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船は青い波を掻き分けて、白い雲を追い立てて、港町へとたどり着く。何の変哲もない港町にたどり着くという異様な事態に、船縁で前のめりになっていたユカリは潮風にしょぼつく目を疑う。今は低地が海に沈んでいるとはいえ、そこはつい先日まで高地だったはずだ。しかし港として十分な設備が整えられている。泊に波止場、防波堤、桟橋。いくつかの大きな船に水先案内船。どれも新しいが、潮の香だけは古の時代から受け継がれてきたものだ。
厚い雲が街の北端にある灯台に裂かれ、千切れ、港の方へと流れてきて潮風にまかれる。日の光を遮って港町に不思議な濃淡を加える。生き延びた冠鴎は困惑した様子で黄色の鶏冠を振り、初めて訪れた高地の港町に語り掛ける。夢の如き景色だ、とユカリは思い、少し悔しく感じた。
「どうして港があるんですか? ホールガレンの街はどうして港町なんですか?」ユカリは思いつくままに目の前の光景を説明する言葉を求め、船の行く先を見つめていたモディーハンナに尋ねる。
「どうして、と言われても。予言されていましたから。当然、先んじて分かっている以上、以後のことも考えなくてはなりません」モディーハンナは僧侶らしく教えを子供に語り聞かせるように話す。「ガミルトンの低地が沈んだ後もシグニカが機能するように、何十年も前から高地のあちこちに予め港町を作ってあるんです。北はホールガレンから予見する者たちまで、西は幸の土地からゴルトローまで」
ユカリが想像していた以上に救済機構は予言を確信していた。今となっては、確実に成し遂げる計画だった、と言うべきなのだろうが。
船は安くない停泊料を支払い、帆を畳んで錨を下ろす。港には日に灼けた水夫がいて、たくましい沖中仕がいて、声の大きな水先案内人がいて、馴れ馴れしい笑みを浮かべる商人がいる。彼らはまるでずっと昔からその仕事に従事しているかのように、手際よく威勢よく汗水流して潮風を切って働いていた。それでなくてもつい先日、国の四分の一が海中に没したとは思えない陽気な活気が港に満ちている。そしてシグニカの高地に古くから息を潜めていた不思議な者たちの方が突然現れた海を不思議がって軒下から顔を覗かせているのだった。
モディーハンナたち僧侶の姿を見つけた人々は寄り集まってきて恭しく挨拶をし、敬意に輝く瞳で見つめ、祈りの言葉を諳んじる。その様を見るに、救済機構の信徒たちは今度のことでますます信仰を深めたらしい。
そして彼らは口々に言う。海嘯からお救い下さり、ありがとうございます、と。お陰様でホールガレンは海に沈まずに済んだ、と。
「敬虔なる信徒たるホールガレン市民の皆々様の常日頃からの弛まぬ信仰の賜物です」とモディーハンナはユカリとレモニカに申し訳なさそうにしつつ、信徒と話を合わせていた。
すると顎鬚に塩を蓄えた一人の荷運び人夫が感激した様子で言う。「しかし救済機構から遣わされた僧兵様のおかげで、この街の被害はほとんどありませんでした。感謝してもしきれんのです」
「高地でも少なからず被害があったということですか?」と焚書官姿のレモニカが尋ねる
他の僧侶を相手するのと同様に恭しげに人夫は答える。「ええ、あの大海嘯ですから。まったく無傷という訳にはいきませんでした。しかしその僧兵様の勇ましき祈りで海嘯はこの町を避けて流れていったそうです」
「その方は今どこに?」とユカリは率直に尋ねる。
灯台近くの町長の邸宅で街の英雄として歓待を受けていたらしい。
間違いなく、その英雄とやらが大海嘯の実行犯だ、とユカリは確信する。アルメノンは自らの手を汚さず、腹心の部下か何かにその忌まわしい罪を犯させたのだろう。
「黒幕がいたら皆さんは下がっててくださいね」とユカリはモディーハンナに言う。
「はい。それは、お言葉に甘えさせていただきます」そう言いつつもモディーハンナは眉を顰める。「機構の僧兵が黒幕だと仰りたいのですね?」
「もしそうだったらって話ですよ」
モディーハンナは言い返し足りない様子だったが、ぐっと飲みこんで引き下がった。
活気は港だけでなく、ホールガレンの街全体に浸透している。まるでお祭り騒ぎだ。店先や広場、大きい通りでも狭い通りでも人々が力強く行き来し、溌剌と語り合っている。過去の幸運と現在の幸福と未来の栄光について。ガミルトン行政区が沈んだことを嘆き悲しむよりも、ホールガレンの港町が助かったことを喜び祝うと決めているらしい。
ユカリたちは一行を引き留めんとする楽し気な空気を振り払い、北端の灯台の方へと突き進む。篝火台を兼ねた聖火の伽藍ほどではないが、ホールガレンの灯台はとても巨大で、救済機構の好んで使う炎の意匠が取り入れられている。
灯台前には方形の花崗岩が敷き詰められた広場があった。広場は植えられた松に囲まれていて、濃い緑に輝いている。そこで憩っている誰かに町長の邸宅の正確な位置を尋ねようと思っていたが、その必要はなかった。
大仕事以来ずっと見ていなかった顔があった。ジェスランは前とは違う高級そうな仕立ての僧服を身に纏って、広場の長椅子に優雅に腰かけていた。
ユカリたちを認めると余裕そうに笑みを見せて言う。「おお。本当に来たね。おじさん、このまま待ち惚けになるんじゃないかと思ってたけど。やっぱり筒抜けってわけか」
ジェスランは立ち上がり、それが礼儀作法であるかのように鞘から剣を抜く。前にユカリがへし折った段平とは似ても似つかない凡庸な剣に見えるが、そこから放たれる魔法の気配はユカリの肌をざわめかせる。ただ強い力を秘めている、という単純な事実に気づかされる。
ユカリは威嚇するような【笑みを浮かべ】、『至上の魔鏡』をかぶったレモニカの存在は消え失せる。モディーハンナたち僧侶は広場の外まで引き下がった。全ては事前に決めていたことだ。魔導書はユカリが奪う。レモニカにはシグニカで手に入れた四つの魔導書を使って補佐してもらう。
「それが魔法少女ってやつだね。ずいぶん派手な仕立てだけど幽かに光っていて綺麗じゃないか」とジェスランは仄光るユカリの姿を見つめて言った。
「グリュエー。捕えて」
ユカリの背後から獰猛な風が飛び出して、その爪と牙でもってジェスランにつかみかかる。しかしジェスランはまるで空気の流れが見えているかのように、飛び退いてユカリ目掛けて駆けてきた。その男の微笑みには殺意が宿っている。餓えてたまらない獣のように一直線に飛び掛かって来る。
しかしユカリはそれを待たず、紫水晶の杖の柄に腰かけて上空へ飛び上がった。剣を防ぐ手立てがない以上、距離を取るほかない。
「おいおい。空飛ぶなんてずるいぞ」とジェスランが剣を振り回して言う。
「人々を海に沈めることに比べればたいしたことないですよ」
「おじさんに言われてもね」ジェスランは小さなため息をつく。「まあ、反対したわけじゃないし、言い訳する気もないけどさ。さて、それじゃあおじさんもずるいことを試してみるか。少しくらいなら良いよって猊下も言ってたし」
ジェスランが剣を構えなおし、しかしユカリのいる空ではなく、西に新たに広がっている海の方を見つめる。
はったりを警戒しつつユカリもそちらに目を向ける。二度と見たくなかった光景が西の空に広がっていた。海嘯だ。ガミルトンを沈めた時に比べればささやかなものだが、圧倒的な破壊力で港を呑み込み、広場へ迫っている。
「さあ、ユカリちゃん!」とジェスランがユカリに向かって言い立てる。「おじさんを止めなければ全部が押し流されるよ!」