1236年9月。リヴォニアの地では、長い雨が大地を打っていた。雨に打たれた森の木々は鬱蒼と影を落とし、湿り気を帯びた空気が重く澱んでいた。
リヴォニア帯剣騎士団は、自らの内に滾る血の熱さと外界の冷たさとの乖離に、苛立ちを覚えていた。彼は、この地の征服者として”傲慢“を全身に纏い、その瞳は、神の代理人としての狂信的な輝きを放っている。騎士団長の指揮の下、騎士団は南へと進軍していた。その目的は、頑迷な異教徒であるサモギティア人を討伐し、彼らの地を奪い、遠く離れたプロイセンの地で勢力を拡大するドイツ騎士団との領土的な連結を図ることであった。これは、騎士団の存在を盤石なものにするための、戦略上の渇望でもあった。
この遠征には、プルコフ公の支援を得た兵と、さらに、デンマーク王国から派遣されたホルシュタイン十字軍といった大規模な部隊が加わっていた―残念ながら、リヴォニア帯剣騎士団自身は、派遣を許してくれらデンマーク王国も、ホルシュタインも謁見すること叶わなかった―。騎士団は、その連携力を誇示するように、一部の兵を南下させ、いくつかの村と集落を襲撃した。彼等が征服の証として残したものは、焼け焦げた木炭と、血の臭いだけであった。
しかし、北方への撤退途中、彼らの進む道は、雨によって泥濘としていた。重装甲の騎士たち、特に馬の蹄が、ぬかるんだ土に深くめり込み、歩みを進める度に、忌まわしい水音を立てた。馬の呼吸は荒く、その巨体が泥に抗えば騎士団の進軍速度は鈍り、騎士たちの間に、薄い不安の膜が広がる。
この劣悪な状況下で、彼等は浅瀬でバルト海沿岸のシェム人と、リトアニア大公国の部隊に遭遇し、抵抗を受けた。団長も、リヴォニア帯剣騎士団自身も、泥の中で戦うことを強いられる状況に、苛立ちを隠せない。
「馬鹿げた道だ。まるで、この大地そのものが我々の進軍を拒んでいるようだ」
一人の古参騎士が、馬上で呟いた。その声は、湿った空気の中で、すぐに消え失せた。
さらに、ホルシュタインの兵士たちは、沼地で大切な馬を失うことを恐れ、徒歩での戦闘を頑なに拒否した。彼等は、リヴォニア騎士団とは異なり、異国の兵士たち。慣れぬ土地で、しかも不安定な土壌での戦闘に抵抗があったのだろう。騎士団の中には、ホルシュタインの兵士たちに同情する者もいれば、臆病だと呆れ返る者もいた。そうした感情の違いは、次第に軍全体の士気を落とす。
リヴォニア帯剣騎士団は、騎士たちのばらついた感情への苛立ちに、舌打ちをする。まとまらない騎士たちの意志への不満、同情する者,呆れる者への共感。騎士たちのばらつきは、士気の低下のみならず、リヴォニア帯剣騎士団自身の感情を複雑化させていた。
戦うこと、あるいは無理に進軍することを諦めざるを得なくなった団長は、やむなく、その夜を過ごすための野営を設営せざるを得なかった。それは、彼等の優勢が一瞬にして崩れ去ったことを意味した。
「臆するな。我等は誇り高き剣の兄弟。異教徒どもは、泥に堕ち、十字架の光を見ることもなく、永い眠りにつく運命なのだ」
リヴォニア帯剣騎士団は、己の激情で、周囲の不安を押し殺そうとしていた。彼の心は、騎士たちの心。己を鼓舞し、勝利を口に出せば、おのずと騎士たちの憂慮は拭えるだろう。そう、彼は念じていた。
しかし、泥の冷たさは、彼の熱を奪い続けた。遠征は、彼等が当初思い描いていたような、輝かしい勝利の行進とは、かけ離れたものになっていた。野営の周囲に漂う湿った空気は、翌日の悲劇的な運命を予感させる、重い沈黙に満ちていた。
9月22日。木々の密集した不吉な場所に、騎士団の野営地はあった。夜明け前から降り続いていた雨が、ようやく止んだ。大地は、昨夜の雨水を吸い込み、まるで生き物のように湿っていた。
騎士団は、リガへの帰路を急ぎ、身支度をしたばかりであった。その時、森の奥から、乾いた風に乗り、不気味な囁きが聞こえてきた。それは、サモギティア人と、彼等を支援するリトアニア大公国の軽装騎兵たちの、包囲の音であった。彼等は、静かに、そして確実に、騎士団の退路を断ち始めていた。
リヴォニア帯剣騎士団は、すぐに事態の異常さに気づいた。森の木々の間から、重装甲の騎士団とは対照的な、軽装で機動力のある異教徒の騎兵が、徐々に姿を現す。彼等は、騎士団の進軍ルートを見抜き、最も騎士団が不利となる、ぬかるんだ低地へと誘導していたのだ。
団長フォルクヴィンは、敵の戦術の冷徹さ、そして自らが陥った地の利の罠を瞬時に理解した。彼は、このままでは殲滅されると直感し、声を張り上げ、撤退を決断した。馬を急がせ、わずかに固い地盤を求めて、進路を変えようと試みる。
しかし、遅すぎた。
森は、既に敵の軽装騎兵によって、縫い目のない鉄の包囲網と化していた。彼らは、騎士団の動きの鈍さを計算し尽くし、遠方から一斉に弓矢の雨を降らせ始めた。矢は、重装甲の騎士には決定的なダメージを与えなかったが、その馬を射抜き、無力化させた。
「あの異教徒ども…!戦うなら正面から来い!」
荒々しい本性を剥き出しにし、憤怒の叫びを上げるリヴォニア帯剣騎士団。彼の剣は血気に逸り、今すぐにでも敵陣に突っ込み、その首を刎ねたいと願っていた。しかし、彼の目の前には、敵の騎兵ではなく、ぬかるみと包囲という、既に形成されつつある鉄の包囲網を破る力とは成り得なかった。それは、炎が冷たい泥にぶつかり、音もなく消え失せる様にも似ていた。
サモギティアの騎兵たちは、巧みに距離を取り、弓と軽槍で騎士団を撹乱する。その場で身動きが取れず、軽装の騎兵に翻弄されるリヴォニアの馬。騎士団が誇る重装騎兵突撃は、この泥濘の中では、ただの重い肉塊の移動に過ぎなかった。彼らは、自らの誇りと信仰の象徴であった鎧の重さによって、むしろ大地に磔にされたのだ。
馬の蹄が、泥の中で空転する。騎士たちは、自らの鎧の重さに、自らの自由を奪われた。彼等の金や銀の十字架、輝く剣は、この自然の罠の前では、何の役にも立たなかった。
戦いは、もはや騎士道の栄光とはかけ離れた、一方的な虐殺へと変貌していった。
リヴォニア帯剣騎士団の眼前で、彼の“兄弟”たちが次々と泥に沈み、倒されていく。サモギティアの兵士たちは、重装甲を貫くことこそ難しかったが、彼等の標的は、リヴォニアの馬であった。呻き声を上げて崩れ落ちる巨体。その衝撃で、騎士たちは甲冑の重さに耐え切れず、泥濘の中に叩きつけられる。泥は、彼等の思い鉄の棺になり、身動きを封じた。
泥に沈んだ騎士の隙間を見つけ、容赦なく短剣や斧が叩き込まれる。鎧の継ぎ目、首筋、兜の視界孔。彼等の攻撃は、熱狂的な征服者であった騎士団の、最も現実的な弱点を正確に捉えていた。泥は、騎士たちの血を吸い込み、鉄の錆と混ざり合って、たちまち暗い血の池へと変わっていった。その光景は、あたかも、大地が十字軍の傲慢な血を要求し、飲み込んでいるかのようだった。
「俺は…倒れられん。俺は、この地の剣だ!」
リヴォニア帯剣騎士団は、周囲の断末魔の悲鳴と剣戟の音の中で、我を忘れて戦った。彼の剣は、もはや騎士の技ではなく、ただの本能的な暴力であった。それは、血を浴び、泥を跳ね飛ばし、目の前の敵を次々と打倒した。しかし、彼の背後、彼の左右、そして遠方から、無限に湧き出すかのように敵兵が押し寄せてくる。それは、まるでバルトの地の底知れぬ生命力が、この泥から湧き出し、侵略者を押し戻そうとしているかのようだった。
絶望が、冷たい水のように、リヴォニア帯剣騎士団の胸を満たし始めた。それは、彼の熱狂的な信仰心すら凍てつかせる冷たさであった。
彼の隣にいた、長年苦楽を共にした騎士が、馬から引きずり降ろされる。泥の中で、その騎士は無残に斬りつけられ、助けを求める視線が、一瞬、リヴォニア帯剣騎士団に向けられた。彼は助けようとしたが、彼の馬もまた、泥に足を取られていた。もがく馬の荒い息遣いだけが、彼の無力さを嘲笑うように聞こえた。
遠く、戦況を立て直そうとする、団長の力強い叫び声が聞こえた。それは、わずかな希望の音色でもあった。しかし、次の瞬間、サモギティアの兵士たちの勝利を確信した鬨の声に掻き消され、二度と響くことはなかった。
リヴォニア帯剣騎士団自身も、遂に馬から落ちた。重装の鎧が、彼を泥の深みへと引きずり込む。全身が泥まみれになり、冷たい泥水が彼の口と鼻を塞ぐ。苦しくなる己の呼吸に、騎士たちが深い闇に眠り始めたことを感じる。彼は這い上がり、右手に握られた剣を振りかざそうとしたが、泥の抵抗は鉄の枷よりも重く、彼の筋力は消耗しきっていた。泥は、彼の力を奪い、彼の動きを鈍らせ、遂には彼の視界を奪おうとする。騎士を失った今のリヴォニア帯剣騎士団には、それに抗う血液も無かった。
彼の視界は、泥と血で濁り、目の前に迫るサモギティア人の顔が、安堵と喜びの微笑みを浮かべているのを、ぼんやりと捉えた。その後ろにそびえる大きな影は、リトアニア大公国であろうか。朧気な彼の視界は、影の正体を突き止めることはできなかったが、サモギティアの歓喜の声は、彼の信仰と誇りの全てを打ち砕く、現実の暴力であった。
リヴォニア帯剣騎士団は、己の剣が神の栄光のためではなく、ただの征服欲のために振るわれたに過ぎなかったこと、そしてその剣が、この大地に受け入れられることなく、泥濘の中で朽ちる運命にあることを悟った。彼の誇り、彼の狂信、彼の傲慢、その全てが、このバルトの冷たい泥の前で、音も無く、無残にも砕け散った。
彼は、ただの敗者として、閉ざされる瞼に従うしかなかった。
戦闘が終わった後の静寂は、耳を聾するほどの死の重さを含んでいた。呻き声や剣戟の音を吸い込んだ湿った大地。代わりに吐き出すのは、ただ重苦しい空気と、泥と血の鉄臭い匂いだけであった。
リヴォニア帯剣騎士団は、辛うじて息を吹き返し、自身の全身を覆う冷たい泥を拭った。彼はゆっくりと立ち上がるが、その重装な鎧は泥まみれになり、最早、威厳の象徴ではなく、敗北の証のように見えた。彼の周りには、白い外套に銀の剣と赤い十字を掲げた”兄弟”たちの姿はほとんどなかった。かつて誇り高かったその紋章は、泥と血で汚され、原型をとどめていない。それは、彼の独立した存在が、この地で穢され、失われたことを示唆していた。
団長を含む、ほぼ全ての騎士が戦死するか捕虜となった。その光景は、彼の絶対的な敗北を、嘲笑うかのようだった。彼の心は、煮えたぎるような怒り、底なしの屈辱、そして、どうしようもない虚無感で満たされていた。彼が信じた神の加護も、己の武力も、この泥とサモギティア人の粘り強さの前には、無力であった。
その時、彼の脳裏に、遠くプロイセンの地で、盤石な力を築いているドイツ騎士団の姿が映った。まるで、この戦闘の勝利者の影のように浮かぶ、冷徹で優美な顔。そして、ドイツ騎士団の存在を遥かに超えた、絶対的な権威である教皇領の、慈愛と僅かな冷酷さを宿した瞳。二つの存在が、今のリヴォニア帯剣騎士団にとって、呪いのように脳裏に焼き付いた。
この敗北は、彼の運命を、彼自身の荒々しい意思にはそぐわない、より大きな力の流れに、問答無用で投げ込むことを意味していた。彼は、もう自らの力で立つことはできない。教皇領からの咎めも聞かず、先住の地域化身の情けを切り捨て、己のみを信じたが故の罰であろうか。サモギティア、そしてリトアニア大公国の軽快な機動力と、地の利を生かした戦術を前に、彼は、かつて誇り高かった剣ではなく、泥に沈んだ敗者として立たされていた。
黄昏時、空の色は、まるで血の乾いた跡のように、暗く、重かった。リヴォニアの地は、帯剣騎士団の壊滅的な敗北により、再び先住の民たちの手で再生し、十字架の光が消え失せるかに見えた。
リヴォニア帯剣騎士団の赤い剣は、この泥濘の中で、その輝くを永遠に失っていた。遠方の、黒い十字架の影に飲み込まれる運命を、静かに受け入れるしかなかったのだった。彼の独立した魂は、今、巨大で組織化された権力の一部となる、屈辱的な再生を待つばかりであった。
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