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首を絞められたような寝苦しさでベルニージュは目が覚める。木の根を枕にする野宿は久しぶりだった。エーミはベルニージュの背嚢を枕にしている。木の根よりはましなはずだ。カーサがどこにいるのかは分からない。
ベルニージュはユカリに説明したとおりの作戦を成功させ、ついでにエーミがまだ街にいると勘違いしてくれることを期待して、救済機構の僧侶より利口な煙をいくつか残し、ジェムリーの街を足早に立ち去った。
誤算があるとすればユカリの脚が早かったことだ。後ろ髪を引かれるユカリは足取りが重くなり、この辺りで追いつくだろうと計算していたのだがベルニージュの読みは外れた。とはいえユカリの性格を鑑みれば、追い付くという約束が叶わないままビアーミナ市まで帰るとも思えない。どこかで引き返してくるとして、行き違いだけは避けねばならない。
眠る前と変わらないぼんやりとした明るさの緑の陽光が森の中の川辺へと差し込んでいる。あいかわらず眠った気になれない目覚めだ。猫のように大きく伸びをし、汗に濡れていることに気づく。気づいてしまうと不快感に苛まされ、水浴びでもしようかと川に近づいてみるが、思いのほか流れが速かった。見た目には清らかで、だが水底は青緑の苔に覆われている。足を滑らせれば酷い目に遭うだろう。ともあれ境界には危険がつきものだ。少し悩んだが、水浴びは諦めて気分転換に川辺を散策する。
行きの時もこの川辺で一泊したが、『騙り蟲の奸計』の呪いが解けた影響か、雰囲気が一新されている。木々も葉も地面も岩も川も長雨に洗われたように新鮮な光を放ち、瑞々しく輝いている、気がする。たとえ緑でもあと少し陽光が強ければ印象はさらに見違えただろう。
少しだけ川に張り出した演説台のような岩を見つける。ベルニージュは花の香りに誘われた蝶のように引き寄せられて岩に腰掛け、せせらぎとは言えない騒々しい流れに足だけ浸ける。水面の向こうで揺らめく二本の白い影が冷たい水の流れに曝されると疲れまで洗い流されるような気分になった。思いのほか気持ちよく、人目があれば憚っただろうが膝まで露わにして脹脛まで水に沈める。本の一冊でも持って来れば良かったと後悔する。
軽やかになった心は浮かび上がり、夢心地にうつらうつらとしていると、誰かが「王子!」と呼び、慌てて夢の岸辺で顔を上げる。
「王子?」とベルニージュは訝しげに呟きを繰り返す。
クヴラフワが王国だったのはクヴラフワ衝突よりもさらにずっと昔のことだ。もはや王の血筋は忘れられているのではないだろうか。
「何だ?」という声がすぐ隣で聞こえ、ベルニージュは一気に白昼夢から引き戻される。
見目麗しい王子が気障な笑みを浮かべ、ベルニージュの顔を覗き込んでいた。
ベルニージュもまたその一瞬で王子の眉目を隅々まで観てしまう。深く濃い碧の瞳は長らく失われている空を垣間見るようで、零れる歯は夏にあるべき雲に似ている。艶めく黄金の髪は雲間から差し込む陽光のようで、日に焼けつつも血の気を感じさせる肌はよく煎った扁桃の実のように照り映えている。
どこか見覚えのある見知らぬ顔を前にしてベルニージュは慌て、気が動転して、まず最初に王子の目から脹脛を隠し、前のめりになった勢いで川に落ちた。急な流れで濁ってもいて足はつかないがベルニージュは十分に泳げた。しかし気が動転していた。王子というのは大体が男で、ベルニージュは男というものを極端に好かなかったからだ。
だからその王子がベルニージュを助けようと川に飛び込んできても、ベルニージュは逃げるように泳ぎ去らざるをえなかった。その体力の続く限り。
次に目が覚めた時、どれほどの時間がたったのかは分からない。あいかわらず空は薄ぼんやりした緑色で、昼か夜か判然としない。
気を失う前よりも穏やかな川のせせらぎが聞こえ、焚火の爆ぜる音がそれに加わっていた。そして沢山の人々の陽気な話し声が聞こえた。飛び起きるのを堪え、横たわったままそっと辺りの様子を窺う。
涎を誘うような匂いに気づき、毛足の長い柔かな敷物に寝かされていることに気づく。どうやら宴でもしているらしい。甘い酒の香りと芳ばしい肉の匂い。魔法の欠片もない野卑な歌声と品位の欠片もない粗野な笑い声。まるで人の野と理から外れた所領を持つ蛮族の宴に迷い込んだかのようだ。
しかし自身のそばには誰もおらず、拘束されている様子もない。少しばかり警戒を緩め、緊張を解くと記憶に欠落があることに気づく。それも重大な欠落だ。
自分のことが分からない。母のことは分かるが、父のことは分からない。他に身内がいたのかも分からない。奇妙な記憶喪失だ、と赤髪の少女は頭の中で呟く。人物とそれに紐づく記憶が失われているらしい。
記憶を失ったのち、母を名乗る人物に拾われ、それが少女自身の『母の記憶』に乗っ取られた魔女だったという顛末を思い出す。
魔術による意図的な記憶喪失に違いなく、魔導書相当の強力な魔法に違いないことも思い出す。これは記憶喪失の呪いであると同時に、対象の概念にまつわる記憶不可の呪いでもあるのだ。そこまで分かってもなお、自分が何者で、何ができ、何を為さんとしているのか、まるで思い出せない。ユカリと出会い、レモニカと出会い、ソラマリアと出会った自分のことだけが思い出せない。
辺りを探り、背嚢がないことに気づく。エーミと共に置いてきてしまった。覚書を繰り返し見返し、日に何度も思い返すことだけが、唯一の対処法であるにもかかわらず。
「あね様。女が目覚めました」
その硝子で出来た鈴のような冷ややかで凛とした声が耳元で聞こえ、赤髪の少女は思わず飛び起き、声の主と中腰で対峙する。
いつからそこにいたのか、やってきたのか。吐息も足音も何も聞こえなかった。ユカリやソラマリアほどではないが背の高い女が少女の枕辺に立っていた。浅黒い肌に銀河の如く輝く長い髪、磨き上げられた翠玉のような双眸は見下ろすでもなく、人々の騒めく宴の方を見つめている。救済機構の僧侶とはまた趣の違う地味で飾り気のない黒い衣を身に纏っているが、その腰に佩いている湾刀の繊細な彫刻の護拳には沢山の多様な宝石が散りばめられている。
女の単調な呼び声はすぐそばにいる者に語り掛けるような声だったが、それに応えるように騒々しい宴の中から別の女がやってきた。うってかわってこちらは記憶喪失の赤髪の少女よりも背が低い。
実際の姉妹なのだろうと察する程度には似ている。あね様と呼ばれたからにはこの背の低い方が姉なのだ。無表情の妹と違って、こちらを侮るような、嘲るような笑みを浮かべている。格好も似ているが湾刀に配された宝石は遥かに価値の高いものが数多い。似たような首飾りも付けている。
妹と違って姉は少し離れたところで立ち止まり、場違いな少女をじっと観察する。「黄金の瞳。起きたらすぐに呼んでと私言ったけど、その通りにした?」
打って変わってあね様の金槌を金床に打ち付けるような声でイシュロッテと呼ばれた女はすぐに否む。「ごめんなさい。あね様。私も少し寝ていました。許してください」
「あなただから許すけど、私が長として示しがつかないわ。気を付けて」とあね様は妹に注意する。そしてイシュロッテが返事をする前にさらに続ける。「気分はどう? 少し川の水を飲んだようだったけど」
「ありがとうございます。気分はともかく体調は悪くないです」赤髪の少女は警戒を示すような中腰をやめて、しおらしく礼を言う。「お陰様で助かりました。どうお礼をすればいいか」
何かの長の女、あね様は控えめに首を振る。
「私に礼はいらないわ。あなたを助けたのは不滅公だし、あなたを驚かせて溺れさせたのも殿下。後で正式に謝罪なさるそうよ。そして、あなたを客人としてもてなすと殿下は仰っているわ。光栄に思いなさい」
「ええ、まあ、光栄に思います」
早く戻りたいが、この集団が何者たちなのかは知っておきたい。とはいえ記憶喪失な上に溺れ死にかけた少女は既に一つの確信を得ていた。救済機構ではなく、シシュミス教団でもなく、クヴラフワに侵入できる者たちは他にいない。
宴をしている者たちの格好がイシュロッテたちとは違うことにも気づいている。彼らは革鎧を身につけ、その上にまるで森を溶かしこんだような特殊な模様の衣を纏っている。それはライゼン大王国の伝統的な装いの一つだ。
赤髪の少女は戦士たちの宴の輪の外で、しかし似たような食事に与りながら、ずっとイシュロッテの姉、名を銀星を戴く者という女と雑談をしていた。していたが、どうしてかフシュネアルテは妙な距離を取っていた。妹イシュロッテはなぜか会話をしている二人の間に座っていて、しかし会話には参加しなかった。
フシュネアルテは妹を挟んで、記憶喪失の少女の寝かされていたものと同じような毛皮の敷物に座って話しかけてくる。「それじゃあ名前も思い出せないのね。私、記憶喪失の人って初めて。どんな気分なの?」
「さあ、比較ができないので分かりませんね。記憶喪失じゃない頃の記憶がないので」
「そりゃあそうよね。でも興味あるわ。私も魔法使いだから、特に記憶や魂に関しては。私たちが屍使いだって話はしたっけ?」
「いえ、記憶にないですね」
とはいえ大王国の兵士以外にもいくらかの魔法使いがいることと、そのそばに控える物言わぬ者たちの存在には気づいていた。
ベルニージュはライゼンの濃く味付けされた焼き鶏を薄めた酒精強化葡萄酒で流し込む。嫌いではない味だが気分ではなかった。
姉フシュネアルテは不思議そうに少女の赤い瞳を見つめる。「屍使いと聞いても驚いたり喚いたり罵ったりしないのね」
「それもそうですね。あるいはワタシも屍使いなのかも」
「それはないと思うけど、魔法使いではあるんじゃない? あなたの衣からは魔法の香りがする」
紅の瞳の少女は曖昧に頷く。自分が魔法使いだという確固した記憶はないが、魔法使いとして十分な知識と技を蓄えていることには気づいていた。
「屍使いの一族は散り散りになったと記憶してます。そう、まさにクヴラフワ衝突以後。どうしてこうして集まって、大王国の調査隊と一緒にいるんですか?」
「簡単な話よ。要するに仕事上の関係ね。私たちの屍を呪いの盾にして進んでいるの。なぜかこのモーブン領だかの呪いは消えてしまったけど」
普通は屍を呪いの盾などにはできない。生者を対象とする呪いが死者に向かってしまっては使い物にならないからだ。つまりフシュネアルテたちの屍は高度な魔術で生者に偽装しているということだろう。
宴が終わりを迎えると幾人かの夜番を除いてライゼンの戦士たちは寝始める。酔いに呑まれるように寝につく者もいれば、しっかりと一日を生き抜いたことに対する感謝を神に祈ってから床に就く者もいる。どうやら今は夜らしい。少なくとも彼らはそう見なしているようだ。
「にゃあああん! 待たせたな!」と甲高い素っ頓狂な奇声と共に三人のもとに飛び込んできたのは、まさに記憶なき少女が川に飛び込む原因となった大王国の王子、数多の戦場でどれほど不利な戦いであっても生き延びた不滅の男、今は亡き聖女アルメノンことリューデシアとレモニカの兄だ。顔に見覚えがあったのも当然だ。同じ血の流れを汲む容貌だ。
赤髪の少女が反射的に飛び退き、フシュネアルテもまた逃げるように距離を取った。ただ一人イシュロッテだけが微動だにしなかった。
「時にぃ、屍使いの長の妹君よぉ」赤ら顔の王子は妙に間延びした口調でイシュロッテに尋ねる。「もしやもしやぁ君の姉や客人の娘にぃ俺は嫌われているのかぁ?」
「ご安心ください、殿下」イシュロッテは淡々と答える。「嫌いだからといって誰もが飛び退くわけではありません」
「うむぅ。うぅん?」
イシュロッテの言葉に王子が頭を捻っている内に赤い瞳の少女は居住まいを正す。
「失礼いたしました。名高い方がいらっしゃって、突然のことに驚いてしまいました」と少女は慎ましく口を開く。「お初にお目にかかります。お目にかかることができて光栄です。申し訳もございませんが、記憶喪失につき名乗る名を持ち合わせておりません。どうかご容赦いただければ幸いです」
「よいよいよい。気にするなぁ。な? 俺も物忘れをよくする方だ。そうだろ? そうだったか?」王子は高笑いし、剣を掲げるかのように握りしめた杯を掲げる。「では俺から名乗ろう。我が名は閃光! 西方より来たりし万雷の如き兵どもを率い! 余人をもって代え難き栄光に満ちた覇道の先! 大王国の繁栄と安寧を約し、幾多の戦を越えて不滅の将、人呼んで不滅公なりぃ!」
それが最後の言葉だった。深い酔いは不滅公ラーガを夢の底へと突き落とした。