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モンドの夜は、いつも冷たい。
ディルックは、珍しく「エンジェルズシェア」のカウンターで、グラスを磨いていた。彼の視線は、店内の隅、窓の外の月明かりを浴びて座る男に注がれている。ガイア・アルベリヒ。彼の義弟であり、かつての家族であり、今は厄介な騎兵隊長だ。
ガイアは今日も上機嫌を装い、冗談を飛ばし、他の客たちと陽気に話していた。その態度から、誰も彼の自己肯定感の低さや、誰にも触れられたくないという深い孤独に気付く者はいない。ディルックだけが知っていた。その笑顔の下にある、張りつめた緊張と、自分自身を価値のないものだと決めつけている冷たい心を。
客たちが帰り、店内に静寂が戻った頃、ガイアは立ち上がった。千鳥足だが、計算された動きでカウンターに寄りかかる。
「おや、ディルック。随分と寂しそうな顔だな?俺という素晴らしい話し相手がいるというのに」
「くだらん」
ディルックは一言で切り捨てた。
「とっくに閉店時間だ。帰るなら帰れ」
ガイアは肩をすくめた。
「つれないなぁ。もう少し酌をしてくれてもいいだろうに……」
そう言って、ガイアはディルックの腕に触れようと手を伸ばした。ディルックは瞬間的にその手を払い除ける。意図したよりも強い力だった。
「っ…」
ガイアは痛みに顔を歪め、一歩退く。
ディルックは言葉を失った。ガイアが人に触られるのが苦手だと知っていたから、無意識に拒絶してしまったのだ。それは、ガイアの自己犠牲的な性質を熟知しているからこその反応だった。ガイアは自分が触られることへの嫌悪感を押し殺してまで、ディルックとの距離を縮めようとしたのかもしれない。
ガイアはすぐに笑顔を取り繕った。
「ははっ、手厳しい。これも貴族の嗜みかな?」
ディルックはガイアのその強がりが痛々しかった。彼に真実を突きつけることは簡単だ。「なぜそんなに強がる?」「なぜ触られるのを嫌がる?」と。しかし、ディルックはそうしない。ガイアの脆いプライドや、必死で築き上げた自信の仮面を守るために、彼は常に沈黙を選ぶ。それが、ディルックなりの不器用で遠回りな優しさだった。
「…店の掃除が残っている」
ディルックは目を逸らした。
「残るなら邪魔をするな」
ガイアはディルックの視線が自分から外されたことに安堵したように見えた。彼はディルックの優しさに気付いているのか、いないのか。
「じゃあ、俺はこれで失礼するよ。また来る」
ガイアが店を出て行く後ろ姿を見つめながら、ディルックは心の中で呟いた。
(いつか、その全てを僕に預けてくれる日が来ればいいのに)
ディルックはガイアが残していったグラスを手に取り、ゆっくりと磨き始めた。凍りついた彼の心に、いつか雪解けの微光が差し込むことを願いながら。