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【Loneliness】
病室の窓から差し込む朝の光が、白いカーテンをふわりと揺らしていた。
ベッドの上、元貴はそっと瞼を開けた。
まだ薄く霞がかかったような視界。けれど、それは以前よりも少しだけ、色があった。
食事はまだすべては取れないが、ゼリーやスープなら少しずつ口に運べるようになっていた。
看護師が笑顔で「今日も完食ですね」と言ってくれるだけで、ほんのわずかに胸が温かくなる。
過呼吸の頻度も、少しずつ減ってきていた。
ただ、夜はまだ、深い影が心に残る。
夢に現れる音。視線。誰かの声。
叫びそうになる喉は動かず、呼吸だけが浅くなり、ナースコールが押される。
それでも――
滉人が病室に来る日は、少し違った。
彼が来ると、部屋が柔らかく変わる。
彼の声が聞こえると、体が安心しているのがわかる。
滉人がいる時間だけは、少し微笑むことができるようになった。
⸻
滉人は、ある日から詩集を手にするようになった。
それは元貴が以前に書いた詞たち。
メロディを乗せる前の、剥き出しの感情と言葉。
滉人は、元貴の表情を細かく観察しながら、それを声に乗せて読み始めていた。
「嫌ならすぐやめるから。顔に出るから、すぐわかるしな」
そう言いながら、ひとつ、またひとつと、朗読していった。
「遠ざかる声のなかで 君だけはずっと手を伸ばしてくれてた
何度も転んだ膝の痛みより その視線が僕を癒す」
静かな声。
穏やかで、やわらかくて、音にならなかった感情たちを、彼の代わりに滉人が紡いでくれているようだった。
元貴は、ときどきまばたきをしながら、それをじっと聞いていた。
涙を流すことはない。けれど、確かにそこに“聴いている”表情があった。
⸻
その日も、滉人は病室に来た。
白いTシャツに、ラフなジャケット。
小さなコンビニの袋を下げていて、少し恥ずかしそうに笑っていた。
「アイス買ってきたけど……食える?あんま冷たいやつ、まだやばいか」
元貴はベッドの上で、少しだけ首をかしげた。
否定ではない。
それが滉人には嬉しくて、にやりと笑った。
「今度、俺が歌詞書いてみようかな。俺にも才能あるかもしんねぇし」
冗談めかしたその言葉に、元貴は目を細める。
「……なんか今日、空がきれいだったよ。ちょっと曇ってるけど、夏が近い感じの風だった」
滉人は、元貴が何も返さないことを前提に、ただ話し続ける。
「……で、さ。俺なりに思うわけよ。お前の音楽ってさ、すげぇんだよ。
ちゃんと届いてんの。いろんな人に。俺にも」
ふと、元貴が、少しだけ顔を横に向けた。
視線が――滉人に向いた。
滉人は小さく息を飲みながら、話を続ける。
「……だから、ゆっくり戻ってこい。全部戻らなくてもいい。声が出なくても、詞が書けなくても、音楽やんなくても……俺がいればそれでいい」
そのときだった。
かすかに、ほんとうにかすかに、声が漏れた。
「……ひ……ろ、」
滉人は目を見開いた。
「……今……お前、今、俺の名前……?」
元貴の唇が、ふるえる。
力のない息だったけれど、確かに音になっていた。
掠れていて、最後までは届かなかったけれど――
たしかに、彼は「ひろと」と、呼ぼうとしたのだ。
滉人は震える手で、そっと元貴の手を握った。
「……聞こえた。元貴、お前……声、出たぞ」
元貴は微かに笑った。
涙が頬をつたう。
笑って、泣いて、言葉にならない想いがそこにあった。
滉人は、それをただ受け止めていた。
声にならなくても、言葉にならなくても、彼が生きていることが、何よりの答えだった。
⸻
医師や看護師、マネージャーもその報告に小さな安堵を浮かべた。
「まだ急に喋れるようになるわけではありません」と医師は告げたが、
それでも、心の奥底にある言葉が“声”として出たことは、何よりの希望だった。
夜の魘される頻度は変わらずとも、
元貴は以前より、少し長く起きていられるようになった。
そして、滉人が詩を読む時間は、ほんの少しずつ――増えていった。
その詩が、いずれ彼の声で歌われるかどうかは、まだわからない。
でも確かに、言葉はまた、元貴の中に灯りはじめていた。
そして、滉人の名前を呼んだその日から、
毎日ほんの少しずつ、音を探す旅が、再び始まっていく。