テラーノベル
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悶々とした週末、それに加えて月曜日の朝は霧雨だった。
(最悪だ)
気分が優れない嵐山龍馬の眉間には皺が寄り、始業の朝礼では緊張が走った。
「部長どうしたの?」
「顔がいつもより怖いんですけど」
社員たちはその面立ちに慄いたが、そこへ場の空気が読めない男がのんびりと出社した。
「え、なになにどしたーん?」
営業部の自称イケメン第1位、結城|源文《もとふみ》は足取りも軽やかに嵐山龍馬のデスクの周りでステップを踏み始めた。
「ちょ、結城くんなにしてるの!」
「いやちょっと」
「やめなって」
嵐山龍馬は部下の異様な行動を見て見ぬ振りでデスクに視線を落とし書類に確認印を捺している
「ブチョウ」
源文は上司の顔を覗き込みながら囁いた。
「ブチョウアレカラドウナリマシタカ」
嵐山龍馬は椅子から転げ落ちる勢いで背後に飛び退き顔を赤らめた。
「な、なんの事だね」
「いえ、随分酔っておられましたから如何なさいましたかと思いまして」
「結城くん、その使い慣れない丁寧で尊敬な謙譲語もどきは止めなさい!」
「そうっすか」
嵐山龍馬は咳払いをひとつして源文の顔を凝視した。
「家に帰った」
「そうっすか」
「ちなみに御母堂の名前はなんと仰るのかな」
「あれ、聞いていなかったんすか」
「覚えていない」
思わず視線が左右に泳いだ。
「聞かなかったんすか」
「酔っていたから早々に失礼した」
「そうっすか」
「で、なんと仰るのかな」
「由宇、結城由宇」
一瞬の間。
「ゆう、ゆうさん」
源文は《《なにかあった》》と察知した。源文は嵐山龍馬の隣にしゃがみ込むとデスクに隠れ小声で母親の現状を伝えた。
「旦那、うちの母ちゃん離婚ほやほやでっせ」
「り、りこ、ん」
「今がお買い得でっせ」
「離婚、離婚されたのか」
「よろしゅーお頼み申し上げまつる候」
「結城くん、その奇妙な言葉遣いは止めなさい」
「了解っす」
嵐山龍馬の確認印は朱肉に減り込み目は一点を見つめていた。
(こ、これは一刻も早く離婚せねば!)
そして時計の行方も探さなければならない。
(時計は結城の母親の店か、あの女性の部屋か)
退社後、嵐山龍馬は百貨店の地下食品売り場に駆け込んだ。
(女性ならばGODIVAのチョコレートだろう)
源文の母親とあの女性が別人の可能性も有るので念の為に二箱購入した。
「リボンはお付けしますか」
「あぁ、宜しくお願いします」
「かしこまりました」
10,000円札で幾らかの釣り銭が来た。嵐山龍馬のチョコレート大作戦が幕を開けた。
嵐山龍馬は紺色の傘を差し居酒屋ゆうの前に佇んでいた。
(ーーーそうだった)
そこに暖簾は見当たらず出入口には定休日の札が下げられていた。片町の飲み屋の定休日は月曜日である事が多かった。居酒屋ゆうも例に漏れず今夜明かりが灯る事は無い。
(かくなる上は、あのマンションの女性)
嵐山龍馬の喉仏が上下した。この店の女将である結城の母親があの女性である確率は限りなく高い。白か黒かといえばグレーゾーンだが白でない事は確かだ。
(私は妻帯者でありながら部下の母親と《《寝た》》のか)
今の嵐山龍馬にとってノーチラスの時計どころでは無かった。
(どんな顔で会えば良いのだ)
不倫でしかも15分間とは情けなさの極み。あの女性も「ぷぷーーーっ短っ」と心の中で嘲笑っていたのではないかと考えるとタクシーの後部座席の窓を叩く事すら躊躇われた。
(気が重い)
月曜のタクシープールは客待ちの空車がずらりと並んでいる。どれにしようか悩んだが景気の良さそうな黄色のタクシーを選んだ。
「すみません、名前は分からないのですが寺町の下菊橋あたりに5階建てのマンションはありますか」
「あーーー2、3軒は有るかな」
「細い路地の突き当たりなんです」
「あーーーじゃああそこかな、行ってみますか?」
「お願いします」
タクシー乗務員の勘は大当たりでバス停近くの路地の突き当たりにそれらしきマンションが立っていた。曲がり角に古い写真館があったので間違いなかった。
「支払いはチケットで」
「毎度ありがとうございます」
後部座席の扉が閉まる音で心臓が跳ね上がった。52歳にもなってなにを慄いているのかと建物を見上げエントランスで傘の雫を払う様に羞恥心を払った。
「郵便ポスト」
郵便ポストは殆どが無記名で5階の一番端と思われる501号室には蒼井とあった。
(蒼井という名前の女性なのか?)
上昇するエレベーターの様に嵐山龍馬の血圧も上昇した。
「鼻血が出そうだ」
ぽーーーん
5階のエレベーターホールで左右を窺い見ると501号室の前には観葉植物が並べられベビーカーが置かれていた。
(当たり前だが赤ん坊は居なかった)
そうなると5階の一番端、510号室があの女性の部屋だ。嵐山龍馬は廊下を一歩踏み出した。
嵐山龍馬は子どもの頃に読んだ昔話を思い出した。鶴の恩返し、怪我をして助けられた鶴も恩返しでお爺さんやお婆さんの家の扉を叩いた時はこのような心持ちだったのだろうか。
(なにを恐れる事がある!今の私は酒に呑まれてなどいない!)
正常な機能ならば《《色々な面で》》問題は無いだろう。
(取り敢えず平伏して謝罪しなければならない!)
震える指でインターフォンを鳴らしたが1回、2回と反応が無かった。これはまた間が悪く不在なのだろうと踵を返したそこで応答があった。
「はい、どちら様ですか」
「あの」
「あっ!嵐山さんですね」
「はい」
「ちょっと待っていて下さいね!」
如何やらモニター付きのインターフォンだった様だ。緊張し上擦った声で名乗る必要が無く安堵した。施錠が解かれる迄に息を深く吸って吸って吸いすぎて咽せた。
(私よ、落ち着け。大丈夫だ、なにも問題は無い!)
「お待たせしました」
「こんばんは、先日はとんだご迷惑をーーー!」
由宇は風呂上がりだったらしく濡れた髪、上気した頬、Tシャツとショートパンツから伸びた手足はうっすらと桜色をしていた。鶴は恩返しをする前に回れ右をして脱兎の如くこの場を去りたい衝動に駆られた。
(神よ、私を試されているのですか!?)
「こちらこそ先日はなんのお構いもせずにごめんなさいね」
「いえ、十分《《良くして頂き》》ありがとうございました」
由宇は嵐山龍馬がなにを言わんとするのか首を傾げたが立ち話もなんですからどうぞと部屋に招き入れた。
「申し訳ございませんでした!」
リビングに通された嵐山龍馬は突然床に額を付けて謝罪の言葉を述べ始めた。珈琲の準備していた由宇はその姿に仰天した。
「先日はご迷惑をお掛け致しまして!」
「ご迷惑、ですか?」
「き、金曜日の夜です!」
そして額は床に付いたままだ。
「申し訳ございませんでした!」
「なにかありましたっけ」
「べ、ベッドに!」
「あら、その事ですか?」
「はい!申し訳ございませんでした!」
由宇は珈琲カップを2個取り出すとリビングテーブルの上に置いた。
「まぁ、そんなお顔を上げて下さい、ね?」
床に擦り付けた額を上げると眉間は赤くなっていた。そして見上げた先にはローアングルのショートパンツから覗く太腿、嵐山龍馬の顔は更に赤らんだ。
「お顔が赤いですね、お熱かしら」
「い、いえ、あの、その」
「どれどれ?」
発熱しているのではないかと言いつつ華奢な指先をその額に当てた。
「熱はっ、熱はありません」
「どれどれ?」
屈んだTシャツの襟首から覗く胸の谷間に思わず目を瞑る嵐山龍馬の|初心《うぶ》な動作に由宇は失笑した。このまま口付けをしたらどの様な反応を見せるのか興味津々だったがそれは流石に度が過ぎていると我慢した。
「お熱はない様ですね」
「そうですか」
「珈琲如何ですか?」
嵐山龍馬は至近距離の緊張感から解き放たれ安堵の表情を浮かべた。由宇はその姿を横目に珈琲ポットを持ち床に座った。珈琲カップに注がれる芳しい香り。
「ありがとうございます」
「お砂糖とミルクは」
「お砂糖下さい」
(お、お砂糖だと!|一々《いちいち》可愛いんじゃ、ごるあ!)
そこで鶴はGODIVAのチョコレートを一箱置き深々と頭を下げたがそのテーブルの角に額をぶつけて顔を顰めた。
(この人って、実は鈍臭い?)
兎に角、額を何処かに|打《ぶ》つけているので脳味噌が片寄ってしまいハイスペックなロマンスグレーが残念な鶴に成り下がっているのではないかと由宇は想像した。
「これは」
「粗品ですが、お詫びの品です」
「粗品だなんてGODIVAのチョコレート好きなんです!」
焦茶のパッケージにマンダリンオレンジのリボンを解くと由宇は目を輝かせた。その嬉々とした表情に満足げな嵐山龍馬は珈琲に角砂糖をひとつ落とした。
「それで、わざわざこれを届けに?」
「それもありますが」
「ありますが」
「あなたの」
「私の」
「あなたのお名前を失念してしまいまして」
(マジか、本当にこの人部長なの?|文鳥《とり頭》の間違いじゃないの!?)
由宇は呆れた顔で声を大にした。
「結城由宇です」
それを聞くなり鶴はもう一箱のGODIVAを差し出した。
「二箱?」
「はい、あの夜のあなたと結城くんのお母さんにお詫びの品をと思いまして」
「同一人物ですが」
「いや、なんというか」
嵐山龍馬は視線を上向きにして目を左右に動かし始めた。
「なんというか、なんですか?」
「あの夜のあなたと」
「私と」
「結城くんのお母さんは別人として考えたいな、と」
「はぁ」
如何やら嵐山龍馬は金曜日の晩、由宇と事に至ったと思い込んでいる。然し乍ら部下の母親とのセックスは受け入れ難いと言った。
「ややこしいですね」
「申し訳ありません」
「そう言えば」
由宇は嵐山龍馬の左の薬指に光る結婚指輪に言及した。ただし嵐山龍馬は離婚届を提出する気満々な状況にありその結婚指輪に意味が無い事を由宇は重々承知していた。いつもの悪戯心だった。
「嵐山さん、ご結婚されていたんですね」
「ーーーーそっ!」
思わず左手を隠す辺り後ろめたさが見て取れた。それを見た由宇は女優さながらに下を向くと「結婚しているのに私と寝たんですね」と声を震わせた。
「そっ、それはなっ!」
「やっぱりそうなんですね」
「いやっ、それは!」
その慌て振りは滑稽でにじり寄った肘がテーブルに当たり小皿に積んだ角砂糖のピラミッドが崩れた。
「不倫、ですね」
「ち、違います!」
「男の人ってみんなそう言いますよね」
「由宇さん、違います!」
嵐山龍馬は由宇の手首を握るとその顔を凝視した。その顔はまさにハイスペック、然し乍ら残念な鶴。良い雰囲気の筈が由宇の口元は可笑しさで歪んだ。
嵐山龍馬は由宇の両手首を掴むと必死な形相で「違うんです」を繰り返した。由宇はこの文鳥の賑やかしい|囀《さえず》りを右から左に聞き流して伏目がちに斜め45度で呟いた。由宇はこの角度がいちばん魅力的に見える事を知っていた。それは居酒屋で売り上げが倍増する点で実証済みだ。
「じゃあ、嵐山さん。誠意をみせて下さいますか」
「せ、誠意」
「はい、奥さまと別れて下さいますか」
「もっーーーー!」
文鳥は勿論と言い掛けてその|嘴《くちばし》を|噤《つぐ》んだ。市役所で緑枠の離婚届用紙は入手した。然し乍ら肝心の《《相手が行方不明》》で離婚届を提出する事が出来ない。
(ーーーどっ、どうしたら!)
離婚後の女性は100日間の再婚禁止期間が設けられ婚姻は不可能、然し乍らこの|機会《チャンス》を逃し由宇が誰か他の男性と|懇《ねんご》ろな仲になってしまっては元も子もない。嵐山龍馬にとってド直球でストライクでバッターアウトの好みのタイプである結城由宇はなんとしても逃したくない女性だった。
(どうしたら!)
「奥さまと別れて下さいますか」
「そっそれは」
由宇にとってもこのハイスペックで可愛らしい文鳥は第2の人生とまでゆかなくとも恋愛相手としては最高の相手だった。
(結婚なんて望めないわ、あの嵐山の嫡男だもの身分が違いすぎるわ)
所詮田舎者の水商売の女、文鳥も自分をその程度の女としか思っていないだろうと由宇はやや自暴自棄気味でこの状況を愉しむ事にした。
「ーーー嵐山さん」
由宇は囁きながらその手のひらに口付けた。
「ゆっつ、由宇さん!」
文鳥は羽根をばたつかせるとそのまま由宇をカーペットの上に押し倒し、珈琲カップの中で冷めた珈琲が|漣《さざなみ》を立てた。
「あ、ん♡」
その唇は額を啄み頬を啄み唇を軽く味わうと舌先が首筋を舐め始めた。
(まんま、まんまおんなじーーーー!)
夜のお悩み相談室で聞いた順序そのままで愛撫を始めた嵐山龍馬の行為に由宇は吹き出すのを堪え快感を味わう所の騒ぎでは無かった。
(次は、次は胸よね)
わくわくしているとやはり文鳥は由宇のTシャツを捲り上げその突起に吸い付いた。
(え、え!?)
今のいままで順序厳守の愛撫を小馬鹿にしていたが乳首に関しては意外と技ありで甘く蕩けた。小刻みに触れる舌先、乳輪を舐めとる熱い舌の感触。
「あ」
由宇は思わず喘ぎ声を漏らし脚を嵐山龍馬の腰に巻き付けた。然し乍ら小ぶりな乳房を掴んだ瞬間、その身体が離れた。
「こっ、これではいけない!」
「なにがですか」
「こんな不謹慎な!」
「不謹慎」
「結城くんのお母さんと!」
「お母さんといっしょですか、私、《《あの夜の女性》》と同じ人物なんですけど」
「それでも駄目です!」
文鳥はテーブルの上の甘い珈琲を飲み干すと床に額を付けて平謝りをし「ごちそうさまでした!」と声を大にして玄関へと向かった。
「嵐山さん!」
「お邪魔しました!」
取り残された由宇は茫然自失、文鳥との恋は前途多難だった。
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