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ベルニージュと相席した机を挟んで、今度は老年の男と相対する。姿勢のためか体格の割にこじんまりとした印象を受ける。どこか気品のある顔立ちで、その鷲鼻には砂漠の中の巨像のような存在感があった。
男は湯気の立つ白湯を覗き込みながら言う。「私は剣持つ人と呼ばれている」
その佇まいに反して、その声は聞く者の背筋を伸ばさせるような威厳のある響きだ。
そしてさらにその威厳に反して、机の上に置いた右手は落ち着きなく動き回っている。太く筋張った指がまるで蜘蛛のように蠢いている。
「私はユカリと申します」その手から目を離し、セビシャスの鳶色の瞳を見つめて言った。「呼ばれているっていうのは、つまり……」
セビシャスはゆっくりと頷く。自分自身さえ納得しがたいかのように。
「ああ、覚えていないんだ。私は、私の名前を」
床がかたかたと揺れている。セビシャスが貧乏ゆすりをしていた。そして窓の外が気になっているらしいことにユカリは気づいた。
「どうかされました? たぶん入って来る心配はないと思いますけど」
ベルニージュが熱のない炎を見せてこっぴどくおどかしたお陰だ。
「ああ、いや、うん。少し落ち着かなくてね」セビシャスは自分の無精ひげを何度も撫でる。「性分だと思うのだが、不安になるんだ、こうしていると。どうしたものか、と」
机の上の右手は開いたと思えば閉じ、閉じたと思えば開いていた。
「こうしているとって、どうしていると、ですか? 椅子に座ることですか? それとも手を開閉することですか?」
嫌味っぽい言い方になってしまい、ユカリは慌てて口を閉じる。
セビシャスは驚いた様子で右手を机の下に引っ込める。代わりに左手が出てきた。本人は意識していないようだ。
「いや、何というのか。一つ所に留まることが、かな」
ユカリは少し思案して尋ねる。「……つまりこの席にじっとしていることですか?」
「あるいはこの食堂、この街、いや、私自身もよく分からない、というのが正直なところなのだ」
一つ所に留まれない、というと放浪民族をユカリは思い出す。彼らのような生活様式ではなく、個人的な癖のようなものということだろうが。
「それは記憶喪失と関係があるんですか?」
ユカリはセビシャスの揺れる瞳を見つめて、机に置いた蜂蜜酒の入っていた空の椀を両手で挟んで弄ぶ。
「いや、それも分からない。今もどこかに行ってしまいたい気持ちが膨れ上がってるんだ。あの調理場でも良いんだが」
「マーニルさんに怒られちゃいますよ。調理場は聖域だって言ってましたから」
ユカリもセビシャスの視線を追って調理場の方を見ると、マーニルが腕を組んでこちらを睨みつけていた。まさか聞こえたのだろうか。
「実際のところ、私は何一つ覚えていなくてね」机の上のセビシャスの左手は二本足で歩き回っている。世界の縁から椀の塔へ、そしてまた別の縁へ。「何故記憶がないのか、何故彷徨しているのか、いつから彷徨しているのか。何も記憶にない。記憶がないことに気づいてからは、多くの土地を渡り歩き、多くを見、多くを聞いた。大王国の裁定門にて終焉を待つ者ども、常夜ヶ原の沼に響く古き嘆き、挑む者あれど帰る者なき魔女の牢獄。アルダニに来るのは何度目だったか、記憶を失った後に蓄えた新たな記憶すら忘れてしまっている気がする。そしてある噂を聞いて、この街にやってきた」
ユカリがベルニージュに教えてもらったあの話に繋がる。
「この街で記憶が回復するという噂、ですね。にもかかわらず、むしろあなたの方が」
「そう。記憶を回復しているのが、私だという噂が立ってしまってね」セビシャスはうんざりした様子で首を振る。「失われたはずの、たとえば乳飲み子の頃の記憶を取り戻したという人物が、確かにこの街には何人もいるのだが、私自身にはそんな力などないし、あったならまず自分の記憶を回復するとも」
セビシャスの震える声から、正体の分からない不満と不安が伝わってくる。その正体を見極めようと、ユカリは質問を重ねる。
「でも噂が立つからには何かあるのでは? セビシャスさんだけが記憶を回復する力を持つ人物と噂されているのですから」
恰幅の良いセビシャスが子犬のような上目遣いでユカリを見る。
「ああ、その通りだ。それは否定しない。私にもそのような噂が立つだけの原因が、私にも正体の分からない不思議な力がある」
「不思議な力?」とユカリは繰り返す。
その時、秋の早風と共に再び食堂へどかどかと人々が入ってきた。しかし先ほどのそれぞれが無関係な野次馬的群衆とはまた違うようだった。
皆が揃いの濃紺の衣装を纏っている。どれもに意味ありげな波打つ文様が刺繍されている。ユカリはこの二か月ほどの間、何度もその衣を見てきた。
それは今、このリトルバルムの街で勢力を拡大している新興の宗教組織、生命の喜び会だった。新興宗教にしては、長く濃い歴史の刻み込まれていそうな年季の入った衣装だ。
ユカリは今度こそ魔法少女に変身するのも致し方ないと席を立とうとするが、セビシャスに制止される。
集団の中から男が一人進み出て、深くお辞儀をする。自分に向けられている敬意ではないと分かっていてもユカリは居心地が悪くなった。
セビシャスよりも年若で細面の男だ。ただただセビシャスに対して強い敬意を抱いていることは、その立ち居振る舞いや眼差しから明らかに感じとれた。
「お待たせいたしまして申し訳ございません。セビシャス様、お迎えに参りました」
「ああ、こちらこそすまないな。世話をかける、キーツ君」
そう言ってセビシャスはまるで玉座から腰を上げるようにゆっくりと威厳たっぷりに立ち上がる。
ユカリはその男キーツとセビシャスを交互に眺める。少なくとも敵対関係でないことは両者の表情に現れていた。
「セビシャスさん? お知り合いなんですか?」
そうとしか見えないが、そう尋ねる他なかった。
しかしキーツと呼ばれた男がユカリとセビシャスの間に割って入る。
「申し訳ないが、直接会話をするのはやめていただきたい」
ユカリも負けずに言い返す。「誰だか知らないですけど、突然そんなこと言われる筋合いはありません」
「まあ、待ってくれ。キーツ君」セビシャスがキーツの肩を掴んで脇に下がらせる。「すまないね。ユカリさん。こちらは生命の喜び会の神官キーツ君だ。色々と世話になっていてね。いつもこうなんだ。私がどうしてもどこかへ行きたくなって、彷徨し、彼らが迎えに来てくれる。記憶を失い、彷徨を止められない私を何とか見出してくれるんだ」
キーツは大げさに首を垂れる。
「勿体ないお言葉、全ては哀れなる民草のためです」
ユカリには胡散臭い人々としか思えなかった。しかしここで不審を露わにして敵対するのも得策ではない、と弁える。
「分かりました」ユカリはキーツの咎めるような眼差しを無視する。「あまり力になれませんでしたね。私も記憶が回復する現象について調べるつもりだったので、何か分かったらお知らせします」
「ああ、それは嬉しい。本当にありがとう」セビシャスはユカリに上品に微笑みかける。「私の方でもそのようにするよ。何かあったなら頼ってくれ。きっと力になろう」
キーツに導かれるようにして、セビシャスたちは食堂を立ち去る。少なくとも生命の喜び会の信徒たちはユカリに対しても礼儀深い別れの挨拶を残していった。
ユカリは再び椅子に座り、しばらく、窓の外の彼らの去り行く姿を眺める。坂を下っていき、リトルバルムの中心、旧天文台の方へと歩いて行った。姿が見えなくなるまで見送ると、ユカリは席を立つ。