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海辺の無人駅は、夜になるとすべての色を失う。
ホームの蛍光灯だけが青白く、潮風が線路の上をすべるように吹き抜ける。
ここ“海浜無人駅”はある意味、俺にとって最適な場所だった。
静かで、誰にも邪魔されず、思考がクリアになる。
——だからこそ。
今日、ここで“異変”に気づいたのは必然だったのかもしれない。
線路の先、海の向こう。
海面に、揺らぐ光が映っていた。
「……駅の灯りじゃない。角度が合わない」
反射ではない。
海に揺れる光は、もっと遠く、もっと規則的だった。
まるで——
海の底を、列車が走っているように見えた。
金属が軋むような、かすかな音さえ聞こえる。
「……海に、列車?」
あり得ない。
けれど、俺の目は間違っていなかった。
海面に映る光の帯が、ゆっくりとホームの手前まで近づいてくる。
それは“反転した世界の列車”のように、海の底を走っているようだった。
光がホームの下まで迫ると——
潮風がぴたりと止まった。
音が、消えた。
そして。
海面から、声がした。
「——ノア、?」
反射した声でも、波の音でもなかった。
俺の名前を、確かに呼んだ声。
「……誰だ?」
静かに目を凝らすと、海の底の“反転世界のホーム”に誰かが立っていた。
ここから見ると、海の向こう、逆さまの空の下。
白いシャツを着た、短髪の少年。
——見覚えがあった。
いや、顔じゃない。
あれは、数年前に失くした“何か”に似すぎていた。
「あんた……」
少年は海の底から、微笑んだ。
「やっと見つけた。迎えにきたよ、ノア」
「迎えに……? 俺を?」
「そう。だって君、ずっと“戻りたい場所”があるでしょ?」
胸の奥が締めつけられた。
——戻りたい場所。
——戻れなかった場所。
——あの日、おれだけが残された場所。
「……何者なんだ。俺を知ってるのか?」
「もちろん。
君が“置いてきたもの”を知ってるから」
少年は反転ホームから手を伸ばした。
海水を一切乱さず、まるで“鏡の向こう”のように。
「来ればいい。
こっちに来れば、全部取り戻せるよ」
その瞬間、海面がぶわっと波打ち、
ホームの縁まで潮が押し寄せた。
足が、勝手に前へ出る。
本能がわずかに拒絶するのに、
心は妙に落ち着いていた。
“取り戻せる”——そう言われると、抗いがたい。
「あの日、君は何もできなかった。
悔しかったでしょ?
だから迎えに来たんだよ」
少年の声音は優しかった。
けれど、どこか……人のものではない響きが混ざっていた。
海が暗く沈む。
潮が静かに引く。
「さぁ、クロノア。
君の続きは、こっち側にある」
あと一歩踏み出せば、海の底へ落ちる。
逆さまの空。
反転した線路。
そのホームの端に、少年は立っていた。
——その時だった。
『クロノアさん!!』
背後からぺいんとの声。
肩を掴まれ、現実へ引き戻された。
「え……ぺいんと?」
「なにしてんの!? 落ちるよ!!」
気づけば足先は海面すれすれ。
ひんやりと海風が頬を刺す。
反転列車の光は——消えていた。
「……今、誰かが……」
「海に向かって歩いてったよ!? 怖いって!
クロノアさんってそういうタイプじゃないでしょ!」
ぺいんとは必死だったが、俺の視界はまだ揺れていた。
本当に、誰かが俺を呼んだ。
本当に、そこに反転した列車が走っていた。
だけど。
——あいつは誰なんだ?
「クロノアさん……無理しないほうがいいよ。
なんか……顔色、やばい」
「……ぺいんと。
ここで“何か”見たこと、俺だけじゃないよな?」
ぺいんとは一瞬、目をそらした。
「……うん。俺も、この駅で……」
「で?」
「“忘れたはずの誰か”と会った」
胸がざわついた。
絵斗が見た少女。
俺を呼んだ少年。
どちらも、この駅で“待っていた”のだろうか。
ここは——
“忘れた誰かが迎えに来る駅”。
そんな気がして、背筋が冷えた。
帰り道、絵斗はずっと俺を気遣っていたが、
俺の頭の中はずっとひとつの疑問で埋まっていた。
“俺が忘れたはずの誰か”。
“戻りたい場所”。
“続きはこっち側”。
海に映っていた少年の顔は、どうしても思い出せない。
でも確かに——
胸が痛むほど、懐かしかった。