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下から昇ってくる生徒の波に押し返されそうになりながら、一階に降りた。カフェテリア前の廊下では、鼻の下にマリオ・ブラザーズのような髭をつけたスクール・ポリスが、腕を後ろに組んで行ったり来たりしている。ハウ・アー・ユーと声をかけると、警官服の男は「ファイン」と、退屈そうな顔つきで返した。
次の授業の生徒が出払ったあとのカフェテリアに踏み込むと、奥の古ぼけたピアノにカリフォルニアの太陽が降り注いでいた。真夏の透明だった光にレモン色が加わって、十字の窓枠の影が、斜に立ったグランドピアノの蓋に延びている。その横のアップライトピアノは、逆光線の中でシルエットと化している。
窓の上半分には、光化学スモッグで薄くなったダウンタウンの高層ビル群が大きく写っている。下半分のサンセット・ブルバードには、アイボリー色の車体にオレンジと赤の帯の市営のRTDバスがパームトゥリーの前で止まり、客が乗り降りしている。
「ハイ、ケンタ。ハウ・アー・ユー!」
スパニッシュ訛りの英語が、耳に飛び込んできた。広間の中央左にジゼルの大きな顔と、数人のラテン男達が見えた。
店内……とはいっても何かを注文しなくては居れない場所ではなく、式典が行なわれるときはホールになり、この学校の休憩室でもあるのだが……のテーブルは全て丸型で、その周りに並ぶ椅子と椅子の間にジグザグな空間がある。そこをたどって歩いた。
心臓が急に飛び出しそうになった。進行方向斜め右に赤い帽子があった。長い髪が小さな背中まで伸びている。
通りがかりに、彼女の横顔をちらり見た。色白の顔、ぱっちりした瞳、豊かなくちびる、比喩表現が許されるならば、高層ビルを包み込むあの太陽光よりもまぶしく、それは目を瞑っていても伝わるほどだ。
ジゼルは大きな目の玉を大きくして手招きしている。結局俺は、ジゼルと汗臭いラテン男共のテーブルに加わった。
「いいところに来たわ。今面白い話をしてるのよ」
俺は話に空うなずきしながら、身体を後方によじった。赤い帽子の女性はテーブルを二つ挟んだ斜め右後ろにいた。白い長袖Yシャツ、黒のベスト、胸元には二周にまわした碧いネックレス、赤い手帳と無表情ににらめっこしている。傍らには英語のペーパバックが一冊ある。その姿は映画のスクリーンの向こうの女優のように、大人びて遠くにいる。
物理的距離は、丸テーブルたった二つ分だ。だが、精神的距離はロサンゼルスと東京よりもはるかに遠い。立ちくらみの感覚が俺を襲う。
「どっか調子悪いのか?」とテーブルの中の男が言った。
「いや、別に」
俺は正面に向きなおった。
「でもよ、なんかどっか変だぜ」
俺は、身体をねじったときにたまたま左肩に置いていた右手を首筋にずらした。
「ちょっと首、寝違えたみたいだ」
「そりゃ、気をつけるんだな」
俺の指先は膝の上に降り、テーブルの上に登り、プラスチックのカップに伸びた。
「水汲んできたらいいのに」ジゼルが笑った。そのとき、水の入っていないカップを仰いでいたことに気付いた。
「あの娘、日本人かな」と俺は言った。
「そうでしょ、たぶん」ジゼルは言った「韓国人や中国人は、あんなに派手じゃないよ」
指は組んだり解いたりを繰り返している。手のひらは汗ばんでいる。
「でも、日本人とは限らないさ」そう口にしながら、でもやっぱり日本人だろう。
両の手を組み、解き、頭を抱え込み、そのまま頬まで落とすと、あごの辺りで掌底どうしがぶつかって止まった。昨日はこうしているうちに、彼女の姿は消えてしまった。
「今日はそろそろ帰らないと」俺は笑みを見せようとしたのだが、凍りついた顔の中で口元のみ横に動いた。能書きばかりが書かれた教科書の入った鞄と共に立ち上がると、ずっしり重かった。
「アスタラビスタ、アミーゴ、アミーガ」じゃあまた、友達よと彼らに敬礼して見せた。ジゼルは笑った。手を振る彼らの表情は、どれものんき過ぎるように見えた。