見慣れたアパートが視界に入ると、肩の力が抜けた。
強気でいても、今の状態で夜道に一人は怖かった。でもここまで来れば安心だ。
郵便受けの中身を取り出していると思いがけなく声をかけられた。
「今、帰りですか?」
声のした背後を振り返ると、隣の住人三神孝史さんがにこやかな笑顔を浮かべ佇んでいた。
彼も会社帰りなのかスーツ姿で、黒のビジネスバッグを手にしている。
「あっ、こんばんは。今日は少し寄り道をして……」
突然話しかけられたからか、つい余計なことまで言ってしまった。
彼はそうなんですかと微笑み、自分も郵便受けから手紙を取り出した。
なんとなく一緒にアパートの階段を上り、部屋に向う。
階段に近いのは三神さんの部屋。別れの挨拶をして立ち去ろうとすると、呼び止められた。
「待って。倉橋沙雪さん?」
少し戸惑ったような声だった。だけど私は動揺した。
今……沙雪って言ったよね?
郵便受けにも、フルネームは載せていないのに。
警戒する私に、三神さんが白い封筒を差出して来た。
「これ、うちのポストに入ってたんだけど」
「え?」
封筒には倉橋沙雪と書かれていた。これは……ミドリからの警告の手紙だ。
でも、どうして? もう警告する必要はないのに。
「倉橋さん?」
呆然とする私に、三神さんは気遣うように声をかけて来た。
「あっ、すみません。私の手紙、三神さんのポストに紛れちゃったんですね」
「それはいいんだけど……最近はこの辺りも物騒だし、もし何か困ってるなら遠慮無く言ってね。隣同士なんだし」
三神さんは心配そうな顔をしている。消印がないうえに敬称無しの宛名を変に思っているのだろう。
「あっ、ありがとうございます」
なんとか笑顔を浮かべて会釈をした。
彼は優しい人だ。隣の住人に過ぎない私を気遣ってくれるのだから。
だけど事情を話す訳にはいかない。
まだ何か言いたげな三神さんを残し、私は急ぎ自分の部屋に入り、鍵とロックをしっかりかけた。
居間の電気のスイッチを入れ、着替えもせずに手紙の封を切った。
中身は以前と変わらない白い紙が一枚で、短い中傷の言葉が印刷されていた。
「ミドリ……何考えるの?」
思わず、呟きが口から零れた。
でもいくら考えても答えが出る訳がない。諦めて手紙をチェストに仕舞った。
ミドリに連絡をしようかと考えたけれど、私は彼の連絡先を知らない。
この前会った時、もう二度と会うことはないだろうと、アドレスの交換をしなかった。
ミドリへ連絡するには、蓮に間に入ってもらうしかない。
その蓮とは、ついさっき言い争ったばかり。頭を下げてお願いするなんて絶対嫌だ。
今のところ手紙が来るだけで害はないし、ミドリの新たなアクションを待つしかないか……。
気持ちを切り替えて、シャワーを浴びようと支度をしている途中、音楽が耳に届いた。
重厚感有るクラッシック。どこかで聞いた記憶は有るけれど、曲名までは思い出せない。
音の聞こえて来る方向に目を向けた。壁の向こうは三神さんの部屋だ。彼はいつも音楽を流していただろうか。
それほど大きな音でもないせいか記憶がない。
流れる音楽がやけに頭に残った。
翌日。いつも通りに出社した私は、派遣会社の営業担当に呼び出された。
用件は派遣契約更新の意思確認だ。
私の担当は四十歳くらいの大柄な男性。彼は営業は大袈裟な程の笑顔を浮かべながら言う。
「最近、お仕事はどうですか? 何か困ってる事ありませんか?」
「いえ、特には……」
「それは良かったです。では問題無しということで、更新継続でよろしいですか?」
「はい。あの、直接雇用になるという話はどうなっていますか?」
入社する際、半年問題なく働いたら直接雇用に切り替える場合もあると言われていた。
「社員登用の件ですね。今のところ企業様からの申し出はありませんね」
「……そうですか」
難しいだろうとは思っていたけど、はっきり駄目だと言われると落胆する。
派遣社員の給料はそれなりだけど、いつ契約を切られるか分からないから。
一人暮らしで頼れる人もいないから、早く安定した正社員になりたい。だからといって転職はなかなか難しい。
平日は仕事で就職活動をする暇がない。だからといって仕事を辞めたら、収入が無くなり生活が立ち行かなくなる。
貯金はいざという時の為にとって置きたいし。ああ、もっとお金に余裕が有ったら……。
脳裏に雪香との嫌な記憶が蘇った。
約一年前に父が亡くなった時のことだ。
父には遺産と言えるものが殆ど無かった。
元々病気がちで高額な保険には入れなかったし、入院生活が長かった為貯金も使ってしまっていたからだ。
葬儀後に残ったお金は、掛け捨ての保険からおりた二百万円のみ。
受取人は法定相続人となっていたから、私と雪香で半分に分けた。
見苦しい態度を取りたくなかったから何も言わずに雪香に渡したけれど、内心は納得出来ずに不満が募った
ずっと父と暮らし入院生活のフォローをした私と、顔も見せに来なかった雪香がどうして同額なのか。
突然現れて、当然のようにお金を受け取る雪香を厚かましいと感じた。
しかも雪香は私よりずっと裕福で、生活に困っているわけでもなかったのに。
でも雪香はもしかしたら、今あの時のお金を使っているのかもしれない。
一緒に居るであろうミドリのお兄さんも、突然失踪したのだとしたら、まともに働いているとは思えないし。
あの立派な家から飛び出して、今頃幸せに暮らせているのか……少しだけ気になった。
変り映えのしない日々が過ぎて行く。
朝起きて仕事に行き、ルーチンワークをする。終われば真っ直ぐにアパートに帰る。
帰宅して郵便受け覗くと、今日もミドリの手紙が入っていた。
もう慣れてしまって、動揺しない。
部屋に入りチェストに手紙を仕舞い、夕飯の支度を始めた。
気が付けば、隣室からクラシックの音色が聞こえて来た。
最近徐々に音量が上がり耳障りになっていく音楽に、私は眉をひそめた。
ちょっと音が大きすぎる。常識の有りそうな三神さんのやることとは思えない。
壁の向こうの様子を透かすような気持ちで見ると、まるで気付いたようにピタリと止んだ。
転職したいと考えながらも、何の活動も出来ないでいた。
来月には誕生日が来て、二十三才になる。このままなんとなく過ごしていたら、二十四才になるのもあっという間だ。
焦りながらも、時間にもお金にも余裕がなく具体的な行動に踏み出せていない。
その日は、珍しく外出の用事を言いつけられ、出先からそのまま帰る事になった。
運良く用件はすぐに済み、いつもより早く自宅の最寄り駅に着いた。
途中スーパーに寄って、半額になっていた食材を買ってからアパートに帰る。
今日も手紙が来ているのだろうか。
深く考えないようにしてるけれど、あまりにしつこいミドリの行動にうんざりしていた。
何を考えているのか知らないけど、メッセージが有るなら、直接会いに来ればいいのに。
憂鬱な気持ちになりながら歩いている内に、アパートが視界に入って来た。
けれど、異変に気付き足を止めた
アパート住人用のポストの前に、小柄な女性が佇んでいたのだ。
見慣れない女性だけれど、アパートの住人全てを把握している訳じゃないので、普段なら気にするほどでもない。
けれど女性から感じる何か異様な雰囲気が私に警戒心を持たせた。
見られているとは気付かずに、女性は動き始めた。
バッグから何か白い物を取り出すと、それをじっと見つめてから郵便受けに入れる。
その様子を、私は息をのみ見つめていた。
辺りは薄暗いけれど、それでもはっきりと見えた……あれは、連日のように届けられていた手紙。
どうして? あれはミドリからじゃなかったの?
驚きのあまり動けないでいると、女性がくるりと後ろを振り返った。
私と向かい合う形になり、自然と視線が重なり合う。その瞬間、女性は小さな悲鳴のような声を上げ顔を歪めた。
酷く動揺して逃げ出そうとする女性を、我に返った私は必死で追いかける。
素早く女性の腕を掴んで、逃げられないようにした。
「どういうつもり?!」
私の剣幕に恐れを感じているのか、女性の腕は小刻みに震えている。
けれど、気遣う余裕なんて私にも無くて、更に声を荒げて追求した。
「何のつもりで手紙を入れてるの? あなた誰なの?!」
私より少し背の低い女性を、上から睨むようにしながら言った。
体の全てが小作りで華奢な女性は、怯えながらも憎悪を隠さなかった。
「恨まれる様なことをするから悪いんでしょ?!」
「私が何をしたって言うの?」
こんな人、私は知らないし、人に恨まれる覚えも無いのに。
訳が分からなかったけれど、ハッとした。
「ねえ……もしかしたら私を雪香と間違えてない?」
そうとしか考えられない。けれど、私の言葉は、女性の怒りを更に煽っただけだった。
「何言ってるの? あなた倉橋沙雪でしょ!」
「そうだけど。でも私、あなたに恨まれる覚えなんて……」
女性の狙いは、雪香ではなく私?
でも一体どうして……もう一度、女性の顔をじっと見る。
血の気のない顔。目には涙を滲ませている。冗談ではなく、本気で私を恨んでいる目だった。
私の混乱はどんどん大きくなっていく、そしてそれは苛立ちに変わっていった。
「あなたのやってる事は犯罪よ! あんな手紙毎日のように送って来て……ちゃんと事情を話さないなら、今から警察に突き出したっていいんだからね!」
女性はビクッと体を震わせた。
「そんな……警察って……」
明らかに動揺した女性の腕をキツく掴み、私は更に言い募る。
「嫌なら私の質問に答えて、まずあなたの名前は?」
女性は諦めたように、肩を落とした。
「……緑川秋穂」
「え? 緑川って……あなた、緑川薫さんの知り合い?」
「……薫君は夫の弟だけど」
ということは、彼女がミドリの話していた兄嫁なの?
少し悩んだ末、私は緑川秋穂に、ミドリと連絡を取るように言った。
彼女は初め嫌がっていたけれど、警察に行くと脅すと呆気なく態度を変えた。
秋穂は、連日脅迫めいた手紙を送るという大胆な事をしていた割には気が小さいようだ。
スマホを取り出し、ミドリに電話する。
「あっ……薫君、私……どうしよう……」
すぐにミドリと繋がったようだけど、秋穂は動揺しているせいか、まともな話を出来そうになかった。
たまりかねて、秋穂に変わって欲しいと言い、強引に電話を奪い取る。
「秋穂! 何が有ったんだ?!」
スマホを耳に当てると、ミドリの焦ったような声が聞こえて来た。
その様子に少しの違和感を覚える。
「彼女が動揺してるみたいなんで、電話変わったんだけど」
そう言うと、電話の向こうのミドリは息をのみ、警戒したような声を出した。
「あんた、誰だ?」
ミドリは、電話の相手が私だとは思いもしないようだった。
「倉橋沙雪だけど」
「……え?」
素っ気なく名乗ると、ミドリは間の抜けた声を出した。
「沙雪……どうして秋穂と?」
「あなたの兄嫁が、私のポストに嫌がらせの手紙を入れてたんだけど知ってた?」
ミドリは困惑しているようだったけれど私の言葉に、事態を察したのか、急に態度を変えてきた。
「まさか! 彼女はもうそんなことはしていない」
「もうってことは、以前はしていたわけね。残念だけど今でもしてるみたいよ。現場を押さえたから」
「それで秋穂と居るのか、彼女は怯えてるようだけど何かしたのか?」
まるで私を責めるようなミドリの言葉に、イライラした。どっちが被害者だと思ってるの?
「警察に行くって言ったわ。当然でしょ?」
「警察? 待ってくれ!」
ミドリは必死に止めようとする。
「この人を警察に突き出されたくなかったら、すぐに来て。私のアパート近くのファミレスで待ってるから」
「分かった、三十分で行くから」
秋穂の身を案じているからか、ミドリは私の言葉に従った。
電話を切り、緑川秋穂を連れてファミレスに向かう。
彼女が逃げないように見張りながらも、内心は怒りでいっぱいだった。
ミドリは明らかに秋穂が何をしていたのか、知っていた。その上で庇っていたのだ。
もしかしたら一番初めに来た手紙も、ミドリが出したんじゃ無かったのかもしれない。
リーベルで会った時も、ミドリは秋穂の事を殆ど語らなかった。
自分のせいにして、丸く収めようとしたからだ。
怒りが収まらないまま、ファミレスの扉を開く。
私の身を心配するふりをして、結局騙していたミドリが許せなかった。
さっきからビクビクしているくせに、自分がやった犯罪について謝りもしない秋穂も許せない。
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