「不倫だけではなくて托卵まで……」
僕の話を聞いて歌歩さんはただただ驚いていた。
「ということは歩夢さんの本当のお父さんはお母様の不倫相手だった方ということですか?」
「僕ら兄弟は三人ともDNA鑑定を受けたよ。結果はあとの話で出てくる。母の裏切りを許せなかった実父の清二は母を死ぬことも許されない地獄に突き落とした。その日は母の不倫相手の宮田大夢が自殺した十年前のクリスマスから、ちょうど一週間後の元日の朝だった。家に誰か訪ねてきたと思ってドアを開けたら、冷たい雨に濡れながら、母が土下座していた――」
「もうどこにも行き場所がなくて来てしまいました。復縁してほしいなんて言いません。タダ働きの家政婦ということでいいので、この家にいさせてもらえないでしょうか」
僕らの誰もが、かつてこの家を出ていったときにさんざん父に悪態をついていた母の様子を覚えていた。
「今さら土下座? せめて浮気がバレたときにしてれば、もう少し違う結果になってたかもしれないのに」
「土下座ならあなたの彼氏がさんざんしてたよ。結局、自殺しちゃったけどね」
「行き場所がない? あんたの彼氏が地獄で待ってるから早く行ってあげれば?」
ここぞとばかりに追撃する僕ら三兄弟を、父がたしなめた。
「彼女はすでに十分すぎるほどの制裁を受けたようだ。入ってもらおう」
「父さん! この女が宮田大夢と一緒になってさんざん父さんを笑い者にしていたのをもう忘れたのかよ!」
「忘れてないが、許すことも大事なことだ」
父は母の手を取って家の中に入れた。何のために今まで戦ってきたのか分からなくなり、僕らは呆然となった。
「清二さん、ありがとうございます……」
母は涙を流しながら家の中に入った。久々に見る彼女は追い出される前より確実に十歳以上老け込んでいた。
「家政婦をやっていただけるとのこと。朝食はもう済ませてしまいましたが、何か作ってもらえますか」
「かしこまりました」
浮気はしていたが家事が得意な女だった。母はささっとだし巻き卵を作って正月のおやつとして食卓に出した。
「お父さん、全部ゴミ箱に捨てていい?」
「いいから黙って食べなさい」
父はゴネた夢叶を一蹴した。食べてみると甘くておいしくて僕は自分の分を全部食べてしまった。
「夏海さん、そろそろ年賀状が届いたと思うので、見てきてもらえますか」
「承知しました」
わが家の郵便受けは玄関から出たところにある。母がドアを開けて外に出てすぐ、悲鳴が上がった。
僕らが駆けつけると、男たちが母をどこかに連れて行こうとしているのが見えた。
「彼女は闇金から金を借りて返せなくて逃げ回っていたんだ。金を貸した男にさっき連絡して、うちに来てると教えてあげた」
「父さん、あの女が誰から借金してるかなんてどうやって知ったの?」
「知るも何も、さっき夏海を連れて行った男に僕が指示して、夏海に近づいて金を貸しつけてもらったんだ」
「あいつ、これからどうなるの?」
「あんな女、死ぬ価値もない。死んで逃げることも許されない地獄で泣き叫ぶだけの人生を送ってもらう」
父が鬼に見えた。でも優しい父を鬼に変えたのは当の夏海。まさに因果応報といえた。
「今僕に少し優しくしてもらえたことで、彼女はきっといつか僕が迎えに来てくれると希望を胸にいだきながら地獄の日々に耐えることだろう。でも何年待っても僕は来ない。希望が絶望に変わって、彼女が正気でいられなくなった頃、一度だけ顔を見に行ってやろうと思ってる」
そのときは一緒に連れて行って、とは誰も言わなかった。それから五年間、母の姿を見なかった。清二は今後の母への制裁を他人に委ねると言っていたが実際は違った。ほかに行き場のない母を自分名義のマンションに住まわせて、毎日のように通って暴力とセックスを強要していた。それは父の再婚後も続いた。不倫の被害者だったはずなのに、彼も不倫の加害者になった。最愛の妻にずっと裏切られていたショックで彼の心は壊れていたんだ。
不倫は心の殺人というらしいね。僕の母は自分の欲望のために軽い気持ちで、夫の清二だけでなく、二人の子どもである僕ら三人、不倫相手の奥さん、彼らの三人の子ども、これだけ多くの人の心を殺そうとしたんだ。
歌歩さんは自分のしたことの罪深さを改めて思い知らされたのだろう。うつむいて何も言葉を発しない。僕は十年前の話の続きを彼女に聞かせた――
話は夏海の不倫動画を見て、悪魔二匹への復讐を兄弟三人で誓い合った頃にさかのぼる。
兄は理由を言わず父と交渉して、三十万円という大金を借りた。
「今まで一度も金がほしいとかあれ買ってとか言ったことのない架がそこまで言うのだから、何かよっぽど切羽詰まった事情があるのだろう。ただ道に外れたことに使うのだけは許さない。そこだけは大丈夫なんだな?」
その道に外れた連中を成敗するために使うんですよ、と架は心の中でつぶやいた。
架はその金でDNA鑑定の手配をし、数台の超小型ビデオカメラを買った。余った金で通販サイトで睡眠薬を買ったと言うから、
「大丈夫?」
と聞いたら、
「おれが飲むわけじゃない」
と笑われた。
超小型ビデオカメラは自分たちで母の浮気の実態を確認したいからだという。
「浮気の証拠ならUSBの中の動画データだけで十分なんじゃないの?」
「浮気の証拠じゃない。実態を知りたいんだ。USBの動画は全部あの女の浮気相手が撮ったものだろう? もっとえげつないこともしていて、それは消去してる可能性もある」
「もう十分すぎるほどえげつない動画を見せられてきたと思うけどね」
日曜日、母が買い物に出かけた隙に兄弟三人でカメラを各所に設置した。父は自宅にいたけど、こそこそと動き回る僕らの行動にまったく違和感を感じてないようだった。そういうのん気な性格を悪魔二人につけこまれた、ということだろう。
月曜日は動きがなかった。火曜日の正午、宮田大夢が現れたと兄からSNSで連絡があった。カメラと兄のスマホは連動していて、カメラが受信した映像と音声は兄のスマホでもリアルタイムに確認することができる。
「えげつなかった?」
と聞いたら、
「ああ。夢叶が怒り狂うだろうな」
と返事が来た。
帰宅後に三人で録画されたデータを確認した。
二人はまず夫婦の寝室のベッドで求め合った。裸で寝室を出たかと思うと、次に夢叶の部屋に現れた。大夢が夢叶のベッドに仰向けに横たわり、そこへ夏海が騎乗位で合体し、夏海がベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねている。
「もうこのベッドで寝られないよ……」
と夢叶は泣いたけど、僕らが知らなかっただけでこれまでもこんなことはいくらでもあったに違いない。大夢は夢叶のタンスをいじり、下着のにおいを嗅いだりもしていた。夏海は笑って見てるだけ。
「何やってるの? キモすぎるんだけど。この人、あたしの実のお父さんなんじゃなかったの?」
「勘違いするな。血が繋がっていてもいなくても、おれたち三人の父親は佐野清二さんだけだ」
次に宮田大夢が訪れたのは金曜日。
大夢と夏海はダイニングのテーブルの上で座位で繋がっていた。
「おれ子供の頃食事中テーブルに足を乗せたら、行儀悪いことするなってあの人にめちゃくちゃ怒られたのにな」
ダイニングから消えた二人は次にバスルームに現れ、大夢は空の湯船に放尿したりしていた。
「やりたい放題にもほどがある……」
「兄ちゃん、早くあの女追い出してよ!」
笑いながら人を殺せる快楽殺人者という人間がいるそうだが、このとき見た兄の顔がそういう笑顔に見えて僕は言葉を失った。
「追い出すだけなら簡単だ。でもここまでやられて、ただ追い出すだけで許せるか? おれには無理だ」
翌日、DNA鑑定キットがわが家に届いた。その日から僕らの反撃が始まった。夕食の途中、テーブルに突っ伏して眠り始める夏海。
「母さん?」
父は今までなかったことに戸惑っていた。
「よくない病気かもしれない。ちょっと二人で病院に行ってくる」
体調の悪い愛妻を気遣う優しい夫。一見すると非の打ち所のない円満夫婦。すべては錯覚だったわけだが。
架が父を押しとどめ、また椅子に座らせた。
「睡眠薬を飲ませただけだから、病気というわけじゃない。いや病気かもしれないな。浮気性という――」
「睡眠薬? 母さんに睡眠薬を飲ませたというのか? おまえたち、何を考えてる?」
小型ビデオカメラの映像データから決定的なシーンだけを切り取り、B4サイズに拡大印刷した数枚の日付入りの画像を、僕は父に手渡した。
「お父さん、その人浮気してるよ。ずっと前から」
と夢叶。父は渡された拡大写真を見るなり絶句した。
「その様子じゃ、父さんまったく気づいてなかったみたいだね。浮気してるのを知ってて好きにさせてたらどうしようって心配してた。これで心置きなく復讐できるわけだ」
架はDNA鑑定キットを父の前に差し出した。
「それは?」
「DNA鑑定キット。父さんとこの女も鑑定してもらいます」
「そんな……。浮気といっても魔が差しただけで、最近の数回だけのことなんじゃないのか」
「父さんと知り合う十年以上前かららしいよ。父さんは結婚詐欺に遭ったようなものだよ。はっきり言うけど、おれたちは三人とも遺伝上の父親は浮気相手の方だと思ってる。でもたとえそうであっても、おれたちはこの女ではなくて父さんを親として選ぶ。父さんが血の繋がってないおれたちなんていらない、というなら悲しいけどそれも受け入れる。その場合、おれたちは兄弟三人だけでも悪魔二匹と戦うつもり。何があっても刺し違えてでも、こいつらだけは絶対に地獄に叩き落とす! 父さん、時間があったらこれも見といて。頭に来て破壊しちゃダメだよ。高額慰謝料を請求するための絶対的な証拠だからね。まあ、一個壊しても何個もコピー取ってあるから実は大丈夫なんだけどさ」
架は例のUSBを父に手渡した。父はDNA鑑定に応じてくれた。夏海の分は寝てるあいだに勝手に綿棒を口の中に突っ込ませてもらった。
夏海の寝ている隙に、僕らにはまだすべきことがあった。夏海のスマホの調査。といっても調査するまでもなくLINEの画面を出しっ放しの状態で眠ってしまったので、夏海と大夢はLINEで連絡し合っていたことが分かった。夏海のLINEトーク画面を、架のスマホでも閲覧できるように設定を変更した。
それから僕と架の二人で夏海をリビングに運び、ソファーに座らせた。架が夏海の長いスカートをまくり上げ、下着をずり下ろす。
「おい、何をしてるんだ? 母さんはトラウマのせいで……」
父は言い終わる前に絶句した。言うまでもなく、妻の下腹部の〈大夢専用〉の文字を見たからだ。夢叶が忌々しそうに浮気の証拠としてそれもスマホで撮影する。
「父さん、DNA鑑定の結果が出るまで、今までと変わらない生活をして下さい。きついだろうけど、やって下さい。おれたち子どもでもできてることなんで」
「分かった……」
父は放心状態のようだった。無理もないが耐えてもらうしかない。
その後、僕らは架の部屋で夏海のLINEトーク画面を確認した。夏海が毎日朝晩、〈大夢専用〉とマジックで書かれた自分の下腹部を撮影して大夢に送信し続けていたことを知った。父にも見せた。父は何も答えず、架の部屋から出ていった。
四月になり、僕たちはそれぞれ一学年進級した。夢叶は中学生になり、僕は中学三年生。それどころではないが高校受験の年になった。架は高校二年生。父は今年で五十二歳、夏海は四十七歳になる。
始業式があってまもなく、DNA鑑定結果が郵送されてきた。結果を見て僕らは困惑した。
佐野夏海は三人の親として認定
佐野清二は歩夢の親としては認定、架と夢叶の親としては否認
「あーちゃんだけずるい!」
夢叶に泣きながらぽかぽか殴られた。架と夢叶には悪いが自分が父の血を引いていると知ってうれしかったのは事実だ。
父は鑑定結果を見て、
「三人とも僕の子どもだ。夏海とは離婚するが三人の親権は僕が取る」
と宣言した。その日は火曜日、また午前中から大夢が訪れて、リビングの父のソファーに座らせた全裸の夏海に、
「旦那のソファーの上でほかの男に股を開いて悪い女だな」
と言葉責めしたあと、二人のいろいろな体液をソファーにこぼしながら、三十分以上も夏海の肉体を貪った。
大夢は夏海を抱きかかえて階段を上り、また夢叶の部屋に入った。その間、性器同士はずっとつながったまま。大夢は夏海に、夢叶の一番のお気に入りの服と下着を身につけるように命じて、今度は着衣のままの夏海を夢叶のベッド上でさんざんに犯した。
それを見ても夢叶はもう泣かなかった。
夏海が帰ろうとする大夢に「また金曜ね」と声をかける。
「金曜日、やっと仕返しできるんだね」
満面の笑顔で夢叶がつぶやいた。
金曜日、特に準備したことはない。父に頼んで、父の会社の社名入りの封筒に大金を入れたものをあらかじめ架に渡しておいてもらったくらい。
大夢は僕らの自宅の近所のコインパーキングに自慢のベンツを駐め、いつものように歩いて勝手知ったる不倫相手の自宅にいそいそと向かう。
架と夢叶は当日学校を欠席。無断欠席や無断早退は当然母に連絡されてしまうから、父が当日の朝、体調不良を理由に欠席連絡を入れた。
大夢が僕らの自宅に吸い込まれる。夢叶が走り出し、泣きながら近所の交番に駆け込む。
「助けて! 知らない男が家に押し入ってお母さんを襲ってるの!」
交番から本署に応援要請が飛び、犯人が一人か複数か分からないということで、まず五人の警官が佐野家に突入した。その後も続々と駆けつける警官たちと警察車両。近所から野次馬たちが集まる。
警官突入直前、架が自宅に忍び入り、見慣れぬ黒いビジネスバッグに父から受け取った封筒を押し込んですぐに出てきていた。
警官突入時、二人は仏壇のある和室で性交していた。男は服を着たままで、男に組み敷かれた女だけ全裸だったのを見て、警官たちは強制性交だと確信して、現行犯逮捕した。しかも、寝室に置いてあった男のカバンから百万円入りの封筒まで見つかったという。封筒記載の社名は男の勤務する会社ではなかった。当然、強盗の容疑も男の罪状に追加された。
警察から連絡を受けて、父も会社を早退して帰宅。父から連絡を受けて僕も学校を早退して帰宅。架と夢叶に合流した。
大夢と夏海の事情聴取は別々に行われた。大夢は容疑を全面的に否認。ではなぜそこにいたのかと問われ、夏海との不倫関係だけは認めざるを得なかった。
夏海は踏み絵を踏まされることになった。つまり大夢との不倫関係を認めて大夢を守り家族を捨てるのか。それともあくまで強制性交の被害者と主張し、家庭を守り大夢を捨てるのか。結局、大夢との不倫関係を認めて家庭ではなく大夢を守る道を選んだ。
逮捕の翌日、大夢は釈放されたが、カバンの中の百万円の件は未解決だったので、在宅事件として捜査は継続。後日、大夢は窃盗の容疑で起訴された。
夏海は不倫を認めて一度は実家に逃げたが、大夢釈放後、実家の両親に付き添われて当然のようにわが家に戻ってきた。二人のLINEのやり取りを見ていたから、夏海がこっちに戻って来ることは分かっていた。
〈不倫がバレちゃった! 一人で実家に帰って来たけど、子どもたちに会いたいよ。どうすればいい?〉
《口の達者なおまえの両親も引き連れて堂々と帰ればいい。旦那は夏海にベタ惚れなんだろ? 頭を下げて泣き真似して反省してる振りしたら許してくれるさ。切り札として、体を見せたり、触らせてやったらどうだ? 結婚して十八年、まだ一度も旦那に見せたり触らせたことないんだろ? 旦那、感動して泣き出すかもな》
〈旦那に私の体、見せたり触らせたりしてもいいの?〉
《許さないなんて言ってる場合じゃない。なんなら、旦那の子を妊娠して産んでもいいぞ》
〈四十六歳じゃ妊娠は無理だよ〉
《四十歳で妊娠できたじゃないか》
〈旦那とまったくしてないときだったから、産むのあきらめたけどね〉
またさりげなく爆弾発言を投下してるし……
まあ、父の離婚への意志を固めてくれたと思えば、感謝すべき発言とも言えるかもしれない。
「中途半端にクズだと離婚か再構築か迷うところだが、ここまで突き抜けてると迷う手間が省けてかえってよかったじゃないか」
と僕と同じ意見を発言したのは、佐野守さん。父の兄、つまり僕らから見て伯父。父の勤める会社の取締役だと聞いている。取締役と言われても偉い人なんだろうな、ということくらいしか分からないが。
「兄さん、おれ悔しいよ……」
いつも〈僕〉と自称する父だが、守さんに対してだけは〈おれ〉と自称する。二人が顔を合わせるのは年に一度くらいだと聞くが、会う頻度と心の距離感はまた別の問題なのだろう。
守さんは父を心配して昨日からわが家に泊まり込んでいる。めったに自分を頼らない父からのSOS要請を受けて一ヶ月も休暇を取ったそうだ。自由にそんなに休めるなんて、取締役というのが閑職の一つなのは間違いない。
「USBの動画を見て気を失ったと聞いたときは何のことやらと思ったが、見ていておれも涙が出た。清二を侮辱した者たちには相応の報いを受けてもらうつもりだ」
架が守さんに意見した。
「それは伯父さんが佐野夏海と宮田大夢に報復するということですか。待って下さい。先におれたちにやらせて下さい。ただ慰謝料を請求するだけじゃ気がすまないんです」
「伯父さん? おれは君の伯父さんじゃない。確か次男の歩夢君だけは清二の血を引いてるんだったな。歩夢君になら伯父さんと呼ばれてもいい」
「兄さん!」
たまらず父が割って入った。
「架と夢叶はどうやら僕の血を引いてないようだ。でも歩夢だけでなく架も夢叶も僕が夏海と別れたら僕の方についてくると言ってくれた。血が繋がっていてもいなくても、僕は彼らのためなら死も厭わない。架も夢叶も血の繋がった両親を相手に僕とともに全力で戦うと言ってくれている」
「血の繋がった両親を捨てて、血の繋がってない清二を選ぶ? そんなの財産目当てだろう?」
「兄さん、僕はそういう話を今まで一度も家族にしたことないんですよ」
「一度も? 夏海さんとも?」
「うん」
「馬鹿だな。話しておけば絶対に裏切られたりしなかったのに。いや、誰が本当の味方か見極めるには悪くない方法かもしれない。ただ、今回の件に関しては、いかんせん清二の受けたダメージが大きすぎるな」
「その通りですね……」
父が自嘲気味に笑って見せた。浮気された側が受けるフラッシュバックからだいぶ立ち直りつつあることは間違いないようだ。
僕ら三兄弟で大夢と夏海に復讐したい、という僕らの希望を守さんは尊重してくれた。
「ただし弁護士の手配など子どもにはできないことはこっちでやる。それから君たちのお手並みをじっくり拝見させてもらうが、しくじった場合はバトンタッチさせてもらうからね」
「それでいいです」
架はさっそく、夏海&義実家襲撃に対してどう対応すべきかを全員に説明した。
夜七時。守さんが弁護士を一人呼び寄せてまもなく、夏海と彼女の両親である大石雅彦と大石笙子の三人が佐野清二の家の呼び鈴を鳴らした。ちなみに、勝手に入って来られないように玄関ドアの鍵は変えてある。それだけでなく、夏海が持っている清二名義のキャッシュカードとクレジットカードは警官突入の日にすでに無効化されている。佐野家と大石家の戦いは水面下で開戦前夜の様相を呈していた。
父の代わりに弁の立つ守さんがドアを開けず、モニター越しに夏海たちを相手する。兄弟だけあって声が似てるから、話していても彼らは別人だとは気づかないかもしれない。
「おや、警察署を出てこちらに寄らず実家に直行した夏海さんじゃないですか。今日は何のご用ですか」
「しゃ、謝罪と説明をさせてほしくて……」
「謝罪なら浮気相手の男もいっしょに連れてくるのが筋では?」
さっそく父の雅彦がかんしゃくを起こした。
「清二君、君がそんな冷たい態度だから、夏海に浮気されたんじゃないのかね!」
「おれは自分で冷酷な男だという自覚はあるけど妻に浮気されたことはたぶんないですよ」
「何を言ってらっしゃるの?」
と母の笙子も小馬鹿にしたように笑う。
「清二は夏海さんと会いたくないと言ってます。ああ、おれは兄の守です」
三人とも清二ならなんとか言いくるめられると見くびっていたから、想定外の清二の兄の登場に戸惑った。
「あんたたちの言葉を聞いてると、謝罪する者の態度とは思えないんですがね。全然反省してないようだから、出直してもらっていいですか? おれは礼儀を知らない人間が嫌いなんでね」
「お兄さん、このたびは私の不始末でご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。主人にも謝罪することをお許しいただけたらと思って参りました」
夏海が深々と頭を下げると、雅彦と笙子もやむを得ないなと言わんばかりに不服そうにあとから頭を下げた。
「やればできるじゃないか。おまえら基本的に清二を馬鹿にしすぎなんだよ」
守さんは奥に下がり、弟の許可が出たと言ってドアを開けて三人を出迎えた。
話し合いはダイニングで行われることになった。
参加者は佐野家から清二、架、歩夢、夢叶、守、弁護士の六人。大石家から佐野夏海、大石雅彦、笙子の三人。雅彦がさっそくクレームをつける。
「きわどい話を子どもたちに聞かせるのはどうかと思うが」
「大騒ぎになったせいで何があったかおれたちは全部知ってます。今さら隠す意味もないでしょう」
当の子どもたちの一人である架がこともなげに言い返す。
夏海による慇懃無礼なだけの空虚な長文謝罪は省略。三行でまとめれば、
・魔が差してしまった。
・愛してるのは夫だけ。
・心から反省している。
すぐに質疑応答に移った。
清「浮気はいつから?」
夏「今年から」
清「きっかけは?」
夏「街を歩いていて声をかけられた」
清「浮気相手とは別れられるのか」
夏「もう別れた」
清二の沈黙を、なぜか肯定的な意味で解釈した雅彦と笙子が畳みかける。
「魔が差しただけで、本人も心から反省してると言っている。許してやってくれないか」
「そうですよ。こんなことで別れたら、あなたのかわいい子どもたちがかわいそうじゃないですか」
清二は質疑応答を打ち切った。質問に対して嘘しか返してこないのが虚しくて、夏海の回答を全部論破した。
「君と宮田大夢の交際は三十年前からだよね。〈魔が差した〉? 君は三十年も魔が差し続けたの? それから、〈愛してるのは僕だけ〉? 浮気相手が撮った動画見たよ。君は僕なんか愛してないって言ってたよね。浮気相手に心と体を満たしてもらってるから愛してない僕にも優しくできたそうじゃないか。最後に、〈心から反省してる〉? 君、浮気相手の子どもを高校生のとき中絶して、四十歳のときも同じ相手の子どもをまた中絶したそうだよね。君の言う〈反省〉って何なの? 僕との交際期間、結婚期間のすべてで僕を裏切っておいて、許してもらおうなんて図々しいにもほどがあるんじゃないの?」
雅彦と笙子が即座に反応した。
「ないことないこと言いやがって! 名誉毀損だ!」
「証拠を出しなさい、証拠を!」
守さんがDNA鑑定書のコピーを三人にそれぞれ手渡した。
「三人の子どものうち僕の血を引いてるのは歩夢だけ。架と夢叶の父親は宮田大夢だよね?」
雅彦と笙子が押し黙る。おそらく二人は薄々知っていたに違いない。
夏海がふふっと笑った。
「歩夢だけはあなたの子だったか。よかった……」
「そういえば二人目の子作りのときだけ君はずいぶん熱心だったよね。あれは裏切り続けた僕への罪悪感からそうしたの?」
「違うよ。高校生のときからずっと私を都合のいい女扱いしてきた彼への小さな復讐ってところかな」
清二は弁護士に夏海への要求を代弁させた。
・離婚、歩夢の親権のみ要求
・架と夢叶は嫡出否認(自らの子でないので親権放棄)
・慰謝料 1800万円(100万円×18年)
・架にかかった養育費 800万円(50万円×16年)
・夢叶にかかった養育費 600万円(50万円×12年)
・財産分与 1800万円(財産分与対象 3600万円÷2)
・歩夢の養育費 5万円(毎月、20歳になるまで)
・歩夢との面会は当人同士のやり取りで自由に会える
・離婚成立まで宮田大夢とのあらゆる接触禁止(違反時、一日当たり10万円支払い)
つまり、慰謝料と財産分与を相殺。結局、父が夏海に請求したのは架と夢叶の養育にかかった費用の半分(残り半分は宮田大夢に請求する予定)の計1400万円、それと実子ということで引き取る僕の分の、月五万の養育費のみ。
父のこの要求に怒りの声を上げたのは、大石家側でなく、架と夢叶だった。
「父さん! おれは血が繋がってなくても、あなたと暮らしたかったのに!」
「ひどいよ! 昨日まで兄弟をバラバラにしたりしないって言ってたのに!」
父は二人の抗議を問答無用で一蹴した。
「これ以上托卵の子どもを育てる筋合いはない。今まで育ててもらっただけでありがたいと思え」
この様子を見ていた夏海と両親は、父の要求を飲むかどうかは保留、とりあえず架と夢叶を親権者として引き取ることにした。
架と夢叶を連れて父の家を退出するとき、夏海と両親は父をさんざんに罵倒した。
「ごめんね。彼と私はあなたのことを包茎のポークビッツと呼んで馬鹿にしてたけど、あなたの器もあなたのあそこ並みに極小の出来損ないだったんだね。やっぱりあなたにはATMの価値しかなかった。十八年も一緒に住んで、あなたを愛したことも、あなたに抱かれたいと思ったことも一度もなかった。愛した私に浮気されて悔しかった? でも私から見れば、浮気相手はあなたの方だった。いや、売春婦がお金のために抱かれる相手みたいなもんだったんだよ、あなたなんてさ!」
「血も涙もない男め! そんなだからうちの娘もおまえには抱かれたくなかったんだ!」
「恥ずかしい男。どうせすぐに歩夢もあなたから逃げ出して、私たちといっしょに暮らすことになるでしょうよ!」
事情を知らない人が見たら誰もが、有責の夏海側の大勝利の話し合いだった、と見るだろう。他人の種の子を二人も押しつけられて、そうと知らずに一人は高校生になるまで育てさせられたのに、要求額は1400万円。要求額どおり回収できたとしても割に合ってるとは思えない。さらに大石家側が要求額に納得しない場合、示談ではなく手間暇のかかる裁判に移行しなければならない。
ところが、それからたった二ヶ月で大石家は家も金もすべてを失い、架と夢叶の親権も父に譲らざるを得ないところまで転落した。
架と夢叶は大石家に住み始めて、そこから学校に通った。二人は当初、父の悪口ばかり言っていた。
「お母さん、まだ戸籍上はあの薄情者の妻なんだよね。お金払えば離婚できるんなら、さっさとお金払った方がいいよ」
などと架と夢叶がさんざん言い募るものだから、雅彦は貯金から1000万円を取り崩し、残り400万円は金融機関から土地と家を担保に借金して、五月中に一括で1400万円全額を父に支払った。同時に夏海と父の離婚が成立し、夏海は旧姓の大石夏海に戻った。親の貯金がほぼなくなったから、夏海は近くのスーパーでパート勤務を始めた。結婚してるあいだ一度も働いたことがなかったから、パートとはいえ夏海の心身には大きな負担だった。そんな夏海を架と夢叶は、ATMにもならない役立たずと面と向かって馬鹿にした。
雅彦が父に金を支払った直後から、架と夢叶の態度が豹変した。夏海を浮気女と罵倒し、雅彦と笙子はじじい、ばばあ呼ばわり。夏海が作る食事はそのままゴミ箱に捨て、夏海の食事を手が滑った振りして床にぶちまけ、味は変わらないから早く食べなよと悪態をつく。その上、夜中に大音量で音楽を流され、夏海と両親は寝不足にされ、精神的にも肉体的にも追い込まれていった。
架と夢叶は毎日のようにデリバリーを利用し、豪華な食事を配達させていた。どこにそんなお金があるんだろうと思ったら、大石家の通帳からカードで無断で引き落としていたのだった。なけなしの貯金しかなかったのにそれを使われてしまったから、大石家の生活は一気に困窮した。警察に訴えても家庭内の問題だからと話も聞いてもらえない。雅彦が架を、笙子が夢叶を実力で制裁した。暴行された二人はすぐに児童相談所に通報、駆けつけた職員によって施設で一時保護された。
大石家に戻ってからしばらく二人はおとなしかった。金融機関への返済日の前日、通帳から貯金のほぼ全額の八十万円が引き落とされて残高不足で返済ができなかった。雅彦は父に抗議した。引き落とされた金は父に行ったのではないか、と。濡れ衣だった。父は何も知らなかった。ただし、その頃、僕名義の通帳の残高がなぜか八十万円増えていたことは内緒だ。
結局、大石家は担保になっていた土地と家を失った。当然、家業の金物屋も廃業。
「家族なのになぜこんなひどいことができるの?」
と夏海は架と夢叶に泣きながら抗議した。
「家族なのにひどいことするなって、どの口がそれを言うの?」
「父さんを裏切り続けたおまえも、娘の不倫を長年黙認してきたおまえの両親も、家族だなんて思ってない。三人とも地獄に落ちろ!」
ふたたび二人は雅彦に暴行された。雅彦は駆けつけた警察に逮捕され、もうこの家にはいたくないと二人は児童相談所の職員に訴え、父の家に帰ることが認められた。
その後、夏海と両親は三人で市営団地の一室に入居することになった。借金はなくなったが明日の暮らしにも困る生活が始まった。宮田大夢の家庭のゴタゴタが一段落したら、きっと今までのように金銭的援助をしてくれるはず。それだけが一家の希望だった。歩夢の養育費の支払いも滞った。大夢の妻の樹理が夏海に不倫の慰謝料を請求しようとしたが、何も取るものがないから訴えるだけ無駄だと弁護士から報告を受けて愕然となったのもその頃だった。
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