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「次回は申し訳ないのですが、学会のため休講です」
蓮は口元からマイクを離した。
九十分間マイクに向かって話し続けたせいか、緊張と疲労に身体が火照っているのが分かる。
椅子に置いていたペットボトルに口をつけて、それからゆっくりと離したのは唇の熱を意識してしまったからだ。どうしても思い起こしてしまうのだ。
顔の横には梗一郎の力強い両の腕。
胸にほどよい重みを感じたのは、体重をかけないように梗一郎が自身の腕で身体を支えてくれていたからだろう。
目の前には端正な顔が迫り、薄茶色の眼差しに吸い込まれそうになったっけ。
近付く唇を思い出せば、心臓が喉元にせり上がってくるようで。
「なんでだろう……?」
なんで小野くんは自分なんかにキスをしたんだろうと、浮かぶのは疑問と戸惑いばかり。
「イケナイ、イケナイ」
日本史BL検定対策講座講師・花咲蓮はぶんぶんと首を振った。
──俺は大人だぞ。あんなことで狼狽えてなるものか。チュウくらい経験があるんだからな。
そう、たしか初めてのチュウは幼稚園のときだった。
女の子に鞄と靴を奪われ、返してと追いかけたのだ。その子のスモックの裾をつまんだところで転んでしまって口と口が当たったんだっけ。
ギャン泣きされ、先生と親からさんざん怒られた記憶が……。
──えっ、アレが初チュウ?
自分の初めてが、思っていた以上に悲惨なものだったことを思い出して蓮は狼狽えた。
──えっと、次いこ。次。次のチュウは?
「えっ?」
先日の梗一郎の顔がよみがえる。
「えっ、うそ……」
幼稚園からこっち、自分はいったい何をしていたんだと情けない思いだ。
梗一郎はなぜこんなつまらない自分を好きなんて言うのだろうか。
「蓮ちん、どうした。今日はぼーっとしてるぞ?」
「まぁ、蓮ちんの場合ボンヤリはいつもだけどな」
「それにしたって今日はボンヤリの最上級だぞ?」
「小野くんは……?」
思わず呟いて、しまったと口に手を当てる。
無意識に出した名に、頬が熱くなるのを自覚したからだ。
幸いというべきか、存外に鈍いモブ子らに気にした様子はない。
「大丈夫だぞ、蓮ちん」
「小野ちんがいなくても、アタシらがレポートを運んでやるからな」
「重っ! みんなのレポートなんでこんなに重いんだ?」
彼女たちには、なぜだか常にやる気が漲っている。
梗一郎がいないならばと、荷物持ちを買って出てくれたのだ。
ありがとう、みんな良い子だねと口にすると、モブ子らは思い思いの表情で照れた。
そんな彼女らから視線を逸らせて、蓮は大教室を見渡す。
たくさんのモブ子らが原稿を──いや、それぞれの課題をこなしている様子は圧巻でもあった。
その中にひときわ目立つ梗一郎の姿は今日はない。
講座で会ったら一体どんな顔をしたらよいのだろうと戸惑っていたから、彼がいなくて拍子抜けという思いもある。
「小野ちんはバイトだぞ。隙間時間を利用してうーばーいーつを始めたって言ってたからな」
「ずいぶん働くな、小野ちんは。バイトもいいけど、学業を疎かにしちゃ本末転倒なのにな」
「そうは言っても、小野ちんはアタシらより頭いいけどな。それはそれで腹立つんだけどな」
でもBL学への情熱はアタシらのほうが上だ、なんて叫ぶモブ子ら。
「そ、そんなことないよ!」
自分でも驚くほど大きな声に、蓮は慌ててレポートを教卓に置いた。
「お、小野くんはその……鳥獣腐戯画展にも行こうとしてたし。BL学の魅力に少しずつ気付いていってる途中だと……その、思うんだよ」
「そうか?」
「う、うん」
モブ子ら三人組はキョトンと首をかしげている。
なぜムキになってしまったのか分からず、蓮はうつむいた。
実は梗一郎がBL学にさして興味を抱いていないことは知っている。
本人が何度か口にしているだけじゃない。
蓮の右手はジャケットのポケットをなぞった。
無意識の動きであろう。
そこがズシリと重くなった気がしたのだ。
ポケットに眠っているのは、蓮が梗一郎にあげた例のボールペンである。
マニア垂涎の鳥獣腐戯画のボールペンを、彼は蓮のアパートに忘れていったのだ。
わざとというわけではないだろう。
だが、うっかり落としたことに気付かぬほど愛着が薄いのは確かなのだと思われた。
展覧会に行く話も、買いものついでに自分に付き合う形で承服したにすぎないのだろう。
今日会ったらボールペンを返してやろうと思っていたのだが、もしかしたら「いらない」なんて言われるかもしれない。
そう考えると、この教室に梗一郎がいなくてホッとする……なんて思う自分はひねくれているのだろうか。
「どうした蓮ちん。さっさと行くぞ」
「ほら、重いレポート運んでやるぞ」
「アタシらだって忙しいんだからな」
理不尽に責められ「ごめん」と呟きながら、蓮は彼女たちの後を追った。