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波の音も眠ってしまうくらい静かな夜だった。
終電の消えた“海浜無人駅”に、俺——ぺいんとはぽつんと立っていた。
風は弱くて、空気は少し湿っていて、まるで時間だけが止まったみたいだ。
なんでこんな場所にいるのか、自分でもよくわからない。
ただ、胸の奥がざわついて眠れなくて……気づけばここに来ていた。
と、その時だった。
ホームの端。
薄暗い待合室の前に、ひとつの“影”が落ちているのが見えた。
人影……に見えた。
でも——
その影の“主”が、いなかった。
「……え?」
影だけが地面に落ちてる。
確かに“少女の影”みたいな形をしているのに、実際には誰もいない。
夜の風の音だけが、ひゅう、と耳に触れる。
どうして影だけが——そう思って近づいた瞬間。
「……触らないほうがいいよ」
背後から声がした。
「うわあっ!?」
思わず変な声が出た。
振り返ると、そこに——
白いワンピースの少女が立っていた。
肩までの黒髪。
肌は少し透けるように白くて、夜の中でぼんやり光って見える。
でも、表情は優しかった。
「ごめんね。驚かせちゃった?」
「い、いや……大丈夫。あの、その……今の影って……」
少女は俯き、小さく息をもらした。
「……あれは、私の影なんだ」
「え?」
「わたし、影を落とせないの。ずっと前から」
言い方が静かすぎて、胸がぎゅっとした。
「あ、あの……体調とか、そういう……?」
「ううん。そういうのじゃないの。これは……“置いてきちゃった”の」
少女は影を見つめる。
「大事なものを、ひとつだけ忘れたまま……ここに来ちゃったから」
忘れた?
大事なもの?
「忘れたものって……なに?」
俺がそう聞くと、少女は困ったように笑った。
「それがね……“思い出せないもの”なの。
本当は覚えてなきゃいけないのに、どうしても思い出せなくて」
その笑顔が切なすぎて、胸がふるえた。
「だから、ここに来たの。
この駅は、“忘れ物を拾う場所”なんだって」
「忘れ物……」
「ふふ、ぺいんとくんも、でしょ?」
「え……なんで俺の名前——」
「言わなくても、わかるの。
ここに来る人は、みんな似た匂いをしてるから」
少女は少しだけ目を伏せる。
「ねぇ、お願い。
この影……拾ってあげてもらっていい?」
「え? 俺が?」
「うん。わたしは、触れないの。
自分の影なのに、不思議だよね」
少女は微笑んでみせたけど、その瞳はどこか泣きそうだった。
俺は、おそるおそるしゃがんで“影”に手を伸ばした。
冷たくて、水みたいに柔らかくて、でも確かに“ある”。
「……あったかい」
「そう。それはね——“あなたが誰かを想う気持ち”なんだよ」
少女が静かに言った。
「影はね、心に近いものなの。
だから、忘れちゃいけないものほど、影になるの」
影を両手ですくい上げて少女を見る。
「これ……君に返すよ」
「……ありがとう」
少女は俺の手に重なるように両手を添えた。
その瞬間、影は光に溶けるように少女の足元へ吸い込まれた。
少女の影が、ようやく戻ってきた。
「よかった……ずっと、探してたの」
「それって……そんなに大事なものだったの?」
少女は静かに頷いた。
「“私が誰かを大切に思っていた記憶”。
それを、忘れちゃってたの」
「誰かって……?」
少女は答えなかった。
ただ、少し涙を浮かべて微笑んだ。
その笑顔は、どこか俺の胸の奥を刺した。
「きっとね……その人はもう、いないの。
でも……影が戻ったから、行ける」
「どこへ……?」
「“帰る場所”へ」
少女の足元の影が、ゆらりと揺れた。
まるで波に溶けていくように、薄く、薄くなって——
「ぺいんとくん。
影を拾ってくれて、ありがとう」
「ま、待って! 君は……!」
「——大丈夫。わたし、思い出せたから」
そう言った瞬間、少女の姿はふっと消えた。
足元に落ちていた影も、滲むように消えた。
まるで、最初から何もなかったみたいに。
風だけが、通り抜けていった。
翌朝、駅のベンチで目が覚めた。
少女も影も夢のように消えていた。
でも、胸の奥だけが妙に暖かかった。
まるで誰かに
「ありがとう」
と、もう一度言われたみたいに。