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遥か彼方を見通す目を持つ者たちでも透かし見ることのできない厚く垂れこめた雲の中、一人の女が垂直に近い崖を這い登っている。痩せ細った体の隙間を埋めるように分厚い衣をしっかりと巻き付けてはいるが、水気を孕んだ吹き荒ぶ風は氷のように冷たく、鋭く研いだ刃の如く身の芯にまで突き刺さっている。地上に背を向ける罪人を咎めるように風雨は喚き立て、女を重力に引き渡そうと苛む。
しかし女は雨に打たれながらも瞬き一つせず、冷気の浸食など意にも介さず青ざめた手足を動かし続ける。時に足首と膝の伸縮で体を持ち上げられそうになければ、細指を亀裂に引っかけて登り、爪が剥がれてもざらついた岩肌に肌を擦り剥いても構わず、確固たる意志がその見た目には嫋やかな女を上昇させる。
そうして天へと一歩一歩近づきながらも女の冷静な心はここから遥か北西の、それでもずっと温かい街礼拝する者たち市のいくらか昔へと遡り、付かず離れず街の周囲を巡っている。
「わ! 動いた!」と小川の流れのような囁き声で少女が驚く。
虱に塗れた黒髪に、泥と垢に汚れた肌、目鼻立ちはぱっとしない上に傷と痣が痛々しく浮き上がっている。青みがかった緑の瞳は辛うじて美しく、過酷な生と肉体をそれでも支えて突き動かす魂の光が漏れ出ている。
パドニカ市の小暗い裏通りの片隅で、薄汚い少女はひびの入った煉瓦を両手でしっかりと握りしめていた。何の変哲もない煉瓦には、三日月形の札が貼ってあり、そこには目を覆う鹿の不気味な絵が描かれている。そして煉瓦は少女の見ている前でもぞもぞと動き、蠢き、輪郭を崩し、形を変え、果ては人の形を作ると、生命力の強いある種の鼠のように少女の痩せた指をさらに細い腕でこじ開けて抜け出し、通りの奥へと走り去る。
「待って!」と少女がか細い声で命じると煉瓦人形はよく躾けられた犬のように言われるままに立ち止まった。
「戻ってきて、泥棒妖精さん」と少女の言うがままに煉瓦人形は戻ってくる。
「素直なのね」と不思議そうに人形を見つめる少女を、人形は瞳のない眼で睨み返すばかりだ。
煉瓦人形は抵抗の意志を示すように自らの札を剥がそうと手にかけるが、「剥がしちゃ駄目! また動けなくなっちゃうでしょ!」と少女に言われると素直に従う。
「ねえ、お喋りできないの?」と少女が小首を傾げて尋ねる。
純粋無垢な瞳から差し込む好奇心の光が煉瓦人形を照らし出し、煉瓦のように頑なな煉瓦人形の精神を幾分か和らげた。
「できるけど、君と喋りたくないだけだよ」と煉瓦人形は答えるとそっぽを向く。
「お名前を教えて? 泥棒妖精さん。あ、私は火の粉よ」
燧石を擦りつけるような舌打ちを一つ寄越した後、「盗む者」と答える。
「あなたが最近話題の泥棒妖精さん?」フォナはわざとらしい――既に心の内では許している母親がそれでも躾けのために悪戯をした子供を叱る時のようなあの――しかめっ面をして腕を組む。「おかげで浮浪児たちが疑われて大変なのよ? 知ってた?」
煉瓦人形バルネウシアはそれが鼻ならば鼻を鳴らし、「話題になってるかどうかなんて知らないよ」とすげなく答える。
少女フォナは誰かが可笑しなことを言ったかのようにくすりと笑う。
「態度の割に何でも言うことを聞いてくれるのね。それとも何でも答えてくれる割に態度が悪いのかな。それは妖精さんにとって何か意味があるの? どうしてか教えて?」
バルネウシアは今までで最も嫌そうな素振りを見せるが、しかし抗えない。
「私は札が本体で、札を貼った者の命令には逆らえないんだ」
「分かった!」と言ってフォナは満足するまでたらふく食べた時のように――それがいつのことか記憶に残っていないが――嬉しそうに笑みを浮かべる。「誰かに命令されて仕方なく泥棒をしているってことね?」
「違う。ただ気に入った物を盗んだだけだよ」そっぽを向きながら答えたバルネウシアは視線だけフォナに向ける。「君はそうしないの? そうでもしないと生きられなさそうだけど」
バルネウシアは嫌味な笑みを浮かべて、少女の汚れた肌や衣を眺める。
「私は盗みなんてしないわ。優しい方々に恵んでもらったり、敬虔な方々に施しを請けたりするだけ」
「ああ、乞食のことだね。私もそうだよ。優しい方々や敬虔な方々からしか盗まないんだ」
やはりフォナはわざとらしく目を吊り上げて怒った風な口調でバルネウシアを叱る。
「駄目よ。もう悪いことはしちゃ駄目。これは命令よ。逆らえないのよね? それで私と一緒に暮らしましょ、妖精さん」
「バルネウシアって言ったでしょ?」
いくらでもフォナから逃げ出す方法やそれを実践する隙はあったがバルネウシアはそうしなかった。逃げたいとは思わなかったからだ。
悪いことをするなという少女フォナの曖昧な命令も解釈次第で、バルネウシアは変わらず盗むことができた。例えば悪人から盗むだとか、より良い善を為すために盗むだとか、バルネウシアがバルネウシア自身を納得させられれば悪くない盗みを実行できた。義賊めいた盗みをさせられるのは少し癪だったが、すぐに気にならなくなった。
ひとえにフォナの善性の賜物だ。フォナは足が悪く、立つのがやっとという状態で、他の浮浪児と違って食べ物をくすねることさえできない。いつも飢えていて、水を飲むのも一苦労で、ほとんど何も持たない少女はいつも苦痛と苦労に喘いでいて、であるのに人を罵る語彙すら持ち合わせていなかった。しかし、人々のささやかな施し、気まぐれな恵み、これ見よがしな情けに身を震わせて感動し、感謝する心を抱いていた。その年最初の黒歌鳥の調べに感じ入り、夏の雨に濡れた野原の輝きに嘆息し、夜長の冷たい風の兆しに憂う魂を秘めていた。
そんなフォナをバルネウシアが憐れに思ったからこそ、ある程度の盗みは命令に反せず実行できたのだ。初めは少女フォナもバルネウシアがどこからどのようにして戦利品を持ち帰るのか訝しんだが、悪いことをするなという命令を含め、盗人の魔性を縛る理のお陰で素直にバルネウシアの施しを受け取れた。そのための嘘もフォナを傷つけないためだとバルネウシアが固く信じているために、悪いこととは見なされず、実行できた。
一方で少女フォナもまたバルネウシアに影響を受けて、多少は不良じみた考えを持つようになった。いつまでも無垢な魂とは言えなかったし、清らかな心ではいられなかった。とはいえ、足が言うことを聞かないフォナに悪事も含めて出来ることは少ない。時折フォナの路地裏の友人たちが一線を越えてしくじり、姿を消すことがあったが、フォナの足では一線にたどり着くこともない。それも、しばらくして解決策が見いだされた。
女はとうとう濡れた崖を登り切り、頂に至る。古くから地上の奇事怪事を眺めては賞賛するように瞬いていた無数の星々が女を出迎え、新たに現れた役者の矮小な舞台の公演に詰めかけていた。相変わらず風は強く軍勢の進軍の如く響いているが、雲を抜けたおかげで見晴らしは良い。月と星々に照らされた未踏の高原の植物相はあまり豊かとはいえず、ほとんどは無愛想な岩肌に覆われている。
そして女の真正面、南東の方向に真っ赤な輝きが灯っていた。夏の長い昼間の終わりを鮮やかに照らす黄昏とも思しき真紅の光だ。岩の起伏に隠れていて直接には見えないが、起伏の輪郭をはっきりと浮き上がらせているとても強い輝きだ。女は光をしっかりと見据え、高原の一歩目を踏み出す。
「悪いことはしちゃ駄目よ、妖精さん」とフォナは胸元に貼りつけた三日月形の札に語り掛ける。
「しないよ。私のこと疑ってるんだね」
「ごめんなさい! 私、そんなつもりじゃなくて――」
「いいよ、いいよ。良いってば」冗談の通じなさも相変わらずのフォナにバルネウシアはまだ慣れず、慌てて軌道修正する。「これは私とフォナの約束ってことにしとこう。ね? それより覚悟は出来たんだね?」
数年が経ち、バルネウシアの献身的とも言える施しによって、飢えて痩せた少女フォナはすっかり手足が伸び、肉付きの良い大人へと成長することが出来た。多少は見目を気にするようになり、髪も肌も艶めいている。悪い足はどうにもならなかったが、バルネウシアの札を体に貼れば大地を駆け抜けることが出来た。
「うん。私だって、貧しい暮らしをしている皆の為に、貴族どもに、一泡吹かせるんだ」とフォナは他人の語彙でつっかえつつ話す。「それに妖精さんにだけ負わせる訳にはいかないから」
苛烈なライゼン進攻に対して防壁高地の砦を増強することを名目に、ガミルトンの民の生活を圧する税は増加の一途をたどっていた。このままでは侵略者に殺される前に干上がってしまうとして、日々日々締め上げられるばねのように民衆の反発は強まっていた。そしてフォナもまた世相に感化され、かつフォナには不思議で大胆な力を持つ友人がそばにいたという訳だった。
バルネウシアはどちらでも良かった。フォナを飢え死にさせるつもりもなければ、燃え上がる戦火にくべるつもりもない。その時には逃げを打つだけだ。
しかし不幸なことにフォナが義賊として初の仕事に挑んだその時に、グリシアン大陸を平らげんとする大王率いるライゼンの軍勢がシグニカに押し寄せ、後の世に嘆きと共に伝わるガミルトン大火がシグニカ北西地域を焼き尽くした。
女は丘の陰からフォナとの約束の星、真紅の輝きの正体、どこまでも眩い神秘の炎を見つめる。血よりも赤く、暗いが強い放射が高原を赤く染め上げている。薪も何もなしに乾いた岩肌の上で、吹き付ける強風など存在しないかのように魔法の火は淡々と燃えていた。
そしてその不思議な火のそばに誰かが腰掛け、じっと見守っているのを見つけた。それが何者なのか、高原へとやってきた命知らずの女は知らないが、火を見守る者が身に着けている衣服はかつてガミルトンに点在した神殿で見慣れたパデラの巫女のものだと分かる。つまりその巫女も女と同様にガミルトンの低地からこの高原までやってきたのだ。女は念のために腰の短剣の柄に触れて、火を見守る者の背後から蛇のようにそっと忍び寄っていく。
二人は火に巻かれ、フォナだけが傷ついた。気を失ったフォナの体を無理矢理動かして、戦火から遠くへと逃れるがライゼンの軍勢の進軍速度は凄まじく、見る見る内にガミルトンを呑み込んだ。
何とか焼き尽くされた村の打ち捨てられた風車小屋に身を隠すが、フォナの爛れた肌を治す方法は何もなかった。浅い呼吸をし、弱った鼓動を打ち、生きているのがやっとという状態でフォナが目を覚ます。
真っ暗なのはそれが夜で風車小屋の中だからだが、ガミルトンに住む誰もが恐怖で灯りなどつけられなかった。小さな窓からは四神の宴(スーノーン)高原と煌めく星々の一角が見えるばかりだ。
隙間風のような喘鳴の合間にフォナの焼けた喉が言葉にならない雑音を漏らす。
フォナ、私はそばにいるよ。喋るだけで疲れるだろう? 心の中で喋れば私には聞こえるよ。とバルネウシアは心の声で答える。
ごめんね。私がわがまま言ったばかりに、妖精さんをまた独りぼっちにさせちゃうね。
一人になんてならないよ、フォナ。ずっと一緒だから。きっと治すから。強い心を持って。
うん。ありがとう。あ、見て。見える?
二人の一つの眼球が小さな窓の中の高原の頂に赤い光を見出す。紅玉の如き真紅の光が、どの星々よりも強く輝いている。
何だろう? あれ。
星よ、きっと。落っこちて来たんだ。綺麗ね。
じゃあ一緒に見に行こう。火傷を治して、高原を登ろう。二人なら何でも出来るんだからさ。
うん。
それであの赤い星を盗んじゃうから。そしたらフォナにあげるからね。約束するよ。フォナ。
戦火が収まった頃、バルネウシアは風車を出た。約束を守るために。
まずはガミルトンを東へ横断し、|白雲高原に沿って南へ下る。途中麓の村陰の土地でフォナの体のために準備を整えた。そうしてシグニカの中心に聳えるスーノーン高原の麓、穴掘りの街突き当りへとやって来る。歴史ある深い坑道を登っていくが、高原の頂まで届いているわけではない。人の限界の先からは崖を登る。そうしてようやくスーノーン高原の頂に広がる未だ名も無き土地へとやってきたのだった。
「このような所に人がやって来るのは珍しいですね」と背中を向けた火を見守る巫女に声をかけられる。冷徹で寒々しい、まるで路傍の石にかけるような言葉だ。
それはバルネウシアが出会ったばかりの頃のフォナと変わらない年頃の少女だった。遠目から見た通りパデラの巫女の衣を纏っているが、とても生身の人間がこの寒さに耐えられる衣服ではない。たとえその不思議な炎の温もりがあったとしても。
「その火、君の?」とバルネウシアは少女の小さな背中に尋ねる。
「ええ、そうです。ワタシの大事な聖なる火です。あなたもこの火を頼りに来たのですか?」
悪いことはしちゃ駄目だ。バルネウシアは心の中で唱える。その少女がどのような人物か知らない内に盗んでしまうわけにはいかない。
「うん。そうだよ。遠くまで届くその光を目印にここまで登って来た。その火は一体何なの?」
少女は背中を向けたままかぶりを振る。
「ワタシにも分かりません。ただ、炎の明かりを見つめるだけで、頭の中が冴え渡るのです。まるで生まれ変わるように、心も魂も清らかに洗われるのです。きっと貴い力を持っているに違いありません」
バルネウシアも火を見つめるが頭の中はずっとごちゃごちゃしていた。赤い光が照らすのは青ざめた皮膚ばかりで、心の奥底まで浸透することはない。この火は私とフォナのものだ。
「君は一体何者?」とバルネウシアは火に語り掛けるように巫女服に語り掛ける。
「ヴァーナといいます。かつては女神パデラに仕える巫女でしたが、あの大火により神殿は滅びてしまいました。そんな迷えるワタシたちを導いたのがこの火なのです」
「じゃあ、私たちと同じだね。つまり君の火とは言えないし、仮に君の火だとしたら私たちの火でもある」
そうして初めてヴァーナは振り返る。この温かな炎を見つめていたとは思えない冷たい眼差しでバルネウシアを見つめる。
「火が欲しいのですか? 何故?」
バルネウシアはフォナの紫色の唇を結び、開く。
「約束したんだよ、友達と。一緒にこの火を見に行こうって」
その言葉を聞くとヴァーナは再び背を向けて火を見つめる。
「では既に叶ったではありませんか。ずっとあなたに寄り添っていた霊魂がこう言っています。ありがとう、妖精さん、と」
バルネウシアは途端に力が抜けたように膝から崩れ落ちた。今になってフォナの死を実感してしまった。未だに死を受け入れられていなかったことに気づいた。声も出さず、涙も流さず、ただ顔を覆って泣いた。
「ずっと民衆のために戦ってきたのですね」とヴァーナが指摘する。「それはワタシの志と同じです。ワタシもまたこのシグニカを救済したい。そのためには圧倒的に力が足りない。人も、金も、何もかも。あなたの力を貸してくれませんか? 盗む者さん」
バルネウシアは小さく溜息をついて立ち上がる。
「悪いけど、悪いことはしちゃ駄目なんだ。これも大事な約束だからね」
しかしそれだけだ。ヴァーナに背を向けられない。フォナの体が動かせない。見えない巨大な何かによって鷲掴みにされたかのように身動きが取れない。
ヴァーナが立ち上がり、その黄色の目でじっとバルネウシアを見つめる。いつの間にか片手には鋸のような短剣を握っており、バルネウシアの胸元を引き裂く。三日月形の札が、バルネウシアが露わになる。
「資金はどれだけあっても足りません。大陸中を巡ってこの地に財を集めてもらいます」
「やめて。約束なんだよ。フォナの命令を私から取り上げないで」
ヴァーナの指がフォナの冷たい肌からバルネウシアの札を引き剥がす。