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六月二十九日。園香は家の中の整理に追われ忙しく過ごしていた。
仕事を再開したら家を空けることが多くなるが、その間に瑞記が希咲を家に入れる可能が高い。
彼女は既に出入りをし、自由にお茶を淹れるほど慣れている。妻の不在を理由に遠慮などしないだろう。
園香がいない家の中を、希咲に好きにいじられるのが嫌だった。
私室に鍵がかけられたら安心だが、あいにく園香の部屋はリビングと繋げられるような造りでドアは引き戸だ。気軽に鍵をかけられるようなドアに変更するのは難しい。
仕方なく絶対に見られたくないものを、部屋に用意した金庫に入れることにした。
金庫といっても一見そうは見えないデザインのものを選んだので、よく確認しなければ、ただの白い収納ケースに見える。
それをクローゼットの中に仕舞った。
(自宅でこんなに警戒しなくちゃいけないなんて、異常ね)
本来なら体と心を休める為の場所なのに、園香は気が抜けない。
性格も価値観も合わない瑞貴との暮らしは気苦労の連続だ。
しかも彬人から聞いた希咲の過去は酷いもの。
関わるなと言った彬の言葉を、園香は日が経つにつれ、深刻に受け止めるようになっていた。
本音を言えば、事あるごとに離婚を意識してしまっている。
(でもまだ結婚して一年しか経っていない。嫌なことがあるからといって、安易に離婚を決意してしまっていいの?)
結婚期間の短さ。夫に関する記憶がない。
そんな特殊な状況でありながら、早々に離婚を決断するのは、あまりに我慢が足りないのではないだろうか。
そんな思いが消しきれなくて、園香は決断出来ずにいた。
(それに瑞記には離婚をするだけの決定的な問題がないんだよね)
例えば家庭にお金を入れないとか、暴力を振るうとか、不倫をしたとか。
そのような離婚を決めてもおかしくないような行動がないのだ。
今園香が感じている瑞記に対する不満や不信感は、他の人に理解して貰うのは難しい気がする。
(他の人の目なんて気にしないで強引に離婚しちゃえばいいのかもしれないけど)
まだそこまでの気持が園香にはない。
(いっそのこと、瑞記から離婚を告げてくれたらいいんだけど)
瑞記は不満があっても話し合いをせずに逃げるタイプのようなので期待は出来なそうだ。
園香は溜息を吐きつつ、金庫に荷物を仕舞う。
貴重品だけでなく、写真や思い出の品など、他人に触れられたくないものも纏めてしまった。
終わると私室を出てキッチンに向かった。
園香が使いやすいように少し配置を変えてあるので、希咲がお茶を淹れるときにあちこち扉を開いて茶葉やカップを捜すかもしれない。
使いそうなものを分かりやすい場所に、触られたくないものを奥深くに片付けておく。
どうしてこんな気を遣わなくてはいけないのかと、途中で苛立ちがこみ上げたが、休憩を挟んで気持ちを切り替えた。
(仕事をして忙しくなったら瑞記たちのことは気にならなくなるだろうし、あと少しの我慢よ)
最近園香を避けている瑞記は今日も帰宅しないだろう。もちろん連絡はない。
園香は夕食にクリームシチューをつくり、買いおきのパンと簡単なサラダとで夕食にした。
余った分は明日ドリアにでもして食べれば、楽でいい。
少し早めの夕食を一人でとっていたとき、思いがけなく玄関のドアが開く音がして園香は驚き口に運んでいたスプーンを置いた。
とっさに時計を確認すると、午後六時三十分。瑞記が帰ってくるはずがない時間だ。
(どうしてこんな時間に?)
少し眉をひそめたそのとき、リビングのドアが開く瑞記が部屋に入って来た。
ダイニングテーブルに座る園香を視界に入れると、彼はあからさまに表情を曇らせる。
距離を置いたにもかかわらず、怒りと不満は解けていないようだった。
「お帰りなさい」
園香が声をかけると、瑞記はぎこちなく頷く。
「ああ、もう食べてるんだ。いくらなんでも早くないか?」
瑞記はテーブルの上のシチューを嫌そうに見る。
「そうかな? 瑞記が帰ってくると知ってたら待っていたんだけど」
「なんだよその言い方。俺が悪いみたいじゃないか」
「そんなつもりはないんだけど、悪く受け取らないで」
早くも感じの悪い会話となっている。
(きっと私と瑞記は合わないんだわ……一年前の私はどうして彼と結婚を決めたんだろう)
夫婦の考え方は大分違う。結婚前の付き合い期間では表面に出辛かったにしても、違和感などがなかったのだろうか。
「クリームシチューなんだけど、よかったら食べない?」
気を取り直して訪ねると、瑞記はぶすっとした顔のまま園香に紙袋を差し出した。
「これは?」
「夕飯にふたりで食べようと買って来たんだよ。まさかもう食事中とは思わないからね」
(瑞記が私と食事をしようと?)
園香は驚きながら紙袋を受け取り、中身を見た。
「……ジンギスカンセット?」
テイクアウト用のセットで、ラム肉や野菜などが綺麗にパッケージされている。
「そう。この店、以前食べて美味しかったから」
「あ……そうなんだ」
(私とじゃないよね。名希沢さんと食べに行ったのかな)
園香はラム肉が苦手だから、外食の時にジンギスカンを選ばない。
「どうしたんだよ? 黙りこくって」
怪訝そうな瑞記の声にはっとした園香は、無理やりつくり笑いを浮かべた。
「なんでもない。これありがとう。今焼いて来るね」
園香は紙袋を少し持ち上げながら言う。
「いや、ここにホットプレートを置いて焼こう。俺がやるよ」
「……分かった」
園香は食べかけのシチューとサラダなどを手早く片付けて、ダイニングテーブルにホットプレートを用意する。
部屋で肉を焼くのは臭いが気になるが仕方がない。
肉と野菜を皿に移したりと準備をしていると、酷い疲れを感じた。
早めに夕食をとってのんびりしようと思っていたのに、予定がくるったからだろうか。
(シチューつくらなければよかったな……あ、お米を用意した方がいいのかな)
瑞記が肉だけで食べるのかご飯が必要なのか分からない。
気を遣いながらテーブルのセッティングを終えたとき。スーツから部屋着に着替えた瑞記がやって来て、肉と野菜を焼きはじめた。
「園香、皿をとって!」
途中園香をこき使うのを忘れない。焼きあがったとき園香はすっかり疲れ果てていた。
「いただきます」
ようやく椅子に座れる。園香はふたり分の冷たいビールをテーブルに置いてから席に着く。
「あれ? ビールなの?」
「うん。お酒はそれしかないから」
つべこべ言わず飲んでくれと言外に滲ませると、瑞記は仕方なさそうにグラスを手に取る。
「うん、上手い!」
瑞記はよほど好物なのか、機嫌良さそうに勢いよく食べる。その様子を見ていたら園香の気持ちも和らいで来た。
(振り回されてイライラもしたけど、こんなに喜んでいるならよかったかな。それに彼なりに歩み寄ってくれてるんだよね)
伝わりづらいけれど、瑞記なりに夫婦の関係がよくなるように、考えているのかもしれない。
「そう言えば、仕事は断ったんだよな?」
当然のように言われ、園香は戸惑う。
「断ってないけど。予定通り明後日から勤務よ」
「は?」
瑞記の顔色ががらりと変わった。