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湊 の顔を見上げた菜月の瞳には力強い光が宿っていた。それは決意、賢治と決別するという意思の表れだった。
「・・・・菜月?」
菜月は頬に残る涙の跡を手で拭うとソファから立ち上がりキッチンへと向かった。ケトルに注ぎ入れる水がこれまでの後悔した日々をシンクの中へと流した。
「湊 ちょっと待ってて、お茶淹いれるから」
「ありがとう」
「紅茶で良い?」
「うん、紅茶が良いな」
菜月はティーカップとソーサーを準備しながら 湊 を向く事なく呟いた。
「私、賢治さんが初めての人だったの」
「・・・・うん」
「もう終わった事だけれど、賢治さんが不倫をする様な人だって見抜けなかった自分が嫌」
「仕方がないよ、お見合いだったんだから」
ケトルから激しく湯気が立ち昇り蓋がカタカタと揺れた。
「私、湊 が良かったな」
「・・・・え」
「湊 と・・・」
※民法734条1項ただし書き
「ただし、養子と養方の傍系血族との間ではこの限りではない」
湊は民法734条1項のただし書きを目にした瞬間、十四年間、蓋をしていた菜月への恋情が溢れ出した。
例外的に連れ子同士の婚姻は民法上何の問題なく認められていた。幼い日の思い出は今も心の中に残り、菜月と 湊 は特別な感情で繋がっていた。
菜月の縁談が流れる度に、 湊 は郷士に民法734条1項のただし書きの件を話し菜月との婚姻を申し出ようと何度も口を開き掛けた。その度に、母親は湊の稚拙な行動を見透かして咎めるような目で「やめなさい、駄目よ」と首を横に振った。
今回の四島工業賢治と菜月の婚姻は郷士が強く望んでおり、湊も ゆき もこれまで世話になった郷士に逆らうような真似は出来なかった。
(・・・・賢治さんが不倫をしているのならば僕は)
そこでテーブルの上にティーカップが置かれた。芳醇なアールグレイの香りが漂った。
「どうぞ」
「ありがとう」
菜月は自然な動きで 湊 の隣に座った。その横顔は美しく、絹糸の巻毛が光に透けて見えた。
「菜月」
「なに?」
「賢治さんの事はもう決めたの?」
「なんでそう思うの?」
「顔付きが、上手く言えないけれど泣いていた時と顔付きが違うよ」
ティーカップを口に付け、大きな溜め息を吐いた菜月は 湊 の顔を凝視した。
「離婚します」
「・・・・え」
「私、賢治さんと離婚します」
「決めたの?」
「うん、たった一年の結婚生活で不倫する様な人と一緒に暮らす自信がないわ。人生の無駄遣いよ」
「決めたんだね」
「うん」
菜月は大きく頷うなずいた。
「それじゃ、僕も手伝うよ」
「手伝うって何を?」
「このまま離婚届に印鑑を捺して”はい、おしまい”で良いの?」
「それは、なんだか悔しいかもしれない」
「復讐しよう」
「どんな風に?まさか暴力じゃないわよね?」
「賢治さんと如月倫子の不倫を晒さらしてやろう」
「誰に?」
「父や母、如月倫子に家庭があるのならばそれも壊してやる」
「やる気満々ね」
「四島工業にもそれ相応の後始末をして貰おう」
湊は紅茶を一気に飲み干すと菜月にゴミ袋を持って来て欲しいと頼んだ。何をするのかと不思議に思い見ていると口紅を小包の中に戻し、如月倫子の臭いが染み付いたネクタイとスーツジャケットと同窓会のハガキをゴミ袋に放り込むと袋の口を思い切り縛った。
「さぁ、行くよ」
「どこに行くの?」
「綾野の家だよ、不倫の証拠を秘密の場所に隠しに行くんだ」
「あっ!分かった!」
「そうだよ、僕たちがよくかくれんぼした奥座敷の押し入れだよ」
湊は車の鍵を握った。
「湊、見て」
「ん?芸術村がどうしたの?」
市民芸術村とは昭和初期の赤レンガ倉庫をリノベーションした市民の憩いの場で、音楽祭や演劇が催されるこぢんまりとした劇場も併設されている。また、夏の花火大会で観覧席が設けられる規模の芝生の広場もあった。
「あの場所でウェディングスナップを撮ったの」
「そうだね。菜月のウェディングドレス姿、綺麗だった」
「ありがとう」
「本当に綺麗だったよ」
菜月と賢治はこの市民芸術村でウェディングスナップを撮っていた。突き抜ける青空、緑の芝生、赤いレンガ、その笑顔は眩しかった。
「私、幸せになれると思っていたの」
「うん」
「思っていたの」
信号機が黄色から赤色にかわった。菜月はサイドウィンドゥを下ろして川面を駆け上がる風を大きく吸い込んだ。河川敷にはボールを追いかける幼い子どもと母親の姿があった。
「幸せになれると思っていたのよ」
菜月が思い描いていた結婚生活は音を立てて崩れ始めた。
黒い瓦の総檜造りの和風家屋。母屋の離れには鹿おどしが響き、白に朱色の錦鯉が揺らぐ瓢箪池、辰巳石の門構え、赤松の枝が曲がりくねり空を目指し針葉樹の陰を作る。深緑のヤツデ、密やかな刈安色の石蕗、珊瑚色の石楠花しゃくなげ、白い灯台躑躅どうだんつつじの垣根、前庭には青々とした芝生が広がる。
その敷地内には綾野建設株式会社のガラス張りの社屋が建ち、湊 と賢治はそこで働いていた。ガレージには賢治の黒いアルファードが駐車していた。今日は真面目に勤務しているらしい。菜月と 湊 はその車を見ただけで眉を顰しかめた。
「落ち着こう」
「うん」
「みんなが心配するから」
「うん」
母屋の玄関扉を開けると「あら、あら、あら、あら」と家政婦の多摩たまさんが慌てて出て来た。
「菜月さん、お帰りなさいませ」
「あら、湊 さん。ゴミですか?捨てておきましょうか?」
「良いんだよ、これは大事な物だからね」
「そうなんですか?」
多摩さんは不思議そうな顔をしたが割烹着かっぽうぎの裾で手を拭きながら菜月に向き直った。
「菜月さん、今夜はお夕飯食べて行かれますか?」
「あ、頂こうかな」
「南瓜かぼちゃと小豆のいとこ煮ですよ」
「わぁ、楽しみ!」
菜月は精一杯明るい笑顔を作った。
「菜月」
「あ、うん。多摩さんまたあとでね」
「はい、はい、はい、はい」
菜月は 湊 に連れ立ち座敷の奥の和室へと向かった。今は誰も使わないこの部屋は埃臭くくしゃみが出た。菜月は窓を開けて換気し、湊 は押し入れを開けた。押し入れの中には大小の段ボール箱が入っていたが奥にまだ余裕があった。
(入りそうだな)
ゴミ袋を手に段ボール箱を退けると丸い缶があった。
「あ、それ!」
「懐かしい物が出て来たね」
湊 が手を伸ばし取り出すと、それは埃まみれで蓋が錆びついたクッキーの空き缶だった。菜月は缶に描かれたクッキーの模様を眺めると懐かしそうに笑った。
「これ、お父さんがお土産に買って来てくれたクッキーだね」
「美味しかったよね」
「うん」
ところが、菜月が蓋を開けようと試みたが錆びついてそれはびくともしなかった。「貸してごらん」と湊が手に力を入れると蓋は呆気なく開き畳の上に落ちた。中にはキャラクターの便箋が一枚入っていた。
「懐かしい」
「うん」
菜月が開いた便箋には鉛筆で書かれたメッセージがあった。菜月と湊は顔を見合わせ笑顔になった。
*なつきとけっこんできますように
*湊のお嫁さんになれますように
幼い頃の思い出が二人の間に溢れ出し、湊 は菜月を抱き締め、菜月はその背中に腕を回していた。
「菜月、僕が菜月を守るから」
「うん」
「僕が菜月を幸せにするから」
「うん」
カコーーーン
鹿威ししおどししの音が灯台躑躅どうだんつつじの庭に響いた。