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その一
『ひかり書房』では小説や漫画の出版以外にも、週刊誌や月刊誌、雑誌の発行も手掛けている。梢と同期入社で、今は週刊誌『ひかりセブン』の編集担当をしている倉沢真由美が文芸部の元を訪れたのは、笑理の新作が発売されて間もない九月下旬のことだった。
「え、書き下ろし……?」
ミーティングルームに集まった梢、高梨、真由美だったが、真由美から提案されたのは、『ひかりセブン』で三田村理絵の書き下ろし小説の連載であった。
「先生は新作を書き終えたばかりだから、今すぐってわけには……」
「まずはプロットを考えていただいて、そこから話を詰めていこうかと」
「『ひかりセブン』で連載小説なんてこれまでなかったが、まさか売上が厳しいのか?」
企画書を読んでいた高梨からの意見に的を突かれたと思ったのか、真由美は改まったように深刻な顔になり、
「ここ数年、紙媒体の廃刊が後を絶ちません。雑誌だって、いくつも廃刊になりました。ですが、『ひかりセブン』は歴史ある週刊誌なので、編集長を始め私たち編集部は何とかこの波を越えたいと思ってます。そのために、三田村先生のお力をいただけないかと」
「どうしましょうか?」
梢は険しい顔で高梨の様子をうかがった。
「うちの会社で一番歴史あるメディアだ。俺だって、廃刊させるのは惜しいと思ってる。山辺君、一度前向きに検討してもらえるように、三田村先生に相談してくれないか」
「分かりました……」
「後は二人で話し合ってくれ。状況は都度、俺に報告してくれたら良い」
高梨はそれだけ言うと、部屋を出ていった。
「さすが高梨部長。会社全体のことを考えてくださってるんだね。やっぱり、あの話は本当だったんだ」
羨望の眼差しで呟く真由美に対し、梢は訝しい顔で前のめりになった。
「真由美。あの話って、どういうこと?」
「誰にも言わないでね。実はね、高梨部長、来年の春に執行役員になるって噂があるの」
と、声を押し殺して答えた。
「え、執行役員?」
梢は思わず目を見開いた。
「そう。けど、ただ役員だけにするのは惜しい人材だから、文芸部での仕事は続けるらしい。言わば、文芸部のドンになるってことだね」
「さすが週刊誌の編集やってると、会社の噂まで筒抜けなんだ」
「高梨部長が上層部に行けば、文芸部だって心強いでしょ」
「まあね」
「そんなことよりも、三田村先生の件、お願いね」
真由美に言い聞かせられるように言われ、梢は曖昧に頷いた。
その二
数日後の日中、梢は笑理のマンションに向かっていた。その道中、今から会うのはあくまで三田村理絵先生であり笑理ではないと、自分自身に言い聞かせている。公私混同はしないようにと思っていたが、結局笑理の姿を見てしまうと、編集者ではなく笑理の恋人になってしまうことが恥ずかしいと、梢は思っていた。
週刊誌の連載となれば相当な期間を要することになることは梢にも分かっており、新作を書き終えたばかりの笑理の負担を考えると、梢にとっては決して前向きになれない企画であった。
だが笑理はあっさりと一言、
「その企画、乗った!」
と、随分と乗り気な姿勢である。
「本当に大丈夫なの? 新作書き終えたばっかりなんだよ」
「だからだよ。新聞小説も終わって、新作も無事に出版した。私たち作家にとっては、一つひとつの仕事で食べていくかどうかの瀬戸際なの。それに、週刊誌の連載となれば幅広い年代層にも読んでもらえるし、長期の仕事だから、また新しい何かに繋がるかもしれないでしょ。長編小説にもなるだろうから、力も入るしね」
やはり書くことが好きなんだと、熱弁する笑理の瞳を見て梢は思い知らされていた。
「ただ、週刊誌の連載をするにあたって、一つだけ条件があるの」
「何?」
「編集者として、梢も携わってほしい」
「笑理……いや、三田村先生」
梢は慌てて訂正した。やはり仕事モードにならなければと、心の中でひたすらに言い聞かせた。
「いちいち直さなくて良いよ。私はね、梢に助けてもらいながら作品を書きたいの。前に言ったでしょ。私は、作品のために梢に付き合ってるんじゃない。梢と付き合ってるから作品が書けるんだって。だから、私を支えてほしいの」
編集者として、作家の意思を尊重するのが第一だと思ってる梢は、恋人ではなく担当作家として笑理の考えを大事にしようと思った。
社に戻った梢は、高梨に報告をした後、『ひかりセブン』編集部でゲラチェックに追われている真由美の元を訪れ、笑理の了承を得たことを告げた。
「本当ッ……!? さすが梢、ありがとう。早速来週の編集会議で報告しとく。梢が編集者として間に入ってくれたら、こんなにも心強いことない。どんな話にするのか、三田村先生と進めておいてもらえるとありがたい」
真由美は、作業をしながらのこともあり、少々早口でそう答えた。
笑理が忙しくなることは良いことだと思ったが、内心二人の時間を作れるのかということも、梢は考えてしまっていた。
その三
梢が去っていった後、早速笑理は書斎兼作業部屋にこもり、連載小説の構想を考え始めた。新作の仕事が決まったことでエンジンがかかったこともそうだが、笑理にとって嬉しかったのは、梢が新作を書き終えたばかりの自分を気にかけてくれたことだった。
相変わらず、作品を生み出すことになると集中してしまう笑理は、そのまま夜遅くまで作品の構想を練るのに時間を要した。
数日後の夕方、笑理から連絡をもらった梢はマンションを訪れた。来訪早々、梢は笑理から何ページもの書類がホチキス止めされた作品企画書を渡されて驚愕している。
「これ、もしかして今度の連載の……?」
「そう。エンジンがかかっているうちに、とりあえず全体の構想は作っておこうと思って」
梢は早速、企画書に目を通し始めた。作品で伝えたい意図や、メインの登場人物紹介、そして全体のプロットが細かく記載されている。
「すごい……。これ、この数日で作っちゃったの?」
「週刊誌連載小説だし、何より梢と一緒に仕事ができるでしょ。つい時間忘れて作ってたら、こんな風になっちゃった」
ふと梢は、不安な胸中を目の前に相対する笑理に打ち明け始める。
「あのさ……笑理。これから仕事が忙しくなったら、二人でゆっくりできる時間作れるかな? 前みたいに、作品を書き上げるまでデートお預けとか、そういうことにならないかな」
とは言ったものの、自分は編集者として作家の意図を尊重しなければと思った梢は、自分の発言に後悔をした。笑理ではなく、三田村理絵先生である切り替えも、近頃の梢は忘れがちになっている。
「あ……三田村先生が作品を執筆するために、集中したいのであれば、私は何でも受け入れます」
ハッと我に返り、梢は慌てて訂正した。すると、笑理が突然笑い出して、
「デートはちゃんとするよ。でもさ、私はこうして梢と一緒にいれる時間は、例え仕事でも、気分はデートだと思ってるよ」
「笑理……」
梢の背後に移動した笑理から、突然抱きしめられた梢は、心拍が上がり始めた。
「こうやって、一緒にいられるだけで良いじゃん。梢が側にいてくれるから、私は書けるんだから。嬉しかったよ。梢が、私のことを考えて連載のこと慎重に考えてくれたこと」
ささやくような笑理の声が耳元で響き、梢の耳は真っ赤になる。梢のドキドキは笑理にも伝わったようで、
「何をそんなにドキドキしてるの?」
笑理に意地悪そうに尋ねられ、梢は思わず口をつぐんだ。
その四
至近距離にいる笑理にドキドキしながらも、梢は何とか口を開き、
「ダメだよ、笑理。今は仕事中なんだから」
「けど、梢が私のこと、三田村先生って呼んだことあるの、数え切れるぐらいじゃん。しかもほとんど言い直してるし」
笑理からの指摘に、梢は何も反論できなかった。
「笑理の意地悪……」
「そうやって拗ねる梢、可愛いよ。もっといじめたくなっちゃう」
「やめてよ」
「今日は、会社に戻るの?」
「いや、今日は直帰するって言ってある」
すると笑理はフッと微笑んで、
「じゃあ、私と会ってる間は仕事扱いってことにしようよ」
「え?」
梢が笑理の顔を見た途端、隙もなく唇を奪われた。
「笑理……」
「良いでしょ、梢?」
誘惑するような上目遣いでこちらを見つめてくる笑理を見ると、梢も自身の理性が抑えられなくなっている。
「今日だけだよ」
今度は梢のほうから、笑理に唇を重ねていった。しかも一回ではなく、何度も。強引かもしれないと内心思っていた梢だが、笑理はすんなりとキスを受け入れている。
「こういう、おうちデートも悪くないでしょ」
またしても上目遣いをする笑理に対し、梢は負けたように、
「うん。笑理と一緒にいられるもんね」
「最初からそうやって言えば良いのに」
二人は強い抱擁を交わした後、寝室に向かうと体を重ね合わせ一夜を共にした。
翌日、出勤した梢は高梨から笑理の作品企画書の了承を得た後、真由美の元へ見せに行った。
「すごい! さすがは三田村理絵先生」
真由美は作品企画書を見て、思わず声を上げた。
「そりゃ、文芸部で注目されてる三田村先生の作品だもん」
「これで、少しでも売上部数増えると良いなぁ」
嬉しそうに微笑む同僚の姿を見て、梢自身も、編集者として、そして恋人として笑理のことを全力で支えようと決めた。
「記念すべき最初の連載は、いつから始まるの?」
「順調にいけば多分年明け最初の号からになると思う。正式なスケジュール出たら、また教えるね。三田村先生にも、そうお伝えしていただけると」
「うん、分かった」
梢も真由美も、それぞれの普段の業務に追われながらの準備であったが、しばらくして真由美から正式なスケジュールに関する連絡が届き、年明け最初の号から連載スタートとなり、一回目の原稿締め切りは十二月の上旬となった。
この件を笑理のメール宛に連絡をした梢は、一時間後に了解の返信を受け取った。文末には『追伸 今晩、マンションに来てほしい』と記されていた。
その五
定時退社をした梢は、そのまま笑理のマンションへと向かった。
ドアが開き笑理が顔を出すと、梢は中に案内された。すると突然、部屋の灯りが消えた。
「え、何?」
「♪ハッピーバースデー、トゥーユー」
笑理が歌いながら、一本のロウソクを立てたショートケーキを運んできた。
「梢、お誕生日おめでとう」
「あ……そっか、今日私の誕生日だった」
「はい、ロウソク消して」
梢は息を吹きかけて、ロウソクを消した。
「ありがとう、笑理」
「お祝いしようか。夕方から、支度してたんだよ」
梢がテーブルを見ると、そこにはフライドチキンやサラダ、ワインなど、祝いの食事が用意されていた。
「いつも通り仕事だったから、私、自分の誕生日すっかり忘れてた」
梢が苦笑して答えると、笑理も同じく苦笑して、
「実はね、私も今日梢の誕生日だってこと思い出したの。だから、プレゼントもまだ用意できてなくてさ、ごめんね」
「大丈夫だよ。笑理だって、これから忙しくなるんだもん」
「あ、ただね、これは用意したんだよ」
「何?」
「手、出して」
笑理にそう言われ、梢が手のひらを見せる。すると、笑理から何の変哲もない鍵が渡された。
「鍵? え……まさか」
ハッとなって梢は笑理を見つめた。
「一緒に住もうよ」
「それってつまり……同棲?」
「好きな人と一緒に暮らすのに、理由なんてないと思うし」
笑理と一緒に暮らすことなど、夢のような出来事で、梢は思わず顔に笑みが零れた。
「一緒に暮らせるんだ、笑理と」
「うん」
「ありがとう」
微笑み合った二人は、どちらかともなく顔を近づけ、優しい口づけを交わした。笑理とキスをし、同棲するための合鍵をプレゼントされたことは、梢にとって最高の二十六歳の誕生日となった。
「それと、これ。慌てて書いたんだけどね」
笑理から受け取ったのは、花柄の便箋に達筆な字で書かれた手紙であった。
『大好きな梢へ お誕生日おめでとう。いつもからかってごめんね。大好きな梢を目の前にすると、大事にしなきゃって思うのに、正直になれないのか、ついちょっかいかけちゃうんだよね。思いがけない形で梢と再会できて、こうして付き合っていることは、今でも夢なのかなと思ってしまうほどだよ。これからも、デートしたり遊んだり、たくさんの思い出作ろうね。改めて言わせてほしい。梢、愛してるよ。笑理より』
手紙の内容に感動した梢は、笑理に強く抱き着き、手紙の通りもっと笑理との思い出を作りたいと心底思ったのだった。