テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
大きく釣竿を振りかぶり、一息に振り下ろす。大風を浴びる柳のように釣竿は大きく撓り、根元で折れた。
「あんた。何してんだい?」釣る者が呆れた眼差しを送る。
巨大な毛むくじゃらの使い魔だ。今にも零れ落ちそうな眼玉、尖った鼻面、レモニカの二層倍はあろうかという丸々とした巨体の獣だ。後肢が一本しかなく、尻尾との二本で直立している。
その獣、釣る者とソラマリアの姿をしたレモニカは隣り合って釣竿を握っている。
「この体、力加減が難しくて。釣竿を壊してしまいました。申し訳ありません」
「気にしないで良いよ。新しいの作るからさ」そう言って釣る者は古びた桟橋の一部を剥ぎ取ると、レモニカに手渡す次の瞬間には不思議な力で割れた木材は棹に、古釘は釣り針に変わっていた。
大穴に落とされてから後、最初にやって来たのはユカリたちだった。しかしユカリたちが聖女やモディーハンナを追い払ったわけではなかった。そもそも城が崩壊し、出てきた時には既に彼女の質の姿は無かったらしい。とはいえ、城の崩壊に気を取られていて、僧侶たちどころか、大穴に気づくのも遅れたらしいが。
レモニカたちはグリュエーの助けで縦穴から這い出た後、イーヴズ連山を越えて北上するべく、ドーロアゴールの街を発った。もちろん街の皆が愛着を持っていた古城を崩壊させた現場を見咎められぬよう、逃げるように、だ。そうして火事場泥棒のようにそそくさと街を離れ、たどり着いた愛し湖の古びた桟橋のそばでレモニカと釣る者の二人は釣りに興じていた。掘る者もその場にいるが、レモニカがソラマリアの姿に変身するためだけに貼られている。
巨人の中でもとりわけ美しく、黄昏時に山々の向こうから現れる星々に喩えられたバゾ湖は神々との戦いにおける最初の戦死者だった。巨人たちはその損失を深く嘆き悲しみ、神々の目から隠すようにイーヴズ連山の山間に密かに埋葬したのだった。人間が近づくこともまた滅多になく、古の大工唯一人の手になる桟橋も朽ち、今や腐り果て、役に立つものではない。
「ところで、この体ってどういうことだい?」と釣る者が訝しげに問う。
「はい。えーっと――」レモニカは再び釣竿を振りかぶる。そして振り下ろすとともに小さな悲鳴をあげる。肩に鋭い痛みが走ったのは針が引っ掛かったからだ。同時にそこに貼り付けていた掘る者が剥がれ、今度は釣る者の最も嫌っているらしい何かにレモニカは変身した。
人間の男のようだ。簡素な襯衣に革の長靴、厚手の外套、鍔広の帽子、使い込まれた短剣。多少襤褸だが、服装に異常なところはない。日焼けした肌は荒れているが、頑強な体にはいくつか古傷がある。
釣る者が鼻を鳴らし、目を細める。
「変身できるのかい? あんた」
「できる、というわけではなく、これは呪いですわ。最も近くにいる者の最も嫌いな生き物に変身してしまうのです」
「難儀だねえ。するとその姿は海賊だね。あたしの一番嫌いな人種さ」
改めてレモニカは自身の姿を見なおす。海賊と言われれば海賊のように見えてくる。特定の個人を嫌っている訳ではない場合、この姿の人物は一体何者なのだろう。考えてみればそれは動物でも同じことだ。平均的な姿なのだろうか、とレモニカは尤もらしい仮説を立てる。
「あ! 掘る者の封印はどちらへ!?」
「針にくっついて湖に沈んじまったね」
レモニカは慌てて釣り糸を手繰り寄せるが、封印は失われていた。冷たい湖の底に沈んでしまったなら探すのは困難を極めるだろう。絶望的な気持ちで釣る者に視線をやると溜息が返ってくる。
「まったく。仕方ないねえ」
釣る者が既に投げ込んである針を揺するように釣竿を操り、そして釣り針を回収する。すると針に掘る者の封印がくっついていた。それが今日最初の釣果だ。
「それで? 解呪の目途は立ってんのかい?」釣る者は釣り糸の沈む湖面を見つめながら特に興味無さそうに尋ねる。
「いいえ。ただわたくしに呪いを差し向けた人物がガレインにいるので、捕縛することが今のところの望みですわ」
レモニカは再びソラマリアの姿に変身して、同じく昼食に供する魚を釣るべく釣竿を握っている。
「なんだか子供の悪戯か下らない嫌がらせのような呪いだね」
「確かに。効果だけ聞けばそのように思うことも無理からぬことでしょう。しかしこれが中々凶悪な呪いなのですわ。時に、人を、死なせさえ……」
つい先日もモディーハンナに上手く利用され、百足の姿ながら手も足も出なかった。こうしてソラマリアの姿になればその膂力は大いに役立つのだが、多くの不幸を生んだ解きたい呪いを利用するというのは気が引けるものだ。
「他には何をしてるんだい?」
「他、と仰いますと?」
「呪いを緩和するとか、幻覚で覆い隠すとか、ただ単に素早く移動できるようになるだけでも、その変身の被害は減らせるだろう? そういう魔術の研究ないし探索だよ」
考えもしなかった様々な対策を並べ立てられ、レモニカの頭は強く打たれたかのように真っ白になっていた。
何も言えないでいるレモニカに毛むくじゃらの釣り人は畳みかける。
「できることは沢山あるはずさ」
責め立てるような言葉づかいではないが、レモニカを恥じ入らせるには十分だった。呪われた王女はソラマリアの顔を赤らめ、返す言葉を探すが言い訳の一つも思いつかない。
「ねえ、まだ……。どうかした?」と背後から声をかけられる。
レモニカと釣りに通じた使い魔のもとにやって来たのはベルニージュだった。すぐに妙な雰囲気に気づき、ソラマリアの顔と獣の顔を窺っている。
「あんたは魔法使いだね」と釣る者がベルニージュの赤い瞳を見つめ返す。「それに相当優秀だ。あんたたちの中でも、いや、広く世を探してもあんたほどの魔法使いは早々いなさそうだ」
「あ、分かる?」気をよくしたベルニージュは笑みを浮かべる。「いなさそう、というか、いないんだけどね」
「でもこの子の呪いは解けていない」
反転して、朱き槍穿天の一穂よりも鋭いベルニージュの眼差しが釣る者に突き刺さる。
「言っておくけど正体不明の呪いを解くってのは――」
「難しいことさ」釣る者は認めるように頷く。「なら何故解けない呪いを解くことにこだわる? 利己心か、それとも恐れているのか」
ベルニージュの感情の昂りが頂点に達する前にレモニカが口を挟む。
「何か、呪いを解くことを目指すにしても、それまで呪いの被害を減ずる対策などはないものか、という話をしていたんです」
ベルニージュがゆっくりとレモニカの方を向く。その表情はいつものベルニージュだ。
「なるほどね。何か考えてみようか」
釣る者が釣りに戻りながら言う。「何をしたいかはレモニカに決めさせるべきだよ」
「それって!」とレモニカは咄嗟に声を出し、それから続きを考える。「えっと、つまり、新しい魔法を考えるということなのでしょうか?」
「何をやりたいかによるね」とベルニージュは水魔が好む風のない湖畔のように冷静に答える。「既に丁度いい魔法があるかもしれないし、ないなら探すか作ることになる。当然レモニカの努力が不可欠だけど磨く者の力を借りればかなり時間を短縮できると思うよ」
「実は一つ、思いついていることがあります。まず変身するものが多種多様である以上、全てに対応可能な策というのは難しいと思います」
「そうだね。場合によっては魔術を行使できない何かに変身してしまう可能性はある」とベルニージュが補足する。
「ですから変身してから対応するのではなく、事前に対策を練る方が広く対応可能だと思います。そこで、以前にわたくしの呪いは他者の最も嫌いな者を魂か記憶から読み取っているという話が出たと思うのですが、同じことをわたくし自身ができないでしょうか?」
「なるほど」とベルニージュが感心した様子で何度か頷く。「出来るかもね。同じことをするか、あるいは呪いの読み取りを盗み読みするか。ただし私の知る限り他にそんな魔術はない」
ベルニージュは釣る者の方をちらりと見る。巨大な獣はかぶりを振る。
「あたしも知らない。力になれなくて済まないね」
「いいえ、わたくし、また大きく前進できそうな予感を得ましたわ。ありがとうございます。釣る者様」レモニカは窺うようにベルニージュに目を向ける。「それで、作ることは可能なのでしょうか?」
「さあね。それを知るためにも作るんだよ」そう言って更にベルニージュは釘を刺す。「魔術を身に着ける以前に、作る段階からレモニカの協力は不可欠だからね」
「もちろんです。覚悟の上ですわ。どうかよろしくお願いします、ベルニージュ様。わたくし精一杯取り組ませていただきます」
とにかく言い合いは終わりだ。そういう意味も込めてレモニカは宣言した。
「ところで」とベルニージュは再び冷ややかな眼差しを釣る者に向ける。「そろそろ昼食にしたいから手を抜くのはやめて本気出してもらえる?」
「何を言っているのやら。あたしは本気で釣りを楽しんでたんだよ」
その後、釣る者が釣りの魔術を行使すると湖に棲む魚が全て獲れたのではないかというほどの釣果を得た。もちろん、そのほとんどを返すことになるが。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!