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いつもと変わらない朝だった。
カウンターの奥では杠が皿を拭き、サグメは仕込みに集中し、月読はスタッフルームで新聞をぱらりとめくっている。
昼前には数名の客が現れ、昼の願いを叶えていく。そして午後になると、月光には再び穏やかな静けさが戻ってきた。
この時間帯は、ここで働く者すべてにとって、最も平和なひととき――本来なら。
その静寂を破るように、カラン、と澄んだドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませー。お好きな席どうぞー」
杠はいつも通りの元気な声で迎える。
ところが、入ってきた青年は、まるで久しぶりに家へ帰ってきたかのような表情でふっと微笑み、ひと言。
「ん、ただいま。」
その柔らかい声に、杠は一瞬固まった。
「……ただいま?」
青年の黒髪は艶やかに波打ち、深い茶色の帽子がよく似合っている。服は上品で洒落ているのに、どこか現実味が欠けていた。
「えっと……お客さんですよね? 席、どうぞ?」
「席? なんで?」
「え、なんでって……座るために……」
青年は首を傾げ、本気で不思議そうに言った。
「客? 私が?」
杠が困惑で口をぱくぱくさせたその瞬間、厨房のカーテンが勢いよくめくれた。
「わっ、椛!? 生きてたんだ! みんな集合~~!!」
サグメが叫び、それに呼応するように店奥から光と空白、そして月読まで顔を出す。
「え、生きて……!? 帰ってきたって……?」
杠の混乱は最高潮を迎えた。
いつの間にか月読が隣に立っていて、穏やかな笑みを浮かべている。
「久しぶりだね、椛くん。こちら新人の杠くん。仲良くしてあげてね」
杠の思考が一瞬止まる。
「えっ、この人……従業員さんなんですか!?」
青年は短く答えた。
「章樫椛。烏天狗。好きに呼んで。」
夜空のように深い瞳は、どこか掴めない静けさを湛えている。
「烏天狗!? また人外出た!?」
杠が半ば叫ぶと、月読がくすくす笑う。
「椛くんはね、よくふらっと消えるけど、そのうち帰ってくるから気にしなくていいよ」
「いやいや! そんな管理、雑すぎません!?」
「いいのいいの。そういう子だもの」
杠が頭を抱えていると、椛は興味なさそうに視線を逸らし、別の話題を出した。
「それより、あのバカ猫どこ」
全員の視線がミケの常駐スペースへ向くが――当然のように空っぽだった。
杠がため息混じりに答える。
「ミケさんなら……またどこかの住宅に入り込んで、くつろいでると……」
「はぁ。連れ戻して説教。新人、行くよ」
「え? いや、え!?」
反論する暇もなく、椛は杠の手首を掴んでドアを押し開けた。
「ちょっと!? 僕、まだやること――!!?」
夕陽の中へ引きずられていく杠の叫びが、ドアベルの音に吸い込まれた。
「なんで僕が……」
「新人だから」
「理不尽!!」
嘆く杠を置いて、椛は軽く屋根へ飛び乗った。
「さすが天狗……重力とは……?」
呟く杠に、椛は目線だけ向けて軽く笑い、指を伸ばした。
「見つけた。あの屋根の上」
瓦の隙間に、黒猫の姿。見つかったミケは不機嫌そうに顔を上げる。
「お、杠。……げ、クソ鳥、生きてんのかよ」
「死んでない」
「なんで勝手に消えるの」
「散歩だよ。さ・ん・ぽ」
「散歩って……二日も?」
「言い訳はあとで。捕まえる」
次の瞬間、椛は風のように背後へ回り込み、ミケの首根っこをひょいと掴んだ。
「帰ったら店内清掃。ほこりの数だけ飯抜き」
「ふざけんな鳥ヤロー!!」
夕暮れにミケの叫びが響く。
あまりのやり取りに、杠は思わず吹き出した。
「……この店の人たち、本当に変だなぁ」
「そういう店だから」
椛がふっと優しい笑みを見せた。
ミケは暴れながらも、どこか居心地良さそうな顔をしている。
風が吹き抜け、一枚の羽根が夕焼けに落ちていった。
こうして月光の一日は、またしても“普通ではない形”で幕を下ろした。
店の明かりが落ちた頃。
裏口の階段には、黒髪の椛と、猫の姿の青年・ミケが並んで座っていた。
「……ったく。どんだけ消えりゃ気が済むんだ。次いなくなったら墓でも建てとくぞ」
「墓より花がいい。黄色いの」
椛は風を吸い込みながら、静かに答える。
沈黙。
月光が彼の頬を照らす。
その横でミケが欠伸し、ゴロリと寝転がる。
本当の自分を隠したままでも、
この怠惰で不真面目で、時々優しい猫と過ごす時間だけは、どこか心地よかった。
「おい、何見てんだよ。気持ち悪ぃ」
「ふっ、間抜け顔」
「……くそ鳥」
二人は肩を並べ、同じ空を眺めた。
やがてミケが立ち上がり、店に戻っていく。
椛はひとり、月に向かって小さく呟いた。
「次は、どこ行こうかな」
月光が黒髪を金に照らす。
その内側で揺れる想いは、誰にも知られないまま。
翌朝、椛の姿はもうなかった。
代わりにミケが――珍しく店内掃除をしているのだった。