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それに、彼が社長のお気に入りって言う噂はどうやら本当の様で、
『機嫌は損なうな』とか『慎重に対応しろ』と耳に蛸壺たくさん拵えるほど上司から聞かされて、いい加減それにウンザリしていた。
『私にとっては新人のうちのひとりです。彼だけ特別扱いはしません』
思ったことをいえば『知った口を聞くな』だとか『教育係なら常葉の態度も変えてみろ』だとか、罵声と共に愚痴も浴びせられて。
じゃあ自分でしてよって、心は強気だけど態度には出せずに『善処します』申し訳ございませんって心にもない言葉を言ったことは記憶している。
それでも常葉くんが悪いわけじゃないから。上司たちの言う事は全部無視することに決めた。
それを知られていたとは。いや、別に隠すことでもないけれど、恥ずかしいな。
「……知ってたんですか?」
「まぁ、なんであんたが俺の事で怒られてんの意味わかんないんで」
「後輩の事で怒られるのは、」
「先輩の務め、でしょ?それ、まじでうざいですよ」
「……それで、怒ったんですか?」
「はい。だから仕返ししてやろうと思いました」
常葉くんは迎えに来たエレベーターに先に乗り込むから、その言葉は箱の中に消えていく。
「乗らないんですか?」
開けてくれているのに気付いて慌ててその箱に乗り込むと、朝より少しだけくたびれたグレーのスーツを見上げる。
「……じゃあ、なんで今優しくしてくれるの?」
「これが優しいって言うんですか?部屋貸すことが?」
「……違うんですか?」
「本気で優しいやつなら、酔いつぶれた女に手は出しませんよ。しかも彼氏持ちなんか、めんどくさい女に」
「……じゃあ、」
「……考えたらどうですか?」
私の言葉を飲み込んだ常葉くんは、天井から注ぐ柔らかな灯りさえも簡単に遮る。
壁際に追い詰められて目の前にその顔が現れると、嫌でも勝手に蘇る熱。
こないだ、すぐに私の思考を奪った体温が、再び私を占拠しようとする。
「考えて考えて、頭ん中俺で埋め尽くされて、いっぱいになったら良いじゃないですか」
どうしてそんなことを言うのか、私は常葉くんじゃないから分からない。
だけど、そうなってしまったら、抵抗の薄い私なんてすぐに丸呑みにされてしまう。
「……そんなのは、困る」
「困ってください」
くい、と、常葉くんは首を傾けるから、条件反射で身構えて、目を閉ざした。
だけど私の意図は裏腹にその体温は瞼に移るので身体の緊張を解いて目を開けると一気に常葉くんの顔が飛び込んで、深く、深く入り込むから目をきゅっと閉じた。
この前とは全然違う、甘くもない、急ぐみたいに、呼吸も食べられてしまいそうなキス。
だけど真っ暗闇で感じる熱はこの前と一緒で、舌の柔らかさとか、中をなぞる感じとか、いつかの私はまだ覚えていて。
「っ、はぁ」
息継ぎもやっぱりさせてくれるから、優しいのか意地悪なのか分からない。
いま、どんな顔して私にキスしてるのか
知りたいのに、知りたくない。常葉くんだけじゃない、私も狡い。
「っん……も、着く」
軽いキスに変わった隙に顔を背けて扉の上の電灯を見て…………目を一気に開けた。
「……っ!お、押してないじゃないですか!?」
「はは、気づくのおそ」
何故か上機嫌にあどけなく笑って、1階のボタンを押した常葉くん。
年甲斐になく口を尖らせて、力を無くした唇を人差し指と親指で挟んだ。
常葉くんのことは、やっぱり分からない。
きっと考えても分からないし、聞いても教えてくれないのだろう。
見捨てればいいのに、拾ってくれるし、面倒そうに付き合ってくれる。
意地悪なくせに、どうしてこう、私の心を軽くしてくれるのだろう。
でも、分からないのも、それに慣れちゃうのも、悪くないのかもしれない。
「……性格、悪いですよ」
「褒め言葉と受け取ります」
人気のない会社を常葉くんと並んで出るのも初めてだし、こんな風に、仕事帰りに誰かと飲みに出掛けるのも、随分と慣れない事だった。
まだ、常葉くんの事は少ししか知らないけど
常葉くんは、やっぱり少しだけ狡い人だと思う。
私が見ても全然こっちを見てくれないのに、
私の視線はすぐに捕まえる。
ずるい人なのに、捕まろうとしている私を
常葉くんは、また、ばかだって罵るのかな。
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#ワンナイトラブ
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