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第38話:惨めで滑稽な、化け物
高札が砕かれてから、五日が過ぎていた。
あの日、焔が城中に叩きつけた怒りは、確かに一時の抑止力にはなったらしい。表立って私を罵る者はいなくなった。だが、それは事態が好転したことを意味しているわけではない。むしろ、より陰湿な、静かな形で事態は進行していた。
以前は朝から絶え間なく続いていたはずの、体調相談や調薬を求める来客が、ぱたりと途絶えている。先日まで山のように積まれていた依頼の書状も、今では一枚も届かない。代わりに届くのは、事務的な一枚の通達だけだった。
「今後の疫病後の経過観察並びに医療対応につきましては、神殿の管轄に一本化することと相成りました。これまでのご尽力に、深く感謝申し上げます」
差出人の名は、久我玄安。私はそれを何度か読み返した。感謝、という言葉の据わりの悪さが、妙に引っかかる。形式としては、何も間違っていない。私の役目は、確かに終わったのだから。
棚に並ぶ器具を見渡す。以前なら手狭に感じたはずの研究棟が、今はやけに広く、静かに感じられた。
コンコン、と障子の開く音。控えめな足音とともに、女官の一人が顔を覗かせる。
「あの、月白様。……今日の陛下は、朝議が長引いておられまして。夕刻までお戻りにならないとのことです」
「分かりました。伝言、ありがとうございます」
「……それでは、失礼いたします」
女官は、どこか申し訳なさそうな顔で一礼すると、逃げるように去っていった。以前なら、こんな伝言一つに、誰もあれほど気まずそうな顔をしなかったはずだ。だが、それを気にしたところで意味はない。陛下はお忙しい。それだけのことだ。
あの日以来、焔は朝から晩まで議会や謁見の対応に追われているらしい。被害を訴える貴族への対応、教会との今後の取り決め、高札を巡る宮廷内の混乱の収拾。どれも、皇帝として当然こなすべき職務だ。私はそれを、理性ではきちんと理解していた。
その日の昼過ぎ、私は往診鞄を手に取った。医療対応の一本化とやらが正式に決まる前に、一つだけ、自分の目で確かめておきたいことがあった。
○
何度も足を運んだ、お梅一家の借家を訪れるのは、思えばあの夜以来だった。往診鞄を提げ、供もつけずに一人で城下へと下りる。以前ならば当然のように行っていたことが、今は妙に大きな決断のように感じられた。
戸口に立つと、中から人の気配がした。声をかけようとした矢先、扉が開き、お篠が姿を現す。
「薬師様……! その、あの……」
「お邪魔して申し訳ありません。お梅殿の経過を、少し診せていただければと」
「あ、あの、妹はもうすっかり……その、聖女様のお力のおかげで、本当に……」
言葉を選びながら、お篠はゆっくりと戸を大きく開けた。奥には、床の上でにこやかに手仕事をしているお梅の姿が見えた。顔色は良い。回復は、間違いなく本物だった。
「……何よりです」
脈を取らせてもらう。拍動は安定している。発疹の痕も、綺麗に引いていた。
「経過は良好です。もう心配はいらないでしょう」
「本当に、ありがとうございます……。教会の皆様が、本当によくしてくださって」
私はそれ以上、何も言わなかった。言う資格が、もう自分にはないような気がした。
帰り際、お篠が私を呼び止める。その声は、消え入りそうなほど小さかった。
「あの……薬師様。……悪気はないのは分かります。ただ……、もうこれ以上、家へは……」
お篠は言葉を続けようとしたが、結局それ以上は口にしなかった。ただ、深々と頭を下げるだけだった。分かっている。彼女のせいではない。関わること自体が、今のこの一家にとっては危険なのだ。
往診鞄を提げ直し、私は静かにその場を後にした。
城門をくぐったところで、慌ただしく出立の支度をする一団と鉢合わせた。中心にいたのは焔だった。
私を見つけて、一瞬だけ足を止める。何か言いかけるように口を開き――
「……お前――」
「陛下、そろそろお時間が。玄安様がすでにお待ちでございます」
官吏の声が、その先を遮った。焔は舌打ちして、官吏を一瞥する。
「……分かってる」
焔は私に向き直ったが、続く言葉は結局出てこなかった。
「……悪い、今から玄安のところで会合だ。戻りは、遅くなる」
「分かりました。お気をつけて」
「ああ」
それだけ言うと、焔は官吏たちに囲まれるようにして、足早に去っていった。
いつもの、彼だ。ただ、忙しいだけ。それだけのはずだ。先ほど、何を言いかけたのだろう。考えたところで、答えは出ない。
○
一人きりの夜。私は棚に並ぶ器具を、意味もなく整理し始めた。使わなくなった薬草を分類し、瓶に貼られた品目名を書き直す。手を動かしていないと、何かに押し潰されそうな気がした。
棚の奥から、古い革袋が出てきた。焔と出会う前、森で幽閉されていた頃に、渇きを癒やすために使っていた保存食の袋だ。
その手触りに、唐突に記憶が引き戻される。
幼い日。冷たい床。使用人たちが、無言で私の荷物をこの革袋に詰めていく音。誰も、目を合わせようとはしなかった。壁際で交わされていた、大人たちの声だけが、やけに鮮明に耳の奥に残っている。
「……仕方あるまい。跡取り様がお生まれになったのだ。……もう、この子に用はない」
「お役御免、というやつだな。……不憫なことだ」
「触れるな。穢れが移る」
お役御免。今、その言葉が、目の前の状況とあまりにも綺麗に重なっていくのを感じた。
私は、道具だった。跡取りが生まれるまでの、予備の道具。跡取りが生まれた瞬間、私の価値は消えた。屋敷から遠く離れた森の奥に、幽閉同然で住処を移されたのだ。
そして今、陛下の呪いは完治した。反魂の秘薬は、役目を果たした。私という治療係の価値は、もうどこにもない。
いや、それだけではない。あの時よりも、質が悪い。私は、公の場で陛下の評判に泥を塗る「汚点」にまで成り下がった。かつては役立たずになっただけだった。だが今度は、いるだけで害悪ですらある。
震える指先で、革袋をきつく握りしめる。
(……ああ、なんて)
灯りを一つだけ残した部屋で、私は床に座り込んでいた。いつからそうしていたのか、自分でも分からない。
これまでのことが、全部無駄だったのだろうか。陛下が「皇后になった後も」と、当然のように口にした、あの瞬間。陰口を聞いて、恥じない自分でいようと、初めて思えた、あの瞬間。椿に稽古をつけてもらって、忘れていたはずの所作が、指先に戻ってきた、あの瞬間。菊の宴で、営業用ではない笑みが、ふとこぼれた、あの瞬間。この場所を、失いたくないと、柄にもなく思った、あの夜。
その全部が、今、一つの結論の前で、積み木のように崩れ落ちていく。
あぁ、なんで私は勘違いしていたのだろう。舞い上がっていたのだろう。半妖に幸せなんてあり得るわけがない、そんなこと私が一番わかっていたのに。
(なんて惨めで滑稽な化け物でしょうね)
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。涙は、出なかった。
もう、あの人が私を必要とする理由なんて、どこにもない。体は治った。評判は地に落ちた。契約は、もう意味を失った。
治療は、完了した。ならば、契約も、ここまでだ。
ここに、私の居場所はない。
その結論は、不思議なほど静かに、胸の中に収まった。灯りを見つめたまま、私はそれ以上、何も考えないことにした。今夜はもう、これ以上は。
部屋の隅に置かれた古びた革袋を、私はそっと膝の上に抱き寄せた。その重みだけが、今の私にとって、唯一確かなものだった。
コメント
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うわあああ第38話読み終わったよ…!!😭💔 もうね、月白の心情がひしひしと伝わってきて胸が苦しくなった…「お役御免」のフレーズが過去と重なるの、反則級のエモさだよ…!!焔ともすれ違ってるし、お梅の家でも「もう来ないで」って空気出されるし、でも月白は誰も責めないんだよね…それが逆に辛すぎる…😢 古い革袋を抱きしめるラスト、めっちゃ映像が浮かんできた…。この先どうなっちゃうの!!続きが気になって仕方ないよ〜〜!!繹尾ぴえんさんの文章、静かだけど重くて、心にずっしりくる…大好きです🌸✨