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中には知り合いの知り合いまでいるから、健太の知らない顔も混じっている。アジア人、ヨーロッパ系、ラテン系、アフリカ人……多国籍なこの街のアダルトスクールから文字通り世界各国の人を集めることはさほど難しくはないにしても、ルームメイトの理解がなくてはできないことだ。
パーティ会場になった新居の入り口にツヨシが立ち、靴は日本風に脱いでもらうよう来る人ごとに説明している。白人やラテン人は首を傾げてなかなか脱ごうとしない。エクアドルから来たマリアエレナに至っては、ついに靴のまま上がってしまった。狭い部屋に立席が出始めた。置き場が手狭になる。健太は靴を一つずつ外廊下に移動させた。
そうしているうちにもどんどん人がやってきて、ついには階段口まで並んでしまった。健太はバアチャンの部屋のブザーを押してインターフォン越に詫びを入れた。一方で、ここまでの人数で抑えてくれたツヨシに心の中で感謝した。
ワイン、ウォッカ、ビール、ソジュウ、ビーフジャーキー、ピーナッツ、オリーブ、納豆、おにぎり……二人がけの食卓に置ききれなくなった持ち寄り品は冷蔵庫に入れた。冷蔵庫の上に置いてある割り箸、プラスチックのスプーン、フォーク、ナイフは誰が調達したのだろうか。袋に牛丼屋のマークが入っている。あのダンボールは使えないか、と健太は思いつきを口にした。引越しに使ったダンボールのことである。それを聞いたツヨシは、クローゼットから空箱を抱え出し、ラクダ色の絨毯の真中に置いた。一辺が股下ほどの長さがあるこの箱を、引越しが済むとすっかり邪魔者扱いしていた自分が少し恥ずかしいと、ちょっとツヨシらしくないはにかんだ笑みを浮かべた。ミンがピーナツの袋、オレンジジュースのオンスボトル、ワインボトル、紙コップを両手に抱えてやってきてその上に広げた。健太は赤ぶどうの色に染まった飲みかけワインのコルクをしっかり閉めなおした。蒸し暑くなった会場のドアや窓を、ミエが開けてまわっている。
出席者全員にアルコールやらソフトドリンクやらが行き渡ったのを見計らって、ミンが一時帰国の挨拶を始めた。続いてツヨシの乾杯の声が響いた。健太は急いでソジュウを自分の紙コップに注いだ。
クラスメイトのマリアエレナはダーク・ブラウンの長い髪に丸顔、パッチリはっきりした目をしている。まだ十九歳の彼女のコップにはオレンジジュースが入っている。
健太は、前から一度聞きたかったのだけど、と前置きをしてから、「マリアエレナ」という長い名前の代わりに何かニックネームはないのかと聞いた。
「私の本名はマリア・エレナ・ルナよ」だからまだ短いじゃないの、と言いたげだ。
じゃあ、マリアと読んだらいいね、と健太は言った。
「そう呼ばれるの好きじゃないの。やっぱりマリアエレナって呼んでちょうだい」
ならば、と健太は最初の質問に戻った。何かニックネームはないのか、と。
「あるわ」とマリアエレナは大きな瞳で健太の目を見ている「母国のお父さん、お母さん、こっちで世話になってる伯父さん伯母さんは私のことマレナって呼んでるわ」
健太は、まだこのコをそう呼べるものとは思えない。
マリアエレナと話しながら部屋を見回すと、ツヨシがソファに座って韓国人女性と話している。あのコは以前、カフェテリアで話したことはあるが、名前は依然として不明だ。ミエは冷蔵庫の前にいる。何やら背伸びをしながら、ミンの耳元に手を充てて話している。周りの声が大きくて、ミンが聞き取れないのかもしれない。ツヨシと二人だけでいた殺風景なリビングと台所は、今やシャンデリアのついた部屋のようだ。なぜだか自分でも分からないけれど、目頭が熱い。
「ちょっとごめん、外の空気吸ってくる」健太はマリアエレナにそう言うと、Tシャツの胸の中央をつまんで空気を入れ替えながら、一人で台所の窓辺に立った。
電線が見える。屋根が見える。夕暮れの空。まだ冬の余韻を含んだ春の風。窓から上半身をせり出すと、群青色の天空に一番星がまたたきしている。奈々、どこかで元気にやっているか。もう一人の生活には慣れたか。それとも、まだ毎日泣いてばかりいるのか。もしかすると、もう新しい相手が見つかっているかもしれないな。
星からさほど離れていないところに、満月が浮かんでいる。彼は貝殻のペンダントに手を添えた。この同じ月を、マチコも太平洋の向こうで明日見るのかな。今、この熱気を知ったら君はきっとすごく驚くだろう。地平線近くの桃色はせつなさに押しつぶされ、その上を闇のカーテンが垂れ下がっていく。
「そんなとこで何ひとり寂しそうにしてるわけ?」
振り向くと、ミンがポケットに手を突っ込んで立っていた。 寂しくなんかないさと健太は言うと、思い出したようにGパンの尻ポケットからペーパーバックを取り出した。
「長い間借りっぱなしだったね」
表紙には、夜の闇から春の日差しの下へ向かう車が描かれている。ミンはメガネをはずして目を細めながらそれを見ている。最近のミンは初めて会ったときの純粋無垢な感じとはどこか違う、成熟した大人の表情を見せるときがある。
「なんとなくケンタ君に貸したかったんだ。なぜかは、分からないよ。なんとなくあげたくなったから、持っててよ」
健太が言葉を重ねようとしたとき、ミエが横から体当たりしてきた。
「ね、ちょっと一緒に撮らない?」首からは、いつもの茶色いカメラがぶら下がっている。
ミエはイタリア人と会話中のマリアエレナにカメラを渡すと、健太の隣ではなくミンの隣に廻った。シャッター音と共に、ミンを真中に健太とミエが両翼を固める形の記念が一つ残った。
ミエは、ミンの手を引っ張って連れていってしまった。健太はペーパーバックを尻ポケットにしまいなおしながら、彼らを目で追った。ミエは冷蔵庫から発泡スチロール容器を取り出して蓋を開け、半透明のフィルムをはがすと一気に糸が立った。納豆だ。ミエはミンに、冷蔵庫の上の割り箸と食パンを一つずつ取ってと頼んだ。納豆はミエの箸の動きに合わせてうず高く糸を引き、小さな泡をいっぱいにして白いパンの上に盛られた。マリアエレナとイタリア人がその様子を見守りながら、ミエにどうしてそんなものを食べようとするのかと質問をしている。
そのとき、ツヨシが健太の背後から急に現れた。おどかすなよ、と健太は言った。ツヨシは紙コップに入ったソジュウを一口舐めた。
「それより、最近のあの二人、どう思う?」
「あの二人って?」健太には、ツヨシが誰と誰を指しているのかがよくわからない。
「やっぱり俺の気のせいかな。それならいいんだ」とツヨシは言った。
そのとき、ハローといいながら近づいてきた歯の白いアフリカ人がやってきた。確か名前はママドゥとかいうツヨシのクラスメイトだ。ツヨシは彼と話を始めた。
取り残される形になった健太の前に、中肉中背の日本人が、紙コップ片手にやってきた。
「あの、僕、ミエちゃんのクラスメイトでして」
顔は色白で目は一重、両肩はまあがっしりしているが筋骨隆々というわけではない、何事も中ぐらいのその男の名前はキヨシと言い、向かいのアパートに住んでいるという。ミエから健太の話は「いろいろと」聞いていて、学校のカフェテリアで健太の姿を見かけたこともあるという。年齢はミエより一つ上だというから、健太より三つくらい下になるのか。関西のアクセントを持っているうえにまわりの騒々しさも手伝って、ところどころ耳を向ける必要があった。キヨシはそうとう酒が回っているようで、「京都はいいとこですよ」を何度も繰り返した。どういうところがいいのかと聞いても、ただ「京都はいい」を繰り返す。
さっきまでマリアエレナと話していたイタリア人アレシオが、口説きに失敗したのか、ワインのボトルを持って健太の前に現れた。アレシオは健太と同じクラスの十八歳で、ダークブラウンの天然パーマに目鼻立ちがキリッとしている。背は高く体型はスマートで、妙に馴れ馴れしく近寄って話すのが癖だ。筆記テストのスコアは悪いが、トークはネイティブと間違うくらい流暢だ。特に、スラングが載ったときの舌回りは最高だ。
話に割って入ったことに気付いたアレシオは、すまないと言ってからダンボールの上の、オレンジジュースの隣にあるワインボトルの首根っこを持ち上げ、「もうちっと飲めよ」と初対面のキヨシに勧めた。キヨシは「始めまして」とお辞儀をしながら紙コップを差し出した。健太は底に残ったソジュウを一気に飲み干し、ワインを自分でなみなみ注いだ。
最初こそキヨシは関西訛りの英語で京都の説明を試みたが、アレシオがべらべらとローマの話をするものだから、すぐに片隅に追いやられてしまった。
健太はピーナッツをつまみながら、アレシオに「いつも思っていた謎がある」と前置きしてから、「どうしてこの国では、南アメリカ出身の人をラテン人っていうのか、彼らを『ラテン』というのならば、イタリア人の君だってラテンなんじゃないのか」と聞いた。すると彼は「ラテン語はもうとっくに死んだよ。でも、イタリア語こそが正統な嫡子なんだ」と、わざとらしく厳めしい顔をしてみせ胸を張った。さらに「俺の出身地はローマから近いけど、古代エトルリア文明が栄えた地方なんだよ。みんなが『ローマのアーチ』だと思ってる、よく建物や橋に使われてる半円形のアーチあるだろ、ありゃホントは『エトルリアのアーチ』なんだ。よく覚えておけよ」と鼻を鳴らした。この間、会話はアレシオと健太の間でのみ行われていて、キヨシは英語をどうにか聞き取っているのでやっとのようだった。
健太がオレンジジュースで割った四杯目のワインを飲み干したころ、さっきツヨシと話していたママドゥが玄関際で手を挙げながら「俺の車にゃまだあと三人乗れるよ」と叫んだ。アレシオは時計を見ると「そろそろ帰るぜ、チャオ」と言って、ママドゥのもとへ去っていった。古代都市もその場で消えた。他にも帰る人が続出して、絨毯の上に現代都市のスペースが現れた。
健太はキヨシを誘って腰を落とした。ところが座り込んだその瞬間、明後日の仕事の時間を電話で確認しておこうと思いついた。始業時間は前日までに確認するのが会社のルールになっているが、健太は連絡し忘れないように二日前に確認を済ますことを流儀としている。ちなみに、飛行機のどの便の待ち受けをするかで、出勤時間は大幅に異なる。例えば朝四時始業のこともあれば、昼近い十一時から始まる日さえある。健太は、携帯電話を革ジャンの内ポケットに入れたままだったことを思い出した。キヨシにちょっと待っててほしいと声をかけて立ち上がり、騒がしいリビングを離れ、短い廊下を通り、新しい我が部屋のドアを開けた。
暗闇の中に、カーテンのあたりだけが薄くぼんやりしている。壁伝いに手を這わすが、スイッチはなかなか見当たらない。 ジャンバーはベッドの上に放り投げた記憶があった。中腰姿勢に両腕を伸ばしながら、部屋の奥へと向かった。
そのときだった。「グフッ」 という音がした、 気がした。
何だろう?
同じ音が、また聞こえた。
それが連続したとき、ようやく男の忍び笑いする声だとわかった。
「誰だ」
入り口まで退却して、ドアを開け放った。リビングの光が廊下伝いに微かに入り込み、天井からぶら下がってる天井灯の紐が辛うじて見えた。
「俺だよ、俺」
その声で誰なのか、見当はついた。
しかし、なぜここに?
紐を引っ張ると、部屋の隅々にまで光が広がった。
ベッドの薄いブランケットが自ら剥がれ、革ジャンは床に落ち、中から海老のように丸まったミンとミエが出てきた。