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薬を飲み続けて二か月が過ぎた頃、ハリーはほとんど穏やかだった。
少なくとも、外から見ればそう見えただろう。
授業には出る。
食事も取る。
誰かに話しかけられれば返事をする。
夜も以前ほどは荒れない。朝も、胸を押し潰されるような痛みで目を覚ますことは減った。
世界は色を失っていたが、そのぶん平穏だった。
ドラコの顔は、もうはっきりとは思い出せない。
髪の色も、目の細め方も、唇の形も、ぼやけている。
抱きしめた時の体温も、声の高さも、いまでは遠い水の底に沈んだ輪郭のようだった。
時々、頭の片隅で小さな警告が鳴ることがあった。
これではいけない。
何か大事なものを失っている。
けれど、その警告が何を指しているのかまでは思い出せない。
思い出そうとすると、薬の作った鈍い膜がその輪郭を曇らせる。
だからハリーは、その違和感ごと棚上げにして生きていた。
それでよかったはずだった。
少なくとも、あのまま壊れていくよりは。
その日、ハリーは久しぶりにクローゼットを開けた。
冬物の整理をしようと思っただけだった。
深い理由はない。
誰かに言われたわけでも、突然気が向いたわけでもない。ただ、授業のあと部屋へ戻った時、何となくそうするべき気がしたのだ。
扉を開く。
布の匂い。木の匂い。閉じ込められていた空気が少しだけ流れ出す。
ローブが何着か掛かっている。
その中に、一着だけ、ずっと触れなかったものがあった。
あの日に着ていたローブだ。
マルフォイ家の屋敷へ行った時の。
婚姻の儀を見せつけられ、書斎へ入り込み、そして――
そこまで考えかけて、ハリーは止まった。
思い出せない。
いや、思い出したくないのかもしれない。
何にせよ、そのローブだけは、ドラコが死んでから一度も着ていなかった。
ハリーはしばらくそれを見つめ、それからゆっくりと手を伸ばした。
布地を掴み、広げる。
その瞬間、小さなものが足元へ落ちた。
白い布だった。
ハリーは目を落とす。
上質なハンカチ。
端に銀糸の刺繍。
見覚えがある。なのに、すぐには思い出せない。
膝をつき、拾い上げる。
指先が、なぜか少し震えていた。
ハリーは息を止めたまま、そのハンカチを見た。
きれいに畳まれていたはずの布が、少しだけ皺になっている。
長いことローブの内側に閉じ込められていたのだろう。
そしてその次の瞬間、何に引かれたのか自分でも分からないまま、ハリーはその布へそっと顔を寄せた。
匂いがした。
ごく微かに。
でも確かに。
ドラコの香水だった。
高級で、整っていて、少しだけ冷たい印象のある香り。
昔はその匂いを嗅ぐたび、お高くとまっていると思って腹を立てた。近くを通るだけで、ああまたマルフォイがいる、と分かったあの匂い。
その香りが、今もまだこの布に残っていた。
嗅いだ瞬間、世界がひっくり返った。
記憶が、音を立てて戻ってくる。
ドラコの端正な顔立ち。
鼻筋。
傲慢そうに結ばれた口元。
冷たく見えて、その奥底にいつも怯えが隠れていた灰色の目。
手入れの行き届いた柔らかな髪。
抱きしめた時の温度。
耳元で低く落ちる声。
「今だけは、離れるな」
温室で泣いていた顔。
婚姻の儀で死んだような目をしていた横顔。
人けのない客間で、ようやく光を取り戻した目。
「必ず戻る」
そして、血の気の引いた最後の顔。
「これでいい」
全部だった。
全部が一気に、色鮮やかに脳内へ流れ込んできた。
ハリーはその場で息を呑んだ。
匂いというものは、どうしてこんなにも容赦がないのだろう。
声よりも。
写真よりも。
言葉よりも。
ずっとまっすぐに、記憶の深いところへ触れてくる。
薬が曇らせていた輪郭を、その香りは一瞬で切り裂いた。
忘れかけていたのではない。自分で薄めていたのだ。逃げるために。苦しくてたまらなくて、愛していた証そのものへ膜をかけていたのだ。
そして今、ハリーは初めて、自分が何をしたのかを知った。
ドラコを忘れようとした。
ドラコの痛みだけでなく、ドラコの優しさも、不器用さも、愛しかったところも全部まとめて鈍らせようとした。
あまりにも苦しかったから。
あまりにも愛していたから。
その事実が胸へ落ちた瞬間、ハリーはもう耐えられなかった。
体の水分がなくなるんじゃないかと思うほど泣いた。
声を殺すこともできず、床に膝をつき、ハンカチを胸に抱いたまま、ひたすら泣いた。
二か月ぶんの痛みが一気に戻ってきた。
苦しかった。
でも同時に、ようやく本当の悲しみの形に触れられた気もした。
あのとき天文塔でスネイプにぶちまけた時以来の、どうしようもない涙だった。
ドラコを愛していた。
本当に。
だから忘れようとした。
忘れなければ生きていけないと思った。
でも忘れることで、自分が何を失いかけていたのか、今ようやく分かった。
ハリーはそのまま、泣き疲れて眠ってしまった。
⸻
夢を見た。
ドラコがいた。
ひどく鮮明な夢だった。
けれど苦しくない。
少なくとも、前みたいに胸が裂けるほどではなかった。
ドラコは笑っていた。
ほんの少しだけ意地悪そうな、でも確かに楽しそうな笑い方だった。
風が吹いて、金色の髪が揺れる。
口元には皮肉が浮かんでいるのに、目だけは柔らかい。
その姿を見ても、ハリーの心は以前ほど鋭く痛まなかった。
悲しくないわけではない。
会いたくないわけでもない。
ただ、痛みがすべてではなくなっていた。
ハリーは夢の中で、ただその顔を見ていた。
見ているだけでよかった。
もう、逃げたくなかった。
目が覚めた時、外は朝だった。
両目は腫れ、顔はひどく浮腫み、体も重い。
泣きすぎたあとの最悪の朝だ。喉も痛いし、頭も少し鈍い。
それでも心だけは、ほんの少し軽くなっていた。
軽いというより、空っぽではなくなった、というほうが近い。
穴が埋まったわけではない。埋まるはずもない。
でもその穴の輪郭を、ようやく自分のものとして抱えられる気がした。
ハリーはハンカチを丁寧に畳み、ローブの内側へしまった。
それから、地下牢へ向かった。
⸻
スネイプはハリーを見た瞬間、嫌悪の表情を浮かべた。
「またか」
その言い方に、ハリーは少しだけ口元をゆるめた。
自分でも驚いた。こんな状況でまだ、そんな反応ができるのかと思う。
「薬はもう要りません」
ハリーがそう言うと、スネイプの手が止まる。
ほんの一瞬だけ、沈黙が落ちた。
スネイプはハリーの顔を見た。
腫れた目。泣き明かした顔。けれど、二か月前のあの空虚な目ではない。痛みはある。深く、確かにある。だが、その痛みから逃げるために自分を削ろうとしている顔でもない。
「……結構」
スネイプはそれだけ言った。
あまりに短い返事だった。
だが、口元だけがほんの少し、ほんの少しだけ緩んでいた。本人なら絶対に認めない程度の、僅かな変化。
ハリーはそれを見て、何も言わなかった。
言わなくてよかった。
あの人なりに、十分だった。
ハリーは地下牢を出た。
歩き出す。
足取りはまだ重い。
でももう、どこへ向かうのか自分で分かっていた。
天文塔だった。
階段を上る。
石の冷たさ。
高い場所へ向かうにつれて薄くなる空気。
何もかもが、以前と同じだ。
扉を開く。
春の風が、やわらかくハリーを撫でた。
冬の終わりではない。
もう春だ。
空気には微かな温みがあり、遠くの木々には薄い緑が見える。時間は進んでしまったのだと、嫌でも分かる。
ハリーは塔の中央まで歩いた。
そして、ローブの内側からハンカチを取り出す。
白い布。
銀糸の刺繍。
そこにまだ残る、ドラコの微かな香り。
ここに、確かにドラコがいた。
一人でいろいろなものを背負っていた。
マルフォイ家の重圧。
劣等感。
生まれてから一度も安心を知らなかった心。
不器用で、繊細で、面倒くさくて、どうしようもなく愛しかった。
ハリーは風の中で、小さく呟いた。
「僕、君のこと絶対に忘れない」
その言葉は、誓いだった。
もう逃げないという。
苦しくても、思い出ごと抱えて生きるという。
愛していたことを、自分で薄めてしまわないという。
春の風が、また頬を撫でる。
その時、ハリーはふいに気づいた。
たとえいなくなっても。
たとえ二度と声を返さなくても。
残された人がその存在を覚えている限り、その人は完全には消えない。
ドラコはもうこの世界にはいない。
それは変えようがない。
けれど、ハリーの中にはいる。
冷たく見えて奥では怯えていた目として。
面倒くさい嫌味と、隠しきれないやさしさとして。
そして、自分がこんなにも愛していた人として。
永遠に。
それは慰めではない。
喪失が消えるわけでもない。
会えなくなった事実が軽くなるわけでもない。
でも、消えないのだ。
覚えている限り。
愛していたことを、自分で捨てない限り。
ハリーはハンカチを胸へ抱いた。
涙は出なかった。
もう、さっきのようには泣かなかった。
代わりに、胸の奥の痛みのすぐ隣へ、小さな温かさが生まれていた。
それで十分だった。
春の風はやわらかく、長く、ハリーの髪を揺らして通り過ぎた。
まるで、よくやったと言うように。
あるいは、やっと思い出したなと、少し意地悪く笑うように。
ハリーは空を見上げた。
青かった。
あまりにもきれいで、少しだけ腹が立つくらいに。
それでも今は、その空の下で生きていこうと思えた。
ドラコを忘れないまま。
ドラコを愛していた自分ごと、抱えたまま。
そしてその春の高い場所で、ハリーはようやく、失った人と一緒に生きていく最初の一歩を踏み出した。