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「おはよう。」
「おはよ〜。」
「おはよ。」
 夏休み二日目。
今日はアルバイト初日。
昨日はちゃんと早く寝て、今日は若井もバイトがあるらしく、三人一緒に朝のアラームで目を覚ました。
 今日は両側に感じる温もりに、暑苦しいはずなのに、少しだけ口角が上がってしまう。
 
 
 「今日は二人が家に居ないから寂しいな〜。」
 涼ちゃんが冗談めかして言いながら、ぼくに絡みつく腕にほんの少し力を込める。
声は柔らかいのに、ぎゅっと抱きしめられると、その寂しさが冗談だけじゃない気がして。
 ぼくはくすっと笑って、涼ちゃんの手の甲をそっと撫でた。
 
 
 ・・・
 
 
 若井と洗面所の取り合いをしながら、顔を洗って支度を整える。
夏休み二日目の朝だというのに、なんだかいつもの登校前と変わらない騒がしさで、思わず笑ってしまった。
 
 
 「もー、押すなって!」
「元貴もうちょい詰めてよー。」
「もぅ、二人とも、歯ブラシ落とすよ〜。」
 そんな涼ちゃんの苦笑いを背中に受けつつ、なんとか洗面所を出ると、リビングにはもう朝ご飯が並んでいた。
 トーストに焦げたスクランブルエッグ、それからスープ。
いつもと変わらない光景なのに、今日はちょっと特別に感じる。
アルバイト初日という緊張と、二人と過ごす何気ない朝の温かさが入り混じる。
 
 
 「「「いただきまーすっ。」」」
 三人で声をそろえて手を合わせ、変わらない朝ご飯をゆっくり口に運んでいった。
 
 
 
 
 朝ごはんを食べ終えると、それぞれが手早く食器を片付けて、出発の準備に取りかかった。
 「じゃ、おれはそろそろ行くね。炎天下で外仕事とかマジで溶けそうー。」
「ファイト〜!熱中症にならないように水分ちゃんと摂ってね。」
「りょーかいっ。じゃ、いってきまーす!」
 元気よく手を振って玄関を出ていく若井の後ろ姿を見送りながら、ぼくもカバンを肩に掛ける。
中には、前に涼ちゃんが貸してくれたメモ帳と、小さな水筒。ちょっとしたことなのに、なんだかお守りみたいに心強かった。
 
 
 「じゃあ、ぼくも行ってくるね。」
「うん。気をつけてね、元貴。緊張したら深呼吸だよ。」
「…ありがとう。頑張ってくる!」
 涼ちゃんがそっと背中を押してくれる。
その温もりに励まされながら、ぼくは玄関のドアを開けた。
 外に一歩踏み出した瞬間、夏の日差しとムワッとした暑さに包まれる。
一気に吹き出した汗が、ぼくの夏休みの始まりを告げているようだった。
 
 
 ・・・
 
 
 「おはようございます…!今日からお世話になります、大森です。」
 まだCLOSEの札が下がっている扉をそっと開け、背を向けてカウンターで作業している人に緊張しながら声を掛けた。
 
 
 「おっ!もっくんやん〜。なにそんなかしこまって〜。」
 クルッと振り返ったのは、若井の先輩だった。
軽い調子で人懐っこい笑顔を向けられて、ぼくは思わずペコッと頭を下げる。
 
 
 「おかん〜!もっくん来たでぇ。」
 先輩が奥に声を掛けると、厨房からコックコート姿の女性が顔を出した。
 
 
 「あら〜、いらっしゃい!今日からお願いねぇ。」
「うわっ、余所行きの声出すなや。」
「うるさい!余計な事言わないの!」
 関西らしいテンポのいい掛け合いに、思わず吹き出してしまう。
でも、おかげで緊張で固まっていた胸の奥が、少しだけゆるんだ気がした。
 
 
 「ほら、アンタがしょーもないこと言うから、もっくんに笑われたやないの!」
「オレのせいにすんなや。」
 先輩のお母さんまで、自然に“もっくん”呼びで笑いかけてくれる。
その空気にタジタジになりながらも、仕事の内容を一通り教えてもらい、用意されていたエプロンを身につけた。
 メモを取りながら必死に話を追っていると、先輩に『真面目やな〜』と軽く笑われてしまった。
 
 
 最初の仕事は、ショーケースの中に並べるケーキの名前を覚えることだった。
ひとつひとつ丁寧に教えてもらいながら、ぼくは真剣にメモを取っていく。
 「これが苺のタルトで、こっちが季節限定の…」
「……すみません、もう一回いいですか?」
「ははっ、焦らんでええよ〜。毎日見てたら勝手に覚えるし。」
 そう言って先輩が肩をポンと叩く。
その軽さに少し救われながら、必死に頷いた。
 一通り準備が終わると、いよいよOPENの時間。
ガラスのドアに“OPEN”の札を掛けた瞬間、心臓が跳ねた。
 最初に入ってきたお客さんは、小さな子を連れたお母さん。
『いらっしゃいませ!』と声を張ったつもりが、裏返ってしまい、先輩に『めっちゃ気合い入ってるやん〜。』とからかわれる。
子どもがクスクス笑って、余計に顔が熱くなる。
ケーキを取り出す手も震えていて、チョコレートケーキを包む時にリボンを逆さに結んでしまった。
 
 
 「あー…これは、こっちやね。」
 先輩がさっと直してくれる横顔に『すみません…』と小声で謝る。
 
 
 「大丈夫大丈夫!最初はみんなそんなもんやって〜。」
 その言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
 昼前になるとお客さんの数も増えてきて、頭の中が真っ白になりそうになる。
でも、“いらっしゃいませ”“ありがとうございます”と繰り返すうちに、不思議と声も出やすくなっていた。
 
 
 そして、気づけば閉店準備の時間。
 
 
 「今日はよう頑張ったな〜。おつかれ!」
 先輩が笑顔で声を掛けてくれて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
 エプロンを外した時、全身から一気に力が抜ける。
 
 
 「…ふぅ、やっと終わった。」
 小さく呟いた声は、なんだか達成感で少し弾んでいた。
 帰り際、先輩のお母さんとシフトの相談をして、週に2、3日入らせてもらう事に決定した。
 
 
 「無理のない範囲でええからねぇ。夏休みの間は忙しいし、助かるわ〜。」
「はい!よろしくお願いします!」
 ぺこりと頭を下げると、背中にじんわり汗がにじんでいたけれど、不思議と重さはなかった。
むしろ、少し誇らしい気持ちで店を後にする。
 外に出れば、夕方の風が火照った身体を撫でていった。
朝と同じ暑さなのに、足取りは軽い。
 
 
 「…よし、帰ろ。」
 思わず声に出して呟く。
バイト初日の緊張と失敗、でもその先にあった温かい空気と優しい笑顔。
その全部が、これからの夏を少し特別にしてくれる気がした。
 
 
 ・・・
 
 
 「ただいまー!」
 ガチャリと玄関のドアを開けると、すぐにパタパタと足音が近づいてきた。
 
 
 「おかえり〜、元貴!」
「どうだった?初バイト!」
 涼ちゃんと若井が、まるで待ち構えていたかのように顔を出す。
二人の笑顔に迎えられた瞬間、胸の奥にじんわりと温かさが広がっていった。
 
 
 「…うん!緊張したけど、楽しかった!」
 そう答えると、若井が“良かったじゃん”とでも言いたげにぼくの背中をポンポンと叩き、涼ちゃんは『えらいえらい』と優しく頭を撫でてくれる。
 一日中張りつめていた緊張が、その温もりに触れた途端、すっと溶けていく気がした。
 
 
 「今日はお祝いにアイスでも買ってきとけばよかったね〜。」
「じゃあ明日一緒に買いに行こうよ。」
 そんな何気ない会話さえ、ぼくにはとても嬉しかった。
 
 
 
 
 テーブルの上には、涼ちゃんが作ってくれた野菜炒めとお味噌汁と、冷ややっこ。
それに若井がスーパーで買ってきたという唐揚げが加わって、なんだかちょっとしたご馳走みたいになっていた。
 
 
 「「「いただきまーす!」」」
 三人の声が重なり、箸が動き出す。
 
 
 「…ん〜っ!うまっ!」
 唐揚げを頬張った若井が満面の笑みを浮かべる。
 
 
 「美味しそうに食べるねぇ。」
 涼ちゃんが笑いながら冷ややっこを口に運ぶ。
 ぼくは一口味噌汁をすすると、じんわりと体に染みて、思わず小さく呟いた。
 
 
 「…なんか、落ち着くなぁ。」
「お、やっと?元貴、今日ずっと緊張してたもんね。」
 若井がニヤリと笑う。
 
 
 「う…バレてた?」
「そりゃあね。顔に書いてあったもん。」
「でも、ちゃんと最後まで頑張ってきたんでしょ?えらいえらい。」
 また頭をぽんと撫でられて、胸がじんと熱くなる。
頑張った自分を二人に認めてもらえることが、こんなに嬉しいなんて。
 
 
 「…へへっ。ありがとう。」
 そう口にすると、若井と涼ちゃんが一瞬顔を見合わせてから、同時に笑った。
その笑顔が、今日一日の疲れを全部消してくれるように感じられた。
 
 
 ・・・
 
 
 「ふぅー、お腹いっぱい〜。」
 若井が大の字でソファーに転がる。
 
 
 「こらこら、食べてすぐ寝転がったら太るよ〜。」
 涼ちゃんが笑いながら注意するけど、自分も同じソファーに腰掛けて、ほっと息をついていた。
 ぼくは二人の隙間にちょこんと座り、リモコンを手に適当にテレビをつける。
けれど、流れてくる映像よりも、両隣から感じる温もりの方が気になって仕方ない。
 
 
 「…元貴、眠そう。」
 涼ちゃんが覗き込むように顔を寄せてきて、ふわりと髪に触れる。
 
 
 「眠くないよ。」
 そう答えたけど、つい瞼が落ちそうになって、若井にくすっと笑われた。
 
 
 「こっちきな。」
「わあ…!」
 言いながら、若井がぼくの肩を引き寄せ、自分の胸に抱え込む。
 
 
 「いいなぁ、ずる〜い。」
 涼ちゃんは負けじと、反対側から、若井ごとぎゅっと抱きしめてきた。
 
 
 「…二人とも、構いすぎ。」
 頬が熱くなって、思わず目を逸らしたけど、耳まで赤くなっているのが自分でも分かる。
 
 
 「だって、可愛いんだもん。」
「そうそう!」
 二人に甘やかされるようにくっつかれて、胸の奥がじんわりと満たされていく。
外ではまだ蝉が鳴いていて、夏の夜は少し蒸し暑いはずなのに――ソファーの上の空気だけは、不思議と心地よくて。
 
 
 「ん〜…落ち着く。」
 若井の胸に寄りかかったまま、思わず呟く。
心臓の音が耳に届いて、それがなんだか心地よい子守唄みたいに感じた。
 
 
 「でしょ?おれの抱き心地、最高だからな。」
 得意げな声に、涼ちゃんが横から苦笑して首を振る。
 
 
 「自分で言う?」
 そう言いながら、涼ちゃんはぼくの頬にそっと触れて、親指で撫でてきた。
ふいに胸がきゅっとなって、視線を合わせられなくて、思わず目を伏せてしまった。
 
 
 「…ずるいよ、二人とも。」
 小さく拗ねたみたいに呟くと、若井が『ははっ』と笑って、さらに腕を強く回した。
 「ずるいのは元貴だろ。こうやって二人とも夢中にさせてんだから。」
「…そうだねぇ。ほんと、罪な子。」
 涼ちゃんが目を細めて、軽くキスを落とす。
額に触れる柔らかい感触に、体の奥からじわっと熱が広がった。
 テレビの音はもう耳に入らなくて、部屋の空気は甘さで満ちていく。
窓の外では夏の夜風が木々を揺らしているのに、ここだけ別の時間が流れているようだった。
 
 
 三人でくっついてソファに沈み込むと、なんでもない会話さえ特別みたいに響いてくる。
笑ったり、肩を寄せたり、ただそれだけで幸せで。
「…なんか、夏休みって感じするね。」
ふいにこぼれた言葉に、二人が同時にうなずいて笑った。
その笑顔を見てるだけで、ぼくの胸の奥は甘く満たされていった。