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ユカリはやましい企みを抱く者のように生垣の裏で息を潜め、葉の隙間からチェスタとサイスの様子を覗き込み、聞き耳を立てる。
「九か月もすれば、もう慣れましたよ」年若い首席焚書官サイスは明るい声で再会した旧友に語り掛けるように話す。「元々が僕と同じ貴方の部下たち、気安い同僚ですから」
「その同僚が三人、あの闇に呑まれたそうですね」とチェスタは重い空気を吐き出すように言った。
およそ三か月前、サンヴィア地方で起きた悲劇をユカリは思い返す。魔法使いクオルの造った魔物は謎の闇を生み出し、その闇に触れた人間の一部、もしくは全部がこの世から消え去った。それでいてその闇は犠牲者に死も肉体的苦痛ももたらさず、構造を失いながら機能は失わないという奇妙な状態に置いた。
チェスタもまたその犠牲者の一人であったはずだ。その頭の上部が失われている。ただし今目の前にいるチェスタは幻を見せる魔法を使ってあたかも頭があるかのように見せかけている。
「ええ。体全部を呑み込まれたのは勇猛と優美な眼差し、そしてルキーナです。一部を呑み込まれたのは大勢」サイスはチェスタの言葉を待つように沈黙し、しかし痺れを切らしたかのように再び口を開く。「何なんです? あの闇は。チェスタさん。貴方が教えてくれていればあるいは、いや、対処できそうもない代物で状況でしたが、しかし……」
ユカリの心が暗く重く沈む。ルキーナとは実母エイカの偽名だ。きっと生きている、とユカリは信じているが、あの闇の向こうに幸いや喜びがあるとは思えない。それを想うと刺すような悲しみと大きな石を呑み込んだような重い罪悪感が募った。
「私にも分かりません」と言ってチェスタは過去を探すように眼下のクヴラフワを眺める。「不意打ちでした。気が付けば闇に覆われ、しかしすぐに光を取り戻しました。脳も瞳も無いはずなのに、こうしてクヴラフワの忌まわしい景色を眺められる。クオル作の魔物とやらも心当たりはありませんね。私の頭を奪った男は、君の報告した魔導書の衣を身に纏っていませんでした」
「たしかに彼女らがそれを手に入れたのは何の変哲もない商店の商人だとか。もちろんチェスタさんを襲った男ではないでしょう。魔導書の衣は他の衣服同様に買い集めた中古服に紛れており、どこで手に入れたか記憶も記録もないそうです」
「私をこのような目に合わせた男はその魔導書と同じ魔術を使ったということになりますね」チェスタは思案気に俯いて呟く。
「魔導書と同じ魔術、ですか」またしばらくの沈黙ののち、サイスが急かすように尋ねる。「それで? ご用件は? どうしてクヴラフワなんかに? 焚書官に戻るわけではないですよね?」
「心配しなくとも君の地位は安泰ですよ」
「安泰で済ませるつもりもありませんけどね」
幻影の目をサイスに向けてチェスタは確認する。「護女エーミのことは知っていますね?」
「ええ、もちろん。悪名ですが有名ですね。問題児です。僕も何度か彼女に手を焼かされました。厄介なことに猊下のお気に入りのようで」
ユカリもレモニカとソラマリアにエーミの名前と簡単な顛末だけは聞いていた。レモニカと寺院から脱出しようとしたがはぐれ、その後ソラマリアの手で寺院を脱し、ネドマリアの手でシグニカを脱したらしい護女だ。
「彼女が寺院を脱走し、シグニカを脱し、封呪の長城を越えたそうです」
サイスの言葉が勢いづく。「あの不良護女! とうとう! ……いや、でもこの下の街を忍び抜けたにしても上を飛び越えたにしても、どうやってクヴラフワを安全に通るんです?」
「あるいは防呪廊について知らされていたのかもしれませんね」
サイスは腕を組んで首をひねり、唸る。「モディーハンナが不良護女なんかに教えるとは思えませんが。ではチェスタさんはエーミを連れ戻す任務を聖女猊下から賜ったということですか。別に構わないんですけど、今どういう立場にいるんです? 破門になったなんて噂も聞きましたが。まだ機構にいて、どころか猊下の手足のようです」
「私は初めからずっと偉大なる猊下の思し召しのもとに働いていますよ」チェスタはそれが人生の喜びであるかのように話す。「立場としては、名目上は総督院の代理人です。つまり君の言う通り、猊下の手足ですよ」
ユカリは首を捻る。サイスは、あるいはチェスタも、聖女アルメノンが死んだことを聞かされていないのだろうか。聖女の死が隠されているのはそれほど不思議でもない。重大な人物だ。世間への影響は計り知れない。チェスタが隠す立場にあるのか、隠される立場にあるのかはユカリにも分からない。
「任務はそれだけではありませんが」とチェスタは勿体つける。
「他に何が?」
「いえ、例えば魔導書を見つけたら回収しますし」
「それはそうでしょうね」とサイスは相槌を打つ。
「魔法少女を見つけたら捕らえます」
次の瞬間、何者かの気配を背後に感じ、ユカリは振り向きざまに変身し、虚空から取り出した魔法少女の杖で殴り掛かるが、そこにいたチェスタにあえなく左腕で防がれる。そして空いた右腕で魔法少女の細い首が締め上げられ、体を持ち上げられてしまう。チェスタはユカリの首を釣り上げたままサイスの元へと戻る。今までユカリが見ていた胸壁に寄りかかっていたチェスタは霧のように消えた。頭だけではなく全身の幻を見せられていたのだ。
ユカリは空気を求めて力の限りもがき、抵抗するがチェスタはびくともしなかった。
「おかしいですね。聞いた話では魔法少女は禍々しい吐息を吹きかけただけで相手を支配できるという話でしたが」とチェスタはサイスの方に目を向けるが、サイスも分からない様子で首をすくめる。「だが殴り掛かってきました。より強力な魔術を持っているのか、と少し焦りましたが」チェスタは己の左腕を検める。「特に異常はなさそうですね。狙いは分かりませんが。まあ、いいでしょう。風の方はあいかわらず、大した力はありませんね」
グリュエーならばチェスタに襲い掛かるはずだが、辺りには長閑な微風が漂うばかりだった。
「この場で殺すんですか?」とサイスが尋ねる。止めようという様子でもない。
「例の魔導書以外は持っていないようですし、それも良いですね。しかし一つ試してみましょう」
宙づりにしたユカリの苦渋の表情を見つめてチェスタは淡々と話す。サイスは何か言いたげだが口にはしない。
「菌床領の呪いはなんでしたか?」と言ってチェスタはユカリの首を握ったまま胸壁へと近づいていく。
「『年輪師の殉礼』。屍の呪いですね」とサイスは答える。
「良いですね。分かりやすい」チェスタは赤くなりつつあるユカリの顔を見て言う。「魔法少女はどれほど強力な呪いも打ち消してしまうようですが、死んでもその力は残るのか。もし残るならば、上手く使えばクヴラフワを救うことも可能かもしれません」
「クヴラフワ中を練り歩くのに何年かかるかしれませんが」とサイスは無関心に呟く。
チェスタは何の合図もなく、何の躊躇いもなく、まるで塵でも捨てるように魔法少女ユカリの小さな体を胸壁の向こうへと投げ飛ばした。
ユカリは何かに備えて固く目を瞑り、体を強張らせる。呪われた土地に入ってしまった。さっきまで強く求めていた空気を吸っても良いのか分からず咳き込む。体は大地へと吸い寄せられるように落下し続け、しかし他には何の異常も無い。魔法少女の力はクヴラフワの呪いをも弾く力があるのだと確信する。
目を開き、魔法少女の杖を取り出し、重力に抵抗して浮かび、ようやくユカリは異常に気づく。
朝と共に天を進軍していた太陽が再び封呪の長城に覆い隠された。にしては妙な明るさだ。しかも空は緑がかった奇妙な色調に染められている。
何とかユカリは混乱を治め、空中で杖に腰かけ、体勢を立て直す。眼下に広がるクヴラフワは目覚めの前の静謐さだ。荒野の広がる不毛の大地を想像していたが必ずしもそうではないらしい。木々があり、野原があり、川と泉がある。長城の外と何も変わらない光景であるはずだが奇妙な色合いのせいで絵の具が不足した絵画のようになっている。病的で不健康な者の肌艶のような印象を受ける。
薄暗いが、天高い封呪の長城の際にしては明るい。星明りや月明かりではこうもいくまい、とユカリが空を見上げ、言葉を失う。
亡びの地クヴラフワを覆う天には八つの太陽が座していた。天高くある太陽、地平線のそばにある太陽、少なくとも見た目にはクヴラフワの外にある太陽、てんでばらばらに天に居並ぶ八つの太陽が下界を見下ろしている。そのどれもが黄みを帯びた緑色で、そして全てを合わせても真正の太陽の光の明るさには及ばない呪わしい空だ。天に祝福されることのない妖異の郷に迷い込んだかのようだ。
こうして見つめていても良いのだろうかと疑問がもたげ、ユカリは奇妙な緑の陽光をもたらす太陽から目をそらす。もしかしたら世界が変わったのではなく、自分が変わったのかもしれない。呪いを退ける魔法少女の衣でも守りきれず、呪われてしまったのかもしれない。
ユカリは眼下に封呪の長城の門の街を見つける。そこもまた救済機構の支配下だが、チェスタがいる場所に戻るよりは良いだろうと思い、降下しようとした。
しかし何の前触れもなく、今度は空中で体が動かなくなる。ただ体が動かないだけでなく、杖からの空気の噴射もグリュエーの後押しの甲斐もなく、その位置から動けない。まるで見えない釘で見えない壁に磔にされたかのように、ユカリは空中で動けなくなった。手足首から先や首は動くがこれだけではもがくことさえできない。
「グ、グリュエー! 私どうなってるの!?」
「分かんないよ! それどうやってるの!?」
何かに縛り付けられているという感触もないが、固定されているのが全身でないのはどういうわけだろう。
ユカリが落ち着いて頭を巡らせ始めたその瞬間、ユカリの身が、今度は空へと打ち上がった。成すすべもなく足から引っ張り上げられ、ユカリの悲鳴だけが長く伸びていく。