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●安堵
●第5話
俺はゆっくりと顔を上げた。
女性は続けた。
「私も夫も、美知香も、誰も怪我などしていません。
もちろん、命の危険に晒されるようなこともありませんでした。
すべては無事に済んだことです。
だからもう、過去のことにしてはくれませんか? 美知香はこれから先の人生で、何度も同じような目に遭うはずです。
その度に私や夫が心を砕いていたのでは、いつか共倒れになってしまいます。
だから、私ども夫婦のことに関しては忘れて、美知香との思い出だけを大事にしてやってください。
それが美知香にとっても幸せなことだと私は思うんです。
あの子がこれまで通り幸せに暮らしていけるのなら、私はそれで満足です」
俺はしばらくの間、何も言えなかった。
何か言わなければならないとわかっていたのだが、何を言うべきかがわからないのだった。
「杉村さん」女性が俺の名前を呼ぶ。
「あなたは立派な方です」「違います」俺は短く否定する。
「俺は立派なんかじゃない」
「そんなことありません。
少なくとも、私の目に映る貴方はとても誠実で、心根のまっすぐな方です」
「違う」俺は女性の手を振り払うと、一歩、後ろに下がった。
「俺はただの卑怯者です。
美知佳さんにあんなひどいことを言う資格は無かった」
「美知佳?」
「美知佳さんが目の前にいたら、同じことを言ったかもしれない。
いや、もっと酷いことも言っただろう」
「どういうことですか?」俺は深呼吸をした。
「美知佳さんが古屋美知佳本人なのかはわかりませんが、仮にそうだとしておきましょう。
もしも彼女が美知佳さんだったとしたら、俺には、貴女や健也さんの口から真実を聞く権利があるはずだ。
それなのに俺は、勝手に想像して、勝手な思い込みに基づいて、彼女を責めたんです。
美知佳さんに謝らないといけません」
「ちょっと待ってください」女性は俺の袖を引っ張った。
「話が見えないのですけれど」
「最初から説明します」
「そうしてください」
「まず最初に、先ほど健也さんから聞いた話をしましょう。
美知佳さんは、古屋さんの娘さんなんですね?」
女性はうなずいた。
「そうです」「そして古屋さんは、美知佳さんを預かっていると言った。
健也さんは、美知佳さんを家に帰した方が良いと判断したようです」
「ええ」
「ところが貴女は、健也さんの意見に反対した」
「どうして知っているのですか?」「俺の推測です」
「ああ、そうでしたね」女性はため息を漏らす。
「どこまでご存じなのですか?」
「美知佳さんを匿っているのは、貴女たち親子ではなく、美知佳さんの父親だというところまでです」「そこまでご存じならば、全てをお話ししなければなりませんね」
「お願いします」
「美知佳は本当の娘ではありません。
養子縁組で引き取った子供なんです」
○ 彼女は語り始めた。
古屋暁人と美知佳の馴れ初めについてである。
古屋氏は、美知佳を養子に迎えることにした理由については、決して語ろうとしなかった。
だが、美知佳を実の娘であるかのように可愛がったことは事実らしい。
「美知佳が二歳の時、両親が交通事故に遭いました。
その時、美知佳だけが助かったんです」彼女は、まるで自分が事故に遭ったかのような表情を浮かべた。
「両親は即死でしたが、奇跡的に美知佳だけは一命を取り留めました。
ただ、その時に頭を強く打ったらしく、意識不明の状態が続きました。
そのせいもあってか、記憶の混濁も見られたんです。
特に顕著なのは言語面でした。
幼児期の美知佳は、言葉を覚えることができませんでした。
いわゆる失語症です」
俺は思わずつぶやいてしまった。
――そんなことが。
彼女は俺の方に顔を向けた。
俺は慌てて口を閉じる。
彼女はうなずいた。
「辛い経験だったのでしょうね。
当時の美知佳は、自分の名前さえ覚えることができませんでした。
古屋さんがつけた『美知佳』という名前は、古屋さんが必死になって考えたものです。
そうでもなければ、美知佳は一生、『美知佳ちゃん』と呼ばれ続けることになったでしょうね」
俺はまたも口をつぐむ。
「幸いにも美知佳は回復しました。
しかし、失われた時間を取り戻すことはできなかったんです。
彼女の脳は、その年齢にしては驚くほど発達しています。
だけど、言葉を理解できなかったんです。
言葉だけじゃなく、文字も書けなかったし読めもしません。
だから、物や色や音など、感覚的なことについての記憶力は非常に優れていますが、知識面についてはからっきしなんです。
つまり、普通に考えると当たり前にできることが、美知佳にはできないんです」俺はようやく、美知香が言っていた意味を理解した。
美知香は勉強ができないと言っていたのだ。
「私は夫と相談して、美知佳を引き取ることに決めたんです。
彼女の両親はすでに他界していたので、親戚に預けるという選択肢もありましたが、そうすると彼女が世間から孤立してしまう可能性がありましたから」
俺は無言のまま、首を縦に振った。
「それに何より、私自身が美知佳を娘のように思っていたからです。
この子と一緒に暮らせたらどんなに良いだろうかと考えたのです。
夫は賛成してくれました」「ご主人が」
「はい」
「美知佳さんはご両親のことを憶えているんですか?」
「いいえ」女性は首を横に振る。
「美知佳は両親の顔を見たことすらないんです」
俺は絶句した。
「美知佳は生まれつき目が不自由なんです。
だから彼女の世界は暗闇の中で完結しているんです。
視力を失った代わりに、他の五感が異常に発達したというわけですね。
美知佳は視覚以外のすべての感覚を使って、世界を知覚することができるんです。
彼女の言うことを信じれば、ということなんですが」
俺は黙って聞いていた。
「だから美知佳は、私が母親であることを知らないんです。
私は美知佳の母親代わりであり、姉のようなものであり、友人でもあり、教師でもあったんです」
「美知佳さんはそのことを?」
「知っています」俺は今度こそ言葉を失ってしまった。
「私たち夫婦が、美知佳を養子に迎えるにあたって、古屋さんに頼んだことがあります。
美知佳に本当の親のことを話さないでほしいと。
美知佳が真実を知るのは、もう少し成長してからが良いと私たちは考えていたからです。
ですから、古屋さんが美知佳に、自分は父親だと偽っていることに関して、私は文句を言うつもりはありません。
むしろ感謝したいくらいです。
美知佳は、本当の父親と暮らしていると思っている方が幸せなんですから」「美知佳さんにとっては、貴女と健也さんは育ての親だということになる」
「そういうことになりますね」
「わかりました」「それから」
俺は女性に先んじて言った。
「健也さんが古屋さんに騙されていることに関しても、何も言いませんよ」
女性は俺の目を見て、微笑んだ。
「ありがとうございます」
「古屋さんは、どうしてそんなことを? 美知佳さんを騙すことに、何の意味があるんです?」
「美知佳を守るためです」
「守る?」「はい。
美知佳が事件に巻き込まれたのは、古屋さんが美知佳を保護したことが原因です。
あの子は巻き込まれたんです」
「あの子の父親が古屋さんだったんですか?」
女性はかぶりを振る。
「違います。
美知佳の父親は、古屋さんとは別人です」
古屋さんは美知佳の父親ではない? では誰なんだ? 美知香の話では、古屋健也と美知佳の実父は同じ人物なのだと思っていたのだが。
「美知佳の父親は、古屋さんとは知り合いのようですけれど、それだけの関係です。
それ以上の関係は何も無いんです」
「では一体、誰が美知佳さんの父親なんですか」
「美知佳の父は、古屋さんと同じ施設で育った人間です」「同じ施設?」
「児童養護施設ですよ。
美知佳もそこで育ちました」
俺は目を丸くするばかり。
「では、古屋さんは……」
「古屋さんは、美知佳の父の兄なんです」
○ 古屋暁人は、古屋健也の実の弟である。
二人は共に、身寄りのなかった孤児として、同じ養護施設の園長に引き取られたのだという。
「古い言い方をすれば、義兄弟です」「ああ」
それで合点がいった。
「それなら確かに美知佳さんを託す相手としては相応しいかもしれない。
でも、血は繋がっていないんですよね」
「ええ」
「それならば、古屋さんは美知佳さんにとって、叔父に当たるはず。
なぜ美知佳さんは、古屋さんではなく、古屋さんが保護者であるはずの古屋健也に懐いているんですか」女性は答えをためらった。
そして意を決するように息を吐くと、俺の方を向いた。
「古屋健也には戸籍がないからです」
古屋健也に、美知佳の父親が誰かわかるわけがなかった。
彼の出自を遡ると、辿り着くのは乳児院だったからだ。
彼は生まれついて、一人ぼっちだったのだ。
彼が物心ついた時にいた施設は、「捨て子」を拾ってくることで知られていた。
古屋健也もその中の一柱であったにすぎない。
彼には苗字が無かった。
なぜなら、古屋という名は施設から引き取られた後、新たに与えられたものだったからだ。
その事実を知った時の、健也の衝撃といったらなかっただろう。
健也は当時の様子を語るとき、まるで自分自身の痛みを語るように顔をしかめる。
「俺は、自分の名前の由来を知らされていませんでした」俺はその時の様子を思い出すだけで背筋が寒くなる思いだ。
「俺はずっと自分の出生の理由を探していました」「はい」「美知佳を引き取ったのも、その気持ちが大きかったと思います」「そうですか」それは、今の俺と似ているところがあるかもしれないと思ったりした。
だが、古屋暁人とは事情が異なるところがあった。
古屋健也は生まれた時すでに家族を持っていたが、彼とは違っていた。
その男は自分こそが本当の家族の一員だという態度を貫いていた。
古屋暁人とその男が知り合った経緯は、非常にシンプルかつドラマチックなものだったという。
「兄さんとそいつの付き合いは長くなります。
俺たちが生まれたのは、どちらも昭和の時代でしたが、二人が会ったのはその少し前でした。
その頃はちょうど、ベビーブームの頃だったので、たくさんの子供が集められていたんです。
俺が覚えているのは、当時の兄さんの姿が印象に残っているせいでしょう。
まだ10歳にもならない子供なのに、周りの大人に混じって働いていました」
当時、その施設の運営母体が急に倒産したという。
その時に、行き場のない子供たちが大勢路頭に迷うことになった。
「それがその男と初めて出会った時なんです。
名前は憶えてません。
その時に俺は『アキラ』と呼ばれていたので、おそらく仮名なのだろうと今では想像できます。
だけど俺自身はそんなことに興味もなかったし、名前について特に意識したこともありませんでした」彼女は一度唇を湿らせると続ける。
「その日暮らしの境遇に絶望していた連中が集まって、一つの集団が形成されようとしていたんです。
その集団の中心にいるのは年配の男と少年の組み合わせ。
彼らは周りを取り巻きにして自分たちだけが特別であることを確かめ合っていました。
しかし、その中にいる子供のうちの一人だけ、特別な待遇を受けている者がいたんです。
それが、そいつも兄さんと同じように『タカシ』と呼ばれていて、年齢も同じでした。
つまり俺のことなんですが、その当時は自分の名前が『アキラ』だと思ってたし、他の連中のことは何一つ知らなかったし興味も無かったんで、『特別』の意味がよくわかってなかったんです」彼女は苦笑を浮かべながら「おわかりでしょうけど」と言う。
俺はただ、黙って聞いていた。
彼女は続ける。
ある日、一人の少女が脱走を企てた。
もちろんすぐに捕まったが、その事件は別の波紋を呼んだ。
その施設に集められた子供達は、それぞれ問題を抱えた家庭の出身で、当然、親が迎えに来ることはなかった。
また、ほとんどの子供が小学校を卒業できるほどの年齢に達していなかったこともあって、そのまま施設で育てられることになった。
問題はその後に起こった。