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ウーヴェを部屋に残すことに後ろ髪を引かれる思いを感じていたが、階下で己が降りてくるのを待っているレオポルドのことも無碍には出来ず、何度目かの溜息を吐きながら階段をゆっくりと降りていくと、リビングからレオポルドが出てくる所だった。
「親父」
「ウーヴェは落ち着いたか?」
リオンの声に顔を上げて苦笑するレオポルドにリオンが階上を振り仰ぐことで回答すると、レオポルドの剛毅な顔に苦痛の色が浮かび上がる。
「親父、二人で話をしたい」
「俺と?」
「……アリーセや……オーヴェのお母さんがいれば感情的になってしまう」
そうなってしまえば己の思っていることを上手く伝えられないと苦笑するリオンに頷いたレオポルドは、先日ギュンター・ノルベルトとアリーセ・エリザベスが飲んでいた部屋ではなく、彼自身の書斎へとリオンを案内する。
「ここなら呼ばない限り誰も来ない」
己の妻や娘には悪いと呟くレオポルドに無言で頷いたリオンだったが、少し待っていろと言い残して恋人の父が出て行く背中を見送ると、この屋敷の規模からすれば小部屋と呼べるがリオンの感覚からすれば十二分に広い部屋を見回し、壁一面の本棚や重厚なデスク-ウーヴェのクリニックにあるものよりも大きくてどっしりとしていた-へと目を向けると、デスクの上に置かれた写真立てに気付く。
写真立てはいくつかあり、妻のイングリッドが一人で笑顔を浮かべているものや旅行先の記念写真らしきもの、娘夫婦と一緒に写ったものもあったが、もっともリオンの目を惹きつけたのは、年月が経過していてセピア色になっている家族写真だった。
この写真をリオンはウーヴェから見せられていたことを思い出し、写真立てを手に取ると、感情に途切れながらも教えてくれた当時のことがありありと浮かんでくる。
家族仲の良いことで評判だったバルツァー家だが、当主のレオポルドの言葉を借りれば、天から授かったウーヴェが来るまでは家庭は崩壊状態だったそうだ。
その最悪の状態からここまで仲良くなる、その原動力が写真の中央でレオポルドの膝に座って嬉しそうに笑っているウーヴェであることは疑いようがなく、また己の恋人がそれだけの力を家族に与えられたのだと気付くと、レオポルドがウーヴェを特別な子どもと呼ぶ真意の一端だけでも理解できそうだった。
ウーヴェに対する嫉妬は最早感じ無いが、仲の良かった頃の話を聞くと今の関係との差を感じて疼痛を覚える。
この写真のように家族の中心にいたのがウーヴェであることは疑う余地はなく、その中心が無くなってしまった家族には埋めようのない穴が開いたことは簡単に想像出来るが、抜けた中心であるウーヴェも埋めようのない何かを喪ったのではないのか。
写真立てを手にじっと考え込んだリオンは、その喪ったものが家族であることに気付くと、本当に唐突に、まるで天啓を得た人間のように呆然と目を瞠ってしまう。
全てを持つ世界の中心にいる特別な子どもだと思っていた恋人だが、その人となりや過去を知れば知るほど、彼の抱えている孤独が浮き彫りになってくる。
その孤独が己が抱えるそれと似通っていることに気付き、無意識に片手で口元を覆ったリオンは、ドアが開く音にも反応できず、改めて気付いたウーヴェの孤独とそれを顕著に表すあの広い家で、自分と付き合うまでは誰も家に来たことが無いと教えられた事も思いだし、口を覆った手で思わず己の頬に指を立ててしまう。
「――っ!」
己は孤独に耐えられずにいつも傍にいてくれる、無限に湧いてくる寂寥感を埋めてくれるその場限りの関係の誰かを捜していたが、同じ孤独を抱えた恋人は誰にもそれを求めず、あんなに広い家に一人きりだったのだ。
そしてそれら全ては、ウーヴェが幼い頃に巻き込まれた事件が切っ掛けだったのだ。
誘拐事件が無ければきっとウーヴェは孤独とは無縁だっただろうし、家族の誰とも関係を断たなくても良かった筈だった。
それを思うと事件とそれを企てた主犯格の二人に強い憎しみを抱いてしまうが、それ以上にウーヴェの孤独やウーヴェと距離を取らざるを得なかったレオポルド達のことを思ってやるせなくなってしまう。
「……なんて顔をしているんだ、お前は」
不意に響いた声に思わず飛び上がったリオンは、写真立てを手にしたまま声の方へと振り返り、レオポルドが酒の用意を持って来た事に気付くと、切なげな顔で溜息を吐いて頭を左右に振る。
「ひでぇ顔してる?」
「ああ。面白いから写真を撮らせろ。後でウーヴェに見せてやる」
「うわ、最悪!」
お願いだから止めてくれと小さく叫んだリオンは、本棚の前に置かれたコーヒーテーブルに座れと言われて頷き、腰を下ろすと本棚に写真立てをそっと置く。
その写真立てに目を細めただけで何も言わなかったレオポルドは、己とリオンの為に持って来たバーボンをテーブルに置くと、リオンと向かい合う席に腰を下ろす。
「その写真を見ていたのか?」
「この間オーヴェに見せて貰ったなぁって」
同じ写真がウーヴェのアルバムにもあったことを伝えたリオンが見たのは、レオポルドの目に淡く浮かんだ優しい色だった。
「……そうか」
だが聞こえてきたのはその短い一言だけだったため、逆にレオポルドの思いの深さを感じ取って口を閉ざしてしまう。
「明日は休みだな?」
「ああ、うん」
「俺と二人で話すのは明日ではだめか?」
二人で話したいと言われたが、明日でも良いかと問われて一瞬考え込んだリオンだが、親父が望むのならと頷くと、レオポルドが二つのグラスに氷とバーボンを入れてリオンに一つを差し出す。
「……飲め」
「何だ、奥さんがいると飲めないからここで俺と飲みたいだけかよ」
「うるさいぞ」
本当はそうではないがつい茶化すように目を細めるリオンを一睨みしたレオポルドだったが、それ以上は何も言わずにグラスを差し出すと、リオンもその意を酌んで受け取る。
「……乾杯」
「乾杯」
グラスの尻を軽く触れあわせた後、ほぼ同時に喉を灼くバーボンの味と香りを楽しむと、レオポルドが満足げに溜息を吐く。
「ウーヴェは……その写真をまだ持っていたんだな」
「結構大きな箱に入れてた」
その箱を俺は見た事がなかったが、その中に写真が沢山入っていたこと、アルバムも何冊か入っていたことから、ウーヴェが見たくないと思いつつも捨てることが出来なかったものであると分かったとも告げたリオンは、グラスを傾けるレオポルドに目を細め、ウーヴェの心が長い間揺れ動いていた証だとも気付くと、いつかに切っ掛けを得てそれ以降いくつもの出来事を乗り越えながら確信へと変化を果たした思いを口にする。
「オーヴェ……親父や兄貴を憎んでるって許せないって言ってたけど……」
本当は心の何処かで許したかったのではないのか。
リオンの呟きにレオポルドが溜息をついて視線を窓に向けると、静かに立ち上がってカーテンを開ける。
背の高い大きな窓から見える夜空に浮かぶのは秋の月で、月明かりが庭を照らしだしているのを見つめながらもう一度溜息を吐く。
脳裏に浮かんでいるのは、人として持っている当然の感情や表情すら喪失して、ただ車椅子に座っているだけの幼いウーヴェの姿で、ウーヴェが以前のように笑ってくれなくなったとしても、人としての感情を少しでも取り戻してくれるのならば何でもしようとギュンター・ノルベルトと二人で決めたことも思い出されてしまう。
「俺たちを憎んででもあの子には生きていて欲しかったからな」
だから憎んでいるのは当然だと苦く笑うレオポルドにリオンが目を細め、その思いが通じてずっと確かに憎みながら生きてきたウーヴェだが、本当はそうではないのではないのか。付き合いだしてから幾度も互いの心の裡をさらけ出さなければ乗り越えられないような出来事を乗り越えて来た今なら理解出来るがと断りを入れたリオンは、苦い顔のまま振り向くレオポルドではなくグラスの中で琥珀の海に浮かぶ氷を見つめてぽつりと呟く。
「……ゾフィーが殺された時、俺の姉を殺したヤツを同じ目に遭わせたいって思った。だからオーヴェの前から消えた」
その間、幼馴染みの家にいたが毎日考えていたのはどうやってジルを見つけ出して殺すか、この身体の中に芽生えている憎しみをどうやってあいつにぶつけるべきかということだけだったとグラスをくるりと手の中で回転させるとレオポルドが無言で先を促す。
「だけどそんな俺をオーヴェは迎えに来てくれた。……ゾフィーの事件が終わってからオーヴェが教えてくれたのは……いつまでも人を憎み続けることは出来ないってことだった」
「……」
姉を亡くして自暴自棄になったリオンを迎えに来たウーヴェだが、その後時間を掛けて日頃の言動でリオンに教えたのは、いつまでも人は憎しみを抱えて生きることは出来ないと言うことだった。
「憎しみは全ての原動力にもなる。だけど前を向いて歩きだす力も奪ってしまうことにもなる。いつまでも憎しみに囚われていると前に進めないって教えてくれた」
己の患者に対して日頃から伝えていることなのかも知れないが、その時の俺にとってその言葉は憎しみに囚われた心を救い出してくれるものだったと透明な笑みを浮かべたリオンは、レオポルドが驚きの顔で見つめてくる事に気付いて肩を竦める。
「人にそう言っておいて自分は違うなんてオーヴェは無いと思う」
だから実はもう親父や兄貴のことは憎んでいないのではないかとグラスを傾ければ、ならば何故俺たちを避けるとレオポルドが返すと、リオンの顔が親しい人間でも滅多に見ない真剣なものになる。
「憎んでないけれど許せない、そうなのかなと思ってたけど、もしかすると別の思いがあるのかも知れない。俺ももうジルを憎んでねぇけど許せねぇし」
憎しみをいつまでも抱き続けられない為に昇華したとしても許せるかどうかはまた違うだろうと頷くリオンだが、その脳裏には己がレオポルドを護衛した時の様子が浮かんでいた。
あの時ウーヴェは苦痛に歪む顔で親父を守る必要など無いと言い放ったが、その翌日には助けてくれてありがとうと言ったのだ。
その言葉がリオンの仕事に対する労いではないことはすぐに察することが出来た為、ならばレオポルドの命を守ってくれた事への感謝なのだと分かったが、いくら売り言葉に買い言葉のようなものであっても前夜に言い放った言葉と真逆の思いを伝えるだろうか。
その時の言動がどうしてもリオンの中で整合がつけられずにいたが、もしかするとその整合性の無さがウーヴェの本心を表しているのではとも呟くと、レオポルドが窓際から席に戻ってくる。
「どういうことだ」
「許してないって口では言ってるけど、何か違う気がする」
ウーヴェのように上手く言葉で説明できないのがもどかしいが、もっと他に何かあるのではないのかと顎に手を宛がったリオンは、レオポルドがバーボンを注いでくれたことに礼を言い、両手でグラスをしっかりと持ってくるくると回転させる。
「ハシムの死の責任を感じているんじゃないのか?」
「それは確かにあるだろうなぁ」
確かにハシムに対する贖罪の思いは何よりも強いが、本当にそれだけだろうかと呟くリオンにレオポルドも重苦しい溜息を吐く。
「……明日は一日家にいるのか?」
「んー、オーヴェがいるのなら。出掛けるってのなら一緒に出掛ける」
「分かった。……今日はもうこの話は止めておこう」
あの子の心をここで思ったとしてもきっと正解は分からない、分からないことを考え込んでも仕方がないと肩を竦める恋人の父にリオンも頷くと、気分を切り替えるようにレオポルドが足を組み替える。
「ヴィーズンに行かねぇって言ってるけど、今年こそ一緒に行って欲しいなぁ」
「あの子は人が多いところはあまり好きではないからな」
「そうだけどさ、でもヴィーズンを一緒に盛り上がりたいのになぁ」
テントで歌ったり踊ったりはしないが、せめてマスビールを飲んでチキンを食べたいと肩を落とすリオンを同情の目で見つめたレオポルドは、会社の取引先から招待状が届いているが毎年行っていないこと、古くからの友人がブルワリーと顔見知りなのでいつでも言えばテントで席を押さえてくれることを告げると、途端にリオンの目がぎらりと光り顔が歓喜に輝き出す。
「今年こそヴィーズンに行く!」
「……無駄だと思うが、頑張ってみろ」
「最初から諦めちゃ何もできねぇ!」
だから頑張ってウーヴェを誘って年に一度のビール祭りに参加すると拳を握ると、レオポルドがさすがにウーヴェの祖父であり育ての親であることを示すような顔でリオンの宣言を笑い飛ばす。
「せいぜい頑張れ」
「くそー!その言い方オーヴェそっくり!」
親父のくそったれと恋人の父を面と向かって罵倒したリオンは、良くもそんな事を言えるな、今すぐ追い出すぞと凄まれても怯むどころか憎たらしい顔でレオポルドを見返す。
「さー、オーヴェが待ってるから部屋に行こうっと」
その憎たらしげな顔と言葉にレオポルドが舌打ちをした時、ドアが小さくノックされて不安そうな女性の声が聞こえてくる。
「……レオ」
「ああ、リッドか。どうした」
レオポルドの声にドアが開いて顔に不安を浮かべたイングリッドが姿を見せると、リオンがたった今まで浮かべていた憎たらしげな顔を一瞬で掻き消して不気味なとウーヴェが称する表情を浮かべ、立ち上がってイングリッドの前に向かう。
「オーヴェのお母さん、親父が今日は俺とここでずーっと酒を飲むって言ってました」
「ま……!」
「おい!」
「俺は身体のことを思えば減らした方が良いと思ったんですけど、止められませんでした」
反省していますと殊勝な声で軽く頭を下げたリオンだが、振り返ってレオポルドを見た顔はどう見ても反省などしていない、それどころかレオポルドがイングリッドに睨まれているのが心底おかしくて仕方がないと言いたげな顔だったため、思わず椅子の肘置きを掴んで腰を浮かせたレオポルドは、イングリッドが心配と怒りを綯い交ぜにした目で見つめている事に気付いて咳払いをする。
「リッド、俺とそいつのどちらを信じるんだ」
「……どちらの話も半分に聞いておくわ」
「ちぇ」
さすがにウーヴェの母だ、そう簡単に引っ掛かってくれないかと舌を出すリオンを軽く睨んだイングリッドだが、リオンが表情を三度切り替えてイングリッドと向き直ったため、彼女も軽く息を飲んで出てくる言葉を待ち構える。
「明日、ハンナの朝飯が食えるのを楽しみにしてます」
「……伝えておきましょう」
「ダンケ、オーヴェのお母さん。……オーヴェを一人にしてるので、そろそろ戻ります」
表情と言動とが一致しないことへの戸惑いを感じつつも、己の息子の恋人が外見や言動だけでは理解出来ない心の動きをすることに気付き、頷いてついリオンのくすんだ金髪に手を宛がって優しく撫でてしまう。
その手の動きがリオンにとっては意外でもあり懐かしい人の温もりを思い出させるものでもあったため、ただ目を瞠って細くて白い手が己の頭から離れていくのを見守ってしまう。
「お休みなさい、リオン。……ウーヴェを頼みますね」
「あ、う、うん……お休み……」
心なしか呆然と挨拶をしたリオンは、笑いを堪える顔のレオポルドに何も言わずに部屋を出て行くと、静まりかえった廊下を進みウーヴェの部屋に向かう階段を登っていくのだった。
リオンが出て行く背中を見送った二人だが、イングリッドがリオンが座っていた席に腰を下ろしたため、レオポルドが小さく溜息を吐いて今日はこれで止めておくとバツの悪そうな顔で告げる。
「……ええ」
「リオンがどうしてもウーヴェと一緒にヴィーズンに行きたいそうだ」
「それは……難しいでしょうね」
「ああ。でも頑張るそうだ」
無駄な頑張りにならないように何か助言をしてやってくれと妻に告げたレオポルドは、妻の顔が安堵に綻んだことに気付き、咳払いをして先程己が開けたカーテンの向こうへと目をやる。
「……月が綺麗だな、リッド」
「ええ」
リオンやウーヴェと比べられない長い間一緒にいる夫婦にはその言葉で思いが伝わり合うようで、妻が夫の横に静かに移動すると夫もそんな妻を安心させるように握られている手に手を重ねるのだった。
ウーヴェが眠るベッドに小さな声で断りを入れつつ潜り込んだリオンは、己の動きに気付いて小さな声を挙げるウーヴェの髪にキスをし背中から守るように抱きしめる。
父や兄を憎んでいるからこそ、今でもメディアを通じて見聞きしただけで頭痛を覚えたりするのだろうが、ならばあの時のあの言葉はどんな思いから出てきたのか。
己のあまり賢くない頭では理解出来ないと小さな溜息を吐いたリオンは、ウーヴェの白っぽい髪に顔を寄せてもう一度キスをすると、今度は大きく欠伸をして目を閉じる。
「お休み、オーヴェ」
明日はこの屋敷で何が出来るのだろうか、何が起きるのだろうかと呟いて朝食を楽しみにする気持ちのまま眠りに落ちるのだった。
そんなリオンの腕の中では眠っているはずのウーヴェが苦痛に顔を歪め、縋るものがそれしかないと言うように枕元のテディベアの太い手をきつく握りしめているのだった。