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「あ、あの⋯⋯っ」
躊躇いがちに声を発した少女は
まるで何かを思い出したように──
いや、記憶の深くに沈んでいた〝感情〟を
ようやく拾い上げたように──
小さな足音を響かせて
アリアの元へ駆け寄った。
その表情には、恐怖でも羞恥でもない
純粋な〝謝罪の意思〟が宿っていた。
「さ、さっきは⋯⋯ごめん、なさい⋯⋯
あの時、わた、わたし⋯⋯あなたを見た瞬間
頭が、真っ白に、なって⋯⋯っ」
言葉が途中で詰まりながらも
彼女はしっかりとアリアの前に立ち
震える手をぎゅっと握りしめていた。
その姿を見ていたエルネストも
静かに腰を上げる。
先ほどまで隅に籠もっていた青年は
迷いのない足取りでアリアの傍へと
歩み寄った。
「俺も⋯⋯悪かった⋯⋯
何故、あんなこと、したのか⋯⋯
わからないけど」
彼の声は低く、控えめで
それでいてはっきりと届くものだった。
二人は、互いに視線を交わすことなく
自然と並び立ち──
そのまま、深く、深く頭を下げた。
それを見つめるアリアは
依然として無言だった。
だが、彼女はゆっくりと半身を起こすと
膝の上に置かれた盆の湯気を
静かに受けながら
一切の怒りも咎めもなく──
ただ、じっと二人を見つめていた。
その瞳は、燃えるような紅でありながら
不思議なほど冷たくも温かい。
激情ではなく、静謐の炎。
それは千年の孤独と
滅びを受け入れた者だけが持ち得る
深い深い慈悲の色。
「アリアさんは、滅多にお話になりません。
しかし、お二人を
決して責めてなどいませんよ」
時也の声が、二人の背後から柔らかに届く。
その言葉に、アリアはわずかに瞼を伏せ──
そして、頷いた。
やがて彼女は、絹を裂くように小さく
けれどはっきりと呟いた。
「⋯⋯お前達が、気に病むことは無い⋯⋯
咎人である私が⋯⋯背負うべき、業だ」
その声は、冷気にも似た静けさを帯びていた
けれど、どこかしら哀しみに濡れていた。
「⋯⋯業?」
少女とエルネストは顔を見合わせ
同時に呟く。
「後ほど、説明いたしますね。
さぁ、お二人とも
冷めないうちにお食事をどうぞ?」
時也が微笑みながら促すと
二人は素直に頷いた。
だが──
彼らは時也の対面に座ることなく
迷うこともなく彼の左右へと腰を下ろすと
狭い卓の上に、盆を寄せ合うように並べた。
その位置は
あまりに近く、肩が触れ合うほどだった。
時也を挟んで──左右から。
(おやおや⋯⋯
これでは、食べられませんね?)
内心で苦笑しながらも
時也は嬉しげに目を細める。
ベッドの上、アリアは静かに粥を掬いながら
三人の様子をじっと見守っていた。
時也は、左手で少女の頭を
右手でエルネストの背を、そっと撫でた。
二人は
その手の温もりに触れるように顔を傾け──
熱い粥をふうふうと冷ましながら
一口ずつ、大切に口に運んでいく。
小さく咀嚼する音。
湯気の立つ味噌汁の香り。
まるで
誰かが誰かを信じる練習をしているような──
そんな静かな、穏やかな時間が流れていた。
それはきっと
─〝罪〟でも〝異能〟でもない─
ただ、命ある者たちが
互いに寄り添おうとする──
名もなき、けれど確かな〝晩餐〟だった。
「ところで⋯⋯
名乗るのが遅くなりましたね?
僕は、櫻塚時也と申します」
盆の上の茶碗から
ゆっくりと湯気が立ち上る中
時也は左右に座るふたりを包むようにして
優しく語りかけた。
撫でていた手の動きを止めることなく
まるで眠る子供をあやすような仕草で
あたたかな声が空気に溶けていく。
少女は少しだけ肩を竦め
指先をぎゅっと膝に添えた。
やがて、絞り出すように唇が動く。
「⋯⋯れ、レーファ・メラニヌス⋯⋯」
小さくて、壊れそうな声音。
だがその名は、確かに彼女の中にある
〝存在証明〟だった。
「ふふ。
レーファさん
よろしくお願いいたしますね?
彼は、エルネスト・ミルミドンさんです」
時也は自然な笑みを浮かべながら
右手の青年を示す。
彼の言葉は飾り気がなく
しかしその一言一言に
歓迎の意思が滲んでいた。
エルネストは
時也越しにレーファを一瞥し──
小さく、控えめに頭を下げた。
その仕草はどこかぎこちなく
不慣れな挨拶であったが
それだけに誠実さがにじむ。
ただ──
彼の手元に目をやると
粥をよそう茶碗を、両手でそのまま持ち上げ
直接口を付けて啜っていた。
「⋯⋯」
一瞬
レーファの瞳がそちらをちらと見やった。
だが咎めることはせず
ただ自分の膝の上で手を重ねる。
時也はその様子にも、笑うことはなかった。
それどころか
ごく自然な仕草でエルネストの手から
茶碗をそっと取り上げると
彼の掌にスプーンをそっと握らせた。
「こちらのほうが、食べやすいですよ」
ゆるやかに言いながら、器を置き
エルネストの利き手に沿って
スプーンの角度を調整する。
そして
粥の縁にかかっていた汁を拭ってみせると
自らのハンカチを取り出して
青年の口元をそっと拭ってやった。
その動きは
まるで幼子に食事を教える母のように──
いや、教えるのではない。
〝見捨てなかった〟という静かな証だった。
それを見ていたレーファは
おずおずと身体を寄せ──
まるで吸い寄せられるように
時也の胸元に額をこすりつけた。
薄い布越しに
時也の体温と鼓動が感じられたのだろう。
レーファの肩の震えが、ふっと弱まる。
その仕草は、信頼というにはまだ頼りなく
依存というには切なすぎた。
けれど──
それは間違いなく
〝人を求める〟という行為だった。
時也は何も言わずに
その小さな頭に手を置いた。
ゆっくりと撫で、優しく髪を梳きながら
視線をそっと盆へ戻す。
(⋯⋯この二人が、どれだけ長く
人に触れる事を許されずに生きてきたのか)
微細菌。
虫。
その異能ゆえに、忌避され、隔離され
時には恐怖の象徴として扱われた存在。
触れることも、笑いかけることも
誰かと同じ食卓を囲むことすら──
彼らにとっては
生まれて初めての
〝温もり〟だったのかもしれない。
時也は胸の奥に鈍い痛みを覚えながら
彼らの食事をそっと見守っていた。
スプーンの使い方に戸惑いながらも
一口ずつ粥を掬うエルネスト。
まだ時也の身体に身を預けたまま
慎重に味噌汁を啜るレーファ。
そのどちらもが、ぎこちなくも
確かに生を受け入れ始めていた。
アリアは何も言わず
静かに粥を掬っていたが──
その瞳には、わずかに光が差していた。
それは
咎ではなく──祝福。
裁きではなく──理解。
そして、四人の時間は──
穏やかに、緩やかに流れていく。
湯気の向こう、あたたかな静寂が
彼らの孤独をひとつずつ、溶かしていった。