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「それでは、次の土曜日と日曜日はブライダルフェアの役割をきちんと見ておくように。では今日も一日頼むよ」
主任のその言葉で朝礼は終わり、麻耶も席に戻った。
「麻耶ちゃん、お嫁ちゃん役、回ってきたのね」
クスクス笑いながら手元の紙を見ていた美樹が言うと、麻耶はため息をついた。
「ハイ、回ってきちゃいました」
「何だよ、水崎。嫌なのか?」
2つ上の新規営業、河野雅也の声に麻耶は顔を上げた。
「いやですよ。なんか見世物みたいでドキドキします」
ふてくされたように言った麻耶に、
「俺は新郎役のとき、どれだけ目立ってやろうって考えてるけどな」
胸元のネクタイを手で触りながら言った河野の言葉に、美樹も笑った。
「そうよ。麻耶ちゃんは身長も高いし可愛いんだから、堂々とやればいいじゃない」
「美樹さんみたいに綺麗なら私だって……。なので、今日16時にドレスサロンにフィッティング行ってきますね」
「了解よ」
美樹はニコリと笑って麻耶に返事をすると、自分の席に戻っていった。
麻耶は打ち合わせや事務仕事をこなし、時間になったためドレスショップへ向かうため館内を歩いていた。
まだ寒い時期だが、日差しが降り注ぎ、気持ちのいい陽射しに麻耶も目を細めて空を仰いだ。
平日ということもあり、穏やかな空気が漂っており、ときおり工事の音が響いていた。
(もうすぐだな……)
バンケットの工事も最終段階に入っており、庭園のプールの水入れも始まっていた。
ドレスサロンは、少し離れた白を基調とした可愛らしい建物で、たくさんの綺麗なドレスが外からも見える。
ヨーロッパの小さな郊外のショップという佇まいだ。
(本当の結婚式ならウキウキして選ぶんだろうな……。振られたばかりの私には辛いだけだけどね)
自嘲気味な笑いを浮かべながら歩いていると、前から芳也と始が歩いてくるのが見えた。
(今日は秘書さん、一緒じゃないんだ)
そんなことを思いながら、前から歩いてくる二人を見ていた。
傍から見ても、整いすぎた二人はどこかの雑誌の撮影のように見えて、麻耶はドキンと胸が音を立てた。
緑の木々と、後ろにそびえるチャペルの十字架。その前にはかっこいい男。
(うん! 目の保養をした! がんばらないとね。仕事なんだし)
そんなことをぼんやりと考えて現実逃避していると、目の前にドンと壁ができて、麻耶は顔をしかめた。
「おい」
上から降る低い声に、「しまった!」と思った時にはもう遅かった。
「すみません……ぼんやりしてて」
じっと芳也を見上げながら言った麻耶に、ため息をついて芳也は麻耶を見た。
「どこに行くんですか? 水崎さん」
そんなふたりの緊迫した雰囲気を壊すように言われた言葉に、麻耶は安堵して始を見た。
「今週のフェアのドレスの試着をしに……」
「ああ、今週の花嫁役は水崎さんなんですね」
「はい……」
俯きながら答えた麻耶に、
「ああ、模擬挙式か……それは……」
芳也も麻耶が俯いた理由を理解したようで、言葉を濁した。
「社長?」
その言葉の意味がわからない始は、芳也を見た。
「まあ、嫁入り前にウェディングドレスを着ると婚期が遅くなるって言うしな……」
ニヤリと笑って言った芳也に、
「社長!!」
ブラックな芳也を見て、「社員に何を言っているんだ!」と言わんばかりに始は声を荒げた。
しかし、そんな芳也に何か言い返すこともなく、「そうですよね……」とだけ言った麻耶を、始は驚いて見た。
芳也としては、麻耶がまた怒るところを見たかっただけだったが、麻耶がギュッと唇を噛んだのを見て慌てていた。
「おい!」
「はい……」
麻耶はゆっくりと顔を上げて、芳也を見上げた。
その少し悲し気な瞳に、今度は芳也が唇を噛んだ。
芳也は少し考えたが、良い言葉が浮かばず、じっと麻耶を見た後、大きく息を吐いて麻耶の耳元に顔を寄せ、小さく呟いた。
「悪かった。今日の夜はカレーが食べたい」
ぼそりと、この場で訳の分からないことを言った芳也に、麻耶は驚いて目を丸くした。
じっと芳也を見ると、麻耶の顔色を見るように、芳也はチラチラと不安げに視線を送っていた。
きっと、言ってしまったことを後悔してるんだろう――。
そう思った麻耶は、そんな芳也がなぜか可愛く思えて、
「大丈夫です。私こそすみません。それと、さっきの件は了解です」
微笑んだ麻耶に、芳也はホッとしたように胸をなでおろした。
「おい、芳也。今のなんだ?」
つい素で話していたことすら気づいていない始の訝しげな表情に、芳也は何食わぬ顔で、特に答えなかった。
「どこで水崎さんと知り合ったんだ?」
さらに追及の手を休めない始に、芳也は「別に」とだけ答えた。
「まあ、いいけど。お前が誰かに素で女と関わるところを、久しぶりに見れたからな」
くすりと笑った始に、芳也は大きくため息をついた。
ガチャリという音がして、芳也が帰ってきたことが分かった。
その音とともに、麻耶はチラッとリビングから顔を出して芳也を見た。
「……お帰り……なさい」
「ただいま。なんだよ? そのこっそりとした感じは」
ジャケットを脱ぎながら入ってきた芳也の声に、麻耶は恥ずかしそうに目を伏せた。
「だって……いつもは夜はあまり会わないから、なんか恥ずかしいし、社長が“俺のことは放置しろ”って言ったし……」
ブツブツと言った麻耶の言葉に、芳也はクックッと肩を揺らすと、
「今日はカレーを頼んであっただろ? 着替えてくる」
そう言って、自分の部屋へと消えていった。
「社長? 先にご飯の用意をしていいですか? それともお風呂ですか?」
芳也の部屋の前で、麻耶は声を掛けた。
「ああ、ありがとう。先に食事にして」
その返事を聞くと、麻耶はキッチンに向かいカレーを温め、サラダと、昨日真野が作り置きしてくれていたジャーマンポテトをテーブルに出した。
今日のサラダは、さっぱりとしたレモンを利かせたドレッシングの温野菜サラダ。
カレーも、たくさんの野菜を入れた牛肉のカレーだ。
(我ながら美味しそうにできたぞ)
美味しそうな匂いのカレーを満足げに見ていると、上下スウェットに着替えた芳也がゆっくりとリビングに入ってきた。
「水崎」
「はい?」
クルクルとお玉でカレーをかき回しながら、麻耶は芳也を見上げた。
「今日は、悪かったな」
「え?」
急に謝られたことに戸惑い、麻耶はぽかんとして聞き返した。
「昼間の言葉」
そのセリフに、ようやく謝罪の意味を悟り、麻耶は曖昧に微笑んだ。
「私こそすみません。ちょうど、なんとなく“こんな時にドレスか……”って思いながら歩いてたところだったので。つい、しんみりしちゃって」
「そうか」
特に何も言わず、芳也はダイニングテーブルに座ろうとして、ふと動きを止めた。
「少し飲むか?」
少し悩んだ麻耶は、「少しだけ」と答えると、お皿にご飯とカレーを盛りつけた。
「まあ、お前、少ししか飲めないもんな……」
そんなことを呟きながら、芳也は自分のグラスにビールを注ぎ、麻耶にはまたシャンディガフを作ってテーブルに置いた。
「それ、こないだ美味しかったです」
麻耶も皿を並べながら、きらきらと光るグラスを眺めた。
「そうか。まあ、ほとんどジンジャーエールだけどな。少しだけ酒の気分も味わえるだろ?」
くすくす笑いながら言った芳也を、麻耶はじっと見た後、芳也の前の席に座った。
「社長、ありがとうございます」
いきなりぺこりと頭を下げられて、芳也は驚いた顔で麻耶を見た。
「なんだよ、いきなり。どうしたんだよ?」
「いや……。初めは“この悪魔!”とか思ってたんです……」
「おい、悪魔って……」
「だから、思ってたんですけど、家もなくなった私を置いてもらって、こんなに良くしてもらって……本当に感謝しかありません。
社長の下心は分かりませんが、なんなりとできることは言ってください」
少し前のめりになって言った麻耶の額を、芳也はそっと指で押すと、
「だから“下心”って……なんだよ? お前に下心なんてもってないよ」
「そんなはっきり言わなくても……どうせ色気なんてないですよ」
ぷっと頬を膨らませた麻耶を見て、芳也はクッと肩を揺らした。
「いただきます」
そう言って芳也はビールを一口飲むと、
「お前、色気がないこと気にしてるの?」
「そりゃ……この童顔ですし、それなりの年ですし……。仕事柄、幼く見えるよりは……」
そう答えると、麻耶も手を合わせて「いただきます」と言い、サラダに手を付けた。
「おっ、このドレッシング、美味い。それで、お前いくつなの?」
「25です」
「え?」
その芳也の反応に、麻耶はジロッと鋭く芳也を見た。
「その反応、どう思ってたんですか?」
「いや……そうだよな。あそこに配属になるぐらいだし、それなりに経験あるよな……」
その言葉に麻耶は小さく息を吐いた。
「やっぱりもっと年下だと思ってたんですよね」
「老けて見られるよりはいいだろ?」
「そんなフォローはいいですよ」
麻耶もグラスを手に取ると、半分ぐらい一気に飲み干した。少し気まずくなり芳也は話を変えた。
「そういえば、パイプオルガン弾けるんだな」
芳也は初めて会った日のことを思い出して、麻耶を見た。
「本当に簡単な曲ですけどね。弾いて見せるのと、見せないのでは全然お客様の印象が違いますから。あのチャペルは本当に音の響きも最高ですし、ぜひ聞いてほしくて」
目を輝かせながら言う麻耶に、芳也は少し照れたような表情を見せた。
「そこまで言ってもらえると嬉しいな」
呟くように言った芳也に、麻耶もなぜか恥ずかしくなり無言でカレーを口に入れた。
「社長がこだわったって聞きました。でも……本当にあのチャペルは好きです。いろんなチャペル見てきましたけど、あの大聖堂の長いバージンロード歩くとドキドキするんだろうな……そんなこと思いながら接客してますよ」
ニコリと笑って言った麻耶に、
「ああ。ヨーロッパに視察に行った時のチャペルの結婚式が忘れられなくて。どうしても良いものが作りたかった」
真面目な顔で語る芳也は、本当にこの仕事を大切に真摯に取り組んでいることを麻耶は感じた。