間には跡形もなく消えてしまった。
代わりにレトルトの手が、冷たい何かに覆われる。
恐る恐る手を辿って見てみると、ガッチマンが身を乗り出してレトルトを支えていた。
「・・・・・・・・・うそ」
ありえない、とレトルトは音に出来ずに唇だけが動いた。
なぜガッチマンはレトルトを助けてくれたのだろうか。
レトルトが死んでしまえば、警察に捕まることもないのに。
もうヒラ達を殺した罪を、責められないのに。
「怪我は、ない?」
ガッチマンは、どこまでも優しくそう聞いてきた。
だがレトルトより怪我が酷いのはガッチマンの方だ。
先程牛沢に撃たれた右肩でレトルトを支えているため、負担をかけた腕から大量の血が垂れてきている。
「おれを助けなければ、ガッチさんは自由になれるんだよ?」
「うるさい、黙って」
どうしてこんなにも体を張って助けてくれるのだろうか。
レトルトを助けても、ガッチマンに利は無い。
それでもガッチマンは命を掛けて、レトルトを助けてくれた。
ガッチマンの額に脂汗が滲んで、血のせいで手が滑る。
「・・・・・・・・・っ!!」
ガッチマンは渾身の力を振り絞って、レトルトを引き上げた。
ようやく安定した足場についたレトルトは暫く足が震えて立てなかったが、よろよろと助けてくれたガッチマンに寄る。
ガッチマンは大分血を失ったのか、焦点の合わない目でふらりと倒れてしまった。
「ガッチ、さん・・・・・・・・・」
レトルトは銃を放り捨てて、ガッチマンの傍に座り込んだ。
「・・・・・・・・・は・・・・・・・・・はっ」
ガッチマンの呼吸は浅くなり、意識も朦朧としてきている。
このままでは失血死してしまうだろう。
(止血しないと!)
レトルトは自身のジャケットを脱いで、ガッチマンの肩口に強く巻き付ける。
「死ぬなよ・・・・・・・・・!!」
必死になってガッチマンの傷口を圧迫していると、焦点の合わない目がこちらを向いているのが分かった。
「・・・・・・・・・」
ガッチマンが小声で何かを言っているのが聞こえた。
レトルトは耳を寄せて、ガッチマンの言葉を聞く。
「もう・・・・・・・・・泣き虫、だなぁ・・・・・・・・・」
ガッチマンは息も絶え絶えになりながら、そう呟いた。
ここにはレトルトしかいないが、レトルトは傷口を庇うのに精一杯で泣いてなどいない。
何を言っているのだ、とガッチマンをよく観察すると、その目はレトルトではなく誰かを見ているようだった。
「君が、好きな・・・・・・・・・歌を、うたってあげる、から・・・・・・・・・泣かないでよ」
「そんな事いいから!お願い・・・・・・・・・もう黙ってて」
こんなにも死にそうなのに、彼は誰を思っているのだろうか。
その優しさは、誰に向けたものだろうか。
レトルトが止めようとしているにも関わらず、ガッチマンは息を吸い込んだ。
本当にこんな状態で歌うつもりなのだろう。
レトルトが口を塞ごうとするが、その前にガッチマンが歌い出した。
「ゆ、りかご、の夢に・・・・・・・・・きいろい太陽が、浮かぶ、よ・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・え」
その歌を聞いた瞬間、レトルトの思考が止まった。
なぜガッチマンは、レトルトと同じ間違った歌詞で、歌っているのだろうか。
牛沢曰く、この歌の正しい歌詞は「きいろい月がかかるよ」だ。
レトルトの知っている歌、同じ間違いの仕方。
これが偶然であるとは、考えにくい。
「ガッチさん・・・・・・・・・なん、で」
なぜこの歌を知っているのだ。
レトルトがガッチマンの腕を緩く握るが、彼が握り返すことは無かった。
ガッチマンはただ虚ろに、レトルトに誰かを重ねて機械のように歌うだけだ。
「ね、んねこ・・・・・・・・・ね、んね、こ・・・・・・・・・ねんね・・・・・・・・・」
途切れ途切れになりながらも、ガッチマンは最後まで歌いきる。
そして役目を果たしたとばかりに、遂に目を閉じた。
「ガッチ、さん?」
まさか死んだのかと焦ってレトルトがガッチマンの胸に顔を寄せると、弱々しいが微かに心臓の音が聞こえた。
(よか、った)
だがほっとしたのも束の間だ。
時間が経てば、ガッチマンは死んでしまう。
ヒラやキヨ、牛沢を殺したガッチマンだが、本当は誰よりも被害者だ。
大人に利用され、殺しの道具にされ、友人を殺すように命じられて。
そんなガッチマン一人が、全て悪い訳では無い。
だからレトルトも、ガッチマンを見捨てたくはなかった。
ここで諦めてしまえば、レトルトは本物のケダモノになってしまう。
ケダモノだと自身を嘲笑っていた彼らを悲しませないために、レトルトは人に成らなければならない。
「ガッチさん。待ってて」
これがどんな結末になろうと、ガッチマンには生きていてほしいから。
牛沢達を殺した罪を、少しでも償って欲しいから。
もういいかげんに自分自身を、許して欲しいから。
ここでレトルトが立ち止まってはいけない。
ガッチマンのために、彼を思って殺された人のために、レトルトは脇目も振らずに走った。
結末を唯一変えることができる、小さなUSB希望を持って。
それから、レトルトは暴力や死に溢れた場所を走り抜けて、警察が待機しているであろう場所に飛び込んだ。
レトルトの持っていたUSBが証拠だと認められて、正式に令状が下りた。
ようやくまともに動けるようになった警察は、国内の最高戦力をもってトライデントの一斉検挙に成功。
トライデントの頭領は既に事切れていたが、重要人物である幹部も数日掛けて行われた掃討作戦で全員牢屋にぶち込んだ。
牛沢はレトルトに協力したという温情で、特別にレトルト個人が遺体を火葬することが許された。
キヨとヒラを埋葬した時に牛沢が「死んで灰になったら、空へ撒いてくれ」といっていたのを思い出したレトルトはその願いを叶えてやる。
風に乗ってどこまでも飛んでいく灰は、まるで春の綿毛のように自由だった。
そしてガッチマンはあのあと治療が間に合って、今は警察病院で療養という名の拘束を受けている。
誰も彼が連続殺人犯であるソシオパスの悪魔だとは思わないだろう。
それほどまでにガッチマンは、静かに鉄格子越しの空を見つめているだけだった。
「体調はどう?」
「・・・・・・・・・」
レトルトの問いにも、ガッチマンは答えなかった。
静かに自分の死を待っているようだ。
レトルトは引き止めたくて手を伸ばすが、ガッチマンに触れてはいけないという警察のルールがあるせいでそれも出来ない。
全て終わったのに、ガッチマンはまだトライデントの悪夢に囚われていた。
洗脳されて、友人をその手で殺した時のままにただ息をしている。
「もう、楽になっていいんだよ」
「・・・・・・・・・」
ガッチマンが本当に「ソシオパス」であるなら、ここまで深く傷つかないだろう。
彼は誰よりも人間だったから、耐えられなかったのだ。
レトルトはガッチマンの顔が見れなくなって、俯いてしまった。
あと数分で、面会は終わってしまう。
もうガッチマンと話せるチャンスは今だけなのに。
ガッチマンは殆ど死刑が確定した身だ。
トライデントに幼い頃から洗脳されていたとはいえ、多くの人の命を奪ったのは事実。
死刑ではない理由を探す方が困難な程だった。
ガッチマンの傷が癒えれば、彼は監獄に行くことになるだろう。
死刑囚であり危険人物な彼は、例え刑事であるレトルトでも面会は出来なくなる。
だから今が、最期の会話ができる機会だった。
なのにガッチマンの心はここにあらず、と言ったところか。
生きる意味が分からなくなって、ガッチマンは抜け殻のようになってしまった。
やはりレトルトでは、どうしようもないのだ。
ガッチマンの心を動かすことも、癒すこともできない。
ガッチマンが瀕死になりながらも想いやった人ならば、彼を救えただろうか。
優しい子守唄を、捧げた誰かなら。
「俺がいなくても、もう君は泣かないね・・・・・・・・・」
ふとそんな呟きが聞こえた気がして、レトルトは勢いよく顔を上げた。
空を眺めていたはずのガッチマンが、ゆっくりとこちら振り返る。
死刑囚にしてはあまりにも穏やかすぎるその顔を見て、レトルトは背中に冷たい汗が伝ったのが分かった。
「安心して。人間の皮を被ったケダモノは、正義のヒーローが殺してくれるから」
それは、自らのことを指しているのだろうか。
こんなにも優しくて、弱い人なのに。
「ガッチさんは、ケダモノじゃない!!」
レトルトは禁止されているにも関わらず、ガッチマンの腕を掴んだ。
二人を隔てる鉄枷が、がしゃりと鳴った。
ガッチマンがケダモノのわけがない。
彼を食い物にして私腹を肥し、醜く死んでいったあのクソ野郎こそが本物のケダモノだ。
「おい、規則違反だぞ!」
「面会は終わりだ!」
尚もガッチマンを人間だと認めさせたいレトルトが否定を繰り返していると、危険だと判断した刑事がレトルトを羽交い締めにした。
「そんなこと、言うなよ!!」
レトルトはガッチマンから引き剥がされながら、必死になって叫んだ。
レトルトは分かって欲しかったのだ。
ガッチマンの優しさを、温かさを、不憫さを。
それなのに他人はガッチマンを悪魔だと決めつけている。
ガッチマン自身でさえも。
それがどうしてもレトルトは許せなかった。
「ガッチさん!!」
レトルトが暴れながらもガッチマンに手を伸ばすと、彼は幼子をあやすように微笑んだ。
「ばいばい、俺の太陽」
「ガッ、チ・・・・・・・・・さ・・・・・・・・・!!」
そんな小さな囁きが、彼の最期の言葉になった。
結局その言葉の意味も、子守唄の真相も分からぬまま、またレトルトだけが世界に置いていかれる。
約束した人も、友人だと思っていた人も、助けてくれた人も、最後まで哀しみに彩られた人も、みんな居なくなってしまった。
太陽の光さえも届かない、最果ての檻。
幼い頃から慣れ親しんだ暗闇は、いつだってガッチマンを柔らかく包む。
闇に慣れた者に、光はあまりにも強すぎた。
だから、自分には闇がお似合いだ。
自分は何でもできる、何にもなれると本気で思って、沢山の人を傷つけてきた。
ガッチマンの中で、太陽のように変わらず輝くあの子のために。
ガッチマンには死の恐怖も、生きることへの執着もない。
ケダモノだと嗤った自分を、人間だと言ってくれた人がいるから。
自分は安らかに、罪を償って死ぬ事が出来る。
ガッチマンは静寂が支配する空間で、目を閉じた。
吹っ切れたような、清々しい表情だ。
「おやすみ、みんな」