コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
雲は僅か、風は緩やか、老いた驢馬のような穏やかな昼下がり。温もり降らせる陽光に包まれた森に空白が、ぽっかりと開けた野原がある。原っぱを囲む密な木々と原っぱを覆う濡れた下草が控えめに香り、世の不幸を知らない小鳥が軽やかに囀る。春と共に訪れた鴨が数羽、毛足の長い緑の絨毯を横切って行き、小池に飛び込む水音が聞こえる。
鬱蒼とした森の空隙たる清々しい野原には一軒の古びた家が建っていた。積み上げられた石は苔生し、藁葺きは深く色づいている。こじんまりとして慎まし気な家と境界の朧気な庭には、営みの気配がそこここに漂っていた。反り返った軒下に吊るされた冬越しの干物は良い香りを放ち、薬草の方は虫の厭う臭いを発している。煙突から立ち上る薄い煙は僅かにたなびき、踏み重ねられた足跡でできた道が扉から木と木の間へと伸びていた。
穏やかな空間の真ん中に、何の兆しも示すことなく、一人の女が突然に現れた。同時に一陣の風が吹き抜け、鴨が何やら喚き、藁葺き家の扉に設えられた銀の鈴が揺れる。二度、三度と鳴った時、家の中からまた別の女が現れた。
家の前に突然現れた女は革鎧に|外套《マント》という出で立ちで、大きな亜麻布の包みを背負っている。男のように短く刈り揃えられた髪の下では灰色の鋭い眼差しが周囲に目を配り、尖った鼻に引き結ばれた口元は頑迷そうな印象をもたらす。白い羽毛で飾り付けられた|草履《サンダル》を履いており、棒を頭の先から通したように真っすぐに歪みなく立っている。
扉の向こうに半身を現した女はかそやかな佇まいで、眠たそうな眼差しを闖入者に向ける。髪はぼさぼさで口をぽかんと開いたままだ。派手な色合いの草木染の布切れを縫い合わせた寝巻のような緩やかな服を身に纏っている。
「だあれ? あんた。どっから来たの?」家主が目を擦りながら倦んだ様子で問いかける。「あたしの見間違いじゃないなら突然湧いて出たようだったけど、どっかの魔法使い?」
「いいえ、見間違いでありましょう」闖入者は直立姿勢ではきはきと答える。「わたしの名は|走る者《グラメス》。|千の船団《ノーシチア》王国から参りました使者であります。浄化の魔女|臍《ロロゴー》様でしょうか?」
「世間ではそう呼ばれてるってね」ロロゴーは微動だにしない訪問者グラメスを扉の隙間からじっと見つめる。「で? ノーシチア? 聞いたことないけど。どこにあるの?」
「マシチナであります。マシチナというのは――」
「マシチナは知ってるよ」ロロゴーは一層怪訝な眼差しをグラメスに向ける。「ここサンヴィアよ? そんな遠くから何しに来たの?」
「ロロゴー様のお力をお借りしたく馳せ参じました」ロロゴーの返事を待たずにグラメスは続ける。「我が国の親愛なる女王陛下が毒殺未遂により床に臥せられたのであります。徳高く聡明なるも後継者なき女王陛下がお隠れになられればノーシチア王国の破滅は免れません。是非、お力をお貸しいただきたくございます」
ロロゴーは半ば開いた瞳でグラメスを、そして今の語り口からノーシチア王国を値踏みするように見つめる。
「つまり|瑠璃椀《るりわん》が欲しくてやってきたってわけ?」
「その通りであります。それに見合う宝物も持参致しました」そう言ってグラメスは背負った包みを示す。
「見せて」
ロロゴーはようやく扉の向こうから出てきて、言われるがままグラメスの開いた包みの中の宝物を眺める。陽光が霞むほどに輝く金銀の他、夢に見る花畑で染め上げたかの如き宝石や血を煮詰めたような深い紅の珊瑚、さながら世の穢れを一掃した無垢なる真珠で彩られた宝飾品が主だ。その細工の精緻なること職人の業が惜しみなく尽くされている。
「いかがでしょうか? 王室の宝物庫から選りすぐりの財物を持ってきたのですが」
ロロゴーは淡々と答える。「全部合わせても足りないね。これじゃあ売ってあげられないわ」
グラメスは息を呑み、しかし冷静な声色で相槌を打つ。「左様でございますか。ではせめてこちらを前金として受け取ってはいただけませんか? 必ずやより豪奢な品物を――」
「よほど大切な女王様のようね? あんたにとっても」
グラメスはロロゴーの探るような瞳を受け止めつつも、頑なに表情を強張らせたまま頷く。「はい。わたし個人としても、女王陛下の幸福を願うばかりであります。幼い頃から見守って来た大切な友人なのであります。気分屋な方で何度も振り回されてきましたが、同時に温和な人柄で、争いをなさることもなく――」
「幼い頃って? あんた何者なの?」
ようやくロロゴーの関心を引けたことにグラメスは気づく。少し迷いつつ覚悟を決め、革鎧の一部を剥がして、ロロゴーに見せる。そこには五枚の花弁が花開いたような形の札が貼られており、一羽の梟の絵が描かれていた。そしてグラメスの肉体は藁の詰め込まれた人形だった。
「へえ、見たことのない魔法だわ。でもそれって弱点じゃない? 見せて良いの?」
「相応の信頼をいただきたく……」
ロロゴーは呆れたように微笑み、観念したように溜息をつく。
「分かったわ。売ることはできないけど、貸してあげる」そう言うとロロゴーは家の中へ取って返して木箱を持ってきて開く。緩衝材の分厚い布の貼りつけられた木箱の中には瑠璃色の椀が鎮座している。「条件は二つ。必ず返却することは当然として、マシチナにある黒鉄珊瑚を一抱え、よろしく。この財宝はいらないから持って帰って」
木箱を受け取って、グラメスは深々と頭を下げる。「ありがとうございます! 必ずや返却に参り、その際には黒鉄珊瑚をありったけ持って参ります。それでは、また」
グラメスは持ってきた包みを抱え直し、木箱は大事に胸に抱える。そして消え去った。が、今度はロロゴーの目にも飛ぶ矢の如く走り去るグラメスの姿が見えた。
季節は惜しまれつつも移ろい、まだ茹だるような熱気を控えた夏の初めの頃、薬草の束を天日干ししていたロロゴーの前に再びグラメスが現れる。待ち構えていなければよく透き通った硝子の罅割れのように突然何もない空間に現れたように見える。
「突然ね」驚いて仰け反ったことを誤魔化すようにゆっくりと体勢を戻しながらロロゴーはぼやく。「もうちょっと手前で減速して歩いてくることはできないの?」
「できます。次の機会があればそのように」
「そんな機会無い方が良いんじゃない?」
グラメスはその通りだと頷く。そして木箱を捧げ持つようにしてロロゴーに返却し、やはり背負っていた包みを開く。中には黒光りする珊瑚が根元で刈り取られたままの姿で現れた。
「まことに感謝申し上げます。瑠璃椀の浄化の力によって女王陛下は回復なされ、王国は危機を脱しました。ただ一つ、懸念がありまして」グラメスは木箱に申し訳なさそうな眼差しを送る。ロロゴーは瑠璃椀を取り出して太陽に照らす。「くすんでしまったようにお見受けするのですが」
「ああ、釉が、ね。大丈夫だよ。塗り直して焼き直せば元通りだから」
グラメスは安堵の溜息を漏らす。その日、グラメスは可能な限りロロゴーの仕事を手伝い、感謝の念を示すと翌日走り去っていった。
しかし二人の関係がこれで途切れることはなかった。その後も、ノーシチア王国と隣国の諍いは絶えることなく、王国内での権力争いも激化の一途をたどる。女王や親女王の有力者に対して幾度も毒殺を試みられ、その結果、グラメスは何度となく瑠璃椀を借り受けてはマシチナの珍品奇品をロロゴーに送り届けた。
「言っちゃなんだけど、運が良いんだか悪いんだか分からないわね」
いつも通り、しどけない寝巻姿のロロゴーは忌憚なく呟く。
飴色の香草茶が香る秋の日盛り、ロロゴーとグラメスは涼やかな庭に机と椅子を置き、温かな瑠璃の杯を傾けながら散漫に言葉を交わしていた。
「良いとは思えませんが」グラメスは一気に飲み干して答える。
「でも、必ず間に合っているじゃない? いくら瑠璃椀でも死んでしまった者を呼び戻すことはできないんだから」
「それはそうでありますね。でもわたしの走りがあればこそです」とグラメスは誇らしげに胸を張る。
奇妙な縁だが、こうして二人は何度となく交流を重ね、友人の関係になっていた。初めて出会った頃のグラメスの鯱張った態度は鳴りを潜め、今では多くのことを語り合っている。
「そういえばマシチナからここまでどれくらいかかってるの?」
「大体七日くらいですね」
ロロゴーは言葉が出ないという様子で一口杯を啜り、改めて口を開く。
「普通どれくらいかかるか分かる? 常人なら二か月はかかるわ。魔法使いでも半分に短縮できる者がいるかどうか」
「陸続きならもっと早く来れるんですけど」乾燥苺を齧りながらグラメスはぼやく。
「そうでしょうとも。あんたがいたことが何よりの幸福ね。女王様にとっても、ノーシチア王国にとっても」グラメスは素直に照れる。照れていることを素直に身振りで表現する。「お陰様であたしも山ほど魔法の媒材を手に入れられたから争いさまさまだけど」グラメスが顔を顰めたのを見てロロゴーは謝罪する。「ああ、ごめん。迂闊だったわ」
「瑠璃椀を借りるのは今日が最後かもしれません」
「悪かったってば」
グラメスは残念そうに首を横に振る。
「そうではなく、実は、水面下で相争っていた隣国の王が亡くなったのです。そして王子、新たな王と女王陛下がご婚約されました。両国は併合し、両陛下が共同統治することと相成ったのです。女王陛下はそれはそれはご幸福そうで――」
「というか今日も借りていくのにのんびりしていていいの? というかそもそも争いがなくなったならどうして借りていくのよ」
「何度も王国を救った縁起物なので、結婚式で使いたいそうです。そういう目的でお借りするのは駄目ですか?」
「別にいいけど、いつも通りに返却して、いつも通りにマシチナの品物を手土産に持って帰ってくれたらね」
「ありがとうございます。それではそろそろ失礼します」
「結婚おめでとうって女王陛下に伝えといて」
グラメスは自分のことのように笑顔で請け負った。
魂を失ったかのような暗い顔でグラメスがロロゴーの庭に現れたのは冬も半ばが過ぎた頃だった。森の葉叢は遠の昔に散り落ちて、下草は枯れ果て、寒々しい景色を囃し立てるように北風が吹き抜けていく。
グラメスが肉体的苦痛など感じないことをロロゴーはよく知っていたが、久々に庭に現れた友人の憐れな姿に居ても立ってもいられずに駆け寄って、手に持っていた膝掛けで包み込み、家の中へ、暖炉の前へと招いた。瑠璃椀の入った木箱を受け取ると、丁度煮詰めていた汁物を与え、魔性の友人が口を開くのを辛抱強く待つ。
「女王の伴侶がお隠れになりました。毒殺されたのです」
「どうして?」
争いはなくなったはずでは。瑠璃椀があったはずでは。
「女王陛下の望む幸福は、わたしが望む女王陛下の幸福とは違っていたのです」そう呟くとグラメスは涙を流し、背を丸めて嗚咽した。
「全ては女王陛下の計画、と。結婚式のためではなく、万が一敵方に瑠璃椀を使われないようにするために借り受けたということね」机の上に置いていた木箱を開き、ロロゴーは中を覗く。「そして、こんなものであたしを騙し果せると思ったのね」
ロロゴーは椀を取り出すと暖炉へと投げ入れた。火は一瞬青く稲光を放ち、椀は一瞬で溶け去った。
グラメスは深々と頭を下げる。
「申し訳ありません。黙っておくように命じられたのです」
「でしょうね。あんたは貼り付けた者の命令に逆らえないから……ん? じゃあどうして今明かせたの?」
グラメスは初め言葉の意味を呑み込めず、意味を噛み砕くにつれ、胸の内が千々に乱れ、呆けた表情から次第に絶望の表情へと移り変わり、遂には声にならない声で号泣した。
札を貼り直されることなく命令から解き放たれたのだとすれば、理由は一つしかなかったのだ。