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日中の晴れ間が嘘のように急激に空模様が怪しくなり始めて暫く経った頃、今マンションの下に着いたからドアを開けてくれとリオンから連絡が入り、久しぶりに身につけたエプロンで手を拭きながらパネルを操作したウーヴェは、頃合いを見計らって玄関へと向かい、何となく理解できるタイミングでドアを開けると、寒さに震える顔でリオンがドアベルを鳴らそうとしていた。
「ハロ、オーヴェ」
「お疲れ。寒いだろう?早く入れ」
ドアを開け放ってリオンを招き入れ、寒いと身体を震わせたリオンが抱きついてきた為、苦笑しつつもその背中を撫でて寒さが早く和らげばいいと囁く。
「オーヴェ、腹減った」
「ああ、分かっている」
今日はお望みのスープとワインがあると笑いながらリオンの腰に腕を回せば、同じように腰に腕が回される。
彼にまだ告げていない過去の中でウーヴェが最も伝えることを躊躇う事実があるが、勘の良い恋人ならば覚えた疑問から真実に辿り着くかも知れなかった。
その危惧がウーヴェの口に蓋をしてしまいそうになるが、先日惨劇の起きた教会で過去を伝えた後や、この街に戻ってから交わした言葉の数々から、己の恋人ならば十分に信じることが出来ると心が傾き始めていた。
幼い頃からの付き合いのあるベルトランにさえも伝えられていないその事実にリオンならば辿り着く日が来るのだろうか。
長い廊下を歩きながらぼんやりと思案するウーヴェだが、そんな自分をじっと見つめるリオンの視線に気付くことはなく、キッチンに二人並んで入り、ある程度用意されているテーブルにリオンを案内する。
「わ、美味そう!」
「初めて作ったからな、どうだろうな」
電話でハンナにレシピを聞いただけだから、あの味が再現できているかどうかは分からないと自信の無さそうな事を言いながら冷やしておいたワインを取り出し、グラスを二つテーブルに置く。
「えーと、オーヴェ?」
「何だ?」
いつもの丸椅子に腰掛け、いつ食べられるのだろうと顔を輝かせるリオンの前に置いたグラスにワインを注いだウーヴェだが、上目遣いで見つめるように名を呼ばれて首を傾げ、どうしたと先を促せば、リオンが左手を高々と掲げて今日は俺のものだと宣言する。
「リオン?」
「俺の左手は今日は俺のものだからな?この間みたいに食べさせて貰うんじゃなくて、自分で食うからな?」
「・・・・・・・・・」
山麓の家で一夜を過ごした時、この左手はウーヴェのものだと宣言したが、今日は本来の持ち主である自分のものだと胸を張るリオンを眇めた目で見つめ返したウーヴェは、必要な時が来るまで厳重に管理するようにと顔を突き出しながら囁いてリオンを絶句させる。
「じゃあさ、もし怪我でもしたら・・・」
「俺は自分のものを壊されるのは大嫌いだからな、リーオ」
にっこりと、こんな脅迫じみた事でなければ舞い上がりそうなほどきれいな笑みを浮かべたウーヴェがリオンの頬に小さな音を立ててキスをし、もちろん大切に扱ってくれるだろう、俺の太陽と顎を撫でられてリオンの蒼い目が左右に泳ぐ。
「・・・オーヴェ、腹減ったから食おう!」
「どうぞ召し上がれ」
「ダンケ!」
話題を逸らすつもりはあったが、それでも腹の虫の要求に負けたリオンが慌ててスプーンを握りしめた為にウーヴェもくすりと笑みを浮かべ、スープが湯気を立てる鍋から取り分けてやれば、いっそ見事な食べっぷりを披露してくれる。
元気いっぱいの食欲ぶりにただ感心するウーヴェは、一口食べてはワインを飲んでと、つい食べることよりも飲むことに集中してしまい、あっという間にワインのボトルが空になってしまう。
「食わないのか?」
「・・・いや、お前の食べっぷりを見ているだけで腹が一杯になりそうだ」
「どういう意味だよ、それ」
ウーヴェの言葉にリオンの瞼が平らになるが、貶している訳でも馬鹿にしている訳でもない、ただ本当に感心するぐらい気持ちよく食べてくれるのが嬉しいと恋人が機嫌のボタンを掛け違える前にそっと修正し、唇の端に付いている食べ滓を指で拭き取ってやる。
「そっか?」
「ああ。だから気にせずに沢山食べればいい。お代わりならまだあるぞ?」
「んー・・・お代わり!」
ウーヴェに掌を向けられたリオンは暫く考え込むように視線を彷徨わせるが、やっぱり食の誘惑には勝てないのか、お代わりと空になった器を差し出してくる。
「デザートもあるがどうする?」
「いやっほぅ!」
何だか今日は幸せだと、人間が持つ本能の中でも上位を占める食欲を満たすそれらにリオンが歓喜の声を上げ、お代わりしたスープも勢いよく食べていく。
「リオン、話があると言っただろう?」
「ああ、うん。どうした?」
食べながら話すことではないかも知れないと断りを入れ、ウーヴェがリオンの横顔を見つめて口を開く。
「職場にいる人達で・・・事件のことに気付いた人はいるか?」
今まで誰にも知られることなくやって来たが、お前とヒンケル警部が気付いたように誰か他にも気付いた人はいるだろうかと、微かに震える声で問いかけ、リオンが返事をするまでの短い間も待てないのか、冷蔵庫から取り出したビールの瓶を開けて珍しくそのまま口を付ける。
「いや、誰もいねぇ。事件の話はボスの部屋でしていたから他には聞こえていない筈だし、資料を探せば分かるかも知れないけど、20年以上も昔のことを掘り返すヤツなんていないと思うぜ」
「・・・そうか」
それならばいいと深く溜息を吐いてテーブルに肘を突き、組んだ両手を額に押し当てるように顔を伏せる。
「どうした、オーヴェ?」
「・・・後で見て欲しい物がある」
リオンの顔を見て告げる強さはやはり無かったが、己が抱えた最大の秘密に繋がるものはやはりリオンには見て貰いたかった。
あの日、事件に巻き込まれるまでの己が疑うことなく信じて愛していた世界の一端を知って欲しいと願い、顔は伏せたままで視線だけでリオンを見れば、滅多に見ない真摯な表情で見つめられている事を知り、軽く目を瞠る。
「どんなものでも見てやるよ」
例えそれがもしまだ黙っている秘密であったとしても、己の職業からすれば見過ごすことの出来ないものであったとしても、見届けてやると断言されて震える瞼を閉ざす。
「ダンケ、リーオ」
「うん。だからそんな顔をするな」
頬を包まれて頷いたウーヴェは、デザートを食べてからリビングで心身共に温まるグリューワインを飲みながら話そうと提案されて素直にそれに従う事を示すように頷くのだった。
食事の時に見て欲しいと自ら告げたものの、やはり見せるべきかどうするべきか躊躇いを覚えてしまい、ベッドルームのデスクにある写真を片手に溜息を吐く。
手の中で満面の笑みを浮かべて兄に背負われている幼い自分だが、この写真から恋人は一体どれ程の情報を読み取るのだろうか。そして得た情報から真実に辿り着くのだろうか。
写真の己の顔を撫で、同じく笑みを浮かべて幼い自分を背負う兄と、そんな自分たちを見守る姉の顔を次いで撫でると、写真の端に二人揃ってベンチに腰掛けて微笑ましそうに子ども達を見守る両親の顔も撫でて意を決したように深呼吸を繰り返す。
デザートを食べて待っていてくれと言い残してここにやって来たが、そろそろ戻らなければ恋人が機嫌を損ねる可能性に思い至り、一つ溜息を零してベッドルームのドアを開ければ、真正面の壁に背中を預けて腕を組んでじっとドアを見つめていたらしいリオンを発見し、ドアノブを掴んだまま動きを止めてしまう。
「・・・リオン」
「遅いからお前の分までもう食っちまった。だから返せって言われても知りませーん」
「構わない」
戯けたように肩を竦める恋人に苦笑し、食べてくれて構わないと告げたウーヴェだが、そっと手を取られて首を傾げれば、陽気な声とは裏腹な真摯な光を湛えた双眸に見つめられてしまい、無言で先を促す。
「な、オーヴェ。さっきお前が言ってた事だけどな」
「・・・ああ」
ウーヴェの手の中で丸まった写真にちらりと視線を向けたリオンだが、それについては何も言わずにウーヴェの微かに揺れる碧の瞳をじっと見つめる。
「それはお前の本心か?」
「え・・・?」
愛おしむように手を撫でられ軽く握る形にされたかと思うと、写真を握っていた手も胸の前に持ち上げられて大きな手で包まれる。
「見せておかないと俺に嫌われるかも知れない、そんな風に思ってないか?」
なぁと、優しく答えを強請るように問われて絶句したウーヴェの前、包んだ手にまるで祈るように額を近付けたリオンが目を閉じてウーヴェの言葉を待つ。
どうしても伝えられない事実が胸の奥で渦を巻き、幼馴染みにすら伝えていないそれを話してしまえと嗾けてくるが、同じだけの力でそれを抑える声も響きだし、内なる声にきつく目を閉じた後、今自分が聞いていたいのはただ一人の声だけだと目の前の身体にしがみつくように腕を回す。
「そ・・・んな事は・・・ない・・・っ」
抱きついてくる恋人の背中を宥めるように撫でながらリオンが疑う事など考えもしない声で笑い、白っぽい髪に手を宛って顔を寄せる。
「ごめんな、オーヴェ。お前を信じてるって言ったばっかなのに、もうちょっと疑ったかも」
「お前は・・・悪くない・・・!」
だから謝るなと感情に邪魔されながらも何とか伝え、僅かに身を引いて鼻先が触れ合う距離に顔を寄せ、心の中で溢れる思いが嘘じゃない事を伝えるために唇をきれいな形に持ち上げる。
「うん・・・・・・じゃあさ、お前も俺を信じてくれよ」
さっきも言ったが、例えそれが己の職業観からすれば目を逸らせない事であったとしても総て受け止めると笑みを浮かべる頬を両手で挟み、唇に太い笑みを浮かべたリオンの瞳に映るウーヴェが小さく頷き、手にした写真をそっと握らせる。
「リビングに行こうぜ、オーヴェ」
廊下で立ち話なんて寒いと笑い、幼い子どもにするようにリオンに手を引かれて歩き出したウーヴェは、お気に入りのカウチソファに座らされてテーブルの上ですっかり冷めてしまったグリューワインのカップとその横で残念ながら溶けてしまったバニラアイスの器がそのままである事に気付いて目を瞠る。
「グリューワイン、温めるか?」
「・・・今は要らない」
「そっか」
ウーヴェと正対するようにソファに横向きに腰掛けたリオンが写真をそっと広げ、その写真から得られるものを見た目とは裏腹に優秀な頭脳に叩き込んでいく。
お互いが無意識に行う呼吸の音がやけに大きく響き、その中に鼓動を混ぜ込んだウーヴェが息苦しさを感じて咄嗟に手を伸ばし、今は預けているが自分のものであるリオンの左手を胸元に引き寄せてきつく目を閉じる。
それは意識して行った訳ではなく、目の前にあるものならば何にでも縋りたいとの思いからの行動だと、後ほど目元を赤くしてウーヴェが言い訳じみたことを口走る事になるのだが、そんな恋人の行動をリオンはただ黙って受け入れ、写真から感じ取ったことを脳内で彼なりに纏め上げていく。
その中でリオンが最も疑問に感じていたものへの解答が示された気がし、大きく溜息を吐いて右手で前髪を掻き上げ、まるで判決を下される前の被告のような顔色できつく目を閉じて己の手を抱え込むウーヴェの白っぽい髪に手を差し入れ、形の良い頭を撫でて抱き寄せるように腕を引くと、大人しく身体全体が付き従ってもたれ掛かってくる。
写真の中央で何も疑うことなど知らない顔で無邪気に笑う子どもと、そんな子どもを背負って楽しそうに笑う青年がいるが、その男は父親かと問われて首を振って否定され、端に写っているのが両親だと僅かな時間差を付けて返される。
「そっか・・・お兄さん達と仲が良かったんだな」
「ああ」
この写真から感じ取るのは家族仲の良さで、見ているだけでもそれが分かると苦笑したリオンは、付き合いだしてから断片的に聞いていた家族が不仲だとの言葉を思い出して一体何があったと呟くが、その原因がウーヴェの誘拐事件だと気付いて強烈な違和感を再度感じてしまう。
それは、あの山麓の村で刑事と話をしていた時にも感じたものだった。
これだけ仲の良さそうな家族の一人、しかも年がかなり離れている末っ子が誘拐されたのだ。親は半狂乱になっただろうし、兄と姉も必至になって探し心配しただろう。
その後、再会した時の家族の喜びはどれほどのものだっただろうか。
それを思えば家族の絆はより一層深まって当たり前の様に感じるのは己が家族を持たない人間で、家族像に多大な幻想を抱いているからだろうか。
上流階級ともなればまた違った家族の形があるのかも知れないとウーヴェの身体を抱き寄せながら思案し、ひとまず感じた違和感に理由をつけて納得してもう一度溜息を吐いて白っぽい髪を何度も撫でる。
「なぁ、オーヴェ。この写真の子ども、お前だよな」
写真の子どもの目尻にあるホクロと面影がウーヴェである事を教えてくれるが、一目で違いを教えてくれるものへと口を寄せてそっと問いかける。
「この髪、事件に巻き込まれてからこうなったのか?」
「・・・っ・・・ああ」
今のウーヴェを顕著に表すことの出来る髪を撫でキスをし、事件の後遺症かと問えば、短く息を飲んだ後に溜息がこぼれ落ち、遅れて言葉も落ちてくる。
「警察に保護されて市内の病院に運び込まれた後にな」
「あの村の病院じゃなくて?」
「ああ。誰が見ても普通じゃない事は分かったからな」
「そうか」
彼以外の人間が皆死亡するという最悪の結末を迎えた事件だが、生き残った彼も深い傷を負っている事は警官や救急隊員が見るまでもなく一目で分かる程だった。
目に見える傷の手当ては救急車の中で行われたが、隊員の呼びかけにウーヴェが答える事はなく、見開かれている目はただ車内の光景を映し出すだけのガラス玉の様だった。
彼の家族の主治医に連絡が飛び、市内の病院に搬送してくれという指示がなされ、昨日走ってきた道を運ばれて市内の病院に入院することになったのだった。
その経緯をウーヴェが語るにはやはり時間を要したが、その間リオンはじっとウーヴェの頭を抱き寄せて頬を軽く押し当て、微かに震える身体を抱き寄せていた。
「・・・家族が揃って駆けつけたが・・・誰が来たのか分からなかった」
「え?」
「家族と他人と・・・区別が付かなくなっていた」
医師の診察を終えてベッドに寝かされていた時、まず母と姉が病室にやって来たが、二人が母と姉である事が分からなかったと知らされ、さすがに絶句したリオンが顔を覗き込めば、頭髪の色と同化したような顔でウーヴェが意味の分からない笑みを浮かべる。
「見慣れているはずの家族と他人の区別が付かなかった」
己の心が感じていた乖離感と総ての人が初対面の人に見えた恐怖から身動きが出来なかったが、父と兄が医者を伴って病室にやってきた時、脳裏にかかっていた靄が一瞬にして晴れたように人の顔が理解出来た。
その言葉にリオンが黙って先を促すが、ウーヴェの表情から何かを察し、握られていた左手で逆にウーヴェの手をきつく握り、どうしたと問いかける。
「はっきりと覚えていないが・・・エリーが後で教えてくれた」
「うん」
「二人を見た時、ベッドから飛び降りて部屋の隅で・・・笑っていたそうだ」
「・・・っ!!」
病室の片隅で精神のたがが外れた事を示す笑い声を上げながら小さくなり、小さな手が血で染まるほど首を掻きむしっていたと告げられ、その姿を脳裏に描いたリオンが握った手だけではなく身体全体を抱き寄せ、痛かったなと過去の痛みを思い出しているだろうウーヴェを思って悔しさの混じった声で囁く。
「次の朝、エリーが来た時には髪の色はすでにこの色になっていたらしい」
翌朝、母と一緒に病院にやって来た姉が見たのは、一夜にして頭髪の総てが真っ白になり、無表情に天井を見つめて涙を流し続ける弟の姿だったそうだ。
「・・・あんな事を経験したんだ、身体に変化が出ても当たり前だ」
この白っぽい髪は生まれつきでも染色の結果でもなく、痛ましい事件の後遺症だったと教えられて目を閉じたリオンは、目の前の手触りの良い髪をただ何度も撫で続ける。
「退院してから髪を染めたが、3日と保たなかった」
どんな理由からかは分からないが、以前の髪の色にどれだけ染めたとしても3日もするとこの色になってしまっていたと自嘲し、それ以来髪を染めることは諦めたと肩を竦められて小さく頷く。
「・・・その後のことはあまり覚えていない」
気が付けばやっと戻ってくることの出来た自分の部屋のベッドで寝かされていて、決まった時間になれば姉と母が様子を見に来てくれるようになっていたが、その母と姉と話が出来るようになったのは一年ほど経った頃だったと教えられ、刑事が事件後の聴取も出来なかった本当の理由を知らされる。
家族ですらろくに会話も出来ない状態になっていたのならば、そんな精神状態に追い込んだ事件の話など出来るはずもなかっただろう。
おまけに事件に関わった人間は彼以外死んでしまっているのだ。彼の周囲の声から事件像を作り上げていくしか無かった警察の悔しさも理解出来た。
また己の家族を守るために彼の父が持てる力をフルに使ってマスコミなどにも報道の自粛を求めたのかも知れないし、そうしたことは安易に想像出来る事だった。
そしてその結果、事件は人々の記憶の中に埋もれていき、ウーヴェがその事件で唯一の生存者である記憶も薄れていったのだ。
そう結論付けたリオンがウーヴェのこめかみに口付け、本当に痛い目にあったなと囁いて肩を撫でれば、もたれ掛かってくる痩身が僅かに重みを増す。
「前にどうして襟の高い服ばかりを着ると聞いていたな?」
「ああ、うん・・・首の痣が原因か?」
「ああ。痣が薄くなりだしたのも事件から一年以上経ってからだ」
事件の最中ずっと巻かれていた首輪の跡と首を絞められた時の指の跡は一年もの間身体に残っていたが、人目に触れることで彼が新たな傷を負わないようにとの配慮からいつもそれが覆い隠されていて、それ以来首を隠す服ばかりを着るようになったとも教えられて頷けば、事件の夢を見たり過去を彷彿とさせるような出来事に遭遇してしまえば痣が浮かび上がると言いながら襟元を広げられ、やはり今も浮き出ている指の跡と幅広の痣にそっと手の甲を宛う。
「これ、しばらくは消えないのか?」
「多分な」
「・・・こんな痣、早く消えてしまえば良いのになぁ」
ただウーヴェを思う気持ちから優しい声と手に痣を撫でられ、あの教会でも告げたが、お前はもう許されても良い、事件から解き放たれるべきだとも言われて目を伏せれば、何やら考え込んだような気配が伝わってきて、どうしたと問えば満面の笑みを浮かべたままそっと首を右からぐるりと手の甲で撫でられる。
「俺といる時にはほとんど見えなかったからすぐに消えるな、うん」
「・・・その自信は何処から出てくるんだ?」
本人ですらいつこの痣が消えるのかはっきり把握していないと言うのに、どうして分かると日頃の冷静さを若干取り戻した顔でウーヴェが問えば、腕組みこそしないものの思案中であることを示すように上空を斜めに見つめた後、見慣れているはずのウーヴェも息を飲んでしまうような表情を浮かべて真っ直ぐに見つめられる。
「お前に愛されてるから、俺。だから俺といる時はあまり痣が出て来なかったんだぜ」
だから自信があると胸を張られてぽかんと口を開けそうになったウーヴェにリオンが片目を閉じてその回答で満足かと問いかける。
「─────うん」
「・・・そろそろ夜も寒くなるしなぁ。ネックウォーマーでも買いに行こうぜ」
見惚れてしまう笑みをいつものものへと切り替えながらもウーヴェに対する思いは一切変えないリオンが、次の休みに隠す為ではなく首を暖めてくれるものを買いに行こうと誘い、それにただ大人しくウーヴェが頷けば、次の休暇の予定は決まったから取り敢えず今は身体を温めるグリューワインを温め直そうとひょいと肩を竦められる。
「・・・要らない」
「へ?」
己のものだと宣言した左手を再度握ってその甲の感触を頬で確かめるように顔を寄せて目を閉じる。
夢を見た時や過去を彷彿とさせるものを見ただけで浮かび上がる喉の痣だが、確かにリオンが言うとおり二人きりでいる時はあまり痣が出て来たことはなかった。
今までその理由を深く考えることはなかったが、もしかすると己は意識するよりももっとリオンの事を信じて心を許していたのかも知れない。
心の奥底でひっそりとしていてやっと気付くことの出来たそれに内心で詫び、リオンの顔を真正面から見つめるように顔を上げたウーヴェは、今は何も要らない、お前がいるとだけ答えて再度目を閉じる。
「オーヴェ・・・」
このある種の奇跡のような存在が傍にいるからこそ、過去を話しても心穏やかにいられるんだと、瞼の裏に真夏に咲く花の様な笑みを浮かべながらありがとうと告げ、あの夜とは違った思いを込めてどうかこのままでいてくれとひっそりと祈るように囁けば、左手を掴む手が温もりに包まれる。
静かに目を開けて再度恋人の顔を見つめれば、いつもは陽気な声が流れ出す唇が本当に微かに震えていて、無言でそっとその頬に掌を宛えば、低い低い真摯な声が流れ出す。
「─────ウーヴェ」
「・・・な、んだ・・・?」
随分と久しぶりに呼ばれた気がする己の名前に息を飲んで次の言葉を待てば、蒼い目が色を深くして真っ直ぐに見つめてきた為にさすがに直視出来ずに視線を下げてしまうと、ウーヴェを思う気持ちだけが溢れる声が言葉を届けてくれる。
「お前は本当に、強い男だ」
手を組んでと頼まれて言われたとおりにすれば、この世に一つしかない宝のようにそっと包まれ、まるで祈るように顔を寄せられる。
ここ数日の間に何度も目にしたその姿に息を飲み、伝わる思いがあることにも気付いたウーヴェは、顔を伏せるリオンの頭に口付けるように顔を寄せてありがとうと何度目になるか分からない感謝の言葉を伝え、無言で頭が小さく上下するのを見つめる。
「ずっとずっと・・・一人で抱え込んでたんだよな」
写真から伝わる家族の仲の良さ、今まで断片的とはいえ教えられてきたその家族との不仲、そして特に兄を激しく憎んでさえいるような貌を見せていた時、その心の中ではどれだけの苦痛が生まれていたのか。
想像するだけでも気が狂いそうだとも告げられ、あの教会でも伝えたが、よく生きることを選んでくれたと再度感謝の思いを告げた後、ゆっくりと顔を上げて細めた青い目で見つめられて息を飲む。
「お前の荷物、俺が引き受けた。もうお前は独りじゃない」
これからは何があったとしても、俺が傍にいてお前を守る。
去年のクリスマスの夜に告げられたものよりも、また昨夜の誓いよりももっとずしりと心と体に響く言葉の重みに負けたように頭が上下してしまう。
事件の現場となった教会でいつも願っていた思い、それを囁かれて知らず知らずのうちに身体が震えてしまうが、そんなウーヴェの背中に腕を回したリオンは、事件の後遺症で白くなった髪に口を寄せて浅い呼吸を繰り返して目を閉じる。
どうかもう、この優しい彼が過去の声に苦しむことがありませんように。
それが叶わないのであれば、その苦しみが最小のものでありますように。
胸に芽生えた思いを小さな声に載せて祈りの相手に伝えた時、背中に腕が回った事に気付き、何も要らないのならベッドで寝ようとその背中を何度も撫でてやると、従うように頭が小さく上下する。
どれだけ辛い過去があろうとも、お前が生を選んでくれたから自分たちは出逢い、そして今こうして互いを抱いていられるんだと、言い表せない感謝の思いを込めてリオンだけが呼べる名を呼べば、そっと身体が離れてやや俯き加減になりながらも貌を見せてくれる。
「オーヴェ」
「・・・うん」
お前の言うとおりだと小さな小さな返事の後、そっと顔を上げたウーヴェが雨上がりの夜空の様な透明な笑みを浮かべて見つめれば、その笑顔を間近で見たリオンが此方は真夏の空を思わせる突き抜けたような笑みを浮かべ、もう一度恋人を抱き寄せる。
「オーヴェ、好き」
もうお前がいない人生なんて考えられない、だから頼む、この間のように黙ったまま出て行ってしまう事だけは止めてくれと、リオンが胸の奥に抱え込んでいて漸く告げることの出来た思いを頬を寄せた顔に囁きかければ、許しを請うように肩を撫でられて頷いて立ち上がり、互いの腰に腕を回したままベッドルームへと向かうのだった。