テラーノベル
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今のところ破綻は起きていない、はず……。
「フレデリック・ショパン役、藤澤涼架さんクランクアップです、お疲れ様でしたー!」
監督の「カット」の声に続いて助監督さんの声が響き、身体に入っていた力をそっと抜く。周囲の人が拍手をしてくれて、畏れ多いと思いながら頭を下げる。すっごく楽しかったし、本当に素敵な経験をさせてもらった。
アシスタントの方から華やかな花束をいただき、ありがとうございます、と再び頭を下げる。監督や主演の俳優さんたちと握手やハグをし、お疲れさま、と労ってもらって、達成感と安心感に包まれる。
畑違いの僕をあたたかく迎え入れ、緊張を解すためにたくさん話しかけてくれた現場の人たちにも再三お礼を言って、衣装室に寄って衣装を脱いだ。
車を回してくると言ったマネージャーと10分後に駐車場で落ち合うことを確認し、身支度を整えるために控え室に入った。
部屋に入ってすぐに目に入ったのは、机の上に置かれた向日葵をたくさん使った花束だった。先ほどいただいた花束はマネージャーに渡してあるから、この花束はまた違う誰かが用意してくれたのか、と鮮やかな黄色の眩しさに目を細める。
スタッフさんか誰かだろうか、そう思いながら手に取った瞬間、パサ、と床に何かが落ち、視線を下に向けて息を呑む。
白い封筒――――僕の家のポストに入れられていたものと同じ、あの。
「ど……して……」
いや、この現場にストーカーがいることは不思議ではない。気持ち悪いことこの上ないが、この前の写真だって撮影現場の風景だった。だから今日もここにいるということが、納得はできないが想像はできる。
だけど、どうやってここに入ったの? セキュリティの観点からいくら現場スタッフといえど簡単には入室はできず、事務所の人間を通さないければならないはずだ。
でも、今日僕に帯同してくれたのはい車を回しに行ってくれたマネージャーだけで、撮影中はずっと現場にいたはずだ。
じゃぁこの花束は……? 誰が置いたもの……?
「ひっ」
うつくしい花束がとてつもなく気持ち悪いものに思えて手を離す。バサッと大きな音を立てて床に落ちた花束が起こした風で、白い封筒が僅かに動いた。
バクバクと脈打つ心臓の音が身体中に響き渡り、貧血になったときのような眩暈を感じて机に手をついて身体を支える。気持ち悪さから吐きそうになり、口元を手で覆った。
見たくない、でも、中身を確認しないと。だって元貴が狙われているかもしれないのだ。今から元貴たちと合流して打ち合わせがある。僕の行動次第で、このストーカーが元貴を攻撃するかもしれない。
どうしようもなく震える身体を叱咤し、どうにか封筒を拾い上げた。肩で呼吸をしながら中身を取り出すと、写真ではなく便箋が入っているだけだった。硬さからいって前みたく間に写真が挟まれている様子はない。
目をギュッとつむって、深呼吸をしてからゆっくりと開いた。
「……はは……」
目に入った文字に、乾いた笑いが込み上げる。脱力して床にへたり込み、ぼろっと頬に涙が伝ったのがわかったけれど、なんの涙なのかは分からなかった。
不安なのか恐怖なのか、怒りなのか苛立ちなのか、その全部なのか分からない。ぽろぽろとあふれでた涙は便箋に落ち、中央に書かれた文字が滲んだ。
“悪魔から解放される日は近い。その証拠に、昨日は愛してると言わなかった”
盗撮された写真も小指の爪の会話も、最初になくなったリップだって、楽屋だったり撮影現場だったり、控え室でのできごとだけだったから、お家の中は安全だと思っていた。ポストに封筒が“置かれていた”のだって、ダイヤルナンバーを知らなくてもどうにか頑張ればそう見えるように置いたのかもしれない、と考えるようにしていた。
だけど、昨日の電話でのやりとり、そしていつもの僕と元貴のルーティンを知っているということは、随分と昔から僕たちのことを見ていたか聴いていたということになる。
唯一安全だと思っていた場所が、ずっと前から危険な場所だったなんて思いもしなかった。
「なん、なの……ッ」
熱狂的なファン? 偏執的なストーカー? なんだっていい、どんな名称をつけたところで気持ちが悪いだけだ。
なんの権利があって俺の生活に入ってくるの? どんな理由で俺の大切な人を傷つけようとしてくるの? 女神? 天使? ふざけないでよ……! そんなものになったつもりはないし、なりたくもない!
手に力が籠り、便箋がグシャリと音を立てる。投げつけたくなる気持ちを抑えながら花束を睨みつけると、大輪の向日葵の中にメッセージカードが入っているのを見つけた。
見たくもないが、元貴のことが書かれているかもしれないから、気持ち悪くて仕方ないけど内容を確認する。
“僕の女神 向日葵の花言葉を知っていますか?”
今までと同じような特徴のない文字に、知らねぇよ、と吐き捨てる。僕は夏が好きだから夏の象徴みたいな向日葵だって好きなお花だけれど、今はただただ嫌悪感しか湧かない。
床に落ちた花束を無造作に掴んで立ち上がり、控え室の隅に設置されているゴミ箱に押し込んだ。お花に罪はなと分かっていても、見ているだけで気分が悪かった。証拠として残しておかなくたって便箋があれば充分だ。
涙を腕で拭って時計を見る。マネージャーと落ち合う約束をした時間は過ぎていた。
「……行かなきゃ」
マネージャーはもう車を回してくれているだろう。時間になっても来ない僕を心配して入れ違いになったら面倒だし、打ち合わせに遅れるわけにはいかない。
なによりも、はやく元貴に会いたかった。自分の目で元貴の無事を確かめたかった。
自分の鞄の中に丸めた便箋と白い封筒を押し込んで控え室を出る。廊下ですれ違うスタッフさんやエキストラの方々には対外的な笑みを浮かべながら駐車場へと急いだ。
駐車場に着くと遅い僕を気にしたマネージャーがちょうど車から降りたところだった。慌てて声をかける。
「ごめん、待たせた?」
「あ、よかった。何かありました?」
「……ううん、ちょっとトイレ行ってた」
僕を気遣ってくれるマネージャーを疑っているわけでは決してないけれど、僕が撮影に臨んでいる間に控え室に誰かが入っている以上、その真偽は確かめるべきだろう。僕に
でも、もしも、万が一マネージャーが手引きをしているのであれば、馬鹿正直に答えてくれるわけがない。
車に乗り込み打ち合わせ場所へと向かう。後部座席には先ほどもらった花束が置かれていた。本当に花にはなんの罪もないのに今は見るだけで気分が悪かった。
僕の中に疑心が募っていく。
楽屋や控え室の盗撮に盗聴を考えれば、事務所内部に内通者がいると考えるのが妥当だろう。でもそれがマネージャーとはどうしても思えなかった。思いたくなかった、という方が正しいかもしれない。チームの中にそんなことをする人物がいるなんて、信じられなかった。
「……今日の撮影、どうだった?」
「え?」
「や、元貴に心配されてさ。セリフ間違ったりとか、人に迷惑かけてないか、とか」
それでもどうしても確かめずにはいられなくて、緊張しながら問い掛ける。はは、と笑ったマネージャーは、許可を取って撮影していたのであとで見てみますか? と言った。
「そう、だね……」
マネージャーの身の潔白が証明されたのと同時に、あの花束と封筒がどうやって置かれたものなのか、その謎が残るだけだった。
個人の私物は控え室内の小さな鍵付きのロッカーに入れる。その鍵は僕がずっと持っていた。でも控え室自体には施錠をしないことの方が多い。衣装の搬入だったり清掃だったり、ケータリングだったりが入るからだ。もちろん事務所の人間に確認を取り、可能ならば立ち合いのもとに行われるはずだが、出入りがあっても怪しまれにくいと言えばそうだろう。
じゃぁその隙を狙ったのだろうか。あれだけの人が行き交う現場とはいえ、事務所関係者を装うのは難しいはずだ。それにもしも何か搬入があるなら、事前に伝えられているはずだ。
花束ひとつとはいえ差し入れに見えたから、誰も不思議に思わなかったのだろうか。
ぐるぐると考えがまとまらず、頭が痛くなってきた。
シートに沈み込んで目を閉じると、着いたら起こします、とマネージャーが言った。僕のためによりいっそう丁寧な運転をしてくれることも含めてお礼を言って、思考の波に沈むように眠りに落ちた。
程なくして打ち合わせ場所に着き、会議室に入る。前とは違うビルの一室を借りている。そう考えると、毎回同じ場所を使うわけじゃないから盗聴器やらを仕込むのって難しいと思うんだよね……。
ドアを開けると先に来ていた元貴と若井がパッと僕を見て、お疲れ様、と微笑んだ。
2人の笑顔に実家に帰ってきたかのような安心感を覚えてホッと息を吐く。それが表情に出ていたのか、
「なになに、疲れてんじゃん」
「ちょっと休んでからにする?」
僕を心配した2人がそう言ってくれた。そのやさしさが嬉しくて涙が出そうになりながら、首を横に振って大丈夫だよと微笑む。
余計な心配をかけたくないし、僕のせいで打ち合わせを遅らせたくない。定位置になっている元貴の右横に座ると、元貴が僕の顔をじっと見つめた。やましいことなんてないのに、元貴の大きな目で見つめられるとなんだか緊張してしまう。若井も心配そうに僕を見て、マネージャーになんかあったの、と訊いた。
思い当たることがないだろうマネージャーは首を傾げるだけだ。もう一度、大丈夫だよ、ありがとと微笑むと、眉を下げた元貴が、
「無理、してない?」
と言って僕に手を伸ばした。
その瞬間、僕の頭の中に元貴の顔が赤く塗り潰された写真が浮かんで、思わず距離を取って顔を逸らしてしまった。
僕に手を伸ばしかけたまま止まった元貴が目を見開いて僕を見ているのが分かる。
元貴の奥に座る若井や周りにいるスタッフたちも息を呑んで僕たちを見つめていた。こわくて顔が上げられない。
「……はじめよっか」
元貴の静かな声に、ハッとなってスタッフたちが資料を開いた。僕も自分の前に置かれた資料を開き、資料を読み込むふりをしてずっと俯いていた。
多少の緊迫感のある空気ではあったものの、逆にその空気が良かったのか今日決めておきたいところまでスムーズに目処が立った。お疲れ様でした、と言ってさっさと立ち上がった元貴が、僕の方を振り返らずに部屋を後にした。
不機嫌さを隠さないのは元貴なりの甘えの表れで、若井をはじめスタッフたちも慣れっこではあるけれど、今回は原因がはっきりとしている。部屋に残された彼らの目は自然と僕に向けられた。
責めるような目ではなく、どうかしたのか、と案じるような目で、やっぱりこの中にストーカーがいるとは到底思えなかった。
今日の仕事はこれで3人とも終わりで、この後は同じ車で送ってもらうことになっている。気まずいままの空気は若井も嫌だよな、と反省して、心配そうに僕を見る若井にそっと笑い掛けた。
「……元貴と話してくるね」
「俺も行こうか?」
「んー……10分経っても戻って来なかったらよろしく」
口論になるようなことにはなりたくないけれど、どうするべきかの答えは出ていない。だけど、こんな形で仲違いをするのは嫌だった。
分かった、と頷いた若井が、僕を安心させるように僕の腕をさすってくれた。それだけで少しだけ気持ちが落ち着いて、スタッフたちに空気悪くしてごめんね、と謝って部屋を出た。
うちの事務所の他にも違う部屋を使っている事務所があるのか、見知らぬ人に軽く会釈をしながら元貴を探す。おそらく元貴は自販機コーナーにいるだろうと、廊下の突き当たりを目指して歩いていく。
予想通り備え付けのソファに座って、紙コップこコーヒーをすする元貴がいて、ほっと息を吐いた。
僕が来たことに気付いた元貴がチラッと僕に一瞬だけ視線を向けてすぐに逸らした。先に元貴を避けたのは僕の方なのに、いざ自分がされるとズキリと胸が痛んだ。
元貴の横に腰掛けると、何も言わなかったけれど少しだけ身体をずらしてスペースを作ってくれる。そんな小さなやさしさが嬉しくて、だからこそあの手紙が怖くて、手をもじもじとさせながら俯く。
ずっとコーヒーをすするだけで、元貴は何も言わなかった。僕から話すのを待っているのだ。ぎゅっと指を握り締めて顔を上げる。
「あのっ」
「なに」
想像以上の冷たい声と、顔をこちらに向けることもしない元貴の態度に泣きそうになる。なんと続ければいいか分からず押し黙ると、コーヒーを飲み干した元貴が溜息を吐いて立ち上がった。僕を見下ろす目も冷たくて、元貴に嫌われたらどうしようと焦りが募る。
「……用がないなら」
「ごめんっ」
反射的に、元貴の言葉に被せるように謝罪した。
「心配してくれた、のに、ごめんなさい……」
避けたかったわけじゃない。元貴に触れられたくなかったわけじゃない。
元貴の手をそっと掴み、もう一度小さな声でごめんなさい、と謝った。堪えきれなくて涙があふれてきて、そんな自分が情けなくて俯く。
小さく息を吐いた元貴がもう一度ソファに座って、僕の手を掴んで指を絡めた。
「……なんかあったの?」
「……え?」
「この間からちょっと変じゃない? なんか隠してる?」
眉を寄せる元貴は怒っているわけではなく、拗ねたような表情をしていた。ドキッとしながらも、隠してるのは元貴でしょ、という思いも湧いてきて、唇を噛んだ。
「……俺には言えないこと?」
やさしく心配してくれる声に、どうしよう、と考える。元貴に危険が迫ってるんだよ、とどうやって伝えたらいいんだろう。全部をありのままに伝えるわけにはいかないし、だからといって何も話さないのは元貴の気持ちを踏みにじることになる。
何も言えずに俯いていると、元貴のスマホが震えた。忌々しげに息を吐いて、未読無視が嫌いな元貴は空いている手でメッセージを確認すると、するっと手を離した。
「知り合いのクリエイターがいるみたいだからちょっと行ってくる。挨拶してくるだけだから先に車行ってて」
少し面倒そうに言うと、元貴は立ち上がって紙コップをゴミ箱に捨て、エレベーターを使うまでもない階数なのか、真反対まで歩くより早いと判断したのか、自販機の奥の階段へと続く扉を開けた。
元貴と話してくると言ったのに、なんの成果も上げられないどころか悪化させてしまったことを申し訳なく思いつつ、僕も立ち上がって先の会議室に戻った。
帰り支度をしている面々が1人で戻ってきた僕を見て、元貴は? と訊いた。元貴が言っていた言葉をそのまま伝えると、マネージャーと若井が元貴の荷物をまとめ始めた。
忘れ物がないか確認して、マネージャーと若井と駐車場に向かう。微妙な空気を察して、なにか話題を振るべきかと悩んでいる若井に、ごめんねと謝る。若井は首を横に振り、やわらかく微笑んだ。
「良いんだけど……なんかあったの?」
元貴と同じことを訊かれて、なんて返せば良いかがやっぱり分からずに押し黙る。
「俺には言えなくても元貴には相談しなよ? なんか元貴もずっと涼ちゃんの心配してるし」
内容までは分からなくても、元貴が何かを察して僕の身を案じているのは分かっているのだろう。深くは訊かない若井に感謝しながら、うん、と頷きを返しておいた。
車に乗り込むと後部座席に置いてあった花束を若井が見つけて、撮影現場の話を聞きたがった。監督がMV撮影でお世話になった人だっていうのもあるし、若井だけお芝居の現場に立ったことがないというのもあり、興味深げに聞いてくれた。
マネージャーが、撮影現場の動画を観ますか? と声をかけてくれたが、ネタバレになるからいい! と若井が拒否をする。確かに。いつも漫画の内容、元貴にネタバレされてるもんね、僕ら。
車に乗って待つこと30分。流石に遅くない? と僕が時計を見る。若井もスマホを確認し、元貴から連絡がないことに首を傾げる。荷物は持って出てるよ、と連絡を入れた返事がないらしい。クリエイターとの話が盛り上がっているのだろうか。
遅いね、と若井がスマホから元貴に電話をかけようとした瞬間、マネージャーの携帯が震えた。すぐに出たマネージャーは、えっ!? と車内に響くくらい大きな声で訊き返した。
運転席から薄暗い中でも分かるくらい青くなった顔で僕らを振り返り、
「大森さんが階段から落ちたそうです……!」
と叫んだ。
ねぇ、まだ愛してるって言えてないよ。
続。
いちゃらぶ要素薄めで申し訳ない。
コメント
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女神かわいそう…←自分でお願いしたくせに🫠笑 女神、魔王に相談しよ?←追いつめてってお願いしたくせに🙃笑 やっぱりまだ全然わかんない!けどKeiさんが凄いことだけはわかる✨ストーカーは人物としてもう既出してる?最大のヒントになるから教えてもらえないかー😮💨 マネさんのこと怪しんでるけど、ほんとは女神と一緒で疑いたくないんだよなーでも楽屋入れるんだよなー。いやでもマネさんはミスリードな気がする…
更新ありがとうございます。 なんか、めっちゃくちゃ不穏な雰囲気💦 誰が犯人なのか、目的が何なのか、よく分からなくてドキドキです…。また続きを楽しみにしています✨