自宅は小ぢんまりとした木造の家屋で、寝るためのベッドと着替えの詰まったクローゼット以外で私的なものといえば、研究に使う大量の材料や瓶、それから無造作に床に散らばった羊皮紙くらいだ。
もともと整理整頓とは縁のない生活をしているヒルデガルドではあるが、慣れ親しんだ環境のおかげか部屋が荒らされているかを明確に判断できた。
「……ふむ。何かを欲しがったわけじゃないのか?」
う~んと首を捻った。もしヒルデガルドを狙うとしたら、おおよそは魔法の研究についての資料や貴重な材料が目当てになる。しかし彼女のものには何ひとつ手を出していない。部屋を今以上に荒らした形跡もない。まったく理解ができなかった。
「ま、何も盗られていないならそれで構わないんだが」
殺そうとした理由は分からない。しかし研究が続けられるなら問題はなく気にもならなかった。あと少しで完成だと彼女は少し嬉しそうな顔をして、フラスコの中に入った薄桃色の液体をうっとり眺める。
ヒルデガルドが魔法の研究を始めたのは十二歳の頃だ。今の彼女のように俗世に興味のない風変りな師のもとで学び、手伝い、年頃の少女と変わらない恋心を近くの町にいる少年に抱いたりもしながら、飽くなき研究の道を進んでいた。
だが、その夢のような時間は唐突に終わりを迎えてしまう。
「師匠……。ようやくだ、ようやく完成する」
ヒルデガルドの師であった魔導師アレクシアは魔物に襲われて亡くなった。まだ子供だった彼女を守るためだった。しかし、目の前でその命が失われたことへの恐怖心はトラウマとなり、不老不死になるために霊薬を創ろうと研究を始めた。
そして五年前。二十歳を迎える頃、勇者クレイ・アルニムに誘われる形で、自分が少しでも役に立つのならと旅を共にして世界を救ってみせたのだ。世界で〝大賢者ヒルデガルド〟を知らない者は今や誰もいない。なんとも煩わしく感じるほどに。
フラスコの中に満ちた希望を見て、ごくりと唾を呑む。
「……おそらくこれでうまくいったはず」
あとは意を決して飲むだけだ。不安はあったが、いまさらの話。光に透けた美しい色の液体をぐっと飲みほす。量が多くて胸にいくらかの気持ち悪さを覚える。ただ創るだけでなく、苦い薬が昔から苦手だったので、影響がない材料を用いていて、少し甘ったるかった。
「よし、これでやるべきことはひとつだけだ」
テーブルに置いてあった小さいナイフを持ち、刃を自分の手のひらに押し付ける。ざっくりと切り裂かれて血が溢れるが、傷は瞬く間に塞がった。痛かったのは、切ってからほんの二秒ほどだけだ。キッチンのシンクで血を洗い流し、用意しておいた布で綺麗に拭く。
上手くいったと高揚する気持ちを押さえつけながら椅子に腰かける。
(……ああ、ようやくだ。ずっと続けてきた研究が実を結んだ。これで私は永遠に死ぬこともなく、病にも悩まされない。ここにいる理由もなくなった)
何もかもが満たされていく気分だった。誰かに襲われても死ぬことはない。傷はすぐ癒えるし、毒を食らったとしても一滴と残さず分解してしまうだろう。正真正銘の不死性を得たのだ。ただ、不老であるかどうかは時が経たなくては実感が得られそうになかったが。
『ヒルデガルド。あなたは大きくなったら何になりたい?』
問われたとき、最初の夢は『師のような優しい人間になりたい』だった。今もその想いは胸に抱いている。魔王が消えて平和になったとはいえ、世の中にまだ魔物は多い。中には自然の中で育まれた繁殖能力を持つ者も存在し各地に棲息している状況だ。少しでも人々の安全を守るため、ヒルデガルドは刺されたのを『良い機会だ』と考える。
「フム……。このまま家を空けるのも問題だな」
窓を開け放つ。涼やかな風が入ってきて髪が靡く。
「ストラシア。いるんだろう、こっちへ来てくれ」
呼び声に応えるように、一羽のフクロウが飛んでくる。
「よし、いい子だ。プリスコット卿に手紙を届けてくれるか?」
優しく頭を撫でる。ストラシアと名のついたフクロウが心地よさそうな顔をして姿勢を正す。「少し待ってくれ」と窓辺に残し、紙とペンを用意した。
「準備は整っているから、明日の昼にはここを発つ。もし餌が取れなくて困ったときはプリスコット卿に頼るんだぞ。……私は、うん。もうここへ帰ることはないだろう」
壁掛けの棚から小さな小瓶を取り、中に入った赤い液体を呑む。彼女の美しい灰青の髪は真逆の燃え立つような紅い髪に変わっていく。
「うむ、まあ悪くない。紅い髪も似合うじゃないか」
姿見に映る自分を見て、嬉しそうに言った。
「今日から違う名にするか。せめて姓は変えておかないと」
どうしたものかと悩み、ふとベッドの脇にある小さなテーブルに飾っていたアレクシアの似顔絵を見て微笑む。
「そうだな。今日から私はヒルデガルド・ベルリオーズと名乗ることにしよう。……それくらい構わないだろう、師匠?」