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「可哀想に」
男は同情するみたいな口ぶりでそう言った。
「君だって無垢な学生だったはずだ。 あらゆる物を見て、聴き、触れ、嗅ぎ、味わい、そして写実的に美しさを描き出す力を得られたはずなのに。 嗚呼、可哀想に」
包帯男から、憐れみにも温情にも似た視線を向けられ、頭が混乱する。
「どういう意味だ、何を言っている……?」
「学生君は、抽象美術というものが何かわかるかい? その名の通り、非具象的に描かれた、難解で複雑な抽象絵画などを指して言うんだ。 特徴としては、絵を見た者に想像の余地を強く与える点だ。 図形や歪な模様の組み合わせにより、これは何を意味している絵なのだろう、これは何が描きたかったのだろうと、見た者に考えさせる。 勿論、見た者により導き出される答えは千差万別。 故に、ひとつの作品にして数千、数万、数億もの解釈が生まれ、数千、数万、数億もの感想が生まれる……。 それこそが、抽象美術だ。 どうだい、学生君。 なんともくだらないと思わないかい? 感性は人間に与えられた専売特許であり、極めて高価値なものだというのに、現代人は皆、俗人共の用意した額縁にその感性を勝手に押し込まれ、切り詰められ、真の美しさから目を背けさせられている……。 手の上で転がされているんだ。 抽象作品なんていう、何の技術も必要としない、ただ適当に描かれただけの駄作を、さも名画の研究の様に考察させられてな! これが嘆かわしいとは思わないのか! 見てみな、このゴミ屑を!!」
彼の指さした先には、2メートルほどある高さの絵画貼り付けられていた。
肝心の絵は抽象的で、青を基調にした柱が、赤い飛沫に囲まれているだけで、何を表現しようとしているのか、少なくともオレには理解出来ない。
「よく見ろ、よく見ろ! これはきっと塗料を床にぶちかました猫が、駆けたり転がったりしたんだ。 そうでもなきゃ、こんなにも大きな帆布に、勿体ないことはできないはずだ! それでゴミとして燃やされるはずだったが、近所の学生演劇団が大道具用の資材にするために欲しいと言って受け渡されたんだろう。 その後、劇団はこのゴミの置き場所に困った結果、木を隠すなら森の中、ということわざに習って、この美術館の裏口に置いていったところ、管理人が搬入ミスと勘違いして偶然ここに飾られることになったに違いない。 きっとそうだ。 必ずそうだ。 絶対そうだ!!」
こいつ――――、
「嗚呼、可哀想に! 評論家ぶった蛆虫どもがこんなクソ泥みたいな抽象画なんかを看板に、ドヤ顔で現代アートだなんだと宣うもんだから、人類の価値基準が衰退していくんだ! 抽象美術に何がある! 何が宿る! 私たちのような、世界の将来を背負って立つ若者達には、真の美しさにもっと触れてもらわなければならない! そう、写実主義による超現実的美術ッ! これこそが人間が創り出した、人間らしさを最も忠実に、確実に、精密に、精巧に描写する、真の美しさだ! そこには個の解釈も、その他大勢の理想も介入しない。 汚れ、穢れきったこの世の中を混色なく描く! それを成すためには、並大抵の努力では不可能だ。 多くの技術習得、日々の鍛錬、途方もない学習が必要となる。 そうしてやっと、真の美しさは描き出されるのだ! それなのに……、それなのにどうして! どうして抽象美術なんていう廃品集め未完成のクソ駄作なんかが、現代アートの主流だなんて顔して、美しさの最先端なんて名を冠していやがるんだッ! もっと時間や労力と想いを捧げて写実的で美しい作品を創るアーティストや、創作する苦しみを知っても尚、技術を学び続けている人間、抽象美術なんていう温い悪文化に美しさの基準をズラされる前の、まだ感性が毒されていない赤子たち……、ずっと評価されるべき、支援されるべき、これから光を当てられるべき人間はごまんといるはずだ! 君だってその候補の一人になれたかもしれなかったんだよ! 嗚呼、可哀想に! 君はこんなくだらねえ蛆虫のクソみたいな抽象美術に毒されて、美術における美しさの基準を捻じ曲げられてしまった! 無限の感性の可能性を奪われてしまったんだよ!!」
言葉が強くなるに合わせて、彼の手が包帯の上から顔面を強く掻き毟る。
「芸術は爆発だ、って、聞いたことある? その言葉の意味は諸説あるけどね、彼は人の内側から放射状に広がる無数の着想の様と表現欲を爆発という言葉で表現したかったらしい。 内と外の境を押し開き、飛び出て、現実と混色させ、ひとつの形とすることを。 そしてそれを、呼吸と同じレベルで行うことを。 つまり、発想して創り出したいと想ったなら、呼吸するように創ってしまえと言うわけだ。 ……それが、彼の言う爆発というものらしい」
ぼたぼたと赤黒い液体が漏れ出す顔面を、更に強く乱暴に掻き毟って、
「私はこの言葉が大嫌いだ。 もっと伝わりやすく、理解されやすい言葉を使えばいいのにと思わないか? それなのに、わざと回りくどい言葉ばかりを選び取って、浅い深みを演出しやがる! 駄作を現代アートだと免罪符のように守るやつらが使う常套句だッ! それが私にはどうしても我慢ならない! どうしてだ、どうしてそんな真似をする! そんなことをするもんだから、若い世代の私たちが、理解不能の作品もどきに価値観を歪まされてしまうんだ! 想像の余地だと? そんなものは美しさではない! 現実を完全に描き出した作品の方がずっと美しいッ! 人間の醜悪さを、世間の猥雑さを、多数派の図々しさを! 不正を、不満を、不利を、不平等を! 脚色無しでそのまま描きだす! 余地はいらない! グレーゾーンは白黒はっきりつけなくては美しくない! そうさ、そうだとも。 だから、芸術は爆発だという言葉は私が貰い受ける! 私なら、表現欲の爆発を美しく写実できるからだ! 見せてあげるよ学生君ッ! 文字通り、爆発の芸術を、私の爆発をッ!! ぐ、ぎぎ、ぎああぁぁぁぁああああああああああああああああああ!!」
絶叫が響き渡るよりも先に、
男の顔から赤い激流が吹き上がった。
それは爆発にも似た、異様な光景だった。
激流から放たれた血の粒たちは、
各々が自分勝手に飛び交い落下先を選んでいく。
白かった壁紙、
綺麗だった大理石の柱、
高価そうだった額縁の絵、
変な模様だった壺。
全てが赤色に塗り替えられていく。
噴水が収まった頃には、男の着ていたパーカーは著しい量の出血で、すっかり真っ赤に染まってしまっていた。
八方から血の滴る音がコツコツと響き、冷や汗が落ちる音を隠した。
「か、かか、かッ……! どうしてかな、君には気付かせてあげたくなったんだ……。 この世の中の不明瞭さを、理不尽を…………!」
その時、視界の端で二つの人影が部屋から出て行ったのが見えた。 一瞬ではあったが、仁に手を引かれていった遥夏は心配そうにこちらを向いていた気がする。
これでいい。
これでいいんだ。
あとは、この気狂い野郎から逃げ切るだけだ。
「…………学生君、そういえば君の名前を聞いてなかった。 教えてくれよ」
「テロリストなんかにほいほい名前を教えると思うのか?」
「まさか、立場がわかっていないね。 悪いけど、銃を見られた時点で、もう君を簡単には逃がしてやれなくなった」
その直後、仁達が出て行った部屋への道が、急に降りてきたシャッターによって音を立てて閉鎖された。
「か、かっ、く、き……。 この施設は以前、地震災害を受けたことがあってね。 あのシャッターは被害を受けて増設された防災設備だ。くき、きき、き。 既に操作室はこちら側の手の内さ。今更逃げようなんて思わないでくれ、奥の展示室も別の防火扉で閉鎖されてる。 非常口から出れたって、警備員に捕まるのがオチだよ」
「――――――っ」
行きも帰りも壁に塞がれ、うまくいっても逃げられない。 窮地に立たされたオレが咄嗟に起こしたアクションは、床に転がった銃を拾い上げ、男に向けて構えることだった。
両手に確かな重量感と緊張を感じる。
その重みが、次々に不安を産み始める。
最悪、正当防衛しなくちゃならない。
最悪、銃を撃たなければならない。
最悪、この男を殺してしまうかもしれない。
最悪、オレは人殺しになるかもしれない
最悪、弾は当たらないかもしれない。
最悪、銃を奪われてしまうかもしれない。
最悪、逆に撃たれてしまうかもしれない。
最悪、オレは殺されてしまうかもしれない。
アニメやゲームみたいに上手くいくわけがないし、正しい銃の構え方なんてものもわからない。
だけれど、わからないものはわからないし、仕方ねえ。
全部、その場の流れに身を任せるしかない。
「学生君、勘違いしているみたいだから言っておくけれど、私は君を傷つけようなんて気は毛頭なかったんだ。 一般客には少々、手荒な真似をしたが」
「信用できるか!! なあ、どうしてだ。どうしてオレ達を巻き込んだ!?」
「……なるほど、オレ達、か。 さっきの客に、君の友人が混じっていたようだね。 確かに、今日は学生服を着た一般客が多かった。 校外学習でもしていたのなら、すまなかったな。 くく、く、ぐ……、彼等には一時的に人質になってもらってる。 なあに、目隠しして正面ホールに座ってもらってるだけで、乱暴なことはしていないはずだよ」
「何をする気だ、あんたの目的は何なんだ」
くくく、と気味の悪い声を漏らしながら俯く男が、こちらへゆっくりと顔を上げると、掻き毟って傷口だらけだったその顔面に鉄の仮面が張り付いていることに気づいた。
無装飾で無骨だが、ぴったりのサイズであるところを見るに、男の顔に合わせた特注品のようだ。目に合わせてくり抜かれた穴の溝に顔の血が流れ込み、まるで血の涙を流しているように見える不気味なデザインに作られている。
「目的は、そうだな…………」
「何を回答に悩んでやがる。こんな事件を起こした目的は何だって聞いてんだよ!」
「待てよ、今考えてるから」
今考えてる――――?
今考えてるだと?
こいつまさか、何も考えずにテロなんて迷惑なもんを起こしてるっていうのか!?
「学生君、ハッキリと言ってしまえば、この事件について、私には目的なんてものは存在しないんだよ」
「………………は?」
男は壁に飾られた絵画に躊躇いなく触れて、
「ふざけた世の中に反逆する、っていうのは組織全体の目的だしね。 くくく、く。 今回の美術館占拠作戦は、私の個人的な欲求を満たすための計画なんだ。 私は、描きたい。 わかるか? 私にあるのは目的ではなく手段なんだ。 『描く』という手段だけなんだ。 この美術館に来たのだって、美術館に並べられたこんなクソみたいな抽象画よりッ、美しい絵を描ける私が認められていないなんて現実が許せなかったからさ!!」
そのまま強く爪で引っ掻いた。
あまりに強く掻いてしまったので、絵画には指の爪から出た血で線上の痕跡が残ってしまっている。
「これだ、これがアートだ。 不適切な評価を得ている作品の破壊と上書き。 これこそが私のアート。 私はこれを展示してもらうために、ここへ来たんだ」
「……どうやらあんたに言葉は通じないらしいな」
「くく、ぎき、くくくく、くくっ。 どうやら君は、この世の中に本当に酷く毒されてしまっているらしい。 私達、『少数派』を産んだのはこの多数派だ!! 奴らに反逆するために、私はこの権能を手にしたんだ!!」
男は再び、顔を掻き毟りはじめた。
今度は、鉄の仮面の上から。
「か、ききき、かっ、くぎぃっ、ききかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかか!!!!」
硬い鉄を、砂場の土のように掘ろうとするもんだから、男の爪は次から次へと剥がれていく。
痛々しい指々の出血が、仮面に流れていた血の涙を文字通り掻き消していく。
「かッ、きききききく、ぎこががかかかかかかくけききかッ、くく、くくくかきげけけけけけけ、きき、く、がぎききっ! きき、き、きくくく、かかかかか、くき、こきききッ! がゅいぃいい!! きっ、き、かかかかかかか!! ききィ、くかかかか!! ぎききき、き、ぐがかかか、ぎぎぐぁ、ががっ!! ご、ごぐ、ききききききききかかかかかッ! 私の筆はッ、反逆するため許された、私だけの表現方法だッ!!」
どくどくと流血した両手を高く掲げて、
「想い絵掻く権能ッ、『爆弾作り』ッ!! 世界を描写し直すことの出来る、私にだけ許された異能の力だッ!!」
男が腕を下ろすと、高速道路を走る車のテールランプの様に、爪から赤い光跡が空中に残った。
「私は自分のために描いているから、普段はギャラリーがいることは嫌なんだが……、君には不思議と、見ていて欲しいって気持ちになれたんだ……、見ていて欲しい……!」
そう言って、男が腕を振り回して光跡を操ると、突如として2メートルほど柄のある赤い斧が実体化した。
「想像物から創造物へ。 これが私の権能、『爆弾作り』ッ!! この筆で精巧に形どった想像物を、現実に創造する異能の力だ。 これこそが、私の開拓した写実主義の進化形……、創実主義による美術だッ! 真の美しさとは、洗練された技術と高尚な創作意欲によって、正義も悪も統一描写のもとに写実的に描き出されること……! 私の権能を以てすれば、世界中の不平な陰影を打ち消し、どんな物でも、どんな光景でも、どんな歴史でも美しく、正しく描写し直すことが出来る! 陰影を無くした状態に世界中を創り直してしまえば、 それは白黒ハッキリした現実となる! 私の求める、曖昧さのない、美しく正しい現実世界となるッ!……嗚呼、急に見せたもんだから、理解しきれなかったかもな。 驚かせちまったね、すまなかった」