青 『辞めさせてください、』
僕には、向いていなかったから。
もうこれ以上、大切な命を失いたくないから。
僕の兄は医者で、
すごく優秀な外科医だ。
兄は昔から頭が良かったし、
何というか、
仕事は仕事と割り切れるタイプで、
家に帰れば全くの別人という感じの、
医者という職業がピッタリな性格。
僕と兄は5つ離れているから、
兄が医学の道に進み、
熱心に研究を重ねたり、
暇さえあれば手術の練習をしている姿を見て、
かっこいいなぁ、という
漠然とした憧れから
僕も同じ道に進みたいと思った。
勉強は大変だったけど、
医学の道に進むために、必死に勉強して
兄と同じ大学に進むことが決まった。
僕が入学した頃には、
卒業の年だった兄。
医者になるために生まれてきたような兄は、
大学でも有名なようだった。
当然ながら苗字が同じなので、
僕が弟であると噂されて、
それは担当の教授にまで伝わっていた。
テストやら研究やらその他諸々でも
僕は中の上で、
特別何かができるわけではなかったし、
兄のように、
どれをとっても完璧というわけでもなかった。
だから、
弟はこんなもんか、というような目で見られたり、
兄と比べられて、
勝手に落ち込まれることも多かった。
それでも、
医者として、人の命を救いたいという一心で、
僕は勉強を重ねた。
努力が実って、ずっと夢見た“医師”という職にも就けた。
就けたんだ。
就けた…のに…。
青 『すい臓…がん…?』
桃 『そう』
あの日、平然と彼は言った。
“彼”とは、
僕の実の兄のことである。
誰よりも優秀で
誰よりも努力家で
僕にとって
誰よりも大切な人。
医者なら
自分の病がどれだけ重いものかなんて
簡単にわかる。
すい臓がん…しかも末期など、
医者ではなくてもわかる。
すい臓がんに…兄ちゃんが…。
そんなの、想像すらしていなかった。
そもそも、
病気になるなんて思ってもいなかった。
健康であるためにどんなことをすれば良いのか、
どんな症例があって、
どんな治療法があるのか、
それはどんな場合に使えて、
どんな場合に使えないのか…。
全て調べ尽くしていた
あの兄ちゃんが。
患者に寄り添うには、
自分の健康が一番大切。
そう言っていたのが
まるで嘘のように思えた。
桃 『まあ、誰でも病気になるときはなるから』
青 『……、』
わかる。
頭ではわかる。
僕だって一応医者だ。
わかってる。
でも違う。
兄ちゃんは兄ちゃんだ。
僕のたった一人の兄で、
たった一人の家族だ。
桃 『…母さんもだったしな、』
僕たちの母は、
数年前に胃がんで亡くなった。
話によると、
祖父母もがんで亡くなっているため、
どうやらがん家系らしい。
しかし、がん家系だから、なんて一言で片付けられるほど、僕の心に余裕はない。
親の命が目の前で失われたあの日、
僕は救えない命があることを知ってしまった。
いや、知っていたのだ。
でも、それは赤の他人にのみ通用する話で、
身内となればまた別。
「医者は残酷なことを言う」とよく言われるが、残酷なのはこの世界だ。
何が“がん”だ。
何が“助からない確率が高い”だ。
何が“余命半年”だ。
事実を突きつけられて、簡単に受け入れられるものか。
受け入れられる人なんていない。
いるはずがない。
考えていたって無駄なのに
僕の頭は心の声で埋め尽くされている。
桃 『…ろん、!青!』
青 『ぇ…』
桃 『お前は優しすぎる』
青 『へ…?』
桃 『青のことを見てるだけで、俺を大切に思ってくれてることくらいわかる』
桃 『でも、青は青だ』
桃 『青の人生を歩むべきだ』
桃 『…正直、俺も受け入れるのは怖い』
青 『…!』
桃 『でも、受け入れるしかない』
桃 『俺は医者だから』
医者…だから…。
医者は、受け入れなくてはならないのだろうか。
医者は、自分自身の心の叫びを無視しなければならないのだろうか。
たとえ余命宣告をされても、受け入れる強さがなければならないのだろうか。
青 『…そんなのおかしいよ、』
桃 『は…?』
青 『兄ちゃんは兄ちゃんの心に従うべきだよ、!』
青 『なんで…なんで“医者”っていう肩書きに囚われちゃってるわけ、?』
青 『僕には…理解できない…っ』
青 『兄ちゃんにはずっと生きててほしいの』
青 『僕より先には死なないでほしいの…!』
本当はもっと言いたいことがあるのに、
思いから言葉への変換が思うように出来ない。
桃 『っ…、』
青 『…手術は、』
桃 『ぇ…』
青 『手術を受ける予定は、?』
桃 『…今はないけど、』
青 『は…?』
青 『兄ちゃんはそんなにすぐ死にたいの、?』
桃 『いや…そういうわけじゃ…』
青 『そういうことでしょ…!』
青 『本当はもっと前からがんだってこともわかってたんでしょ、!』
絶対そうだ。
兄ちゃんは絶対気づいてたはず。
自分の体の異変に。
青 『どうせ…自分の症状と当てはめて…』
青 『それで…それで…、っ』
青 『ちゃんと病院に行って…ちゃんと診断つけてもらって…、』
桃 『…っ、』
桃 『…よくわかってるな、笑』
青 『…、』
青 『…手術は絶対受けて』
桃 『…っ、』
桃 『…手術は、受けない』
青 『なんで、?』
桃 『お前も医者なんだからわかるだろ』
桃 『…手術しても、完治するのは難しい』
桃 『まして、末期がんならもっとだ』
青 『…、』
わかっている。
もし手術をしてがんを切除できたとしても、
その後の5年生存率は10%〜20%。
…そんなこと、わかっている。
桃 『…だったら、入院生活よりも、楽しんで生きていたいんだ』
桃 『何気ない日常を』
青 『…!』
桃 『だから、あと半年は、自由に生かしてくれないか』
青 『……っ、』
僕は、頷くことも、首を振ることもできなかった。
あの日から3ヶ月経った。
兄は変わらず働いている。
でも、あんなに筋肉質だった兄が、
どんどん痩せていっているような気がしていた。
心配性の僕は、そんな兄を呼び出した。
桃 『どした』
青 『…あのさ』
青 『本当は…もう働けないんじゃない、?』
青 『…体力的に、』
桃 『…っ、』
青 『ご飯も…食べてないでしょ、』
青 『お腹にしこりとか…ない…?』
桃 『…さすが医者だな、笑』
桃 『全部当たってる』
青 『…、』
青 『入院…した方が良いよ、』
桃 『それはしない』
青 『でも…』
桃 『…まぁ、青が担当医なら良いけど』
青 『は…?』
僕はすぐに自分の勤めている病院に兄を入院させた。
兄は「そんなに焦らなくて良い」などとほざいていたが、
僕が担当医なので兄に決定権はない。
青 『入るよ〜』
桃 『…………っ、』
青 『痛い、?』
桃 『…コク、』
青 『辛いね…、』
最近、みぞおちの痛みを訴える回数が増えてきた。
夜中はずっと背中が痛いとも言っていた。
全部、全部、末期のすい臓がんの典型的な症状。
すごく嫌だった。
兄が死に向かっていく姿を間近でみていることが。
青 『触るよ、』
桃 『い”っ…』
青 『ここね…』
桃 『はぁ、っ…』
苦しそうな表情を浮かべる兄の額をそっと撫でる。
昔、僕が寝込んだ時に母がよくやってくれたこと。
きっと、兄ちゃんも同じ経験をしているはず。
桃 『…青、』
青 『なぁに、?』
桃 『俺、痛いのも、苦しいのも、知ってた』
青 『うん』
桃 『知ってたけど…やっぱり辛い、』
青 『っ…、』
負けず嫌いな兄が言うことだ。
本当に辛いのがわかる。
桃 『…毎日、いつ死ぬのかなぁって考えてるし』
桃 『悪化していくのがすごくわかる』
桃 『…医者になんかならなきゃ、こんなこともわからなかったのにな、』
僕は、こういう時にいつも何も言えない。
そのとおりだと、一瞬でも思ってしまうから。
否定したいけれど、肯定してしまう自分がいるから。
僕も医者だから。
あとどれくらいでどんな症状が出て、
その先どんな風になっていくのか、
わかってしまう。
この絶望は、兄と、僕にしか分からない。
なんだか、急に2人だけ別の世界に取り残されてしまったような気持ち。
不安と絶望。
桃 『…このままじゃ、みぞおちがなくなっちゃいそうだ、苦笑』
そう言って眉間に皺を寄せる彼を、
僕はそっと抱きしめた。
昨日は、吐血した。
今日は、下血。
兄の体は、当たり前かのように病に蝕まれていっている。
僕の憧れた兄は、もういないと言っても過言ではなかった。
でも、大切な大切な、たった一人の家族だから。
僕は、最期まで尽くす。
桃 『青』
青 『ん?』
桃 『俺…あと……』
桃 『…何でもない、』
「俺、あと数日だよ、」
兄はきっとこう言おうとしたのだろう。
僕も兄も、
頭では、ちゃんと理解していて、
整理しようとしていて。
だけど、追いつかない。
会話ができるのも、
目を見て何かを語り合うのも、
笑い合うのも、
全部、最後かもしれないことを。
青 『僕…さ、』
伝えられることは、
伝えられる時にしなくてはならないという正義感で僕は話し出す。
青 『兄ちゃんの背中をずっと追いかけてきて、』
青 『兄ちゃんみたいになりたいって思って医者になった』
青 『たくさんの命を救って、感謝されて』
青 『すごく、誇らしかった』
青 『勝手に期待されて、勝手に落ち込まれようと、』
青 『兄ちゃんの七光だと言われようと』
青 『僕は、この仕事に誇りを持ってる』
青 『全部…兄ちゃんのおかげなんだ、』
青 『だから、すごくすごく、感謝してる』
青 『…でも、』
青 『たった一人の家族の命さえ僕は救えない、』
青 『救えない命は山ほどあることなんて重々承知の上で、』
青 『僕は今、すごく苦しい』
桃 『…、』
桃 『…俺は、青みたいな弟がいることが誇らしい』
青 『、!』
桃 『自分がどんなに評価されようと、どんなに褒められようと、』
桃 『家族は変えられないから』
青 『っ…』
桃 『…母さんが目の前で死んだとき』
桃 『俺も今の青と同じ気持ちになってた』
桃 『俺は目の前にある命も救えないのかって』
桃 『…だから、努力した』
桃 『救える命を増やしたくて、たくさん研究した』
桃 『…でも、人生ってそう簡単にはいかないらしくてさ、笑』
桃 『もうすぐ、それが全部、なかったことになっちゃいそうなんだ、』
青 『…!』
寂しげに、儚げに語る兄の言葉の衝撃。
それは、今の僕にとってはあまりに大きすぎるものだった。
兄ちゃんじゃなくて、僕が死ぬ側だったら良かったのに。
どうしてこんな時ばかり、僕はついていないのだろう。
桃 『俺は、青のことを信頼してる』
桃 『青のことを誇りに思うし、』
桃 『何より、大好きだ』
掠れた声で言う兄に、僕は「…僕もだよ、」と言うしかなかった。
兄は、あの話の1週間後に息を引き取った。
もはや泣くことすら、僕には出来なかった。
その次の日、僕はある場所へ向かった。
青 『辞めさせてください、』
僕には、兄のように大切な人を失った後も、
誰かの命を救うために研究を重ねられるような強さはなかった。
赤 『ねえねえ、パパはなんでお医者さんになったの?』
兄が亡くなってから医者とはまるでかけ離れた仕事をしていた僕だが、
辞めてから6年ほど過ぎ、その職場で出会った人と結婚することとなり、
それとほぼ同じタイミングで大学時代の同期から、「新しい大学病院ができるから、医者として戻ってきてほしい」という連絡を受けた僕は
また医者として働き始めていた。
幸運なことに、子供にも恵まれ、日々が幸せで仕方なかった。
青 『うーん…、』
青 『僕にはとっても素敵なお兄ちゃんがいてね』
青 『お兄ちゃんに憧れて、お医者さんになったんだ』
僕はこれからも生きていく。
兄の想いを背負って。
コメント
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もう、色んな感情が出てきて手がめちゃ震えてます… すごいし最高です……
お話最高過ぎました!!😭 ぶくしつです…!