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世間一般に、親のことをどの程度知っていれば子供合格なのだろう。花江はずっと専業主婦で仕事一筋の貴一を支えてきた。控え目だが誰とでも愛想よく話ができて、美人で優しい花江を貴一も自慢に思っているようで、結も誇らしい気持ちがあった。
けれど母娘らしいことをした覚えがほとんどない。人生相談も初恋の話もした記憶がない。花江がどこで生まれて、どんな環境で子供時代を過ごし、どんな経験をしてきたのか結は知らない。
そして花江は結のことをいつも「結ちゃん」と呼ぶ。そう呼ばれるたびにどこか淋しく、どこか腹立たしく感じていた。
写真の中で顔を寄せ合って笑う二人の目元はよく似ている。翠が言った春日凛太郎という名前に結は心当たりがない。優しいお母さんには結の知らない、知ってはいけない別の顔が、もう一つの家庭があったのだろか。
日々の仕事をこなすだけで精一杯で、他のことに心を乱されたくない、煩わせられたくないのに、大きな波にのみ込まれていくようで、手帳に写真を戻した結はきつく目を閉じた。
週明けの月曜日。結はオフィスの応接セットで工藤と向かい合って座り、日下部暖人と会ったときのことを話しそして謝罪した。
「代表はもう諦めてしまうのですか?」
工藤の言葉に顔をあげた結は言った。
「私は暖人さんの作品を多くの人に見てもらいたい。きっと彼の描くものは多くの人の心を温かくしてくれる。大きな感動を与えてくれる。諦めたくはありません」
「同感です。ですが発表までもう時間がありません。早急にお父様に連絡し、もう一度会ってもらえるようにしなければなりません」
紺色のスーツの内ポケットからスマホを取り出して、工藤は電話をかけようとした。そのとき結のデスクに置かれている電話が鳴り、工藤が受話器を取った。数回頷くと工藤は電話の内容を伝えた。
「フロントに日下部さんが来ているそうです」
「すぐにここにお通しして」
結はブラウスの襟を整えて、スカートの裾を払い、やや緊張した面持ちで日下部親子が来るのを待った。
オフィスに入ってきたのは夏夫一人だけだった。夏夫は周囲を見回しながら呟いた。
「やっぱりすごいですね」
「どうぞ。お座りください」
ガラスのテーブルを挟んで向かいに座る夏夫に、結は秘書の工藤を紹介した。
「今日暖人さんは?」
結が聞くと、夏夫が笑った。
「先日衣替えをしましてね。暖人の冬用の靴下が、どれも見事に穴が空いてしまっていて。靴下を買いに行くんだと言って商店街に出かけて行きました」
「暖人さんお一人でですか?」
この前の話では、商店街の人にも慣れていて、一人でも買い物に行けるのだという。だが、夏夫は微かに首を振ると言った。
「今日は翠さんが買い物に付き合ってくれています」
翠の名前が出てくると、どういうわけか結の心拍数があがった。
「よく面倒を見てくれます。暖人も友達だといって懐いています」
暖人に微笑みかける翠の顔を思い出す。意外と面倒見がいいのだろう。
「お忙しいですよね。あまりお時間を取らせてはいけませんね」
「お気になさらずに。こちらからもう一度お会いしてお話がしたいと思っていたところです。先日は一方的に先走って話をしてしまい、申し訳ありませんでした」
頭をさげる結に、夏夫は持っていた袋から紙の束を取り出して、ガラステーブルの上に並べた。それらを見た結は、しばらく言葉が出なかった。隣に座った工藤が息をのむ微かな音が聞こえた。
「こちらへ伺うべきか悩みました。小塚さんとお話をした日、家に帰るなり暖人は部屋に閉じこもって描き始めました。今までにないくらい夢中で一晩中描いて、朝になったら電池が切れたように眠り込んでしまい、傍らにこの絵の束がありました」
ガラステーブルに並べられた暖人の絵は、どれも温かい色で溢れていた。
「普段は聞き分けのいい素直な子なのですけど、夢中になると周りのことなど全く見えなくなって、呼んでも返事もしません。ですが、あんなにも楽しそうに描く暖人を私は初めて見ました」
日下部暖人という画家を、彼の描くものを多くの人に知ってほしかった。その為にできることを全力でしたいと改めて強く思い、その思いを伝えようとしたときだった。
「私は最低の父親です」
コメント
1件
今回もじんわり来たわ……。 結ちゃんが見つけた写真のお母さんと、今の「結ちゃん」呼び、すごく胸に刺さった。優しいだけじゃない母親の別の顔、気になる。 暖人が一晩中描き続けたっていうエピソード、めちゃくちゃグッときた。あの絵の束見てみたい。 「私は最低の父親です」からの続きも超気になるし、翠さんとの距離感もどう変わっていくのか楽しみ!
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