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「清水(しみず)、なんだこの点数は」
八十点でなんだと言うこの担任は正気だろうか。わざわざ呼びつけて説教することでもないだろう。
「何がいけないんですか」
「お前の友人は全てのテストにおいて九十点台だ、恥ずかしいと思わないのか?」
平均点七十もないテストでこの点数なのだから恥ずかしいもクソもない。呼びつける相手など他に山ほどいるはずだ。
「大体なあ」
始まった、俺と友人にどれだけ優劣の差があるかの説論タイムだ。もういい、聞き飽きた。そう思うと同時に、俺の拳は担任の顔にめり込んでいた。
「何やってんだ、樹(いつき)!」
父さんは容赦なく俺を殴る、母さんは部屋の隅で泣いているだけだ。今回の事件で俺は謹慎処分を受けた。理由を話しても両親は聞く耳を持たなかった。俺は深いため息のあと、ぼそりと呟いた。
「もういい」
父さんに殴られ続けて腫れぼったくなった顔のまま、俺は家を飛び出した。どうにでもなればいい、その思いだけで雨の中を走った。
謹慎が解けても学校には行かなかった。家に帰るのは週に一度もなく、外で仲良くなった柄の悪い奴らとつるむようになった。真面目を演じるのにはもううんざりだ。
うちの中学は進学校で勉強ばかり強いられてきた。二年生になってからは担任の差別も加わりストレスが溜まり続け、今回のことでついに爆発したのだ。地味な黒髪をオレンジ色に染め、たばこを吸いながら仲間の運転するバイクに乗って、夜な夜な遊び尽くした。
そんな生活をするようになって半年、俺は一度も学校に行かないまま三年生になった。そんなある日のこと、土手で寝ていた俺の耳に遠くから細やかな音色が入ってきた。
「珍しいな、今までこんな音聞こえてきたことないのに」
「何してんだ、樹」
つるんでいるメンバーの一人が俺の姿を見つけて話しかけてきた。
「いや、なんか音が聞こえるんで、気になっただけっす」
「あれな、近くの高校の吹奏楽部らしいぜ。上手い子が入ったかなんかで盛り上がってるっていう話」
「へえ、そうなんすね」
この時は何も思わなかった。俺の心が動いたのはここから二日後のことだ。
メンバーが言ってた高校の前を通った時、またあの音色が聞こえてきた。思わず体の向きを変え、校門前に立ててある看板の『オープンスクール』の文字を見つめる。教員も生徒も近くにはいないようだ。
「少しだけなら大丈夫だよな」
俺は音のする方へと吸い寄せられていった。中庭らしきところに着くと、そこには太陽の光を反射し金や銀に光るものを持った生徒が二十人ほどいた。綺麗に並べられた椅子に座り、棒を振る先生と黒いファイルを交互に見つめながら、一生懸命それに息を吹き込んでいる。
しばらくすると、一人の女子が前に出てきた。
「もうすぐソロだ」
近くにいた本当の見学者が目を輝かせながらそう言った。俺には「ソロ」というものが分からない。だけど次の瞬間、それがどういうものなのか理解した。
周りの音はドラムだけになり、手拍子をしていた見学者たちも静かになる。その静寂の中で彼女が再び音を出すと、その場は一瞬にして涼しい月夜に変わった。
「なんだこれ……」
俺は目の前に広がる光景が信じられなかった。先ほどまで地上を照りつけていた太陽は月へと変わり、その光はまるでスポットライトのように彼女に降り注いでいた。
彼女がお辞儀した後、大勢の拍手とともに月は再び太陽へと変わる。やりきったという表情で、彼女は堂々と席に戻っていった。
演奏が終わり、彼女たちは順に校舎へと入っていく。俺は周りの目も気にせず、あの彼女に声をかけた。
「どうやったらあんな風になれる」
「え?」
「どうすればあんたみたいにできるかって聞いてんだ」
彼女は明らかに動揺していた。それもそうだ、オレンジ髪の中学生が敬語も使わず話しかけたのだから。
「ちょっと君、何してるんだ」
さすがに教員が止めに入ってきた。
「先生、大丈夫です。話しかけてきただけですから」
彼女はそう言うと、俺の手を引いて校舎へと歩き始めた。
「ちょ、何して……」
「いいから、あなたが知りたいこと教えてあげる」
着いたのは誰もいない教室。窓が開いていて爽やかな風が室内に吹き込んでいた。教室の中央の机の上にあったのは、彼女が持っているものと同じ、金色に光る楽器。
「サックスっていう楽器、知ってるかな」
彼女が自分の楽器を見つめながら優しく話し始めた。名前も知らない彼女をどう呼べばいいのか分からず、俺は戸惑っていた。
「あ、私は鈴村心音(すずむらここね)。先輩だから、心音さん、がいいかな。君は?」
少し茶色のショートヘアに茶色の瞳、二人きりの教室で無邪気に笑う彼女は、サックスと同じきらきらとした魅力を放っていた。
「清水樹。一応中三……」
「一応、ね。今はこれ以上聞かないけど。樹くん、君はどうしたい?」
普段されない呼び方で、少し不思議な感覚になる。俺は自分がどうしたいのか、まだ分からずにいた。
「わかんねえけど、このまま何もしねえのはなんか嫌なんだよ」
俺は自分の手を見つめ、半年間何をしてきたのか振り返り、その記憶を手の中で握り潰した。
「わかった。とりあえず吹いてみよっか」
この日から彼女は俺に毎日、誰もいない教室でサックスを教えてくれるようになった。もちろんタダで、とはいかない。
「まず見た目をどうにかしなきゃ、校舎に入るのに先生に止められちゃうでしょ?」
俺はオレンジ色だった短髪を黒く染め直し、着崩していた学ランも、前のようにきちんと着直した。
「それと、言葉遣い。先生にはもちろん、ここは先輩しかいないんだから敬語でね」
「お、おう、先輩」
堅苦しい言葉を捨てた俺は、敬語の使い方を完全に忘れてしまっていた。すかさず彼女が下から睨みを効かす。
「そこは、はい、もしくは、わかりましたって言うの。あと、私のことは、心音さん」
「ハイ、コ、ココネサン……」
彼女の笑い声が教室に響き渡る。しばらくロボット口調が抜けることはなかった。
「あとは、ちゃんとした生活をすること。樹くん、学校に通ってないどころかお家にもまともに帰ってないでしょ」
彼女にサックスを教わり始めてもう二週間だ、気づかないはずがない。でも俺は、彼女にこれまでの経緯を話す気にはなれなかった。
「話したくないことは話さなくていい。でもね、心に迷いや不安があったら、それを楽器が感じ取って、音として出ちゃうんだよ」
確かにそうかもしれない。同じ楽器なのに、俺と彼女では音が全く違う。いきいきとしながらもなめらかな彼女の音と、荒々しくつんざくような俺の音。上手い下手関係なく、楽器は俺たちの心を正確に音として映し出したのだ。
「生活が変われば、心も変わる……んですか?」
まだ慣れない敬語を使いながら、俺は彼女に質問した。
「もちろん、きっと本来の音色が出せるはずだよ」
俺は彼女の言葉を胸に、両親がいるであろう時間帯に家へと帰った。会うのは実に半年ぶり、もう逃げてはいけない気がした。
「た、ただいま……」
リビングには俺の姿を見て唖然とする両親がいた。しばらくの沈黙の後、目に涙を溜め嬉しそうな表情の母さんとは反対に、俺から目を逸らし冷たい背中を向けた父さんが口を開いた。
「今更何しに戻ってきたんだ」
「やりたいことができた。学校にも行く」
どう言えばいいかわからず、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。それを聞いた父さんは、俺と同じように呟いた。
「勝手にしろ。俺は知らん」
それ以上の会話はなく、再び沈黙が訪れる。母さんは俺を強く抱きしめ、小さく泣いていた。
久しぶりの学校は初めてより緊張した。三年生でも担任はあのクソ教師のままだったが、そんなことは気にしなくなっていた。
生活はあの頃の真面目な日々に戻っても、俺の心は前よりずっと晴れやかだった。俺は真面目を演じるのではなく、自分のしたいことのために勉強するようになった。
「変わったね、樹くん」
今日はいつもの教室ではなく、俺が初めてあの音色を聴いた土手で練習していた。彼女、いや心音さんは俺の音色を聞いて納得したようだった。
「ちょっと基礎練しといて、お手洗い行ってくるね」
心音さんは近くの公民館へと歩いて行った。俺はその背中を見送り、言われた通り基礎練を黙々とこなしていた。すると、懐かしい声が俺の耳を刺すように飛んできた。
「よお、樹、久しぶりだなあ。しばらく顔出さねえと思ったら、珍しいもん持ってんねえ」
俺が前につるんでいたメンバーの一人、金になりそうなものには目がない窃盗常習犯が、俺の楽器を舐めるように見ていた。
「お、お久しぶりっす……」
「お前には似合わねえなそれ、俺が金に変えてやるよ、二つとも」
嫌な予感が的中した。俺の楽器は心音さんから借りたものだ、もう一つは心音さんの大事な相棒。俺は楽器ケースに入った心音さんの相棒を奴から遠ざけ、一言言い放った。
「死んでも渡さねえ」
この言葉で奴の態度が豹変し、飛んできた拳に俺は背を向けてひたすら耐えた。こんな惨めな戦い方は初めてだ。
「樹くん!」
遠くから聞こえた心音さんの声で後ろからの猛攻撃が止み、走り去っていく音がした。俺は膝をついてその場にうずくまった。
「なんでこんな、どうして」
「触るな!」
泣きながら血だらけの俺の背中をさすろうとした心音さんに、俺はきつく制止をかけた。
「大事な手が、汚れちまう」
俺は抱きしめていた楽器を心音さんに預け、そのまま倒れ込んだ。
数日後、心音さんが退院日に見舞いに来てくれた。
「もう退院して大丈夫なの?」
「これぐらいの怪我、何度かあるんで」
病院敷地内のベンチに座ると、心音さんは俺に提案した。
「よかったら一緒に演奏しない?」
そんなの断るはずがない。俺たちはすぐに楽器を組み立て、チューニングを終えた。
「俺、心音さんと出会えてよかったです」
「こちらこそ」
俺たちは目を見合わせ、同時に息を吸う。
あの日と同じ、景色は昼から夜へ、太陽は月へと変わり、周りを魅了する。
心音さんと奏でた『ムーンライトセレナーデ』で月は輝きを増し、俺たちをスポットライトのように照らしていた。