引越しの日は、春風が吹いていた。
健太の方はパジャマ代わりのトレパンさえスーツケースに入れたままだったわけで、仕事着と下着類、学校のテキストとノート一式を押し込むと五分で荷造りは完了した。革ジャンは運転席の背もたれに引っ掛けといた。
一方、ツヨシの持ち物も多くはなかった。スーツケースに入らないフライパン、鍋、調味料、しゃもじ、お玉、タオルなどは二往復目のダンボールに入れた。炊飯器、テレビ、巻き戻しの効かないビデオデッキは箱に入れずに三往復目の荷台に載せた。
途中で立ち寄ったガソリンスタンドで働く人達から推測して、新しいところもラテン地区には変わりなさそうだが、ハンバーガー屋の窓からアジア人や白人客の姿もちらほら見えた。治安は以前よりいくらかマシかも知れない。
二人分のチーズバーガーとポテトを受け取り、ドライブスルーを裏側へ抜けると、閑散とした道に出た。あのパームトゥリーの辺だとツヨシが横で声を上げた。ギヤを落としてブレーキペダルに足を載せ替えると、太いスチールパイプの骨格に金網が張ってある門が近づいてきて止まった。一速でじわりとハンドルを右に切ると、歩道との段差で車体が傾いた。健太はゲートを開けるリモコンはないのかと聞いたが、淡い期待だった。ツヨシは「奥の空いてるところに適当に停めといてくれ」と言い残して車から降り、ゲートの鉄パイプどうしをつなげている鎖のチェーンを覚えたての暗証番号で開け、扉を一枚ずつ身体で押しやり、親指を立てたこぶしを門の中へ向かって動かしてきた。健太は突き当たりの駐車スペースに車を停めた。
私道の両脇に、クリーム色の同じ形をした二階建て家屋が建っている。右棟の前に立っているツヨシの後を追った。シンナー臭いにおいがする階段の途中で、健太はつやのある黄色い壁に手を触れようとした。
「触っちゃだめ!」
頭上から雷が響いた。彼はサッと指先を引っ込めた。
先に二階に着いたツヨシは、声の主と挨拶している。健太は遅れて登り切ると、白髪頭に灰色の服、腰が曲がった老女がいた。その人は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして彼に微笑みかけ、まだペンキは塗りたてなのだと言った。続けて、かつてここに住んでいた日本人女子学生から「バアチャン」と呼ばれていたから、あなた達も私をそう呼んでいいと真顔で言う。私の知ってる日本語はそれだけよといいながら、老人は枯枝のような指先からツヨシの薄い手のひらに鍵を落とした。
健太達の部屋は、バアチャンの部屋の向かいだった。
「言っとくけど、大家はマラソンのときと一緒だよ」ツヨシは想いの外、鍵開けに苦戦している。「俺もようやく一人格を持つのかな、大家から見て」と健太は笑った。
人格を持つにしても、もちろんそれは書類上のことに過ぎない。しかしこの国ではその「過ぎない」ことが意外と重要だ。そもそも、生まれも育ちも文化も習慣もこの国とは縁もゆかりもなかった移民が市民権を持つのは書類上のことに過ぎないが、そんな形式のために世界中から人が殺到する。というのは、紙の上での出来事が、発展途上国民から経済文化先進国民への劇的な移行さえ意味してしまうことがある。時には、いや、最近では常態になっていることだが、近隣国から不法に国境を乗り越えて来る個人や家族、グループが後を絶たない。出生地主義のこの国のこと、生まれた子供はちゃんと市民権を得る。
何はともあれ、めんどくさい大家との一切の手続きめいたことはツヨシに任せてある。
「言っとくけど、あの人は大家じゃないよ。管理人だよ」
「わかってるよ」健太はそういいながら、言われるまであの老人が大家なのかと思っていた。
中に入ると、十二畳ほどの空間にラクダ色の絨毯が敷かれていた。奥隣の部屋には腰の高さほどのテーブルがある。椅子は二つしかついてない。もう一つ備え付ける必要があるだろう。テーブルの向かいに台所がある。絨毯を対角線に歩くと短い廊下に出て、その先にドアの空きっぱなしの部屋が二つ並んでいた。ベッドは各部屋一つあるが、誰か一人は床で寝ることになろう。もし健太がジャンケンに負けて床に布団を敷いたとしても、手足を伸ばせる分だけマラソン邸のソファよりはゆっくりできそうだ。廊下脇のバスルームから、ツヨシの蛇口をひねる音が聴こえてきた。
「知ってるか? ミエちゃん、学生ビザの期限伸ばすらしいよ」
ツヨシの声が、流れる水音に混じってタイルに反射した。
「へえ、それは初耳だな」
健太は台所へ向かった。窓に掛かったブラインドのレバーを水平に廻すと、テーブルに午後の光がパッと差し込んだ。彼はその前に腰をおろした。
「風呂場の水周りは大丈夫だった」と言いながら、ツヨシは向かいの椅子に座った。
引越しパーティでもやりたい気分だね、と健太が言うと「じゃあ、ミンの送別パーティと引越し祝いを同時にやろうか」とツヨシは答えた。
健太はいろんな国の人をたくさん呼ぼうと提案した。
「この広さじゃそう多くは呼べないと思うよ」と言ってツヨシは立ち上がると、三人がけソファーが一台備え付けてあるリビングを見回した「それに、訳の分からない国の人を呼べば、何しでかすか分からない」それなら気心の知れた日本人を集めてこじんまりとやったほうがいいという。
「日本人以外を呼ぶにしても、せいぜい韓国人か中国人くらいに留めたほうが無難だよ」と、さらにツヨシは付け加えた。
そうかなあと言って健太が腕を組むと、三十秒程の沈黙が訪れた。
「ま、いいよ。何人ぐらい呼びたい?」とツヨシが言った。
健太は、どれくらい呼べるかはわからないけれど、クラスには中国人だとかロシア人だとか南米の人もいて、いろいろ声はかけれると思うと答えた。
「で、何人ぐらいのつもりなんだよ」とツヨシは繰り返した。健太は、よくわからないけれど二、三十人位かなと答えた。ツヨシは目を丸くして両手をテーブルから離し、身体を後ろへ反らした。
しかし「そんな無理なことはいうな」とは言わず、代わりに腕を組んでしばらくの間黙っていた。
「じゃ、こうしたらどうかな」ツヨシは言った「真中を取って、十人くらいで」
健太は笑いながら、ツヨシは走り過ぎた貨車を引っ張る役で、俺は動かない貨車を押す役だねと言った。
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