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第11話、読み終わりました。夏夫さんの過去があんなに重いものだったとは…。線路の中で「明日も晴れるかな」と笑った暖人さんの言葉が、父親の心を取り戻させたシーン、胸が詰まりました。「何年父親をやっていても、子供にとっての最善を瞬時に見極めることなどできない」という工藤さんの言葉にも救われましたね。夏夫さんの肩の震えと、結が感じた「熱い血潮」の描写がとても印象的でした。
暖人を見守る夏夫の眼差しを初めて見たとき結は羨ましいと思った。そんな夏夫が最低の父親だなんてありえないと首を振ろうとする結に、夏夫は右手で右の耳を塞いだ。
「警報器の音が耳から離れないんです。私は、暖人を…、殺そうと、したのです」
夏夫の言葉は、春の雨のように静かに落ちて消えていく。結は聞き間違いであってほしいと願った。
「妻が病気で亡くなったとき、暖人はまだ小学一年生でした」
夏夫が話し始めた。
「暖人にはできないことがいっぱいありました。朝も一人で起きられないし、着替えも顔を洗うことも、食事をするときもすべて側で見ていてやらないといけなかった。あの子と二人の生活になって、妻の大変さを改めて思い知りました。日々時間に追われるばかりで何一つうまくいかない私と、夢中になると何時間でも同じことをやり続け、それを取り上げようとすれば手がつけられないほど泣き叫ぶ暖人。毎日のようにそんなことが繰り返され、私は次第に追い詰められていきました」
なんで自分の子供が障害者なのだろう?
なんで暖人なのだろう?
妻にはよく笑っていたのに、私の前ではどうして泣いてばかりいるのだろう?
このままこの子の世話に追われて、疲れ果てていくだけなのだろうか。
「あるとき暖人が友達に怪我をさせたと学校から連絡を受けて慌てて向かうと、怪我をさせてしまった友達の母親に言われました。
うちの息子と友達なわけがないでしょう。障害者と友達だなんて気持ち悪い」
友達の怪我はたいしたことはなかったという。暖人のランドセルについていた猫のマスコットを友達が取り上げてからかい、それを取り返そうとしたときに、勢いで友達を突き飛ばしてしまっただけだった。
「妻が大事にしていた物で、妻が亡くなったとき暖人がほしいと言った物でした」
マスコットを握り締めて暖人は言った。
「これでいつでもお母さんと一緒だよ」
泣きながら、でも精一杯笑って。母親の死を暖人なりに理解しようとしたのだろう。
「私は暖人を抱き締めながら、この子は何も悪くないと何度も何度も思いました。けれど、この先も私たちが生きている間に味わう傷つくこと悲しみ苦しみ。その何十倍ものものが暖人を襲うのだろう。そう思ったら私はあの子の手を引いて線路の中にいました」
警報器が鳴り響く線路の中にいても、暖人は怖がる様子もなかった。やっぱりこの子はわかっていないのだ。もうこれでいいのだと思ったとき、西の空を真っ赤に染めて沈んでいく夕陽を指差して暖人が言った。
「明日も晴れるかな」
無邪気に笑う暖人を見たとき、夏夫は暖人を抱き抱えて走り出していた。
「なんて愚かなことをしようとしていたのか、そのときになってやっとわかりました。暖人には明日がある。暖人の明日を未来を私の勝手で奪おうとしていた」
それまで勤めていた会社を辞めて、暖人がのびのびと過ごせる学校を探していたら、この街にたどり着いたのだという。
「あるとき暖人に言われました。
朝はパンと牛乳でいいよ。ゴミの日は火曜日と土曜日、朝七時から八時の間にごみ置き場に持っていくこと。それより早いとカラスが突っついちゃうからダメなんだよ」
夏夫が小さく笑った。夏夫が笑うのを久しぶりに見た気がして結はほっとした。
「ごみの分別にあの子は殊更(ことさら)うるさくて。私の頼りなさを知っていた妻が、暖人に教え込んでくれていたようです」
変わらず日々の暮らしに追われながらも、二人で穏やかに暮らしてきた。
「最近になって、偶然にも松本君と再会したのです」
夏夫と松本恭平は、小学校の同級生だったという。恭平と再会してあの喫茶店に通うようになり、翠との出会いが暖人の世界を間違いなく広げてくれた。暖人の絵を褒めてくれたのも、喫茶店で飾ろうと言ってくれたのも翠だったという。おかげで喫茶店を訪れるお客からも、絵を褒めてもらえるようになり、暖人の自信とやる気に繋がっているという。
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「たくさんの人のおかげで、あの子と二人でなんとかここまで生きて来ることができました。ですが…」
暖人も三十代になり、夏夫も六十代になると、この先のことが急に不安に思うようになったという。
「私がいなくなったあと、あの子はどう生きていけばいいのかと考えるようになったとき、こちらのコンクールを知りました。何かのきっかけになればという思いで応募したのですが、まさかグランプリに選んで頂き、その先のことまでご提案して頂いて嬉しさより、あの子が世の中に出て行くことを考えると怖くなってしまい、先日はあのような終わり方をしてしまいました。せめて考える時間をくださいと言えばよかったと後悔しました」
テーブルに置かれている暖人の絵に、夏夫は視線を落した。
「何年父親をやっていても、子供にとっての最善を瞬時に見極めることなどできないもですよね」
結の隣に座り、一緒に話を聞いていた工藤が夏夫に話しかける。
「だからつい余計なことを言ってしまったり、後悔したりを繰り返して、己が嫌になるときもあります。私にも三十代の娘がいるのですが、時々口うるさいって叱られます」
工藤の言葉に夏夫は救われる思いをしたのかもしれない。小さく息を吐いたとき、ずっと強張らせていた頬の線が柔らかくなったように結には見えた。やはり工藤を同席させて正解だった。
「日下部さんは立派に暖人さんを育て上げた方だ」
夏夫が勢いよく首を振る。
「私は情けない頼りない父親です。立派なんて言葉とんでもない」
しかし工藤は言い返した。
「いいえ。あなたは立派な方です。その証拠に小塚も私も、そして多くの審査員が暖人さんの絵に心を打たれた。あなたが一生懸命育ててきたから、それに応えるように暖人さんも真っすぐで素直な人になった。その心が絵から滲み出て見る人を感動させる、幸せな気持ちにするのではないでしょうか。私はまだ暖人さんにお会いしていませんが、お会いできるのを楽しみにしているんですよ」
頭を垂れた夏夫の肩が震え出す。
「思い切って来てよかった」
顔をあげた夏夫の鼻の頭が、赤くなっていた。膝の上で握っていた手が、熱いと結は感じた。それはきっとこの体内を勢いよく駆け巡っている血潮だ。暖人の描く絵から結が感じた感動を、多くの人にも感じてもらいたい。その強い思いを情熱を、結の中を今確かに駆け巡っている血潮を夏夫に信じてもらいたかった。
「暖人さんの才能を潰さないよう、こちらも最善を尽くしますので、今後ともよろしくお願いします」
結は夏夫に深く頭をさげた。
「あなたのお父様は、さぞ難しいご決断をされたことでしょう」
突然貴一のことを言われて、結は頬を強張らせた。
「これだけ大きなホテルの代表に娘を就かせることは、すごく不安で、すごく勇気のいる決断だったと思います。以前何かで読みましたが、お父様はもう何年もある施設を支援されているそうですね。継続して支援をするなどなかなかできることではないですよ。本当にご立派な方だ」
優しい夏夫の眼差しが、このときの結には痛かった。
「明日も晴れますかね」
夏夫を見送り、窓際に立つ結に工藤が声をかける。
「お話がうまく運んでよかったですね」
「工藤さんがいてくれたおかげです。ありがとうございました」
「いいえ、私は何もしていませんよ。ああ、ちょっとすみません」
スーツの内ポケットで再び鳴ったスマホを握り、工藤はオフィスを出て行く。
「明日も晴れるかな」
呟く結の表情は自然と明るくなった。
西の空に沈んでいく夕陽に、街が赤く染まる様は実に美しかった。