ユカリは海上で、魔法少女の紫に輝く杖の上で、レモニカを抱き締め、海底に築かれた泡の神殿を眺め、どうやって人々を助けるか考える。二か月ほど前、海の底に沈められた経験を思い出す。
魔法少女の杖で空気の通り道を作り続ければ、グリュエーを押し込むことはできるが、街の人々が全て退避するまで、その道を維持することはできない。魔法少女の杖とて息継ぎが必要だ。何度かに分けることになるだろう。そして低地全域にこのような場所が他にもあるかもしれない。沢山の人手と船が必要だ。
とりあえず水に没していない高地へ飛び去ろうと考えた、その時、白い帆をいっぱいに膨らませて一艘の船が近づいてくる。喫水線の深い海の船だ。この短時間でそれを用意できる者たちは限られている。それはこの事態を予想できた者だ。
乗組員が両手を振ってこちらに合図している。笑顔で歓迎というわけでもないが攻撃的な意志は感じられない。
「降りるね」とユカリはわずかに緊張した声で言った。
「承知しました」と言って焚書官姿のレモニカはぎゅっとユカリにつかまる。
魔法少女の杖を消して、グリュエーの助けを借りて、舳先に降り立つ。そこにいたのは救済機構の僧侶たちであり、その中から進み出てきた一人の女、それはモディーハンナだった。重ね毛皮の僧衣を身に纏っている。
「モディーハンナさん。救済機構の尼僧だったんだね」とユカリはレモニカに聞こえるように呟く。
「わたくしも知りませんでしたわ」とレモニカが囁き返す。「元人攫いで、盗賊と伝手があって、改心して尼僧に。分からない話ではありませんが。救済機構が人攫いの元締めだったと考えると、空しいだけですわね」
モディーハンナにも二人の会話が聞こえていたが、耳を傾けるだけで口を挟まない。
「演説していた粛清の話は、海嘯から人々を高地に逃すための嘘だったんですね?」ユカリはモディーハンナに確かめるように尋ねる。
「その通りです」モディーハンナは濡れた瞳を瞬かせて言う。「救済機構の予言の通り、海嘯が来ると伝えても異教徒は信じないでしょうから。機構の粛清が始まるという流言を携え、ガミルトン行政区を駆けずり回って高地へ逃げるように促しました。目論見はおおむね上手くいきましたが、それでも犠牲は多大です」
奇しくもその狙い通りに、ユカリたちはウィルカミドの街で避難を呼びかけたのだった。
「東の、シュジュニカ行政区は?」とユカリは尋ねる。
二か月ほど前、盗賊たちと真珠の宝物を探し回った町々では、あまり長く滞在することはできなかったが、沢山の人々と交流し、沢山の美しい景色を眺めた。あれらも全て海に沈んでしまったのだろうか。
「いいえ、そちらは大丈夫です。水没した低地はガミルトン行政区だけです」
ますます摩訶不思議なことだ。シュジュニカもガミルトンもどちらもフォーリオンの海に面している。片方にだけ水が流れてくるなどということがあるとすれば。やはり何者かの魔術によってフォーリオンの海が使役され、ガミルトンだけ沈められたのだ。
「それで、何で海嘯がやってくることを知ってたのか教えてもらえますか?」とユカリは尋ねる。
モディーハンナは困惑した様子で他の僧侶たちに助けを求めるような視線を送った。
ユカリは気を落ち着かせて更に尋ねる。「私、何かおかしなことをいいましたか?」
モディーハンナは言いにくそうに口を開く。「いえ、その、予言を知りませんか? シュジュニカ、ガミルトン間大隧道のガミルトン側の大壁画にも描かれているのですが」
モディーハンナの言いたいことは分かったが、ユカリは苛立ちを抑えるのに苦労する。
「それは、知ってますけど」アギノア、ヒューグと共に大隧道を通り抜けた夜のことをユカリは思い出す。「それじゃあ、その予言の出来事が実際に起こったっていうんですか?」
「見ての通りです」とモディーハンナは目の前の海を控えめに指し示して言う。「悲しい出来事ですが分かり切ったことでもありました。救済機構の信徒でさえ、中には信じていない者もいたようですが。今までに外れた予言など一つとしてないというのに」
いよいよモディーハンナや僧侶たちがユカリを見る目は狂人あるいは異教徒に対するそれだった。当り前のことを尋ねられていることに困惑しているらしかった。
ただ信仰のもとに予言を信じ、慈悲慈愛の精神で人々を救おうと奔走していたのだ、モディーハンナはそう言いたいのだろう。
ユカリは船縁の方へ歩き、僧侶たちの目も気にせず海に呼びかける。
「ねえ、フォーリオンさん。予言のことは知ってたんですか?」
白波を船に打ち付けてフォーリオンは答える。
「予言? どの予言だ? 神の目覚めか。王の反旗か。全ての滅びか。世には星の数だけ予言がある。人ごときの知るものも知らないものも」
「フォーリオンさんがシグニカを、ガミルトンを沈めるっていう予言です」
海底まで透けて見える清らかな海面が怒り狂うように渦巻く。「予言だと? 吾輩がいずれ大地の全てを沈めるのは古よりの宿命だが、それは我が力で成すべき誇り高き偉業ぞ! 誰ぞに抑えつけられる屈辱のもとではない!」
要するに知らなかったらしい。
「それで、誰に操られているのか分かるんですか?」ユカリは期待せずに尋ねる。
「無論だ。奴は第七聖女アルメノン。自らそう名乗りおったわ」
ユカリの胸に深々と剣を突き立てられるような衝撃を受けるが、しかし今は目を瞑ってこらえる。
ユカリは押し黙り、アルメノンについて知ってることを思い浮かべるが、ほとんど何も知らない。レモニカに似たアルメノンについて、まだレモニカとは何も話していなかった。レモニカ自身、なぜアルメノンの元に引き立てられたのか分からない、ということだけは聞いている。
救済機構の代表が、救済機構に伝わる予言を実現するために大海嘯を呼び寄せたということだ。モディーハンナがどこまで知っているのか分からないが、人攫いと同じくまたもや狂言というわけだ。
ユカリを興味深げに眺めていたモディーハンナが声をかける。
「お二人はこれからどうなさるおつもりですか?」
ユカリは振り返り、二呼吸置いて答える。
「この災いには黒幕がいるそうです」
予言を信じるモディーハンナがどう思うのか分からなかったので、聖女アルメノンのことを伏せる。
「何者かの魔術か何かでことが引き起こされた、と。そういうことですか?」
「ええ、そうです。心当たりはありますか? それこそ予言されてはいませんか?」ユカリは少しだけ皮肉を込めて言う。
「いいえ、私には何も。それは予言にも伝えられていません。それが分かっていれば、何者かの手によって災害の訪れることを知っていれば、避難誘導などではなく、その黒幕を討とうと考えていたはずです」モディーハンナの眼差しはどこまでも透徹で、その言葉は真摯に響いている。一転して言いにくそうに尋ねる。「それで、なぜそのことをご存知なのですか?」
「海に聞いて教えてもらいました」とユカリは率直に答える。
モディーハンナ以外の僧侶たちはいよいよユカリを恐ろし気に窺うように見つめてくる。
「そういえばまだご挨拶していませんでしたね」とユカリは何も気にせずに話を続ける。「レモニカは前に会ったんだっけ?」
「ええ、その節はありがとうございました」とレモニカは感謝の言葉を述べる。モディーハンナが疑問の表情を浮かべているので更に付け加える。「呪いについて、新たな知見をいただいたことですわ」
「ああ、そのことですか。いいえ、たいしたことではありません」モディーハンナは当たり前のことをしたという風に遠慮がちに答える。
「もう一つだけ良いですか?」ユカリは疑いを隠さず尋ねる。「どうしてここにやって来たんですか?」
「海嘯に呑み込まれても運よく助かっている者がいないか、一縷の望みをかけて。するとあの空気で出来た神殿を見つけたというわけです」そう答えてモディーハンナは改めてユカリと向かい合う。「私はモディーハンナと申します。今は救済機構の尼僧として日々精進しております」
差し出された手をユカリは握り返す。その手は温かく柔らかい。別に震えていたりはしない。
「私はユカリ。世間では色々な呼び名が囁き交わされているそうですが、魔法少女と名乗っています」
僧侶たちがどよめく。が、知らなかったという様子でもない。堂々と名乗られて戸惑っているといった雰囲気だ。それとも魔導書を集める大悪党が、街が海に沈んだことに心痛めていることで困惑しているのだろうか。
「もしや、とは思いましたが……」とモディーハンナは言いにくそうに呟く。
「どうしますか? 救済機構としてはガミルトンを救うために魔法少女と協力するのはまずいですか?」と意地悪な言い方をしてユカリは自身に失望する。
「いえ、いえ、そんなことはありません」モディーハンナは力強く答えた。「事ここに至って、魔導書を巡る立場の違いなど何となりましょう。ぜひ協力させてください。その、黒幕を討つために」
ユカリもまた笑顔で応える。
「ありがとうございます。助かります」脈絡もなくユカリの頭に閃きがよぎる。「今なら、もしかしたら、すみません、松明か何かあります?」
僧侶の一人が船室から新しい松明を持ってきた。ユカリはこれ見よがしに、という訳ではないが、羊皮紙を革の合切袋から取り出して松明に巻きつけて一緒に握る。そしてレモニカが燧石と呪文を使って火をつけた。
ユカリはアルメノンの持っているだろう魔法の剣の在り処を強く【願う】。すると脳裏に正確な方向と距離が現れ、たちどころに理解できた。まるでずっと前から知っていたかのように、当たり前の知識かのように分かってしまう。
前にも魔導書の在り処を知ることはできまいかと試してみたが、上手くいかなかった。探す対象を具体的に知っている必要があるのではないか、とベルニージュは推測していた。
今では、『第七聖女アルメノンの持つ魔法の剣』という理解がある。それが功を奏したのだった。
火を消して、呆気に取られている僧侶たちと向きあう。「シグニカの地図とかってありますか?」
「ええ、いえ、ガミルトンの地図ならありますが」とモディーハンナが答える。「船室に行きましょう」
ユカリとレモニカは応じ、モディーハンナと共に船室へと向かった。僧侶以外にも雇われらしき水夫たちが何人かいた。しかし海を見つめる彼らの表情はまだこの光景を信じられないと言っていた。
船室の机の上にガミルトンの地図を広げ、ユカリは感じ取った方向と距離からある一点を指す。それはシグニカを東西に分かつ高地の北側、北高地の先端、フォーリオン海を臨むシグニカ最北端の地だ。
「ホールガレンの街ですね。シグニカ最大の灯台を擁する街です。そこに件の黒幕が息を潜めているのですね」ユカリが頷くのを待ってモディーハンナは僧侶の一人に命じる。「ホールガレンへ向かってください」
災いの海の上で僧侶たちが、水夫たちが忙しく立ち働き始める。それから目的地にたどりつくまで、助けられた者は一人もいなかった。
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