テラーノベル
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藤澤が元貴の背を撫でていると、廊下に処置室の重い扉が開く音が低く響いた。
姿を現した担当医の視線が二人を捉え、藤澤を奥へと手招く。藤澤は「すぐ戻る」と唇の動きで伝えると、医師のあとに続いて光の渦の中へと消えていった。
残された元貴は、椅子に深く沈み込んだまま、ただ時間の経過を肌で数えていた。心臓の鼓動が耳の奥で、メトロノームのように刻まれる。
数分後、戻ってきた藤澤の顔には、先ほどまでの刺すような緊張はなかった。強張っていた頬の筋肉が緩み、そこには確かな安堵の色が滲んでいる。
「疲れからくる軽い意識障害だって。大事には至らないけど、今日はこのまま入院して様子を見るそうだよ」
その言葉がアプリの画面に浮かび上がった瞬間、元貴の視界は一気に白く染まった。
「……っ、…ぁ……っ」
声にならない嗚咽が、熱い塊となって喉を突き上げてくる。若井は死なない。その事実が、凍りついていた元貴の全身を解かすように巡り、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
藤澤は、安堵に震える元貴を見つめながら、さらに続けた。
「だから、今日のところは一旦家に帰ろう」
医師の指示でもあるという補足に、元貴は素直に頷いた。一方で、若井のいない家に戻ることに、形容しがたい不安と寂寥感が胸をかすめる。けれど、このままここにいても若井の傍には居られない。
元貴は、震える手でアプリに文字を刻んだ。
『涼架さんは、どうするんですか』
その問いに、藤澤は穏やかな、包み込むような笑みを返した。
「一緒に家に戻るよ。若井の着替えとか、必要なものをまとめて病院に届けたら、俺も自分の家に帰る」
一人にはさせない。その決意が、藤澤の眼差しから静かに伝わってくる。元貴は、こみ上げる熱いものを堪えるようにして、深く、深く頭を下げた。
二人の足音だけが、深夜のマンションの廊下に空虚に反響している。 玄関の鍵を開ける乾いた音が、やけに大きく響いた。
「お邪魔します」
藤澤は靴を脱ぎながら、静かに呟いた。元貴はチラチラと背後の藤澤を気遣いながらリビングに向かう。 そしてそこに足を踏み入れた瞬間、元貴の心臓が嫌な跳ね方をした。一瞬だけ忘れることができていたはずの、あの空気感が、冷え切った部屋の隅々から這い出してきて、肌にまとわりつく。
月明かりに照らされた床のわずかな凹凸さえも、崩れ落ちた彼の身体の残像を映し出しているようで、元貴は視線を逸らした。
それでも、目線の先には若井との生活が溢れていた。
脱ぎ捨てられた上着、無造作に置かれたカバン、作業途中のパソコン。
若井の荷物が、体温が、この部屋の至るところに染み付いている。それらは、持ち主がいないという事実を無言で突きつけてくるようで、元貴の心根を冷たく冷え切らせた。
(……っ、……わかい、が、いない)
一気に押し寄せてきた不安の奔流に、元貴はなす術もなく立ち尽くした。 一歩でも動けば、この静寂に押し潰されてしまいそうだった。
若井がいることが当たり前だったこの景色が、今は牙を剥いて、孤独を剥き出しにさせていく。
藤澤は、立ち止まった元貴の背中を、静かに見守っていた。
(……無理もないよな)
言葉をかけることを避け、静かに視線を足元のフローリングへと落とした。スマホの画面に、短く決然とした文字を打ち込んで元貴の視界に滑り込ませた。
『必要なもの、まとめてくるね』
元貴の瞳がその文字を捉えたのか、あるいはただ光を反射しただけなのかは判然としない。藤澤は返事を待つことはせず、踵を返して洗面所へと向かった。
そこには、若井が使ったであろうタオルの柔軟剤の匂いが微かに残っていた。藤澤は努めて機械的に、入院に必要となる着替えや洗面用具を鞄へと詰め込んでいく。布の擦れる音が、誰もいない空間に不自然なほど大きく響いた。
荷物をまとめ終え、再びリビングに戻った藤澤の目に飛び込んできたのは、ソファーの端に、抜け殻のように腰掛けている元貴の姿だった。
部屋の灯りは点いているというのに、元貴の周りだけが、まるで深い夜の底に沈んでいるように見えた。焦点の合わない瞳は、かつて若井が倒れていたあの場所を虚ろに見つめている。その背中はあまりに小さく、今にもその場から消えてしまいそうなほどに儚い。
藤澤は、胸の奥を締め付けられるような感覚を覚えながらも手を動かし続けた。
すると、ある違和感に気づいた。
背中にまとわりつくような、じわじわと肌を粟立たせるような違和感に。
最初は、ただの偶然だと思っていた。だが、リビングの端から、テーブル、そしてキッチンへと移動するたびに、ある視線が執拗に自分を追いかけてくるのだ。
ふと足を止め、振り返る。
ソファーに深く沈み込んだ元貴と、捕らえられたかのように目が合った。元貴は身じろぎ一つせず、首だけをわずかに動かして、藤澤の挙動を一点に凝視している。その虚ろな瞳には、光の一片すら宿っていない。まるで精巧に作られた人形が、命令に従って標的を捕捉し続けているかのような、不自然な凝視だった。
背筋に冷たいものが走るのを感じた。
あんなに震え、そして安堵の涙を流していたはずの元貴。しかし今の彼は、どの感情も映っていないように見える。ただ、無機質なレンズのような瞳で、この部屋に存在する唯一の「動くもの」である藤澤を、冷徹にトレースし続けている。
(……なに、これ)
藤澤が棚の扉を開ける音、鞄のジッパーを閉める音。その小さな音の波紋ひとつひとつに反応して、元貴の黒い瞳が、カチカチと音を立てる時計の針のように藤澤を追う。
「……元貴くん?」
藤澤は思わず声をかけたが、空中に放たれた音は彼に届くことはない。元貴は瞬きさえ忘れたかのように、ただ藤澤を見つめ続けている。その眼差しは、助けを求める救済の目ではなく、病的な執着に近いものだった。
藤澤は、たまらず視線を逸らした。
パジャマ姿で汗だくになり、親友のために奔走している自分。その必死な善意さえも、元貴のあの空虚な視線に晒されると、何かひどく滑稽で、恐ろしいものに触れているような錯覚に陥った。
一刻も早く、この部屋から出たい。
そう思いながら、逃げるように荷物整理のピッチを上げる。リビングにある深い引き出しに手をかけた瞬間、藤澤は思わず息を呑んだ。
そこには、整然と、それでいて異常なまでの密度で、無数の薬が詰め込まれていたのだ。
名前の書かれた白い袋に入った、強力な頭痛薬、睡眠薬、そして精神安定剤。
市販薬ではない。すべてが、しかるべき場所で処方されたものであるのが分かった。
(……若井、お前、こんなもん飲んでたのか)
藤澤は、自分の掌に広がる薬の冷たさに、耐え難い戦慄を覚えた。
過労。確かに医師はそう言った。だが、それはあまりに表面的な言葉に過ぎないことを悟る。
ふと顔を上げると、相変わらずソファーに座っている元貴が、首を傾けて自分を見ていた。何故か、思わず隠すように引き出しを閉じてしまった。
その瞳を見ながらふと考える。
彼は、若井が自分のために心を削り、薬漬けになっていたことを気づいていたのだろうか。
藤澤は、喉の奥まで苦いものがせり上がってくるのを感じた。
若井の献身は、美談などではない。それは、自分自身を少しずつ殺しながら積み上げてきた、歪な砂の城だった。
リビングに漂う静寂が、先ほどよりも重く、粘り気を帯びて藤澤にまとわりつく。
しかし今、自分がとやかく言える立場ではない。言うべき時ではない。
そう言い聞かせ、鞄のチャックを閉めた。
「……よし、これで全部」
独り言のように呟き、床から腰を浮かせる。その動作に合わせるように、それまで石像のように動かなかった元貴が、不自然なほど滑らかな動きでソファーから立ち上がった。
藤澤は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じた。だが、それを悟られまいと、努めて平静を装いながら首を傾げてみせる。
元貴の手が、せわしなくスマホの画面を叩いた。差し出された画面には、ただ一行。
『もう行っちゃうの』
その文字を読み、藤澤が視線を画面から元貴の顔へと上げた瞬間。彼は、目に見えない巨大な波に飲み込まれるような感覚に襲われた。
見開かれた瞳の奥に渦巻いているのは、単なる「不安」という言葉では到底足りない、剥き出しの飢餓感だった。
若井という唯一の拠り所を失い、ぽっかりと空いた巨大な心の穴を、今すぐ何でもいいから埋めてくれと叫んでいる、凄まじい「依存」の化身。
枯渇し、ひび割れた大地が水を求めるような切実さと、自分一人では一秒もこの場に踏み止まれないという、幼児のような恐怖。それが濁流となって、藤澤の平穏を容赦なく押し流していく。
藤澤は、生唾を飲み込んだ。冷や汗が止まらない。
若井があの薬の山に頼らざるを得なかった理由が、今、目の前の瞳を通して、恐ろしいほどの解像度で理解できてしまった。
元貴の震える指先が、藤澤の袖を掴もうとして、空中で止まっている。 その指がもし自分に触れたら、自分までこの底なしの深淵に引きずり込まれてしまうのではないか。
藤澤は本能的に、そう思った。
今すぐここから逃げ出したい。玄関のドアを蹴破って、外の冷たい夜気に飛び込みたい。
だが、脳内に浮かんだ一つの考えが、藤澤の脚を床に縫い付けていた。
もし、今ここで彼を拒絶したら、この男は何をするだろうか。
怒り狂って襲いかかってくるのか、あるいは若井から聞いている通り、自分の目の前で命を断とうとするのか。
藤澤が抱いている恐怖心は、もはや人間に向けるものではなかった。檻の中の猛獣や、何を仕でかすか分からない狂信者を前にした時の、生存本能に近いものだった。
藤澤は、引き攣りそうになる頬の筋肉を必死に操り、歪な笑みを作った。指先を震わせながら、逃げ場を求めるようにアプリを起動する。そして出来るだけ彼を刺激しなさそうな言葉を選んで呟いた。
「……荷物、病院に届けなくちゃいけないから」
その文字を突きつけた瞬間、元貴の顔から表情が剥落した。いや、剥落したのではない。内側から混濁した感情が噴き上がり、その相貌をぐちゃぐちゃに歪ませたのだ。
元貴の瞳が、急速に湿り気を帯びていく。先ほどまでの、すべてを飲み込むような深淵はどこへ消えたのか。今の彼は、ただただ理不尽な不安に怯える幼児のように見えた。その急激な変貌に、藤澤の脳は処理しきれない警告音を鳴らし続ける。
元貴が、震える指で文字を打った。
『届けたら、帰っちゃうよね』
その問いかけは、あまりに幼く、甘えを含んだ響きを持っていた。
それは子どもが親を試すような残酷な無垢であり、同時に、流れる激流の中で見つけた唯一の藁に、爪を立てて縋り付こうとする狂気の執着だった。
元貴の視線が、藤澤の反応を執拗に探っているのが分かる。
喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じた。
目の前にいるのは、愛する人を心配する健気な青年などではない。支えを失った瞬間に露呈した、怪物のような孤独そのものだった。
藤澤は、バッグを握りしめる手に、さらに力を込めた。自分の心臓が肋骨を裏側から激しく叩く音を、これほどまでに鮮明に聞いたことはい。
喉の奥が引き攣り、冷や汗が背筋を蛇のように這い降りる。視界の端で、元貴が微動だにせずこちらの「審判」を待っている。その無垢で、かつ暴力的なまでの期待を孕んだ眼差しが、藤澤の生存本能を極限まで逆撫でしていた。
(ここで「帰る」と言ったら、どうするんだ)
藤澤は、まるで地雷原の真ん中で次の一歩を強いられているような、逃げ場のない閉塞感に包まれていた。最善の答えなど、どこを探しても見つからない。
ただ、目の前の怪物を鎮めるための「時間稼ぎ」をするしかなかった。
「……病院に荷物を届けたら、またここへ戻ってくるよ。…帰ってくるから」
言葉が唇を離れた瞬間、藤澤は自分の魂の一部が、この底なしの沼に引きずり込まれたような感覚を覚えた。それは約束ではなく、ただの命乞いだった。この部屋という密室で、正体不明の「怪物」と二人きりになる未来を自ら選ぶという、あまりに代償の大きな博打。
元貴の瞳が、僅かに揺れた。
先ほどまでの、すべてを食い尽くすような飢餓感が、霧が晴れるようにすうっと引いていく。代わりに浮かび上がったのは、安堵に濡れた、恐ろしいほど純粋な微笑だった。
『ほんと?』
元貴がスマホに打ち出したその三文字は、藤澤の胸を鋭く刺した。
彼は、信じた。その無邪気な信頼こそが、今の藤澤にとってはどんな刃物よりも恐ろしかった。
「うん、約束する」
藤澤は無理やり口角を吊り上げ、アプリの画面にその「嘘」を刻みつけた。
バッグを肩にかけ直し、逃げるように玄関へと向かう。ドアを閉め、夜の廊下に飛び出した瞬間、藤澤は膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
アスファルトを噛むタイヤの音が、深夜の街に低く響く。
藤澤は逃げるように車に乗り込み、強張った指でハンドルを握りしめた。エアコンの吹き出し口から出る冷気が、額の汗をなぞるように冷やしていく。アクセルを踏み込み、バックミラーに遠ざかっていくマンションの影を確認して、ようやく肺の奥に溜まっていた毒素を吐き出すように大きく息をついた。
(……なんなんだよ…っ…)
信号待ちの赤光が、フロントガラスを血のような色に染める。
脳裏に焼き付いて離れないのは、ソファに座り、無機質なレンズのように自分を追っていた元貴の瞳だ。
このまま病院に荷物を預け、夜の闇に紛れて自分の家へ逃げ帰ってしまいたい。あの部屋で起きたことすべてを悪夢として処理してしまいたい。そんな衝動が、幾度となく藤澤の心を揺さぶった。
しかし、そのたびに、現実という名の冷徹な鎖が彼の足を絡めとる。
自分と若井は、同じ学部に身を置き、ゼミでも顔を合わせる間柄だ。元貴とは以前、若井を介して短く言葉を交わしたこともある。
そんな関係性で、もし嘘だというのがバレたら、何をしてくるか。
藤澤は、自嘲気味に口角を歪めた。
結局、あの怪物の言う通りにするしかないのか。
先ほどまでの、殺人犯の機嫌を伺うような、薄氷を踏む緊張感。虚ろな、それでいて射抜くような眼差しが、脳裏に浮かんでは消える。
ここで嘘をつけば、それは裏切りとして、より鋭利な刃となって自分に返ってくるに違いない。
藤澤は、病院の受付へと向かう足取りが鉛のように重くなるのを感じた。
「荷物……届けたら、あそこに戻るのか…」
独り言のように漏らした言葉は、誰にも届かずに夜のロビーに消えた。
このまま逃げれば、後でもっと恐ろしい報復が待っているに違いない。
けれど、戻ったところであの視線に自分は耐えられるのだろうか。
藤澤は、震える手で受付の書類を書き始めた。
ペン先が紙を引っ掻く音が、まるで自分の退路を断つ音のように聞こえてならなかった。
コメント
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2人の目線だったら大森さんだけが依存していると思ったけど別sideから見ると2人が今日依存していてその愛が異常なことがわかる👀強力な薬を使ってでも大森さんと一緒にいたいという気持ちが異常すぎて怖い💃見るの遅れちゃった💦相変わらず神✨️
藤澤さんからでも分かる不気味な依存関係と若井さんの限界。大森さんの人を巻き込む、というか引きずり込んで自分の仲間にしてしまう所や心情描写が繊細で大好きです。 読んでいて自然とこれからどうなるんだろうか、三人は幸せになることはないのか、と考えてしまいます。 長々と長文失礼しました。 これからも応援しています。
誤字ったのでコメントし直します笑 涼ちゃんの一つ一つの行動をひとつの言葉も発さずに、虚ろな目で追いかけるもっくんの姿が想像できます... もっくんは2人の優しさに依存していたのか、あるいは自分を支えてくれる涼ちゃん自身と若井自身に依存していたのか、考えると考察が止まらなくなりますね... 毎度毎度、語彙力ありすぎて話の中に吸い込まれるように読んでます。