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両親に送られて自宅マンションまで帰った。車を取られたから明日から電車通勤かと思いながら。
すると、郵便ポストに内容証明郵便の不在通知票が入っていた。差出人は弁護士らしい。内容証明なんて人生で一度も受け取ったことがない。というか警察に逮捕された三日前から人生初ずくめだ。
電話して再配達させて受け取ると、次のようなお手紙だった。
鳥居俊輔様
わしもと法律事務所
弁護士 鷲本憲和
弁護士 鷲本友子
受任通知書
前略 当職は、貴殿の妻である鳥居夢香氏(以下、「依頼人」という。)から、貴殿に対する離婚請求、及び婚姻費用請求の委任を受けたので、本書をもってご通知申し上げます。
よって、以後、依頼人本人に対してはもちろんのこと、依頼人の子息を含む親族、友人等関係者一切に対して、訪問、電話、手紙、電子メールその他手段の如何を問わず、直接に接触すること、およびこれを試みることは、厳にお控え下さい。
何か連絡があるときには、すべて、依頼人の代理人である当職宛にして下さいますようお願い申し上げます。
草々
離婚はともかく、婚姻費用という用語になじみがなかったのでまず調べた。略して婚費と呼ばれることが多い。簡単に言えば夫婦の生活費と子の養育費。別居しても離婚するまで相手に請求し払わせることができるそうだ。
つまり、敬語が使われてるから一見優しそうな内容に見えるが、要は離婚しろ、妻子と勝手に連絡を取ろうとするな、用があればこっちで聞いてやる、しかも会えないのに妻の生活費と子の養育費は負担しろという、僕と妻子を引き裂く、家族のために今まで生きてきた僕にとっては死刑宣告にも等しい悪魔の手紙。
誰かに愚痴を言いたいけど、愚痴を言う相手もいない。気の強い妻はどうせ僕の愚痴なんて聞いてくれなかったんだろうけどね。自分はさんざん愚痴を聞くことを僕に強制していたくせに。
思えば、夢香も初めから僕に態度が悪かったわけじゃない。結婚する前からそうだったら結婚しているわけがない。
夢香とは僕が二十七歳のとき、高校の先輩の紹介で知り合った。もともと裏表のないさっぱりした性格で、目上の相手にも思ったことがずばずば言えるところが、平凡な僕にはまぶしく見えて交際を申し込んだ。それから三年間愛を育み結婚した。
気が強いといっても気遣いのできる人で、よく僕を立ててくれた。決して最初から傍若無人だったわけじゃない。
三年ほど前からだろうか。僕の話を聞かなくなり、ケンカばかりになった。当然セックスレス。仕事で疲れてその気になれないというからマッサージも毎日のようにしてあげた。夢香は気持ちいいとは言ってくれるが、それが夫婦の営みに発展することは三年間一度もなかった。
改めて一気にがらんとなった家の中を確認してみた。僕以外のものは何もない。というか僕名義の通帳やキャッシュカードを持っていくのは反則ではないだろうか? もちろん、突然の家出や子どもの連れ去り自体が一番の反則なのは間違いない。
僕の通帳には一千万円以上の預金残高があったはず。今は賃貸マンション住まいだけど、二人の子どももいることだし将来的には土地を買って注文住宅を建てようという話を夢香としていた。夢香が住宅メーカー勤務だから夢香の勤務先で建てるつもりで。当然夢香も乗り気だった。ところが三年前から夢香が急に消極的になった。
「家を建てるのは十年後くらいでいいんじゃない?」
そんなふうになるべく先延ばししようという発言が増えた。通帳を持ち去られた今は、いつか僕の通帳の預金を奪うために、家を建てることに反対してたんじゃないかと思いたくもなる。
通帳を持ち去られた上に家にあった現金まですべて持ち去られた。どうやって生活すればいいのだろう? 幸い今月の給料日は明日。今日一日だけなら冷蔵庫にあるものでなんとか凌げるだろう。
夕方、家から出るとちょうど帰宅してきたお隣さん一家とばったり出くわした。お隣さんも若い夫婦と子ども二人の四人暮らし。ご主人、今日は休日で家族で外食でもしてきたようだ。
軽く会釈すると、ご主人が苦々しい顔になった。奥さんと子どもたちは怯えた表情。
「鳥居さんって、高校の先生でしたっけ?」
「そうですけど……」
「奥さんや子どもに暴力を振るう人が学校の先生ってどうかと思いますけどね。しかも奥さんに見せつけるように不倫までしていたそうじゃないですか」
「暴力? 不倫? まったく身に覚えがありませんが……」
「身に覚えがないって、実際、奥さん、娘さんたちを連れて出ていったじゃないですか。出ていく前にうちに挨拶に来たんです。奥さん、泣いてましたよ」
絶句した僕に軽蔑の眼差しを浴びせて、お隣さん一家は家に入っていって、大きな音を立ててドアを閉め、僕を警戒するようにすぐに鍵もかけた。
食欲を失って朝までほとんど食べなかったし、ほとんど眠れなかった。車も取られたから今日から電車通勤。財布の中に電車賃くらいの小銭はあった。途中、コンビニのATMで生活費分の金額だけ出金しようとしたら残高不足で出金できなかった。ネットバンキングで入出金履歴を見てみたら、今日入金された給料の全額が夢香の口座にすでに送金されていた。そういえば夢香も僕の口座のインターネットバンキング用のIDとパスワードを知ってるんだった。ということで僕の口座の残高は0円。さすがに言葉を失った。
なけなしの小銭をはたいてお昼の弁当を買って、気を取り直して出勤した。まず校長室に挨拶に行ったら顛末書を書けと言われて、ありのままを正直に書いて渡した。
今日から僕は担任を外された。ホームルームにも行かなくていい。今まで僕のホームルームの副担任だったずっと年上の女の先生が担任になった。やる気のない先生だから露骨に嫌な顔をされた。
「逃げた奥さんを追い回して警察に逮捕されたそうだけど、そういうのは春休みになってからにしてよね。いい迷惑!」
あなたが教師やってることの方が生徒にとっては迷惑ですよと言いたかったが、すいませんと謝るしかなかった。
進学校だから春休み直前まで授業があり、受験教科の国語の教員の僕は春休みに入っても補講ばかりで休みなど取れない。
普通の人は仕事の疲れを家庭で癒やすんだろうが、僕の場合は家庭でのストレスを生徒たちとの関わりで解消している。僕に限らず、そういう教員はけっこういるに違いない。そもそも生徒との関わりがストレスになるなら、この仕事は向いてない。
といっても近年は保護者との対応で疲れることが増えた。電話で何時間も無茶なクレームをつけてきた挙げ句、おれはおまえら先公と違って暇じゃねえんだ! と怒鳴り散らされたり。学校で喫煙した生徒の家に訪問したらひたすら金切り声でヒスられて、そのまま三時間以上帰してもらえないこともあった。
今日の最初の授業はよりによって事件の前まで僕が担任していたホームルーム。僕は事情により担任を降りたことになっている。事情って何ですか? 絶対そんな突っ込みが来るだろうが、なんて答えればいいのだろう? その質問には答えられません。校長にはそう言えと朝、指示されたけれど。
授業に行くと、どことなくいつもの空気と違う。でもこの空気にはどことなく覚えがある。昨日話したお隣さん一家がまとっていた空気と同じ。
授業が始まるなり、ホームルーム委員長の長谷川小麦が手を上げた。ホームルーム委員長にふさわしく誰に対しても優しく、しかも正義感の強い女子生徒。
「シュン先生!」
名前が俊輔だから一部生徒にそう呼ばれることもある。でもそのときの小麦の口調に、教師をあだ名で呼ぶときの気さくさはかけらもなかった。
「どうしました?」
「先生、暴力を振るって逃げていった奥さんの実家に押しかけて逮捕されたって本当ですか?」
いきなり来た。心の準備はしていたが、それでもズドンと心に何か撃ち込まれた思いがした。
「ずっと前から不倫して奥さんを泣かせてたという噂もありますけど」
違う! でも僕が何を言っても誰もが被害者とされる妻の言い分を信じるだろう。差別されて苦しむ女性が多くいるのは確かだ。でも僕と夢香の場合、いつも夢香が怒り、僕は夢香の怒りが鎮まるまでずっと待っていた。僕が夢香に対して声を荒らげたことはない。それを言ってもきっと誰にも信じてもらえない。
今、この教室には四十人の生徒がいる。でも見渡す限り、怒っている者が半分、残り半分はニヤニヤして面白がっている傍観者。僕の味方など一人もいない。この教室ばかりじゃない。この学校のどこを見たって。そして校外に目を移しても――。僕の味方と言えるのは実家で暮らす年老いた両親くらいのものだ。
教壇に立ったまま何もできなくなるなんて、大学生のときの教育実習以来かもしれない。あのときは僕の指導技術が拙くて生徒のさまざまな質問に対応できなくなり、頭がパンクしてしまった。今は――
僕はいったい何を間違えて、四十人の生徒から一斉に冷笑的な視線を浴びているのだろう?
「しっかりしろ、鳥居先生!」
そのとき、同僚の安田和海が後ろの戸を開けて教室に飛び込んできた。和海は僕と同期。生徒にも人気があってカズ先生と呼ばれている。体育教師だから校内ではいつもジャージ姿。
「鳥居先生がDVや不倫をするようなクズかどうか、担任として指導されたおまえらが一番よく分かってるんじゃないのか?」
「でもカズ先生だって、どんなに真面目なやつだって魔が差すことがあるっていつか授業で言ってたじゃないですか」
「ああ言った。でも鳥居先生に限ってはそれもない」
「そこまで言うなら、カズ先生は鳥居先生がDVや不倫をしてない証拠を何か持ってるんですか?」
「証拠はない。教師としてのおれの経験から言ってることだ」
「先生、ふざけないで!」
「ふざけてない。もし鳥居先生が本当にDVや不倫をしていたと分かったら、おれは教師を辞める」
和海の気迫に押されて教室に緊張感がよみがえった。
「安田先生、ありがとう。ただ最後の啖呵は気持ちだけ受け取っておくよ。僕に罪があるなら辞めるべきは僕一人でいい。僕は本当にDVも不倫もしてない。わけも分からず一人ぼっちにされてみんなに責められて、今はただ悲しいし悔しいし途方に暮れてる。でもね、いつかきっと家族みんなでまた幸せに暮らせるはずだって、それでも僕は信じたいんだ!」
最後は絶叫になった。小麦がパンパンと手を叩くと、生徒全員が拍手を始めた。僕だけでなく和海も涙を流している。ひどい目に遭ったけど、僕はこの瞬間のために教師になったんだと心から思えた。