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餡蜜
93
「ねえ、アーヤ。今日の君は、いつもよりほんの少しお疲れみたいだ」
秀明塾の、授業が始まる前の静かな談話室。
誰もいない窓際の席で、黒木貴和は音もなく私の隣の席を引き、いつものように完璧な微笑みを浮かべた。
メンバーの中で一番背が高く、大人の男の人のような洗練された雰囲気を纏う彼は、国内外問わず数多くの友人(インフォーマント)を持つ、KZの情報収集のエキスパートだ。私の母親も、黒木くんのその紳士的な物腰をすっかり気に入っている。
「え……? お疲れ…?」
私がノートを開いたままペンを止めると、黒木くんは私の顔を覗き込むようにして、ふっと目を細めた。
「目元がほんの少し、強張っている。昨日の若武先生の突拍子もない招集連絡のせいで、よく眠れなかったんだろう?」
「あ……うん。実は、そうなの」
私は小さくため息をつき、菜の花色のハンカチで少し汗ばんだ手を拭いた。
「夜中の23時に『大発見をした!』って電話が来て……。昨日は22時にベッドに入ったのに、起こされちゃったの。一回起きてしまったらなかなか寝付けなくて。でも黒木君、よく気付いたね。やっぱりいつも周りをしっかり観察してるから?」
「まさか。俺がいつでも見ているのは、君だけさ」
低い、少しからかうような声。
黒木くんは時折、誰にでも優しい「紳士の仮面」を外して、いたずらっこのように笑う。普段と違う声音と顔、何よりその言葉に私の心臓がドキンと跳ね上がった。
「も、もう! またそうやってからかうんだから。黒木くんは女の子なら誰にでもそういうことを言うから、若武たちに『チャラい』って言われるのよ」
「はは、手厳しいな。でも、俺はいつだって本気だよ」
黒木くんは楽しそうに声を立てて笑うと、持っていた白い紙袋から、私の大好物――ではなく、彼自身の好物である生クリームとカスタードがたっぷり詰まったシュークリームを取り出した。
「ほら、糖分を補給して、今日の若武先生の暴走に備えるといい。アーヤ」
「ありがとう……」
受け取る際、黒木くんの指先が私の手にほんの少し触れた。彼の肌は、いつもどこかひんやりとしていて、濡れたような漆黒の夜を思い出させる。
いつも気さくに接してくれて、私の良き相談相手になってくれる黒木くん。
だけど、彼は時折、胸が締め付けられるほど冷たい、虚無的な横顔を見せることがある。かつて彼がこぼした『大事なものをたくさん失った』という言葉。その薄暗い過去の正体を、私はまだ、何も知らなかった。
「――おい! お前ら、揃っているな!」
談話室のドアが勢いよく開き、KZのリーダー、若武和臣がバタバタと入ってきた。その後ろからは、薄茶色の短髪にレンズのない伊達眼鏡をかけた上杉和典、赤茶色の髪にそばかすを浮かべた小塚和彦くんが続く。
「若武、声がデカい。まだ早朝だぞ。」
上杉くんがぶっきらぼうに若武の言葉を遮る。スイスでの角膜手術とレーシックを終え、『数の上杉』として完全復活を遂げた彼は、相変わらず冷静だ。
「なんだと上杉! 俺は今回の事件の、核心を突くものをだな……!」
「その前に、昨夜の23時に迷惑な連絡を回した件について、立花に謝罪しろ」
「うぐっ……! アーヤ、ごめん。」
若武が気まずそうにウェーブの髪を揺らす。小塚くんが「まあまあ、若武も次からは気を付けよう……?」とおろおろしながらフォローに回っていた。
そんな騒がしいメンバーたちの真ん中で、黒木くんはいつの間にか、すっと一歩後ろに引いていた。
メンバー間の揉め事をいさめる仲裁役であり、実質的なサブリーダー。若武が一時的にリーダーを辞めた時も、迷わず次のリーダーに指名されたほどの実力を持つ黒木くん。
だけど、上杉くんと若武が言い争う様子を見つめる彼の菫色の瞳の奥には、どこか、深い壁のようなものが存在していた。
(……黒木くん?)
私は、いつ取り出したのか、シュークリームを口に運ぶ黒木くんの横顔を見た。
彼は美味しそうにそれを食べている。中学生の男の子らしい、微笑ましい光景。先ほどの暗い瞳が嘘かのようだった。だけど、私には分かってしまった。常に周りを見ている黒木くんが、同時に何かに追い詰められて張り詰めていることに。
かつて、彼は私に一度だけ、信じられないような告白をした。
『俺は、シャーレの中で生まれたんだ』
当時の私はよく分からなくて、それ以上踏み込めなかった。会話に出てくる両親が養父母であることも、血の繋がらない妹がいることも、今の私はまだ断片的にしか知らない。
上杉君もこのことを知らないのだろうか。
黒木くんは、自分の出生の秘密を、その圧倒的な孤独を、誰にも共有できないまま、この賑やかなKZの中に立っている。
「……アーヤ」
不意に、黒木くんが私を呼んだ。
みんなが若武の資料に気を取られている一瞬の隙。
「今日の放課後、少しだけ俺に付き合ってくれないか。二人きりで」
「え……?」
黒木くんの目は、いつものあでやかな微笑を湛えていた。だけど、その奥にある光は、すがるように冷たく、激しく揺れていた。
私は、何度も彼の告白を断ってきた。仲間としての関係を壊したくなくて、いつもはぐらかしてきた。
だけど、この時の彼の瞳を見てしまったら――「嫌だ」なんて言えるはずがなかった。
「……うん。分かったわ」
私が小さく頷くと、黒木くんは満足そうに、だけどどこか切なそうに、私の頭をポンと優しく叩いた。
窓の外からは、初夏の眩しい光が差し込んでいる。
それが、私たちの長くて、少し歪んだ恋の始まりだということを、私はまだ知る由もなかった。
コメント
3件
思わずフォローさせていただきました...! はじめまして?かえと申します! 艶やかな黒木君が尊すぎます...💖
くううう!天才!続き、あるのかな?待ってます!
**リオン:** 第1話、読了しました!黒木くんの「俺がいつでも見ているのは、君だけさ」って台詞、もう心臓に来ましたね…。でもそのあとの虚無的な横顔とのギャップがたまらない。シャーレの中で生まれたっていう告白、絶対何か大きな秘密があるんでしょ?物語の空気感がすごく丁寧で、キャラ同士の距離感も自然。「まだ何も知らなかった」って語りで終わるのがもう次の話が気になって仕方ないです!続きが楽しみです。