●選択
●第4話
すると健也さんがこちらを向いたので「どうぞ」と促された。
「俺は、美知佳に会った方がいいと思います」
坊主頭の男性が小さく溜息をつく。
「古屋さん、あなたもですか?」
「いやいや」俺は手を前に出して制した。
「俺はあんたらと違ってちゃんと考えて発言しているつもりだよ」それから女性の方に顔を向けなおして続けた。
「あんたが言っていることはもっともだ。
俺は美知香がどうなったのか気になっているから会いたいとは思う。
だけど正直言って今のあいつに会うのはかなり難しい。
だからまずは彼女と一番仲の良かったあんたに会いに来たんだよ」
そう説明すると、女性は顔を伏せたまましばらく考えていたが、小さくうなずいてくれた。
それからゆっくりと顔を上げると、健也さんの方をじっと見据えた。
健也さんが微笑むと「わかった」と言って立ち上がる。
俺もそれに合わせて席から腰を上げようとすると、女性から待ったが掛かった。
「すみませんが、先に美知佳の写真を見せてもらってもいいでしょうか」と言われたので「ああ」と返事をしたのだが、健也さんと目を合わせると、彼が代わりに返事をするのだった。
「いいですよ。
ただし携帯電話に入っている写真だけです」
そうして彼女は携帯電話を取り出すと、画面を開いてから操作を始める。
するとしばらく経ってから「これが娘です」と言った。
「そう、これで合っています」そして俺の方を見ると、申し訳なさそうな表情を浮かべるのだった。
「古屋さんにも見せてくれますか?」
俺は少し迷った末に自分の携帯電話を取り出して、カメラ機能を起動させると液晶モニターに向かってかざした。
すると画面に、少し緊張した面持ちでピースサインをしている女性が現れた。
その隣には、今よりも若いと思われる女性も映っている。
少し背が低いところを見るに小学校中学年ぐらいか、髪型の感じから女の子だろう。
二枚目とは言えない平凡な俺の横で、少し気恥ずかしそうにしている。
それが今の美知香の姿で間違いない。
彼女は少し不機嫌そうな顔をしているが、それでも愛想笑いだと分かる。
きっと照れ隠しに違いない。
俺は懐かしさに胸を震わせた。
たった数ヶ月前の話なのに、ひどく昔のことのように感じられる。
俺は思わず目を細めた。
そうしなければこみ上げてくるものが零れ落ちてしまいそうだったからだ。
女性は俺の様子に気が付かなかったらしく、「すみません」と言うと俺から写真を受け取ってしまった。
健也さんはそれを見守ると、今度は立ち上がって部屋を出て行こうとする。
そして扉を開けると「じゃあ行こう」と皆に呼びかけて出て行くのだった。
「行くってどこにですか?」
健也さんが振り向く。
彼は悪戯っぽく笑うと「そりゃあ決まってるじゃないか」と言った。
「彼女のところに」
○ 彼女が待っているのは病院の一室だった。
受付で病室の番号を聞いてからエレベータで階下に降り、リノリウムの床を踏みながら廊下の奥まで歩くと突き当りの角部屋に辿り着いた。
プレートを確認する。
個室だった。
部屋の入口は開け放たれていて、中には丸椅子がいくつか置いてあるだけだが、窓からの日差しで明るい。
奥の窓際にベッドが置かれている。
そこに横たわっている女性が、杉村美知香らしい。
彼女は布団の中で体を丸めるようにしながら静かに眠っているようだ。
健也さんに続いて室内に入り、彼女の傍らに立つ。
「よく来てくださいました」と女性が言って頭を下げた。
「ありがとうございます」
しかし俺は彼女から視線を外すとすぐに俯きながら首を横に振った。
礼を言われる筋合いはないのだと思った。
美知香が誘拐されたのは他でもない、俺が原因なのだから。
すると女性がまた口を開いた。
「私はこれから警察の事情聴取を受けることになっていました。
なので杉村さんにはもう二度と会えないと思っていたんです。
今日こうして貴方と会うことができて本当に嬉しいんです」そう言うと、彼女は改めて俺の目を見てから言った。
「お久しぶりです、杉村さん」
4月7日月曜日午前9時45分(以下省略)
私は彼女を見た途端に言葉を失った。
それは無理もないことだった。
なぜなら私の知っている彼女とはあまりにもかけ離れていたから。
痩せたのも、老けたのも、髪が短くなっていたことも別に驚くに値しない。
問題はその服装である。
彼女は淡いベージュのカーディガンを着ていた。
それ自体は何も変ではないのだが、問題なのは着方だ。
その袖口を両手でつかんでいるのは、まだ理解できるとしても。
そこから更に肘の内側あたりで左右の手をクロスさせているのは何なのだろうか?それは一体どんな意味があるというのだろう?しかも、右手と左手でそれぞれ反対方向を指しているではないか?これは何かの儀式なのか?それともこの女性はどこか壊れているのか?いやそもそも何故このような奇怪な格好をしているのか?私を騙すためのお芝居だとしたら実に素晴らしい完成度だが、残念なことにそのような気配は全く感じられない。
この女は本気でこんなことをやってやがるのだ。
そう理解した瞬間に私は強烈な吐き気を覚えて、慌てて洗面所へと向かったが、胃の中のものを空っぽにして戻ってみてもその気持ち悪さは無くなってはくれなかった。
そんな有様だから、当然のように私は美知香の顔をよく見ることができなかった。
彼女が俺に話しかけてきても、生返事を返すだけになっていた。
それに気づいた彼女が心配そうな顔をする。
そこでようやく我を取り戻した俺は、「いや」と短く言って首を横に振ることで平静を取り戻し、「なんでもないんだ」と言ってみせた。
それを受けた彼女が安心したような笑顔になる。
どうやら俺がショック状態にあると思い込んでいたらしい。
それでこんな奇妙な格好をしていたのだ。
まったく馬鹿げた発想ではあるが、もしそうであるならば俺に対する嫌がらせとして満点に近いと言えよう。
それとも、まさか俺が喜ぶと思ってやったのではないだろうな。
そんな事を考えてしまうのも、目の前にいる美知佳らしき女の恰好が悪い。
俺を不快にさせるという点においてはこれ以上無い程に完璧で理想的なスタイルを披露してくれていた。
俺が知る彼女とはまるで別物だった。
何がそこまで彼女を変貌させたのだろう。
あるいは美知佳の身にいったいどのような変化が起きたのだろうか。
俺にわかるわけがなかった。
俺の記憶の中に存在する美知佳とはかけ離れた存在がそこに横たわっていた。
彼女は俺に対していくつか質問をした。
しかしそれも全て耳を通り抜けていった。
だからほとんど覚えていないが、唯一、覚えていることがひとつあった。
質問がひと段落ついたところで美知佳がこう聞いてきたのである。
「あたし、どうしてここに連れてこられたんですか?」と聞いてきた。
俺は反射的に顔をしかめたが、それでも質問の意味を理解しようと努力した。
どうしてここに来たのか。
美知佳の疑問に込められている意図を考えるために、俺はまずこれまでの経緯を思い返してみた。
最初に思い浮かぶのは先ほどの健也さんの説明だったが、俺が口にしたのは次のような台詞だった。
「美知香さんと一番仲の良い古屋さんが、直接、本人から聞きたいって」
「そうですか」
彼女は小さくうなずいてから、再び口を開く。
「あの、お父さんはどうしてますか?」
「健也さん?」健也さんは、部屋の入り口付近に立っていた。
俺たちの様子を眺めながら「あ、うん、今は席を外しているけどね」と返事をするのだが俺は気にならなかった。
「そうですか……わかりました」そしてまた黙ってしまうのだった。
俺をじっと見据えてくるので仕方なく声をかけた。
「どうしました?」
すると、彼女はゆっくりと手を持ち上げて人差し指を立てると、俺の胸にそっと押し当てるのだった。
「え?」
それから彼女は言った。
「ここにいるのは、あたしとあなただけですよね?」
「そうです」
すると美知佳は自分の口元を俺の耳に近づけると、小さな声で囁いてきた。
「二人きりになりたかったから」
○ 病室を出た後、健也さんが携帯電話を取り出した。
どうやら誰かに連絡を取り始めたらしい。
坊主頭の男性が「誰にかけるんですか」と聞くと「知り合いです」と答える。
しばらくして健也さんが電話を切ると「ちょっと待っていてください」と言ってその場を離れ、階段を上っていった。
俺と女性と坊主頭の男性だけがその場に取り残されたのだが、何を話せば良いかわからずに、ただ突っ立っているしかなかった。
女性の方が先に沈黙に耐え切れなくなったようで「杉村さん」と呼びかけてきた。
「はい」
「その節は大変ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした」女性はそう言うと、深々と頭を下げるのだった。
「いや、そんなことは……」俺は戸惑いながらも顔を上げるように促すのだが、彼女はなかなか頭を上げない。
困り果てた末に「でも結局、犯人は捕まらなかったんですよね」と言うと、女性はやっと顔を上げてうなずいた。
「はい。
警察の方々には本当に感謝しています」
「俺は何もしていないですよ」
「いえ、そんなことありません。
古屋さんのご協力があったからこそ、今回の事件が解決したのですから」
「そういうものでしょうか?」
女性は微笑むと、またも頭を深く下げるのだった。
俺は少し迷った末に聞いた。
「美知香の誘拐事件の真相は、もう警察に伝わっているのですか」
「いいえ」女性は首を振る。
「私が喋った内容は全て、新聞やニュースなどで報道されている情報の範囲でしか知りません」
「そうですか」
「はい」
俺はふと気になって女性の横顔を盗み見た。
すると女性は俺の方を見ていたので目が合ってしまった。
俺は慌てて目をそらすと、今度は自分の足元に視線を落とす。
「杉村さん」女性が呼びかけてくる。
「はい」
「お礼を申し上げるのが遅くなりましたが、助けていただきありがとうございました」
俺は首を横に振った。
「お礼なんて必要無いです」
「いえ、そんなわけにはいきません」「だって俺が誘拐犯を捕まえたのは、偶然みたいなものですから」
「それでも杉村さんが行動を起こしてくださらなかったら、私たちは娘を助けることができなかったでしょう」
「そうかもしれませんが」
女性が言う。
「杉村さんは、私たち家族にとって恩人です。
そして同時にヒーローでもあるんです」
俺はますます困惑してしまった。
「買い被り過ぎだと思いますよ。
それに、俺が美知香さんを助けたのは、俺自身が彼女に助けを求めたからなんです。
だからその、あまり大げさに言われると恥ずかしいというか」
女性が笑う。
「照れていらっしゃいますか? 可愛いですね」
俺が黙っていると、女性は言葉を続けた。
「私はずっと美知香に、貴方のことを自慢していたんです。
優しくて頼りになる素敵な男性だと」
「美知香が」
「はい」
俺は彼女の方を向くと、胸の前で両手を組んだ。
「美知香は今、どこにいるんですか?」
「わかりません。
誘拐されてから一度も会っていないんです」
「そうですか」
俺は大きく息を吐いてから言った。
「あの、お願いがあるんですが」
「何でしょうか」
「美知香さんに会わせてもらえないでしょうか」
「それはできかねます」
予想はしていたが、はっきりと断られた。
俺は続けて言う。
「美知香さんに会いたい理由は、二つあります。
一つは、彼女の無事を確認したいから。
もう一つは、お詫びを言いたいからです」
「お詫びと言いますと?」
「先日お会いした時、俺は酷いことを言いました。
本当にすみませんでした。
どうか謝らせてください。
申し訳ありませんでした」
俺はもう一度、頭を下げた。
女性は俺に近寄ってくると、肩に手を置いた。
「杉村さん、お気持ちは嬉しいですが、それは美知香のためにもならないと思うのです。
あの子は優しい子なので、私や夫の身を案じてくれるのは間違いないです。
だけどきっと、傷つくことになる。
だから、それだけはしないであげてほしいんです」